5 当時のチベット情勢

東京朝日新聞の記事より

明治43年

2月24日
ダライラマ出奔 23日上海経由ロイター社発
カルカッタ在住の本社通信員の報道によれば、員数不明の支那兵が東方からラッサに侵攻し、ダライラマは大臣数名を従えて、インド方面に向け、ラッカを立ち去った。ラマは26日にカリンボンに到着する予定で、タシラマはシガツエェに居ると信じられている。
解説:この事件は、四川省総督が1905年からチベット制圧を始めた事から起こっている。この記事のとおり19010年にはラサまで制圧しようとしており、この記事のとおりダライラマはインドに脱出している。一方タシラマ(パンチェンラマ)は、仏教界で序列第2位であるがこの時、清国に協力している。1911年の辛亥革命時に、四川省総督が殺害された為、ダライラマはチベットに帰り、清兵を排除し、ラサを挽回している。その結果タシラマは清国の勢力圏に逃れた。

2月27日
ダライラマ到着 26日上海経由ロイター社発
本社ダルゼリング通信によれば、ダライラマは非常に困難な旅行を行い、カリムボンに到着した。尤も途中、仏教徒やシーク教徒等は喜んでこれを援けたそうである。その到着は非常に人心を激動させている。
西蔵変乱に対する上諭(ダライラマを平民に落す) 25日北京特派員発
チベットの僧侶が支那官兵に反抗するとは、昨年来しばしば報じられた所であり、支那政府は、この鎮圧の為に四川省より派兵の議があったが、その真偽は明らかではなかった。しかし25日の上諭は、ダライラマの暴戻専横、あらゆる罪悪を指摘し、今回四川の官兵をチベットに送り討伐することが止むを得ない事情を述べ、更にダライラマの名称を剥奪し、チベットに帰ると否とを問わず、これを平民同様とし、後継者の選定を駐チベット大臣に命じた。(一部抜粋)
解説:2月24日にダライラマがチベットを逃れる記事がある。現在のダライラマも中国から同様の仕打ちを受けている。

明治43年3月
 明治43年3月
3月1日
ダライラマの哀訴 28日タイムス社発
露都来電―ダライラマは露国政府に哀訴した。清国官憲は、チベット人民が何ら清国を挑発していないにも拘わらず、妄りに攻撃的態度を執り、暴行を欲しいままにしていると説き、露国が英国と協力してチベットを援ける様求めた。
解説:2月24日以降、連日の様に報道されている記事の続報
3月2日
清国政府の回答 1日北京特派員発
英国がチベット事件に関し、支那政府に詰問したのに対し外務部は大要次の様な意味の回答を発したと言われている。即ち支那がチベットに兵を送ったのは全くその境内の騒乱を鎮圧するためであり、チベットの政治その他を根本より改善する意志はない、且つインドの辺境に騒乱を及ぼさない様に、又通商を妨害しない様に速やかに平和の処置を取るであろう云々
解説:2月24日以降連日の様に報道されている記事の続報

3月3日
ダライラマ歓迎 1日上海経由ロイター社発
ダライラマは、本朝ダルジェリングに到着する予定であり、インド政府の賓客として、優遇されるであろう。なお仏教徒等は、同地居留のラマ教徒と共に歓迎行列を準備中である。
3月4日
ダライラマと英国 3日上海経由ロイター社発
インド事務次官モンテギュウ氏は下院に於いてインド総督ミントウ卿の電報を朗読した。これは、チベットの事変を詳報したもので「清人はダライラマに従前同様の権力を保有させるという誓約を破った」と説くダライラマの愁訴を否定するものであった。次官は又清国が英国の照会に回答し誓約を与えたが、これに関する英国の意見を述べるには次期が早いと言明した。
3月9日
清国と西蔵 7日北京特派員発
清国は現在最もチベット問題を重大視しているが、その観察は非常に楽観的である。
政教分離に根拠を置き、ダライラマを一つの宗教の首長として、これを尊敬するかしないのは支那政府の任意であると考え、更に外国から干渉を受ける謂われはないと唱えている。若し外国が支那の主権を尊重するのであれば、廃位のダライラマを歓迎、優待する事は道に反するものと為している。
解説:2月24日以降しばしば報道されている記事の続報であり、現在のチベット情勢とよく似ている。

3月13日
ダライラマの後任 12日北京特派員発
未だ公表されていないが、ダライラマの後継者は、暫くパンチェンラマを以て処理させる事になり、4人の幕僚はダライラマの逃走後もその職にあり、住民は平穏である。
解説:パンチェンラマは、仏教界で序列第2位であり、この時、清国に協力している。その為1911年の辛亥革命時に、四川省総督が殺害され、ダライラマがはチベットに帰った際清国の勢力圏に逃れている。
3月16日
ダライラマと総督 15日上海経由ロイター社発
本社カルカッタ通信によれば、ダライラマはインド総督ミントオ伯に荘厳な公式訪問を行った。ベンガル騎兵隊に護衛されて、馬車で政庁に到着、ミントオ伯に絹襟巻を贈呈した。次いでリントオ伯も返礼として、公式訪問を行った。

3月18日

清帝と西蔵問題 17日北京特派員発
チベット善後策として政務處会議の結果、(1)新ダライラマの選出(2)駐チベット新陸軍の増加(3)人を派遣してチベット人を慰撫する事(4)有力な駐チベット大臣の派遣(5)英露両国に駐在する公使に命じ、両国の対チベット方針を注意させて、臨機の処置に出る事であり、以上の5カ条を基礎とし、着々と実行の歩を進め始めている。

3月19日

ダライラマ 同上
ダライラマは、本日カルカッタ腑を出発し、ダルジリングに向かった。政府の賓客として同地に滞在する予定である。
解説:現在と同様に、ダライラマは清国に追い出されて印度に亡命中である。


 

 

 

明治42

11

西蔵反乱の風説 31日上海特派員発

チベットのラマ僧等は、紛争を起こそうと準備中であるとの説がある。そして彼等の口実とする所は、西太后崩御の際、何等の進物も彼等に送らなかった事である。彼等は、北京皇室が彼等を寵愛しない以上、彼等もまたこの様な皇室の下に支配される事を望まないと言明し始めているとの事である。

  

111

 西蔵と英国人 同上

 スエンヘジン博士は、モククワに於いてスエーデンの新聞記者と会見し、チベットに於ける英国人の地位は、ラッサ遠征前と比べても良くなく、支那の勢力が日を追って増進し始めていると明言した。

解説:明治37912日の記事によれば、英国はラッサに侵攻し、英蔵条約を結ばせ、チベットと貿易を始めている。

 

 112

 西蔵騒櫌鎮静 11日上海特派員発

 チベットのラマ僧達は、ダライラマが間もなく帰国し、帰着の上は自らチベットの政務を実施すると思われるので、最早騒動が続く憂いは無い旨の通知を受けた結果、鎮静化した。

  

113

 へ博士露都着 同上

 スウエン、ヘジン氏が露都に到着した。氏はチベットに於ける清国の勢力及び韓国における日本の勢力が次第に増進中であると語り、又日本に於ける氏の歓迎を非常に喜び、且つ日本人の聡明であり且つその態度の正しさを切言した。

 解説:へ博士とは独逸のSven Hedin(18651952)であり、第3次中央アジア・チベット探検調査を終えた後東京地学協会の招きで、190811月来日し、以後韓国、大陸経由で帰国中で、露国に到着している。

 

これによると、中国はチベットを中国領と主張しているが、当時のチベットと清国との関係は、韓国と日本との関係と同様であった様である。

 

 

 

 

 

 

 

 


明治41年12月

1222

ラマ帰蔵 21日北京特派員発

ダライラマは、21日朝出発し、チベッテへ帰国の途についた。なおチベット行政上、ダライラマの権限に関する清国政府との交渉問題は、未だ解説していないようである。

 


明治41年11月

11月3日

西蔵の暴動 支那特電2日上海特派員発

チベットに於いてラマ僧等が清人反対の暴動を起こし、駐チベット大臣帳シ豊の部下の清兵を攻撃し、これを破った。その為清国政府は、四川省から軍隊を派遣し、同時にダライラマに向かって、ラマ僧を説得し、集団を解散し平和を回復するよう命じた。しかしダライラマは、これは自己の勢力の及ばない所であり、その言に従う事は出来ないと返答した。


明治39年6月

620

英清と西蔵貨幣 18日上海特派員発

チベットに於いて、英国皇帝の肖像を印刷した貨幣「ルーピー」を使用するのを見て、英国勢力が次第に増大する事を恐れて、四川総督の錫良(しゃくりょう)氏は、政府と協議し、「ルーピー」と同様に清国皇帝の肖像を印刷した三種類の貨幣を印刷し、通用させ始めた。

明治39年5月

54

西蔵新条約 3日上海経由ロンドンロイター社発

英国外務次官は、427日北京で調印を終了した条約に関して、上院に於いて次の演説を行った。

この条約によって、清国政府は昨年ラサに於いて調印された西蔵条約に同意した。

英国がチベットの領地を侵略せず、又その行政に干渉しない事を約した従来の協約は、今回の条約により何らの変更も受けず、同時に清国は今回の条約により、他国によってチベットの行政に干渉させないことを誓約した。猶又今回の条約には、昨年の西蔵条約第9条によって、外国人に譲渡しない事を規定した利益は、英国も又これを要求しないであろう旨明記している。そしてチベットから英国に支払うべき償金額には何ら変化がない。

 

59

露国と西蔵 8日北京特派員発

駐露公使胡○徳氏が外務部に送った電報によれば、ダライラマのチベットへの帰国について、露国ではラマ教徒である白国人四五十名を派遣し、ダイライラマと一緒に、チベットに入らせ、何事か図ろうとする計画がある。

 

514

ダイライラマ利用策 13日上海特派員発

露国が兵卒40人を派遣して、ダライラマを護衛しようとすると英国も同じく派兵して、ダライラマを迎えようと提案して来たが、外務部は共にこれを拒絶した。

 

520

英蔵条約追加 18日上海特派員発

英蔵条約の追加の中に、他国が ラッサ等に出兵する場合があれば、英国はチベットを保護する為に、同様に出兵するであろう旨の条項があると言われている。

明治39年4月

425

西蔵条約成る(露国或いは抗議せんか) 24日北京特派員発

チベット条約が決定し、間もなく調印される予定であるとの事は、事実である。この条約は、本条約12条、追加条約3条からなり、大要は前電のとおり英国の優越権を認めたものである。露国公使ボコチロフ氏は、チベット条約が決定したと聞き、外務部に公文を以て、抗議書を提出した。その内に清露間の密約を根拠として強硬な抗議をするであろうと予想される。

 

429

西蔵条約 28日上海経由ロンドン特約通信員発

英清西蔵条約は、3カ月以内に批准される事になっている。

月23日

西蔵談判落着 22日北京特派員発

チベット談判は、北京に移され、外務部と英国公使サトー氏との間で会議中であるが、英国は、今回いよいよ清国のチベット政策に干渉しないとの条件付きで、英国の要求通り決定し、既に調印を終わり、清暦の4月10日に批准される予定と言われている。

明治39年1月

17

英蔵の関係 6日ロンドン特約通信員発

ロンドンタイムスのカルカッタ通信員の報道によれば、今回「タシラマ」が当地を来訪した際、英人のみならず印度人の仏教徒からも歓待を受けた。これは実に英人に対する信用を証明する顕著な事実であり、又将来における英国とチベットとの関係が一層親密になるであろう徴候である。

英蔵関係別報 6日北京特派員発

チベットの法王「クシラマ」は、既に印度に到着して、英国皇太子に謁見したとの説を唱える者が居る。そして支那の大官は、或いは「ラマ」が印度の反抗につき、支那を離れて英国に心を寄せるようになる事を危惧している。兎に角最近の英蔵条約は英国外交の大成功である。

明治38年10月

105

西蔵教主の希望 4日上海経由ロンドンルータス社発

露国陸軍参謀本部付将校フズロフ氏は西蔵(チベット)からセント・ピータスブルグに帰着した。同氏はクーロンに於いてダライラマと会見をした様で、その際ダライラマの語ったものであると同人が伝える所によると、ダライラマの唯一の目的は、西蔵(チベット)の独立を確保し、英国の勢力から逃れる事にある。

明治387

25西蔵條約談判 24日上海特派員発

唐紹儀(とうしょうぎ)は30年後の西蔵(ちべっと)條約の権利回復を主張したけれど、英国はこれに同意しないため、如何すべきか外部に伺いをしている。

明治386

9()ダライラマの帰蔵

或いは、露国公使と待ち合わせをするのではないかと噂をされていたダライラマは、庫倫(くーろん)の辦事(べんじ)大臣の厳催(げんさい)により、いよいよ新暦四月十四日同大臣の護送の下に帰国の途に就いてそうであるが、一行はまず山西省の五臺山に至り、暫く滞在した後に甘粛省(かんしゅくしょう)の西寧(せいねい)赴き、同所でチベットからの迎使(けいし)を待って、チベット入りをする予定のようである。今回辦事(べんじ)大臣に護送させたのは、ダライラマが帰途に、露人に会い、大変な事態が勃発することを恐れた為であると言われている。(北京通信)

明治385

21チベット問題 (20日北京等区は印発)

唐紹儀(とうしょうぎ)のチベット問題の交渉については、上海電の報道のとおりであるが、英国は決してチベットにおける支那の主権を認めないため、清国政府は結局英国の提言に従う外ないと思われる。ダライラマは未だ帰途に就いていない。

明治37年10月

2日(日) 英チベット条約と露国新聞 1日ベルリン特約通信員発

ジュルナル、ド、サンペテルスブルグ及びその他の露国新聞は手厳しく英チベット条約に反対し露国は断じてこれを承認することは出来ないと述べている。

23() 張総督と英チベット条約 22日北京特派員発

英チベット条約の清国に与える影響は重大であり、若しこれを黙認する時はチベットにおける清国の権力は名実共に失われるので、政府は極力不当の要求を退けるべきであると張総督は打電してきた。

 

明治37年9月

12日() 英国とチベット条約調印 11日ロンドン ルーター社発電

ラッサ発ルーター電報によれば英国とチベット間の条約が去る7日調印された。

21日(水) 英とチベットの新条約

ヤングタスバンド大佐が一隊の兵を率いてチベット国境に入り、貿易について交渉しようとしたが出来ず、止む無くチベット人の抵抗を排除しつつラッサまで進軍した。頑固なダライラマが今回調印したのはこの進軍の結果で、鎖国攘夷を国是としてきたチベットもこれで、今後はインドを通じて文明列国と通商関係を結ぶ事となった。

25日() 英チベット条約と独伊米 </b>23日上海特派員発

独伊米の3国はチベットと英国との条約に関して外務部(清朝の外務省)に抗議を申込んだとの情報があった。

27日(火) 英チベット条約破棄の訓令 26日北京特派員発

露国公使が清国外務部(外務省)に対し次の申し入れを行い威嚇した。

チベットは貴国の属国で他国の干渉を許すべきでないにも拘わらず、英国は貴国の主権を蹂躙してチベットのダライラマと条約を締結した。貴国がもしこの条約を承認するのであれば、わが国も自ら我が利益と信ずる手段を取るであろうと威嚇した。そのため清国政府は直ちに駐チベット大使宛てに条約を破棄するよう訓令した。

30日(金)英チベット条約と露国 </b>29日ロンドン ルーター社発

 セントピータースブルグ駐在のルーター社通信員の情報によれば、英チベット条約草案に対して露国政府が意義を申入れたとの説があるが、これに関して逆に駐英露国大使は極めて友好的な通告を英国にしたようである。

明治37年7月

2日() チベット遠征隊戦報 一日ロンドン路通社発

チベット遠征隊司令官マクドナルド将軍は628日チベット人の保塁を占領するため攻撃を開始し、激戦となった。チベット人の損害は大きかったが英軍でもクラスター大尉が戦死し、2名の士官及び5人のセボイ兵が負傷した。

24日() 在チベット大使からの電報 23日北京特派員発

清国のチベット駐在大使が外務省に送った電報によれば、ダライラマは最近の遼東に於けるロシア軍の敗報を聞いて、それまで持っていたロシアに対する信頼感が薄れ同時にチベット兵が到底イギリス兵に太刀打ち出来ないことを知り、なんとかイギリスとの和平を模索している様である。そのため大使はダライラマを説得して平和を回復するよう努力したいと考え、外務省に対し北京のイギリス大使を通じ本国政府に請願し、暫くの間イギリス兵の前進を中止し協商について話合を始める端緒を得たいと希望しているようである。

明治376

1日() チベット遠征戦報((31日ロンドン ルータ社発)

 デイリーメールのチャンビ通信によれば526日英軍は、その陣営に近い村落で防御工事中であったチベット人を掃討しようとしてガアステン中尉と3名のセボイ兵が戦死、オコンノル大尉ウオルカア、ミツチエルの両中尉及び9名の兵士が負傷した。チベット人の損害は非常に甚大であった。

16日(木)チベットと英露 15日北京特派員発

チベットのダライラマは、清国の駐蔵大使の進言を採用しなくて露国の駐蔵大使の甘言に惑わされて露国から密かに小銃や弾薬の供給を受けて英国を排斥する考えをますます固めた。