11月3日
西蔵問題後報 2日タイムス社発
ポンペイ来電=チベットに派遣された清国使節は、ダライラマと会見したが要領を得ず、ラマの配下の高僧は同使節と交渉中であるが、使節の官位がこの任に適していない様である。
10月11日
英国の新要求 9日北京特派員発
英国公使は、現在の様に交通不便ではチベットの改革を行うことが困難であるので、速やかに四川省とチベット間の鉄道敷設に着手する事を、清国政府に勧告した。この為に外国より資金を借り入れる必要がある場合には、清国は英清両国間条約により、先ず英国と協議しなければならない旨を通告したと言われている。
明治37年
6月1日(水) チベット遠征戦報((31日ロンドン ルータ社発)
デイリーメールのチャンビ通信によれば5月26日英軍は、その陣営に近い村落で防御工事中であったチベット人を掃討しようとしてガアステン中尉と3名のセボイ兵が戦死、オコンノル大尉ウオルカア、ミツチエルの両中尉及び9名の兵士が負傷した。チベット人の損害は非常に甚大であった。
16日(木)チベットと英露 15日北京特派員発
チベットのダライラマは、清国の駐蔵大使の進言を採用しなくて露国の駐蔵大使の甘言に惑わされて露国から密かに小銃や弾薬の供給を受けて英国を排斥する考えをますます固めた。
7月2日(土) チベット遠征隊戦報 一日ロンドン路通社発
チベット遠征隊司令官マクドナルド将軍は6月28日チベット人の保塁を占領するため攻撃を開始し、激戦となった。チベット人の損害は大きかったが英軍でもクラスター大尉が戦死し、2名の士官及び5人のセボイ兵が負傷した。
7月24日(日) 在チベット大使からの電報 23日北京特派員発
清国のチベット駐在大使が外務省に送った電報によれば、ダライラマは最近の遼東に於けるロシア軍の敗報を聞いて、それまで持っていたロシアに対する信頼感が薄れ同時にチベット兵が到底イギリス兵に太刀打ち出来ないことを知り、なんとかイギリスとの和平を模索している様である。そのため大使はダライラマを説得して平和を回復するよう努力したいと考え、外務省に対し北京のイギリス大使を通じ本国政府に請願し、暫くの間イギリス兵の前進を中止し協商について話合を始める端緒を得たいと希望しているようである。
9月12日(月)
英国とチベット条約調印 11日ロンドン ルーター社発電
ラッサ発ルーター電報によれば英国とチベット間の条約が去る7日調印された。
ヤングタスバンド大佐が一隊の兵を率いてチベット国境に入り、貿易について交渉しようとしたが出来ず、止む無くチベット人の抵抗を排除しつつラッサまで進軍した。頑固なダライラマが今回調印したのはこの進軍の結果で、鎖国攘夷を国是としてきたチベットもこれで、今後はインドを通じて文明列国と通商関係を結ぶ事となった。
9月25日(日) 英チベット条約と独伊米 </b>23日上海特派員発
独伊米の3国はチベットと英国との条約に関して外務部(清朝の外務省)に抗議を申込んだとの情報があった。
9月27日(火) 英チベット条約破棄の訓令 26日北京特派員発
露国公使が清国外務部(外務省)に対し次の申し入れを行い威嚇した。
チベットは貴国の属国で他国の干渉を許すべきでないにも拘わらず、英国は貴国の主権を蹂躙してチベットのダライラマと条約を締結した。貴国がもしこの条約を承認するのであれば、わが国も自ら我が利益と信ずる手段を取るであろうと威嚇した。そのため清国政府は直ちに駐チベット大使宛てに条約を破棄するよう訓令した。
28日(水) 露国の英チベット条約抗議は無根? 27日北京特派員発
清国外務部は、英チベット条約に関し露公使より抗議を申込まれたとの説は事実無根であると説明した。
9月30日(金) 英チベット条約と露国 29日ロンドン ルーター社発
セントピータースブルグ駐在のルーター社通信員の情報によれば、英チベット条約草案に対して露国政府が意義を申入れたとの説があるが、これに関して逆に駐英露国大使は極めて友好的な通告を英国にしたようである。
10月2日(日) 英チベット条約と露国新聞 1日ベルリン特約通信員発
ジュルナル、ド、サンペテルスブルグ及びその他の露国新聞は手厳しく英チベット条約に反対し露国は断じてこれを承認することは出来ないと述べている。
23日(日)張総督と英チベット条約</b> 22日北京特派員発
英チベット条約の清国に与える影響は重大であり、若しこれを黙認する時はチベットにおける清国の権力は名実共に失われるので、政府は極力不当の要求を退けるべきであると張総督は打電してきた。
11月28日(月) 英蔵条約後事 27日北京特派員発
張徳彜氏(駐英公使)は英国外相ランスダウン伯の意見であるとして次の電報を外務部に送ってきた。
英蔵条約に関して英国政府は清国の主権を認めているため、通商路鑛等の諸件に就いては出来るだけ清国政府と妥協を図る意思であるがチベットの利権を第三国に譲渡しない事については明確な清国政府の保証を獲得しておく必要がある云々で、且つその文中解約使節をチベットに派遣しても差し支えないとする英政府の内意を伝えていた。そのため政府は俄かに唐紹儀の出発を促し、重大事件に関しては必ず政府と協議を要する旨、厳重に注意した。
明治38年
5月21日
チベット問題 (20日北京等区は印発)
唐紹儀(とうしょうぎ)のチベット問題の交渉については、上海電の報道のとおりであるが、英国は決してチベットにおける支那の主権を認めないため、清国政府は結局英国の提言に従う外ないと思われる。ダライラマは未だ帰途に就いていない。
7月25日
西蔵條約談判 24日上海特派員発
唐紹儀(とうしょうぎ)は30年後の西蔵(ちべっと)條約の権利回復を主張したけれど、英国はこれに同意しないため、如何すべきか外部に伺いをしている。
10月5日
西蔵教主の希望 4日上海経由ロンドンルータス社発
露国陸軍参謀本部付将校フズロフ氏は西蔵(チベット)からセント・ピータスブルグに帰着した。同氏はクーロンに於いてダライラマと会見をした様で、その際ダライラマの語ったものであると同人が伝える所によると、ダライラマの唯一の目的は、西蔵(チベット)の独立を確保し、英国の勢力から逃れる事にある。
明治39年1月
1月7日
英蔵の関係 6日ロンドン特約通信員発
ロンドンタイムスのカルカッタ通信員の報道によれば、今回「タシラマ」が当地を来訪した際、英人のみならず印度人の仏教徒からも歓待を受けた。これは実に英人に対する信用を証明する顕著な事実であり、又将来における英国とチベットとの関係が一層親密になるであろう徴候である。
英蔵関係別報 6日北京特派員発
チベットの法王「クシラマ」は、既に印度に到着して、英国皇太子に謁見したとの説を唱える者が居る。そして支那の大官は、或いは「ラマ」が印度の反抗につき、支那を離れて英国に心を寄せるようになる事を危惧している。兎に角最近の英蔵条約は英国外交の大成功である。
明治39年
4月23日
西蔵談判落着 22日北京特派員発
チベット談判は、北京に移され、外務部と英国公使サトー氏との間で会議中であるが、英国は、今回いよいよ清国のチベット政策に干渉しないとの条件付きで、英国の要求通り決定し、既に調印を終わり、清暦の4月10日に批准される予定と言われている。
4月25日
西蔵条約成る(露国或いは抗議せんか) 24日北京特派員発
チベット条約が決定し、間もなく調印される予定であるとの事は、事実である。この条約は、本条約12条、追加条約3条からなり、大要は前電のとおり英国の優越権を認めたものである。露国公使ボコチロフ氏は、チベット条約が決定したと聞き、外務部に公文を以て、抗議書を提出した。その内に清露間の密約を根拠として強硬な抗議をするであろうと予想される。
4月29日
西蔵条約 28日上海経由ロンドン特約通信員発
英清西蔵条約は、3カ月以内に批准される事になっている。
明治39年
5月4日
西蔵新条約 3日上海経由ロンドンロイター社発
英国外務次官は、4月27日北京で調印を終了した条約に関して、上院に於いて次の演説を行った。
この条約によって、清国政府は昨年ラサに於いて調印された西蔵条約に同意した。
英国がチベットの領地を侵略せず、又その行政に干渉しない事を約した従来の協約は、今回の条約により何らの変更も受けず、同時に清国は今回の条約により、他国によってチベットの行政に干渉させないことを誓約した。猶又今回の条約には、昨年の西蔵条約第9条によって、外国人に譲渡しない事を規定した利益は、英国も又これを要求しないであろう旨明記している。そしてチベットから英国に支払うべき償金額には何ら変化がない。
5月9日
露国と西蔵 8日北京特派員発
駐露公使胡○徳氏が外務部に送った電報によれば、ダライラマのチベットへの帰国について、露国ではラマ教徒である白国人四五十名を派遣し、ダイライラマと一緒に、チベットに入らせ、何事か図ろうとする計画がある。
5月14日
ダイライラマ利用策 13日上海特派員発
露国が兵卒40人を派遣して、ダライラマを護衛しようとすると英国も同じく派兵して、ダライラマを迎えようと提案して来たが、外務部は共にこれを拒絶した。
5月20日
英蔵条約追加 18日上海特派員発
英蔵条約の追加の中に、他国が ラッサ等に出兵する場合があれば、英国はチベットを保護する為に、同様に出兵するであろう旨の条項があると言われている。
明治39年
6月20日
英清と西蔵貨幣 18日上海特派員発
チベットに於いて、英国皇帝の肖像を印刷した貨幣「ルーピー」を使用するのを見て、英国勢力が次第に増大する事を恐れて、四川総督の錫良(しゃくりょう)氏は、政府と協議し、「ルーピー」と同様に清国皇帝の肖像を印刷した三種類の貨幣を印刷し、通用させ始めた。
明治41年
2月13日
西蔵英兵撤退 12日上海特派員発
チベットの英兵は、英国貿易事務館保護の為60名を残留させ、その他はことごとくチユンビを撤退した。
4月25日
西蔵通商条約調印 23日上海経由ロイター社発
清国委員は、ようやくチベット通商条約に調印した。同条約により英国は今後2年間引き続き通商事務館及び公館保護の為に、50名の兵員をギャンツエに駐留させ、2年間を経過して英兵が撤退した後は、清国政府の手で前記通商事務館及びギャンツエとヤートン間の通商路を保護すべき旨が取極められた。
6月6日
印藏通商条約 4日ベルリン特約通信社発
インドとチベット間の通商条約がロンドンに於いて調印を終わった。チベットに於ける商業の特権はこの条約により英国に保障された。
明治42年
1月1日
西蔵反乱の風説 31日上海特派員発
チベットのラマ僧等は、紛争を起こそうと準備中であるとの説がある。そして彼等の口実とする所は、西太后崩御の際、何等の進物も彼等に送らなかった事である。彼等は、北京皇室が彼等を寵愛しない以上、彼等もまたこの様な皇室の下に支配される事を望まないと言明し始めているとの事である。
1月11日
西蔵と英国人 同上
スエンヘジン博士は、モククワに於いてスエーデンの新聞記者と会見し、チベットに於ける英国人の地位は、ラッサ遠征前と比べても良くなく、支那の勢力が日を追って増進し始めていると明言した。
解説:明治37年9月12日の記事によれば、英国はラッサに侵攻し、英蔵条約を結ばせ、チベットと貿易を始めている。
1月12日
西蔵騒櫌鎮静 11日上海特派員発
チベットのラマ僧達は、ダライラマが間もなく帰国し、帰着の上は自らチベットの政務を実施すると思われるので、最早騒動が続く憂いは無い旨の通知を受けた結果、鎮静化した。
1月13日
スウエン、ヘジン氏が露都に到着した。氏はチベットに於ける清国の勢力及び韓国における日本の勢力が次第に増進中であると語り、又日本に於ける氏の歓迎を非常に喜び、且つ日本人の聡明であり且つその態度の正しさを切言した。
解説:へ博士とは独逸のSven Hedin(1865~1952)であり、第3次中央アジア・チベット探検調査を終えた後東京地学協会の招きで、1908年11月来日し、以後韓国、大陸経由で帰国中、露国に到着している。
これによると、中国はチベットを中国領と主張しているが、当時のチベットと清国との関係は、韓国と日本との関係と同様であった様である。
12月4日
ダライラマの談話 3日タイムス社発な
露都来電―ダライラマは、清国はその頑固な態度を和らげた。チベット人は、同地方の商業を一手に握っている英国人と親善関係を結ぶ事が出来ると明言し、なおチベットと露国との間に永久的な外交関係を結ぶ事を希望している旨を仄めかしているとブリア、ドルチイフ紙は報道している。
明治43年
1月15日
西蔵人の不満 14日タイムス社発
ロンドンタイムスの入手した情報によれば、チベットの情勢は非常に危機的である。清国官憲とチベット人の確執は絶えまなく、清帝は、チベット人の不満を抱く原因を除く様求める上奏に接した。現在のままで推移するならば戦乱の恐れがあると言われている。
2月24日
ダライラマ出奔 23日上海経由ロイター社発
カルカッタ在住の本社通信員の報道によれば、員数不明の支那兵が東方からラッサに侵攻し、ダライラマは大臣数名を従えて、インド方面に向け、ラッカを立ち去った。ラマは26日にカリンボンに到着する予定で、タシラマはシガツエェに居ると信じられている。
解説:この事件は、四川省総督が1905年からチベット制圧を始めた事から起こっている。この記事のとおり19010年にはラサまで制圧しようとしており、この記事のとおりダライラマはインドに脱出している。一方タシラマ(パンチェンラマ)は、仏教界で序列第2位であるがこの時、清国に協力している。1911年の辛亥革命時に、四川省総督が殺害された為、ダライラマはチベットに帰り、清兵を排除し、ラサを挽回している。その結果タシラマは清国の勢力圏に逃れた。
2月25日
英国の西蔵問題観 24日タイムス社発
露都来電―清兵のチベット侵攻及び暴行、ダライラマのインド行等は、非常に露人を憂慮させ始めている。そして露都では、英国政府が再びチベットの平和を回復する為、北京政府に対し、圧迫を加える様になることを希望している。
2月26日
西蔵変乱と英国 29日上海経由ロイター社発
ロンドンタイムスは次の様に述べている。ダライラマは、疑いもなくインドに避難するであろう。しかしラマが有力な援助及び有り難く感じられる同情を得るであろうとは期待する事が出来ない。そして現在チベット問題を再考することは、時期が既に遅いと謂えども英国政府は尚且つ清国政府に対し、友好的に意見を陳述すべき方法がある。(一部抜粋)
2月27日
ダライラマ到着 26日上海経由ロイター社発
本社ダルゼリング通信によれば、ダライラマは非常に困難な旅行を行い、カリムボンに到着した。尤も途中、仏教徒やシーク教徒等は喜んでこれを援けたそうである。その到着は非常に人心を激動させている。
3月1日
ダライラマの哀訴 28日タイムス社発
露都来電―ダライラマは露国政府に哀訴した。清国官憲は、チベット人民が何ら清国を挑発していないにも拘わらず、妄りに攻撃的態度を執り、暴行を欲しいままにしていると説き、露国が英国と協力してチベットを援ける様求めた。
3月2日
清国政府の回答 1日北京特派員発
英国がチベット事件に関し、支那政府に詰問したのに対し外務部は大要次の様な意味の回答を発したと言われている。即ち支那がチベットに兵を送ったのは全くその境内の騒乱を鎮圧するためであり、チベットの政治その他を根本より改善する意志はない、且つインドの辺境に騒乱を及ぼさない様に、又通商を妨害しない様に速やかに平和の処置を取るであろう云々
解説:2月24日以降連日の様に報道されている記事の続報
3月3日
ダライラマ歓迎 1日上海経由ロイター社発
ダライラマは、本朝ダルジェリングに到着する予定であり、インド政府の賓客として、優遇されるであろう。なお仏教徒等は、同地居留のラマ教徒と共に歓迎行列を準備中である。
解説:連日報道されている記事の続報
3月4日
ダライラマと英国 3日上海経由ロイター社発
インド事務次官モンテギュウ氏は下院に於いてインド総督ミントウ卿の電報を朗読した。これは、チベットの事変を詳報したもので「清人はダライラマに従前同様の権力を保有させるという誓約を破った」と説くダライラマの愁訴を否定するものであった。次官は又清国が英国の照会に回答し誓約を与えたが、これに関する英国の意見を述べるには次期が早いと言明した。
3月5日
印度仏教徒抗議 4日上海経由ロイター社発
本社の印度ダルジリング通信によれば、同地の仏教徒が大会を開き、清国のダライラマ虐待を憤怒し、その地位を要求、且つ清国皇帝に対し、在チベット軍隊の撤退と駐チベット大臣の免職を求める決議を行った。
西蔵変乱と英国 同上
英国外相サー、グレー氏は、下院に於いて演説し、インドとチベットの関係がチベットの行政変革により影響を受けるであろうと想像する事は出来ない。英国政府の一般方針は、条約上の義務を厳守するにある。尚英国以外の関係国も同様に条約上の義務を厳守する事が必要である等と言明した。
露清交渉 3日ベルリン特約通信社発
露都の電報通信によれば、露国政府は清国外務部に向け、ダライラマ廃位に付きその意志を宣明する様要求した。清国政府はこれに対し、駐チベット清国官憲は、チベットの内政及びラマ教に決して干渉しない旨回答した。
3月9日
清国と西蔵 7日北京特派員発
清国は現在最もチベット問題を重大視しているが、その観察は非常に楽観的である。
政教分離に根拠を置き、ダライラマを一つの宗教の首長として、これを尊敬するかしないのは支那政府の任意であると考え、更に外国から干渉を受ける謂われはないと唱えている。若し外国が支那の主権を尊重するのであれば、廃位のダライラマを歓迎、優待する事は道に反するものと為している。
解説:2月24日以降しばしば報道されている記事の続報であり、現在のチベット情勢とよく似ている。
3月13日
ダライラマの後任 12日北京特派員発
未だ公表されていないが、ダライラマの後継者は、暫くパンチェンラマを以て処理させる事になり、4人の幕僚はダライラマの逃走後もその職にあり、住民は平穏である。
解説:パンチェンラマは、仏教界で序列第2位であり、この時、清国に協力している。その為1911年の辛亥革命時に、四川省総督が殺害され、ダライラマがチベットに帰った際清国の勢力圏に逃れている。
3月15日
「ダライラマ」カルカッタ着 14日上海経由ロイター社発
ダライラマは、カルカッタに到着し、インド総督の馬車でヘスチングスハウスに入った。特別に熱誠な歓迎は無かった。
解説:2月24日以降しばしば報道されている清国による「ダイライラマ」攻撃の記事の続報である。
3月16日
ダライラマと総督 15日上海経由ロイター社発
本社カルカッタ通信によれば、ダライラマはインド総督ミントオ伯に荘厳な公式訪問を行った。ベンガル騎兵隊に護衛されて、馬車で政庁に到着、ミントオ伯に絹襟巻を贈呈した。次いでリントオ伯も返礼として、公式訪問を行った。
3月18日
清帝と西蔵問題 17日北京特派員発
チベット善後策として政務處会議の結果、(1)新ダライラマの選出(2)駐チベット新陸軍の増加(3)人を派遣してチベット人を慰撫する事(4)有力な駐チベット大臣の派遣(5)英露両国に駐在する公使に命じ、両国の対チベット方針を注意させて、臨機の処置に出る事であり、以上の5カ条を基礎とし、着々と実行の歩を進め始めている。
3月19日
ダライラマ 同上
ダライラマは、本日カルカッタ腑を出発し、ダルジリングに向かった。政府の賓客として同地に滞在する予定である。
解説:現在と同様に、ダライラマは清国に追い出されて印度に亡命中である。
3月21日
露国の回答 20日上海経由ロイター社発
露都来電―諸新聞の報道によれば、露国はチベットに於ける自己の権力回復に援助を求めたダライラマの哀訴に回答する筈である。唯大げさな文句を用いて、英露両国が北京に於いて行った抗議に言及すると思われるが、但しダライラマに対して何ら確固たる希望を与えないであろうと
4月1日
西蔵形勢平穏 31日タイムス社発
カルカッタ来電―チベットのラッサ府の情勢は静穏である。チベット駐在大臣は、仏教徒でない兵士等の暴行を抑制している。
解説:チベットのダライラマは、清国に追い出され、インドに滞在中であり、現在のチベットの同じ状況となっている。
4月11日
前ダライラマ帰蔵 10日北京特派員発
名号を剥奪された前ダライラマは、帰蔵の意向がある。その処分方法について、清国政府は、駐蔵大臣聯豫(れんよ)氏に向け、ダライラマは、到底復位させる事は出来ないので、五臺山(ごたいざん)に護送し、専心修養させ、民心の動揺を防ぐべしと訓電した。
解説:ダライラマは、現在と同様、4月1日の記事にある様にインドに亡命中である。
4月26日
ダライラマと英露 24日ベルリン特約通信社発
露国半官報ノウオエ、ウレミヤ祇の報道によれば、英露両国は、6月末、ダライラマを露都に来させる事に同意した。
解説:現在と同様に、ダライラマはインドに逃れている。
6月17日
西蔵の政教分離 15日北京特派員発
清国政府は外国の干渉を恐れ、チベットの処分策を決定していなかったが、新ダライラマを僭立後のチベットは平和であり、駐蔵大臣の政令が能く行われているので、この度、年来の希望である政教を分離し、新ダライラマは宗教のみを管理し、商務、外交は駐蔵大臣が政府の命を受け折衝の任に当たる事とした。従って将来ダライラマと外国人との間に条約を結んでも清国政府はこれを承認しない事とし、これに関し外務部より北京公使館に通牒したとの事である。
解説:本来のダライラマは、清国の手を逃れている。最近の中国のやり方と似ている事を100年位前にも行っていた様である。
7月16日
英国と西蔵 15日上海経由ロイター社発
チベットに関する分厚い青書が発表された。その中で最も注目すべきは8月8日付外相サー、グレーの第2回公文であり、その内容は英清両国の間に締結された諸条約及び通商協約を清国が厳守する義務がある事を主張するものである。英国外相はその公文に於いて、英国には、常にシキム、ブータン及びネパールの各地方に於ける利益を擁護する準備がある事を通告し、これら地方に清国の兵力を増加する事の得策でない事を警告している。
7月31日
英兵西蔵派遣 30日上海経由ロイター社発
本社シムラ通信員の初報によれば、2個のインド連隊は、山砲隊と共にチベットに入る準備を整える様命令された。これは清兵の活動結果、同地に騒乱が起こる恐れがある為である。唯今の所、グネツトングに大量の供給品が集められ、若しチベットジャンテー、ヤータン等の英国商会等が攻撃を蒙る場合には、この保護の為に進軍する準備が出来ている。但し清兵及びチベット人間が相戦う場合には、英兵は厳密に中立を守る事になる様である。
8月24日
西蔵方面の警報 23日上海特派員発
駐蔵大臣趙爾豊氏は、北京政府に向かって、某強国がダライラマと共謀して、1千の軍隊をチベット方面に進めている。就いては四川総督に訓令し、軍隊を派遣して頂きたい旨電報した。しかし四川省の軍隊は、現在内地の暴動に対してすら力が不足する程度でありので、到底某強国の進軍を止めることはできないと思われる。
8月28日
達頼喇嘛 27日上海経由路透社発
ダージリンに居る本社通信員の報道によれば、ダライラマは、もし自分の権威を完全に復旧し、且ラッサ駐在の清国官憲より帰国の要請がある場合には、多分清国の提議に同意してラッサにかえるだろうと信じられている。そして清国のラッサ駐在官は清国政府の提議を確かめる為にダージリンに来ると思われる。
9月11日
清官の達頼喇嘛訪問 10日上海経由ロイター社発
道台シチャンチは、去る月曜日、チベットのラッサより印度のダルジーリングに到着した。
これは、清国政府よりダライラマを訪問する様に命令されたとからと言われている。
9月24日
西蔵問題協議 23日上海経由ロイター社発
ダルジーリングに於いて、チベット情勢に関し、ダライラマと会見した清国道台は、インド政府と協議する為、水曜日にシムラに来るだろうと予想されている。なおラッサの有力なラマ僧等は、ダライラマに対し、英国政府が安全を保障しない限り,帰ってはならないと強く警告した。
11月3日
西蔵問題後報 2日タイムス社発
ポンペイ来電=チベットに派遣された清国使節は、ダライラマと会見したが要領を得ず、ラマの配下の高僧は同使節と交渉中であるが、使節の官位がこの任に適していない様である。