4 当時のチベット情勢

東京朝日新聞の記事より

東京朝日新聞に見るチベット報道(日露戦争当時)

 

明治37

6月1日() チベット遠征戦報((31日ロンドン ルータ社発)

 デイリーメールのチャンビ通信によれば526日英軍は、その陣営に近い村落で防御工事中であったチベット人を掃討しようとしてガアステン中尉と3名のセボイ兵が戦死、オコンノル大尉ウオルカア、ミツチエルの両中尉及び9名の兵士が負傷した。チベット人の損害は非常に甚大であった。

16日(木)チベットと英露 15日北京特派員発

チベットのダライラマは、清国の駐蔵大使の進言を採用しなくて露国の駐蔵大使の甘言に惑わされて露国から密かに小銃や弾薬の供給を受けて英国を排斥する考えをますます固めた。

7月2日() チベット遠征隊戦報 一日ロンドン路通社発

チベット遠征隊司令官マクドナルド将軍は628日チベット人の保塁を占領するため攻撃を開始し、激戦となった。チベット人の損害は大きかったが英軍でもクラスター大尉が戦死し、2名の士官及び5人のセボイ兵が負傷した。

7月24日() 在チベット大使からの電報 23日北京特派員発

清国のチベット駐在大使が外務省に送った電報によれば、ダライラマは最近の遼東に於けるロシア軍の敗報を聞いて、それまで持っていたロシアに対する信頼感が薄れ同時にチベット兵が到底イギリス兵に太刀打ち出来ないことを知り、なんとかイギリスとの和平を模索している様である。そのため大使はダライラマを説得して平和を回復するよう努力したいと考え、外務省に対し北京のイギリス大使を通じ本国政府に請願し、暫くの間イギリス兵の前進を中止し協商について話合を始める端緒を得たいと希望しているようである。

9月12日() 

英国とチベット条約調印 11日ロンドン ルーター社発電

ラッサ発ルーター電報によれば英国とチベット間の条約が去る7日調印された。

921日(水) 英とチベットの新条約

ヤングタスバンド大佐が一隊の兵を率いてチベット国境に入り、貿易について交渉しようとしたが出来ず、止む無くチベット人の抵抗を排除しつつラッサまで進軍した。頑固なダライラマが今回調印したのはこの進軍の結果で、鎖国攘夷を国是としてきたチベットもこれで、今後はインドを通じて文明列国と通商関係を結ぶ事となった。

9月25日() 英チベット条約と独伊米 </b>23日上海特派員発

独伊米の3国はチベットと英国との条約に関して外務部(清朝の外務省)に抗議を申込んだとの情報があった。

9月27日(火) 英チベット条約破棄の訓令 26日北京特派員発

露国公使が清国外務部(外務省)に対し次の申し入れを行い威嚇した。

チベットは貴国の属国で他国の干渉を許すべきでないにも拘わらず、英国は貴国の主権を蹂躙してチベットのダライラマと条約を締結した。貴国がもしこの条約を承認するのであれば、わが国も自ら我が利益と信ずる手段を取るであろうと威嚇した。そのため清国政府は直ちに駐チベット大使宛てに条約を破棄するよう訓令した。

28日(水)  露国の英チベット条約抗議は無根? 27日北京特派員発

清国外務部は、英チベット条約に関し露公使より抗議を申込まれたとの説は事実無根であると説明した。

9月30日(金)  英チベット条約と露国 29日ロンドン ルーター社発

セントピータースブルグ駐在のルーター社通信員の情報によれば、英チベット条約草案に対して露国政府が意義を申入れたとの説があるが、これに関して逆に駐英露国大使は極めて友好的な通告を英国にしたようである。

102日(日) 英チベット条約と露国新聞 1日ベルリン特約通信員発

ジュルナル、ド、サンペテルスブルグ及びその他の露国新聞は手厳しく英チベット条約に反対し露国は断じてこれを承認することは出来ないと述べている。

23()張総督と英チベット条約</b> 22日北京特派員発

英チベット条約の清国に与える影響は重大であり、若しこれを黙認する時はチベットにおける清国の権力は名実共に失われるので、政府は極力不当の要求を退けるべきであると張総督は打電してきた。

1128() 英蔵条約後事 27日北京特派員発

 (ちょう)徳彜(とくい)氏(駐英公使)は英国外相ランスダウン伯の意見であるとして次の電報を外務部に送ってきた。

英蔵条約に関して英国政府は清国の主権を認めているため、通商路鑛等の諸件に就いては出来るだけ清国政府と妥協を図る意思であるがチベットの利権を第三国に譲渡しない事については明確な清国政府の保証を獲得しておく必要がある云々で、且つその文中解約使節をチベットに派遣しても差し支えないとする英政府の内意を伝えていた。そのため政府は俄かに唐紹(とうしょう)()の出発を促し、重大事件に関しては必ず政府と協議を要する旨、厳重に注意した。

 

 

 

明治38

521

チベット問題 (20日北京等区は印発)

唐紹儀(とうしょうぎ)のチベット問題の交渉については、上海電の報道のとおりであるが、英国は決してチベットにおける支那の主権を認めないため、清国政府は結局英国の提言に従う外ないと思われる。ダライラマは未だ帰途に就いていない。

725

西蔵條約談判 24日上海特派員発

唐紹儀(とうしょうぎ)は30年後の西蔵(ちべっと)條約の権利回復を主張したけれど、英国はこれに同意しないため、如何すべきか外部に伺いをしている。

105

西蔵教主の希望 4日上海経由ロンドンルータス社発

露国陸軍参謀本部付将校フズロフ氏は西蔵(チベット)からセント・ピータスブルグに帰着した。同氏はクーロンに於いてダライラマと会見をした様で、その際ダライラマの語ったものであると同人が伝える所によると、ダライラマの唯一の目的は、西蔵(チベット)の独立を確保し、英国の勢力から逃れる事にある。

明治391

17

英蔵の関係 6日ロンドン特約通信員発

ロンドンタイムスのカルカッタ通信員の報道によれば、今回「タシラマ」が当地を来訪した際、英人のみならず印度人の仏教徒からも歓待を受けた。これは実に英人に対する信用を証明する顕著な事実であり、又将来における英国とチベットとの関係が一層親密になるであろう徴候である。

英蔵関係別報 6日北京特派員発

チベットの法王「クシラマ」は、既に印度に到着して、英国皇太子に謁見したとの説を唱える者が居る。そして支那の大官は、或いは「ラマ」が印度の反抗につき、支那を離れて英国に心を寄せるようになる事を危惧している。兎に角最近の英蔵条約は英国外交の大成功である。

明治39年

423

西蔵談判落着 22日北京特派員発

チベット談判は、北京に移され、外務部と英国公使サトー氏との間で会議中であるが、英国は、今回いよいよ清国のチベット政策に干渉しないとの条件付きで、英国の要求通り決定し、既に調印を終わり、清暦の4月10日に批准される予定と言われている。

 

425

西蔵条約成る(露国或いは抗議せんか) 24日北京特派員発

チベット条約が決定し、間もなく調印される予定であるとの事は、事実である。この条約は、本条約12条、追加条約3条からなり、大要は前電のとおり英国の優越権を認めたものである。露国公使ボコチロフ氏は、チベット条約が決定したと聞き、外務部に公文を以て、抗議書を提出した。その内に清露間の密約を根拠として強硬な抗議をするであろうと予想される。

 

429

西蔵条約 28日上海経由ロンドン特約通信員発

英清西蔵条約は、3カ月以内に批准される事になっている。

 

明治39

54

西蔵新条約 3日上海経由ロンドンロイター社発

英国外務次官は、427日北京で調印を終了した条約に関して、上院に於いて次の演説を行った。

この条約によって、清国政府は昨年ラサに於いて調印された西蔵条約に同意した。

英国がチベットの領地を侵略せず、又その行政に干渉しない事を約した従来の協約は、今回の条約により何らの変更も受けず、同時に清国は今回の条約により、他国によってチベットの行政に干渉させないことを誓約した。猶又今回の条約には、昨年の西蔵条約第9条によって、外国人に譲渡しない事を規定した利益は、英国も又これを要求しないであろう旨明記している。そしてチベットから英国に支払うべき償金額には何ら変化がない。

 

59

露国と西蔵 8日北京特派員発

駐露公使胡○徳氏が外務部に送った電報によれば、ダライラマのチベットへの帰国について、露国ではラマ教徒である白国人四五十名を派遣し、ダイライラマと一緒に、チベットに入らせ、何事か図ろうとする計画がある。

 

514

ダイライラマ利用策 13日上海特派員発

露国が兵卒40人を派遣して、ダライラマを護衛しようとすると英国も同じく派兵して、ダライラマを迎えようと提案して来たが、外務部は共にこれを拒絶した。

 

520

英蔵条約追加 18日上海特派員発

英蔵条約の追加の中に、他国が ラッサ等に出兵する場合があれば、英国はチベットを保護する為に、同様に出兵するであろう旨の条項があると言われている。

 

明治39

620

英清と西蔵貨幣 18日上海特派員発

チベットに於いて、英国皇帝の肖像を印刷した貨幣「ルーピー」を使用するのを見て、英国勢力が次第に増大する事を恐れて、四川総督の錫良(しゃくりょう)氏は、政府と協議し、「ルーピー」と同様に清国皇帝の肖像を印刷した三種類の貨幣を印刷し、通用させ始めた。

 

明治41年

2月13日

西蔵英兵撤退 12日上海特派員発

チベットの英兵は、英国貿易事務館保護の為60名を残留させ、その他はことごとくチユンビを撤退した。

425

西蔵通商条約調印 23日上海経由ロイター社発

清国委員は、ようやくチベット通商条約に調印した。同条約により英国は今後2年間引き続き通商事務館及び公館保護の為に、50名の兵員をギャンツエに駐留させ、2年間を経過して英兵が撤退した後は、清国政府の手で前記通商事務館及びギャンツエとヤートン間の通商路を保護すべき旨が取極められた。

66

印藏通商条約 4日ベルリン特約通信社発

インドとチベット間の通商条約がロンドンに於いて調印を終わった。チベットに於ける商業の特権はこの条約により英国に保障された。

 

明治42

11

西蔵反乱の風説 31日上海特派員発

チベットのラマ僧等は、紛争を起こそうと準備中であるとの説がある。そして彼等の口実とする所は、西太后崩御の際、何等の進物も彼等に送らなかった事である。彼等は、北京皇室が彼等を寵愛しない以上、彼等もまたこの様な皇室の下に支配される事を望まないと言明し始めているとの事である。

 

111

西蔵と英国人 同上

スエンヘジン博士は、モククワに於いてスエーデンの新聞記者と会見し、チベットに於ける英国人の地位は、ラッサ遠征前と比べても良くなく、支那の勢力が日を追って増進し始めていると明言した。

解説:明治37912日の記事によれば、英国はラッサに侵攻し、英蔵条約を結ばせ、チベットと貿易を始めている。

112

西蔵騒櫌鎮静 11日上海特派員発

チベットのラマ僧達は、ダライラマが間もなく帰国し、帰着の上は自らチベットの政務を実施すると思われるので、最早騒動が続く憂いは無い旨の通知を受けた結果、鎮静化した。