4 バルチック艦隊の極東回航

バルチック艦隊が本国を出港し、石炭、食糧や衣服等の欠乏、酷暑や艦船の故障、病気に悩まされながら地球を半周する大航海をし、日本海にたどり着き、日本海海戦で連合艦隊に敗れるまで行動を、露国海軍軍令部が発行した「露日海戦史」から抜粋しています。

第1章 艦隊の出師準備及びクロンシュッタトより「リバーワ」への回航

クロンシュタット軍港

1 1904年8月23日「ペテルゴフ」に於ける御前会議

第2太平洋艦隊(バルチック艦隊)の派遣時期に関しては、艦隊司令長官は既に雇入れている運送船を一度解雇したならば回航のために再び雇入れるのは不可能であるため艦隊は直ちに出発する必要があると主張し、海軍大臣も同少将の意見に賛成した。

 

しかし会議に参列した他の将官は、艦隊司令長官及び海軍大臣の意見に反対していた。

(1)     日本海軍は戦闘の準備を更に整え、乗員は全部実戦の経験を積んでいるのに反して我が第2太平洋艦隊はその編成すら未完成である。

(2)     回航の途中は苛烈な熱帯地方でありとうてい満足な訓練は出来ない。第2太平洋艦隊の派遣を早める事は徒にその滅亡を早めることに同じである。

(3)     それ故に第2太平洋艦隊は、バルト海で十分に訓練を積み又建造中の諸艦を竣工させ又チリー及びアルゼンチンよりの購入軍艦を艦隊に加え、一挙に戦争の運命を決め得る勢力を持った上で、来春を待ち派遣するのが万全の策である。

 

しかし司令長官の主張どおり結局艦隊は、1904年の秋に出発し「マダガスカル」まで行き、購入軍艦7隻の到着を待ち、1905年3月ウラジオストックに到着するよう計画された。

2 艦隊はクロンシュタット軍港を出港(9月11日)

艦隊司令長官はクロンシュタットに艦隊の在伯する間は雑用が限りなくあり、いつまでも出発する事ができないため、艦隊の領収していない物品は輸送船で受け取ることとし、自ら艦隊を率い「レーウエリ」に回航し、同港に於いて戦闘訓練を行うことを決心した。

艦隊は911日午前9時戦艦「スウオロフ」、「アレクサンドル」三世、「ボロジノ」、「オスリヤビヤ」「ウエリーキー」及び「ナワリン」、1等巡洋艦「ナヒモフ」、「アウロラ」、「ドンスコイ」及び「スウェトラナ」、2等巡洋艦「アルマーズ」駆逐艦「ベドウイ」他6隻の諸艦はクロンシュタット泊地を抜錨し、皇帝の親閲を受けた後9月13日午前7時「レーウエリ」の泊地に投錨した。

 

3 艦隊の「レーウエリ」停泊及び戦闘に関する諸訓練(9月13日~)

艦隊は「レーウエリ」入港の当日より戦闘に関する訓練を開始し「リバーワ」に回航するまで約1ヵ月間これを続行した。

9月21日の日中は、艦隊運動を行いながら移動標的を使って内筒砲射撃訓練を行い、日没からは当直艦を停泊中の湾の入口付近に配置し探照灯で警戒させ、その沖合いに駆逐艦2隻及び艦載水雷艇を派出して巡回させている。艦隊の各艦は日没より戦闘訓練を行い、夜中は大砲の傍に交代で当直させ又小口径砲には弾薬を装填している。

923に演習弾を搭載した輸送船が「レーウエリ」に入港し、各戦艦及び巡洋艦は演習弾100発と75mm砲弾60~150発を搭載した。

925より10月2日まで数回「カルロス」島付近に出動し、同島に立てた標的を射撃して各種の砲熕機関砲を試験した。

926引き続き「カルロス」島の標的を目標に射撃訓練を行い、射撃訓練終了後は艦隊砲術長が主催して各艦の砲術長を集めて研究会を実施し、組織、射撃要領、戦術に関する改善策について討議した。

駆逐艦は9月27日及び29日には75mm砲の射撃を行った。第1回は各射手に5発づつ射撃させ、次いで射手見習いに同じく5発づつ射撃させた。この時の駆逐艦の速力は12ノットであった。

9月28クロンシュタットから回航中艦隊は「スラビ、アルゴ」式無線通信機と輸送船の2隻に装備した「マルコニ」式無線通信機との交信を行い、「マルコニ」式無線通信機の調整を行う。

ロゼストウインスキー少将の特命により行われた無線電信の試験は「レーウエリ」に於いても最初十分な成績を得られなかった。

9月29「スーロフ」は修理後の各種領収試験を行ったが数多くの修理箇所があり、艦内で工事が続行されていた。

「ボロジノ」は更に準備が遅れ、9月13日になってやっと試験を終えている。

「アリヨール」はクロンシュタットの岸壁に係留中、工員のサボタージュで浸水し、触底してしまった。そのため武器等装備品の一部は取り替える必要があり、出動準備は著しく遅れた。そのため艦隊が「レーウエリー」を出港する2日前に合同することが出来た。

新造戦艦で出動準備が完了していたのは「アレクサンドル」三世のみであった。

「オスラビア」は外国から帰国後、艦内各部屋の通風装置の改造工事が9月14日現在も完了していなかった。

103

8月23日の御前会議の2日後、極東軍司令官アレクセイエフ大将は第2太平洋艦隊の派遣について「現在の編成では海戦で勝利を得る事は難しい。我が海軍が有する軍艦の悉く(残存艦艇の全てと黒海艦隊の一部)を編入して始めてその成果を有する」との電報を送った。このため,バルチック艦隊が出発後残存艦隊で第3太平洋艦隊が編成される事となった。

106引き続き「レーウエリー」に留まり訓練中であり、103日、5日、6日は、駆逐艦の魚雷発射訓練を行った。

皇帝は、109戦艦「アリヨール」「ボロジノ」「アレクサンドル3世」「スーロフ」を巡視し、正午全艦隊は抜錨、出航し戦闘射撃訓練を行った。翌10日は巡洋艦、駆逐艦を巡視された。皇帝は各艦において「露国軍艦旗の名誉にかけて任務を完遂することを確信する」と勅語を賜わった。

艦隊は1011日午前6時「レーウエリ」港の停泊地を出発して「リボウ」に向かう。

1列は戦艦4隻、運送船1隻、巡洋艦3隻及び第2列は戦艦3隻、巡洋艦2隻、駆逐艦7隻、運送船1隻であった。

10月12日正午頃、艦隊は「リボウ」の灯船(灯台の代わりをする船)に近づき、順次外港に到着した。

艦隊は外港に停泊中、10月13日戦艦「オスラビア」「アリヨール」の2隻が浅瀬に乗り上げたので曳船で引き離した。10月14日の早朝戦艦「スーロフ」は係留浮標の錨鎖が切断し、漂流を始めた。そのためロゼストウインスキー少将は、軍港で搭載すべき諸物品が未だ搭載されていないにも拘わらず事故が再び発生することを恐れ、同日錨を一旦上げて安全な沖に投錨した。

10月13日「ロゼストウインスキー」少将は海軍技術会議より書面を受け取った。これは戦艦「ボロジノ」の復元力を計算したもので、満載炭の場合2、5フィート(新造時通常搭載炭 4.3フィート)と異常に低く、海洋の航行や戦闘において注意を要する。

2005年5月27日の日本海海戦における戦闘の際、新戦艦の水線部に命中した敵弾の為生じた破孔が原因で沈没した。これは海軍技術会議の指摘が的中した事を証明し、「スーロフ」「アレクサンドル三世」「ボロジノ」も同じ理由で転覆している。

1014日巡洋艦「オレーグ」「イズムルード」「リオン」及び「ドネツブル」は航海をする準備が未完成であるので、海軍大佐「ドブロツウオルスキー」が指揮する一部隊を編成し、遅れて出航して途中で第2艦隊に合流することとなった。艦隊の出航当日入港する駆逐艦4隻もこの部隊に編入される事となった。

解説:バルチック艦隊はいよいよ明日「リバウ」を出航して極東に回航することとなるがロゼストウインスキー少将は、艦隊が行動する為の石炭の確保に加えて、1万2千名の乗組員の食糧と熱帯地方での防暑服や北極地方での防寒服を準備する必要があった。当時のロシアの官僚組織を考えるとこれらの準備をするには想像を絶する苦労があったものと思われる。そのためロゼストウインスキー少将は、1日18時間も働き続けたといわれている。今回の出航も全ての準備を完了させる事は出来なかった。

第2章 艦隊「リバーワ」を出港し「タンジエル」に向かう

モロッコのタンジェル港

1「リバーワ」を出港(19041015日)

艦隊は石炭を搭載した後予定通り10月15日朝「リバウ」を出航した。

ロゼストウインスキー少将は、出航に先立ち艦隊の未搭載物品は輸送船「イルツイシ」の修理完了しだい同船に搭載させて運送させるよう軍港司令官に依頼した。

「リバウ」出航時の航行隊形は入港時に同じ。雇入れた輸送船3隻、給水船1隻、救難用曳船1隻等を艦隊に随伴させた。

艦隊は夜間の水雷攻撃に対して必要な警戒をする為に副砲に弾を装填し、砲手は砲側に休ませた。

解説:本日第2太平洋艦隊(バルチック艦隊)はいよいよ地球を半周するという世紀の大航海に出発した。ロゼストウインスキー少将は現在の海軍の常識から考えると必ずしも艦隊としての熟練度が十分でない部隊を率いてこれから様々な困難に遭遇する事となる。

最初の兆候は、この記事にあるように日本の水雷艇が攻撃してくるという脅威への過剰反応である。北海まで常識的には日本海軍の水雷艇が進出する事はあり得ないにも拘わらずロシア海軍はそれを信じた。そしてそれがドッカーバンク事件へとつながって行った。

 

10月16日午後2時艦隊は「ボルンゴリム」島に到達したが前進を継続した。

同日駆逐艦「ブイストルイ」は通信連絡のため戦艦「オスラビヤ」に接近しようとして操縦を誤って戦艦に衝突し、自艦の艦首及び艦首発射管を圧壊して水線部に少破孔を生じた。次の停泊時を利用して修理することに決定した。

 

10月17日朝艦隊は「ランゲラント」島に達し、「ファツケベルグ」灯台の近くに投錨する。昼間より風力が次第に強くなったため予定していた石炭搭載を中止する。

前日破損した駆逐艦「ブイストルイ」は工作船「カムチャッカ」により修理をした。風雨激しく、波が甲板まで打ち上げ作業は困難であったが工員の努力により夕刻までに完了した。

10月18日 風力ようやく衰えたので石炭搭載を行う。

艦隊は長官の命令で、当地において艦隊掃海作業の訓練を行う。砕氷船「エルマルク」及び曳船「ルーシ」を掃海船としたが操艦が未熟で掃海を始めると直ぐに掃海策を切断し、第1回の訓練は失敗に終わった。その後艦隊はバルト海峡を通過して「スケラグ」岬に向かって航進した。

解説:デンマークの大バルト海峡を通過し、スエーデンとデンマークの間にあるカラガット海峡を通っている。

10月20日朝スカーゲン岬に投錨する。スカーゲン岬に投錨しようとしているとき司令長官は海軍中将に昇任し侍従将官の称号を授けられた。

我が太平洋艦隊の東航を阻止するため日本は既に我が艦艇を攻撃する準備を終わっているとの情報さえあり、海軍省はデンマーク海峡方面に哨戒隊を配置しまた要所に監視所を設け警戒していた。

艦隊は投錨後直ちに石炭搭載を始めようとした時、石炭船がスカーゲン駐在露国副領事の「国旗を掲揚していない水雷艇7隻海上に現れた」と言う情報をロゼストウインスキー中将に提出した。長官は、石炭搭載を中止し夜間の停泊を避け前進する事に決し、抜錨し、厳重な警戒態勢をとりつつ航進する。

解説:この記録にあるように露国海軍省とロゼストウインスキー中将は異常とも思われる程日本の水雷艇攻撃を警戒していた。これがやがてイギリス漁船団に対する無差別砲撃(ドッガーバンク事件)につながっていった。

 

10月21日夜8時50分工作船「カムチャッカ」より戦艦「スウロフ」に無線電信が多数入ってきた。

「カムチャッカ」 「水雷艇が追跡してきた」

「スウロフ」 「水雷艇は何れの方向より来ているか、又何隻なりや」

「カムチャッカ」 「四方より攻撃を受けようとしている」

「スウロフ」 「水雷艇は何隻なりや詳しく報告せよ」

「カムチャッカ」 「水雷艇は約8隻なり」

午後11時

「スウロフ」 「司令長官より 貴船は今もなお水雷艇を見るや」

午後11時20分

「カムチャッカ」 「見えず」

解説:艦隊は前方に駆逐艦部隊を派出し、深照灯を照射し極度に警戒しつつ航行していた。その矢先霧で艦隊からはぐれた工作船「カムチャッカ」より水雷艇に追跡されていると言う電報が旗艦に飛び込んできた。これらは単なる思い込みであったが全ての悪夢はこの「カムチャッカ」の一の電報に始まり、全艦隊は恐怖に支配されていった。そして翌日の零時過ぎ悲劇が起こった。

 

2 北海に於ける艦隊の怪船砲撃(1904年10月22日~)

10月22日午前零時55分「ドッガーバンク」沖を航行しようとしている時戦艦「スーロフ」の艦首を左右より横断して逆行する無灯火の船影を多数認めた。「スーロフ」は浮遊機雷を撒かれた恐れがあり,転舵すると同時にその他の諸艦と共に探照灯を照射したところ水雷艇に酷似した2隻を見つけ「スーロフ」以下1~2隻の戦艦はこれに向かって砲火を開いたがこの2隻はたちまち見えなくなり同時に「ランチ」型の舟数隻を発見した。この時この「ランチ」に対して射撃をするなと命令したが一部の砲員は水雷艇と信じて約10分間射撃を続けた。

この時巡洋艦「オウロラ」に砲弾5発命中し、従軍牧師1名重傷(タンジール入港後病院にて死亡)、砲兵1名軽傷を負った。

戦艦「アリヨール」は75ミリ砲1門の砲身が破裂した。

 

戦艦「スーロフ」乗組み少尉「ゴロウニン」の12月6日付け書簡より)

司令長官は海峡通過のため常に艦橋に立っていた。探照灯を照らしたところ忽ち信号兵が「水雷艇発見」と当直士官に報告する。果たせるかな直ちに三色の火箭を打ち上げた小船を確認する。この小船は曳網で漁業を行う汽船であることが後日判明したが艦長は艦橋で「撃ち方始め」を令し航海長は「又1隻あり」と指示し、参謀は「何事か」と叫び艦橋は混雑し司令長官もその中に在って双眼鏡で凝視しつつ射撃してよろしいと言われた声が歯隙より漏れて微かに聞こえた。各艦は本艦の第2発目の射撃に引き続き射撃を開始した。

 

ドッガーバンク事件に関する「ロゼストウインスキー」中将の説明より

戦艦「スーロフ」は後続艦からの射撃が味方に命中することを恐れて、探照灯の光を上に向け「射撃止め」の信号を全艦に向け発信した。間もなく午前1時5分最後の砲声を持って終わったが射撃開始から終了までの間は、僅か10分に過ぎなかった。

射撃の結果は不明であるが右舷側を航行した水雷艇には大損害を与えたと思われるが左舷側の水雷艇は逃げ去った。現場に居合わせた漁船は損害を被ったかも知れない。水雷艇を最後まで追撃しなかったのは平和な生業を営む漁船に損害を及ぼす事を恐れた為である。

本職は漁船の行動を怪しみ且つ艦隊に危害を加えんとした水雷艇が既に皆退却したとは信じ難かったため損害を被った漁船の救済を僚船相互に委ねた。

解説:ロゼストウインスキー中将は、漁船を水雷艇と信じた。

9月に行われた日露戦争に関するある国際シンポジュームで、参加したロシアの教授がドッガーバンクで沈没した船を引き上げ水雷艇かどうか調査する必要があると主張していた。

 

2戦艦戦隊の旗艦日誌より

午前零時50分第1戦艦戦隊の各艦は探照灯を照射し、次いで先頭の旗艦からの第1発の射撃に続き砲火を開き(多分両舷と思われる)約17分間非常に乱雑な射撃を行った。

午前零時50分に警報があったため、第2戦艦戦隊も探照灯を連続照射したが漁船の他旗艦の周囲には何も発見する事が出来なかった為警戒を解いた。

解説:この旗艦日誌を読むと、事件を起こしたロゼストウンスキー中将の乗艦している第1戦艦戦隊に比べて(本紙昨日の記事参照)、第2戦艦戦隊は極めて冷静に対応している。

 

3 「ウィゴ」入港及び錨泊

1026日午前1050分第1戦艦部隊は「ウイゴ」に入港した。

我が艦隊は予期しない好意なき中立を見た。独逸の給炭船5隻は艦隊の到着前に入港して、艦隊の投錨と同時に戦艦に横付けしたが港務部官憲は石炭搭載を許可しなかった。スペイン憲兵が給炭船に分乗しており、露艦の乗組員を遮って船倉に入らせなかった。そればかりか、同行している我が輸送船に補給用として搭載している「カージフ炭」7千トンまで同様に阻止した。このように許可するのか否か不明の内に30時間経過した。

解説露国以外の初めての寄港地であるスペインの「ウイゴ」に入港した。戦艦の炭庫は1800マイルの航海を終わり、殆ど空の状態で、一刻も早く給炭を開始したかったがなかなか許可されなかった。ヴイゴ港の沖合いに英国の巡洋艦戦隊が監視していた。またロゼストウインスキー中将は入港後、北海での砲撃が大事件となっている事に初めて気がついた。

 

1027日の午後1になってスペイン政府から「ロゼェストウェンスキー」中将に対し搭載の許可があったが1艦の搭載量を400トンに制限し、それ以上は許可されなかった。

そのため支隊は直に搭載を始め翌日午前10時にこれを終わった。

石炭搭載後「ロゼストウインスキー」中将は第1次回航で消費した石炭量から当初予定した「ダカール」への直行を中止し途中の「タンジール」に寄港することに決定した。

 

4 第1艦隊の「ウィゴ」出港延期

10月28日正午第1戦艦戦隊を率いて「タンジール」に向け出港しようとした時、突然ピータースブルグより北海に於ける撃沈事件が落ち着くまで「ウイゴ」に停泊せよとの電報が届いた。「ウイゴ」停泊延期はスペイン政府が承認している。

 

午後4時英国巡洋艦1隻「ウイゴ」に入港し、直ちに無線電信で沖合いの地中海艦隊司令官の旗艦と交信する。英艦は「ロゼストウインスキー」中将を訪問後出港し隣の湾に集合して地中海艦隊と合同した。事後英艦1隻が監視に当たっている。

 

1029日即ち艦隊抑留の電報を受けた翌日「ロゼストウインスキー中将」は海軍大臣あて打電した。

「本職を罷免する必要があるならば速やかな断行を切願する。本職は外国の港に抑留させられる理由を理解できない。他の部隊との連絡を絶たれたままでは艦隊を指揮することが出来ない。」

 

1031日ロゼストウインスキー中将は北海事件の証人として将校4名を派出せよとの命令を受け、戦艦「スーロフ」より海軍中佐クラード、戦艦「アレクサンドル三世」より海軍大尉エリックス、戦艦「ボロジノ」より海軍少尉シェムチェンコ、輸送船「アナズイリ」より海軍少尉オットを派遣し、戦艦「アリヨール」からは誰も派遣しなかった。

同夜(1031日)ロゼストウイスキー中将は出港する許可を受けた。

5 「ウィゴ」ヨリ「タンジエル」に至る第1戦艦戦隊の回航

1031日午前7時第1戦艦戦隊は抜錨して輸送船「アナズイリ」を従え「タンジエル」へ向かった。スペイン領海を航行中は同国巡洋艦1隻が艦隊に同行した。

英国巡洋艦4隻が、艦隊が港外に出るや否や順次艦隊の航跡に入り接触を保ちつつ、タンジールまで追尾した。

解説:「ドッガーバンク事件」について英露の話し合いが進展しロゼストウインスキーはやっと許可を得て出港することができた。

英国艦隊はロシア艦隊に随伴し、ロシア艦隊を目標として見事な陣形運動を行っている。ロゼストウインスキー中将はこれを見て「あれが本当の艦隊というものだ。彼らは本当の海軍軍人だ」と呟いたと言われている。

6 艦隊の「タンジエル」錨泊

艦隊司令長官直卒の第1戦艦戦隊がタンジールに入港したのは11月2日午後3時であった。

タンジールに於いて艦隊は歓迎され、当地の知事は全ての便宜を図ると申し出た。

 

艦隊司令長官直卒の第1戦艦戦隊は、輸送船「アナジウル」と共にタンジールに漸く入港したのは11月2日午後3時であった。

泊地には英国巡洋艦2隻と佛国巡洋艦1隻停泊していた。

タンジールに於いて艦隊は歓迎され、当地の太守はモロッコ王の名をもって何日停泊しても差し支えなく、全ての便宜を図ると申し出た。

英国領事が抗議したが無効に終わった。

タンジールに停泊中、病院船「アリヨール」及び冷蔵船「エスペランス」(佛国旗の下に)が合同し、「エスペランス」は冷凍肉100トンを搭載している。

解説:海軍少将「フェリケルザム」、海軍少将「エンクウィスト」及び海軍大佐「シェイン」の率いる部隊はすでに10月29日入港していた。

モロッコのタンジールは、艦隊の入港が歓迎された唯一の港で、以後の各港ではロゼストウインスキーは石炭の搭載に苦労することとなった

7 「フェリケルザム」少将戦隊の分離

11月3日午後9時戦艦2隻及び巡洋艦3隻よりなる「フェリケルザム」少将の戦隊は、艦隊と分離して「スダ」に寄港の上、スエズ運河を経由して東航するために出港した。

この戦隊は「スダ」に於いて駆逐艦の全て及び輸送船2隻と黒海から回航する7隻の輸送船と会合する予定である。

解説:最初巡洋艦3隻のみの予定であったが戦艦「ナワリン」の復水器と「シソイ、ウエリキー」のボイラーの調子が悪い為と同時に日本海軍の巡洋艦が紅海に出現する恐れがあるため2隻の戦艦を加えている。

8 「タンジエル」に於ける石炭搭載

11月4日天候が回復した為に石炭搭載作業を再開したが各戦艦の1時間の平均搭載高は50トンに及んだ。これは艦隊司令長官が成績優秀艦に懸賞金をだすと告示したためである。

ロゼストウインスキー中将は次のダカールまでの距離が1500マイルあるため途中の天候や故障を考え、新造戦艦の使用していないボイラー室にまで石炭を搭載するよう命じたためタンジールにおいて各戦艦が搭載した石炭は平均1200トンとなった。

解説:「アレクサンドル3世」が成績優秀艦として賞金1500ルーブルを獲得している。

第3章 艦隊の主力「タンジエル」より「マダガスカル」に向け出動する

ダカール港

1「タンジエル」より「ダカル」への回航 115日~1112日)

11月5日午前7時艦隊は抜錨し、8時頃になり2列の縦隊となって東航を開始した。右側縦列は、戦艦「スーロフ」、「アレクサンドル三世」、「ボロジノ」、「アリヨール」、「オスラビア」、左側縦列は工作艦「カムチャッカ」、輸送船「アナズイリ」、「メテオル」、「コレヤ」及び「マライヤ」である。エンクエスト少将の指揮する巡洋艦「ナヒモフ」、「オウロラー」及び「ドンスコイ」の3隻は艦隊の後衛となって航進する。病院船「アリヨール」は艦隊の後方1マイルを続行する。

 

118午前輸送船「マライヤ」が故障を起こしたため、艦隊は約6時間航進を停止した。

 

119日午後艦隊は北回帰線を越える。この間天候は実に平穏であった。艦隊は商船乃往来する航路から特に遠く離れた航路を通っているので同航、反航する1隻の船にも会わなかった。

英国巡洋艦隊は依然として艦隊を追跡し、昼間は遠く、夜間は接近し、艦隊が漸く「カナリヤ」列島以南に至るに及んで、始めて追跡を止めた。

解説:北回帰線は太陽が真上に来る北半球の限界である。

カナリア諸島はアフリカ大陸沿岸から115kmに位置する大小13からなる大西洋に浮かぶ島々で、北回帰線のやや北側にあり、アメリカ,アフリカ、ヨーロッパの3大陸を結ぶ中継地として,需要な役割を果たした。

1112日午前9時ダカールに投錨する。タンジールより1600マイル(2900Km)、169時間を要した。ドイツ石炭船11隻、英国石炭船1隻、糧食船エスペランサ及びブレストより回航した曳船1隻が入港を待っていた。

 

2「ダカル」錨泊 1112日~1116日)

解説:ダカールはアフリカ大陸の西端に位置し、16世紀から19世紀にかけて、大西洋に於ける奴隷貿易の基地であり、1902年仏領西アフリカの首都となった。

1112最初フランス官憲は領海内に於ける石炭搭載を許可したがその後日本政府の抗議で許可を取り消した。ロジェストウェインスキー中将は露国政府に対して「フランスの諸港で自由に石炭を搭載できるようフランス政府と交渉されたい。もし許可が得られないのであれば東航を中止すべきである」と申請した。しかし「国際法上の中立宣言」のためこの願いは適わず反対に友好国の感情を害した。

我が艦隊司令長官の請求でダカール総督は再度フランス政府に石炭搭載について請訓する。

午後6時石炭搭載を開始した。

解説:艦隊は、フランス政府の許可が無いまま石炭搭載を開始している。1600マイルの航海をして石炭庫は空に近く、また露国にとって一番の友好国であるフランスから石炭搭載を拒否されて、司令長官としてのロジェストウェインスキー中将は居ても立っても居られない気持ちであったと思われる。それが東航は中止すべきであるとの電報に表れている。

熱帯に於ける石炭搭載

11月13日午前4時総員作業を始めたが特にこの日は全くの無風で気温は32度以上、将校も兵員も全員麻屑を口にくわえ炭塵の吸入を防ぎ、総員汗まみれになって働き、立ち上る粉塵は各艦を覆っていた。炭庫内の温度は50度に上がっていた。

パリー政府からの返電

ダカール総督は、夕刻パリー政府から領海内に於いては一切石炭搭載を許さないとの電報を受領した。この時各艦は全て石炭搭載を完了し、掃除も終わり通常の停泊状態となっていた。

 

ロジェストウェンスキー中将は、海軍大臣に次の要求をした。

今後今後艦隊が航進する途中で、石炭を搭載できる港湾は恐らく一か所も無いと思われる。アフリカ植民地の官憲は本国の命令により、艦隊が入港する事は無論、領海内へ入る事すら許可しないと思われる。そのため石炭の搭載は、港外に於いて好天を選び、ランチ(艦載ボート)を使用し、石炭船より石炭を搭載せざるを得ない。従ってハンブルグ・アメリカ汽船会社と交渉して給炭船の艦隊への随行を禁止する処置を取り消す様交渉してもらいたい。(1113日付「ロジェストウェンスキー中将」の行動報告)

 

石炭搭載の為日射病に罹った者が数名いたが、1人オスラビアの当直士官「ネリドフ」のみが11月14日死亡した。

 

1115次回の航海は1500マイルであるため艦隊司令長官は定量の一倍半の石炭を用意すべき命令を出したので各艦は(1)75mm砲砲台(2)艦首水雷発射管室(3)浴場、洗濯場、乾燥場(4)ボイラー室通路(5)ボイラー員非常通路(6)艦尾最端部にも石炭を搭載した。

「ダカール」に於いて長官はかい海軍大臣からの電報を受け取った。

「佛国政府は、日本の抗議により政治的難問題を起こす事を憚り、露艦に一旦許可した佛国港内に於ける石炭搭載を、港内に於いてはせず、付近の安全な湾内に於いて行う様要請した。

日本の巡洋艦が3隻マレー群島の西側において待ち受けているとの情報を受けた。また日本人はインド洋に於ける我が艦隊の集合地点を探知している。」

艦隊司令長官たるロジェストウェンスキー中将は、当然知る必要があった我が満州軍、第1太平洋艦隊及び沙河の敗戦、旅順及びウラジオストックの状況について海軍省は一切電報しなかった。

3 「ダカル」より「ガブン」へ回航する1116日~1126日)

1116日艦隊は「ダカル」を抜錨して「ガブン」に向かう。

「ダカル」出港後3日間、艦隊は無事に航進したがその後軽微な故障が頻発した。

1128日付艦隊司令長官報告では

「「ダカル」より「ガブン」に至る行程は2000マイルであるが運送船「マライヤ」は故障が続出して、1000マイルの間汽船「ルーシ」に曳航されたため、艦隊の航進は非常に遅れた。

艦船の故障が絶えず起こり、航進を止める事34回であり、一昼夜に250マイル航進する予定が実際には200マイルを出ず。

また載炭に相応しい場所を発見するため海岸に接近して航行する必要があり、艦隊の東航は益々困難となっている。巡洋艦「ドンスコイ」は、「ダカル」出発後三日目に外海を航行しているにも拘らず「キングストン」(注 船底にある海水吸入口)から砂を吸い上げたため側鉛(注 水深を計る道具)を投じたところ水深は60尋であった。海図には付近の水深2000尋と記載されていた。石炭搭載のため風波を防止できる海岸を探そうとして、一度過ちを犯すと取り返しのつかない大事故を招くことになる。どの港からも援助を求める事ができないので、戦艦を一隻も失う事がないと保証する事ができない。

4 「リブルウィル」港の「ガブン」河口に錨泊する(1126日~121)

1126日午後6時艦隊は「リブルウィル」港から20マイルにある「ガブン」河口、フランスの領海外の沖合に投錨する。しかしフランス政府は、政治的問題を避けるため「ガブン」河口でなく、70マイル離れた「ロペス」湾へ入港し、石炭の搭載をするよう勧告した。

 「ロジェストウェンスキー中将」は、測量不完全で不案内の湾に行くことは危険であり、さりとて測量を行う十分な時間もなく、また喫水30フィートもある戦艦を案内出来る程沿岸の航路に精通した水先案内人を見つけることは難しいため戦艦を率いて「ロペス」への回航は不可能と判断した。

 

1127日ドイツ給炭船及び冷凍船「エスペランサ」が艦隊の停泊場所に来航した。当時無風の好天気であった為艦隊は直ちに石炭搭載の難作業に着手した。そして翌日の早朝になって戦艦の搭載が終わり、まさに運送船に着手しようとしている時、にわかに熱帯性の雷雨が来襲した。

1130日艦隊が載炭を終わったので長官は空船4隻を欧州に還し、残りの石炭船を「エスペタンス」と共に「グレート、フイッシ、ベー」に向け先行させる。

1130日「ロジェストウェンスキー」中将は海軍軍令部からポルトガル兵員輸送船1隻が我が艦隊と会合する希望を持っているとの通知を受け、同船に何らかの要件を委託しているかもしれないと思料し、当方面におけるポルトガル国唯一の大きな湾である「グレート、フイッシ、ベー」に向うことに決し121日午後4時艦隊は抜錨し「ガブン」を出港した。

5 「グレート、フイッシ、ベー」への回航121日~126日)

121艦隊の出港に際し、工作船「カムチャッカ」は右舷機に故障が発生し、左舷機のみで航進したため艦隊も微速力で午後10時まで徐航した。戦艦「アリヨール」もまた舵機の電気装置の故障を発生した。

122黎明に艦隊は赤道を通過する。

当日も戦艦「アリヨール」及び「ボロジノ」の復舵機の電気装置に故障が発生し、航進を停止する。午後4時運送船「マライヤ」を待つため艦隊は更に航進を停止する。ここに於いて「ロジェストウェンスキー」中将は「マライヤ」の故障は気缶の不良、機械の長時間の放置によるが又乗員の技量が拙劣であると認め、船長として高い名声を博し、現在「スォロフ」に勤務中である海軍予備将校「ツレグーボフ」少尉補を「マライヤ」の指揮官とすることに決した。

1212日付「ロジェストウェンスキー」中将の報告に曰く

「前記の処置は極めて適切で、その効果は顕著であり、艦隊は9.25ノットで航行中、運送船「マライヤ」は瞬く間に前方に進出し122日より126日までこれを追い越すことができなかった。」

125戦艦戦隊は単純な艦隊運動を行ったが運送船はそのまま航進させる。

12月5日および6日は曇天で大きなうねりがある。著しい冷気を感じる。数日前までは炎熱で焼けるような暑さであり士官室の温度は列氏24度(30C)であったがこの日午前10時の室外温度は列氏14度(17,5C)に降下した。

艦隊は容易に「グレート、フイッシ、ベー」を発見する事ができず、不案内で危険極まりない海面に側鉛を投げつつ航進し、25尋の水深となるところまで近づいた。そしてようやく2~5フィートの高さの砂州で形成された湾を発見し、そこに数個の標識と小屋があったが、5マイル内に接近するまで認識できなかった。

6 「グレート、フイッシ、ベー」に錨泊する126日~127日)

解説:「グレート、フイッシ、ベー」はポルトガル領アンゴラの湾で、ポルトガルはルアンダを拠点として、奴隷貿易や植民地開発を行った。

艦隊司令長官は外交上の紛争を避けるため湾内に入港する事なく、陸岸より3マイルの所に投錨する。艦隊は外海にあるため大きなうねりに翻弄されつつ獨国の給炭船が来るのを待った。

艦隊の投錨と同時に湾内よりポルトガルの砲艦が近づき中立宣言の趣旨に従い24時間以内の出港を求めた。長官は海岸から3マイルの領海外であること、ペテルスブルグのポルトガル公使から艦隊と会合したい汽船があるとの通知を受けたため当地に来たと告げた。艦長は、砂州に建てた標識から3マイル内が領海であると弁明し、汽船の事は全く知らないと答えた。長官は砲艦艦長の見解を認めないが24時間以内の出港を告げた。

砲艦が艦隊の間を去る前に、獨国給炭船3隻、英国船2隻、冷蔵船「エスペランス」が接近してきた。戦艦は直ちに給炭船を横付けさせ、「エスペランス」へは糧食を受領のため「ランチ」を派遣し、各艦は石炭搭載に着手する。

127日午後2時載炭を終わり、長官は載炭戦及び冷蔵船に前進を命じ、空船1隻をハンブルグヘ帰還させる。

7「グレート、フイッシ、ベー」から「アングラ、ベケナ」に回航する

127日~1211日)

12月7日午後4時艦隊はドイツの植民地「アングラ、ベケナ」に向け抜錨する。外部の温度は日中なお列氏16度(摂氏20度)以上に上がらない。

12月8日午後3時艦隊司令官は戦艦全部と巡洋艦「オーロラ」及び輸送船「カムチャッカ」に自差測定を行わせる為列外に出させた。病院船「アリヨール」は郵便物を受け取る為「カブシタッド」に派遣し、同地より予定艦隊集合地に向かわせた。

解説:当時は磁気羅針儀が使用されており、この磁気羅針儀が示す北と地球の磁北との差を自差といい、今回これを測定している。

12月9日艦隊は南回帰線を越える。(南回帰線とは、太陽が天頂に来る最も緯度が高い地域で南緯2326分)

1211払暁、艦隊は「アンゴラ、ペケナ」湾に達し、連続する同じ高さの丘陵を前面に望見したが、方向を定める事ができず、しかも沿岸は靄がかかっており、且つ風力10の南風の強風が吹いていたため、漸く午後2時に各艦は「シーア、ウオータ、ベー」に入って投錨する。

この時、戦艦「アリヨール」は45尋の長さで錨鎖を切断し、錨と共にこれを喪失した。戦艦の投錨した場所は、湾を東西に両分する細長い多岩岬の西部で海岸は皆ドイツの植民地である。

8 「アンゴラ、ペケナ」に錨泊する1211日~1217日)

解説:「アンゴラ、ペケナ」湾とは現在のナンビアのリューデリッツにある湾であり、ドイツ領南西アフリカの根拠地があった、。

19041月土地を追われた先住民がドイツ人に対する攻撃を開始し(ホッテントット蜂起)、これに対してドイツ帝国が1904年から1907年にかけて先住民族の虐殺を行い「ヘレロ・ナマクア虐殺」として知られる20世紀最初のジェノサイトとなった。1212日この戦闘で派遣された輸送船が入港している。

 

「アンゴラ、ペケナ」小湾の沿岸には、欧州人の人家が若干あり、給炭船は同湾内に錨泊して艦隊の入港を待っており、その他に他国の商船2隻も錨泊しておいた。湾内に艦隊の停泊する余地がなく、しかも風力8以上の南風が吹き込み、大きなうねりがあり、給炭に着手し難いため、長官は運送船及び巡洋艦を沖合に漂白させ、巡洋艦「ナヒモフ」のみは復水器の修理を要するために湾内に留めた。

当地の欧州人は、僅かに20人のドイツの官吏と商人のみで極東の情報について信ずべき情報を何も入手できず長官は大いに落胆した。

1212午前3時頃、風が凪いだ為長官は沖合で漂白中の運送船及び巡洋艦を「アングラ、ベケナ」湾に錨泊させた。2隻の運送船は「シーア、ウオータ、ベー」に投錨し、残りの運送船と巡洋艦2隻は戦艦より少し沖に投錨した。各艦船は沖合から進入する大きな浪のため動揺が甚だしいために給炭船を戦艦に横付して載炭しようとしてもできず、午前6時より風が更に強くなり「スーロフ」に横付けた給炭船のごときは戦艦の中甲板にある75mm砲に舷側を突かれ大きな破口を生じた。戦艦の75mm砲も歪曲してしまった。その後風がますます強くなったため給炭は中止したが午前9時には風力が12に達し、四面が砂塵で覆われた。

この日ドイツの輸送船1隻が土人の暴徒鎮圧のために入港する。

1213天候は依然として回復せず、「ランチ」を石炭運搬に使用して載炭を試みたが搭載できなかった。午前10時頃にはその「ランチ」が各艦の舷外で沈没する恐れがあるため全て艦内に収容した。

解説:荒天の為戦艦に給炭船が直接横付け出来ないため、石炭を給炭船から一旦ランチ(ボート)に積み替えて、ランチから戦艦に搭載しようとした。

12月14日も引き続き天候で、夜明けより午前10時まで、全く暴風に近く、日没になるまで、全然艦船間の交通が途絶する。

夜中になって、風力がやや凪いだため、材料及び糧食を運送船より受領し、冷蔵船「エスペランサ」より冷凍肉を搭載したが給炭船の横付はなお危険があるため石炭は僅かに「ランチ」を使用して搭載した。

午前11時頃となって「カッター」でやっと交通し得るようになり、土民の鎮圧の為派遣された獨国軍隊の指揮官及び「アングラ、ベケナ」港の民政長官が艦隊司令官を表敬訪問した。

載炭は夕刻より深夜にわたって行ったが作業は著しく捗った。

12月15日午前3時から風が俄かに吹き始め、石炭搭載を中止する。午前7時頃急に風が凪、終日無風となり、霧が非常に濃くなった。

艦隊は天候が静穏になるとともの載炭を続行しまた戦艦「アリヨール」が投錨の際喪失した錨を、四爪錨を使用して引き上げた。

12月15日の晩載炭を終わり、冷蔵船「エスペランス」と給炭船の一部を前進させ、空船4隻を欧州に帰還させる。

艦隊が将に抜錨しようとしている時、工作船「カムチヤッカ」は左舷機の汽笛の故障を発見し、この修理のため36時間を要した。

1216「カブシタット」から一汽船のもたらした新聞によれば、旅順港の日本軍は悪戦苦闘を久しく行っていたが、強襲の末遂に軍港及び泊地の要塞を見降ろし、各地の射撃修正に便利な203高地を占領したとの記事があった

この報道が真実であれば、我が海軍の根拠地に於ける壮烈な防御戦も遂に終局を告げたということができる。

9 「アングラ、ベケナ」から「マダガスカル」に回航する

工作船「カムチャッカ」の修理は1217午前8時に完了し、又前夜より発生していた一面の霧も午前9時には晴れたため艦隊はマダガスカル島の北西岸にある「セントマリー」海峡に向かって抜錨した。

長官は当初アフリカ東海岸のポルトガル領「デラゴア」湾に寄港し、載炭する予定であったが今までの状況からポルトガルの官憲は必ず英国の抗議を受け入れて給炭に反対する事が予想されるため同港への寄港を中止した。

長官は次の寄港地「セントマリー」まで2700マイルもあり、途中海上で「ランチ」を使用して給炭できる天候を期待することが難しいため「スーロフ」「ボロジノ」「アレクサンダー三世」「アリヨール」の各戦艦に炭庫の総積載量1100トンに対して2200トンを搭載させた。

各戦艦は公称の満裁量であっても「メタセンター」が低く大洋を航行するのに不安な状態であるにも拘わらず、長官は一気に2700マイルを回航する必要に迫られ2200トンの石炭の搭載を命令した。そのため75ミリ砲の下、砲台及び魚雷発射管まで石炭で埋めた。(1012日海軍技術会議から長官に対し、戦艦の転覆予防に必要な手段を通告した事は既に前に述べている)

喜望峰を迂回する際には、荒天が予想されるため75mm砲の砲門には隙間を塞ぎ密閉した。これは普通の閉鎖では、接合部からの海水の浸入を防ぎ難いためである。

「アングラ ベケナ」を出港した翌日即ち12月18日航路に対して6点(注67,5度)の交角で押し寄せる南西の大きなうねりを受け、新戦艦の縦揺れは1分間に7回もあり、傾度7度となったが横揺れは甚だ軽微であり、又不同である。

12月19日も同様の天気で、風は夕刻から西に変わり次第に強くなり、風力7に達した頃、波高が非常に高く波長が短い波浪が発生し、艦尾より迫り新造戦艦は1分間に6~7回の横揺れを起しその傾斜は一方に5度となった。

午前11時頃艦隊は「ストローワヤ」山を望み終日山脈に沿って沿岸を南下する。午後4時に艦隊は喜望峰の南7マイルの所で針路を「イーゴリヌイ」岬に取る。

解説:喜望峰はアフリカ最南端にあり、次のホームページに写真と共に詳しく紹介した旅行記がありました。

http://yasyas.web.infoseek.co.jp/africa-16.htm

12月20日午前1時同岬の西南に至り、北東に転針してインド洋に入る。

夜中に風が一層強くなり、翌朝は風力9に達し、全く暴風のように高さ25フィート(約8m)長さ200フィート(約61m)の大波が押し寄せ、艦隊はこれを艦尾より受けて航行する。この時戦艦の傾斜は一方に8度も傾き、艦体が甚だしく振動して鋼質防御部に少なからざる隙間を生じた。

12月21日の朝は既に暴風となり、波浪がますます大きく(高さ約10m、長さ約100m)なった。正午になって艦隊が左に約10度変針した時、怒涛の頂頭が崩壊し、旗艦の右舷から後方に打ち込み、後部の信号艦橋を越えて、海図室に浸水した。

この時に於ける状態に関し「ロジェストウェンスキー」中将の報告に次の一節がある。

「単縦陣を組んで航進する戦艦5隻の隊形は、希有の奇観を呈し、1万トン以上の巨艦が1分間に6回も12mの高さまで放り上げられる海上の光景は実に物凄く、後続艦を振り返って見ると、降下した時はマストを波間に没し、又その上昇する際には丘の上に登っている様で、まるで5隻の戦艦が交互に跳躍する様である。横揺れは毎分に8回、傾斜は本艦では12度を超えないが巡洋艦「ドンスコイ」や工作艦「カムチヤッカ」の如きは40度に及び戦艦「オスリヤビヤ」は20度、巡洋艦「アウロラ」は30度に達した」。

午後7時戦艦「スーロフ」は右舷側のカッター1隻を波に浚われた。

新造戦艦は全部各所を閉鎖したが諸甲板には滝の如く海水が漏れ、士官室及び兵員室の空気は呼吸困難で、蒸し風呂の様である。砲塔、汽機室、缶室まで海水が滴った。

この時若し故障する艦が発生しても 他艦が救助することは絶対に不可能であり、全く絶望的である。

12月22日黎明より風が著しく衰え、風向南西より南に変わり漸く静まる。

解説:10月13日の記事に見られるようにバルチック艦隊の戦艦は復元力の不足という重大な欠陥を抱え、しかも石炭は定量の2倍も搭載しており、そして昨日は未経験の荒天に遭遇した。恐らく生きた心地がしなかったのではないかと推察される。

12月23日早朝から風も無く好天気であったが午後からは南風が吹き始め、その風力は5となり、非常に大きなうねりを受けるようになった。

12月24日、12月21日からの3日間に渡った暴風は却って艦隊の航程上好都合であった。逆潮に向かうはずであったが暴風のために順潮のようになり結局24時間分を短縮する事が出来た。

この暴風のために新造戦艦はその荒天航行性能を初めて試すことができたが、但し巨大な波に逆らって航行する場合の性能を検査する事は出来なかった。長官は正面或いは斜め前から波を受けると75mm砲の砲門を破壊し戦艦が沈没する恐れがあると考え、特に海軍技術会議より海洋航行中新造戦艦の釣合いに対して慎重な態度をとるべきであるとの忠告に多大の注意を払った。要するに過大な石炭を搭載した戦艦が追い波を受けた場合の成績は非常に良好であった。

12月25日以後、艦隊の北航するに従い風向は東から北東に転じ、遂に北に移り、マダガスカル島の南端に達した時、風向は北西に変わった。艦隊はマダガスカル島の南端から15マイル離れた所を通過し、同島に近づくにつれ夏季の無風圏に入り、密雲満天を覆い、気温は29度を越えないが湿度95%で、空気は蒸気を飽満し、呼吸に苦しむ。

1231日付「ロジェストウェンスキー」中将の報告より

「機関兵、缶兵及び信号兵以外にも航海に疲れた兵員が多い。もし艦隊の射撃を行ったならば3ヶ月前「レーウエリ」で行った時よりも成績が悪くなっているに間違いない。これは艦隊の前進に主眼を置いているために砲撃訓練、水雷発射訓練、短艇橈漕、水道掃海、水雷敷設等を演習する暇が無い為である。特に信号兵にとっては、実に技能習得に絶好の機会であるが先ごろより信号旗の不足を感じている」

解説:「レーウエリ」の訓練とはバルチック艦隊の回航前に、本国の「レーウエリ」湾で行った訓練を指す。

12月26日艦隊司令長官は病院船「アリヨール」との会合地点をマダガスカル島の南端と定めていたが会合できない為、艦隊航路の左右へ巡洋艦を出し病院船を捜索させたが遂に発見できなかった。

1227になろうとする夜半、熱帯地の雷鳴、豪雨を伴う台風が北東から来襲したが夜明けとともに雷鳴が止み、空気は非常に清爽となった。

1227日午前11時頃、戦艦「スウォロフ」の蒸気菅1本が破裂し、缶室内に蒸気が噴出し多くの火傷者が発生するところであったが、殆ど全員が石炭庫に逃げ去る中、機敏にも缶兵の一部がその場に留まり、噴出口を塞いだので一人の火傷者も出さなくて済んだ。

1228「セントマリー」島を去る200マイルの洋上に於いて、艦隊の無線電信機が約4時間にわたって、極めて遠い両地点間の無線電信を傍受した。これは2艦の間で「マルコニー」式無線電信機を使って交信しているようである。

1229午前1130分艦隊は「セント、マリー」海峡に投錨する。

「セント、マリー」海峡は「セント、マリー」島と「マダガスカル」島との間を通じ、その幅が10マイル余りあるため、その中央に投錨し、以て中立侵害の抗議を公式に受ける事の無きを期す。

解説:当時の領海は3マイルであり、幅10マイルの中間の5マイルは領海外となる。

艦隊が「マダガスカル」に到着したので「ロジェストウェンスキー」中将は石炭に対する苦慮が漸く去り、分離した各隊の集合に専ら心を砕いたがその書信の一節に次の様に記述する。

「マダガスカル」に来たならば、最早目を覆っていても東航することが出来る。

本職等は艦隊で海上を航進し、2ヶ月間も海水の飛沫を浴びてきたが学んだ事は少しも無く「レーウエリー」に於いて少し学んだ事も既に忘れてしまっている。今はただ盲者の様なまた「いざり」のような艦隊を離散させずに、これを率いて飽くまで前方へ這い出させようと努力するのみである。航海する事既に3か月目に入ったが、未だ航路の半分も進んでいない。さりとて予定より長く滞留したところも無し。

解説:本紙9月25日、10月6日に「レーウエリー」に於ける訓練の様子が記述されている。

 

第4章海軍少将「フェリケルザム」の独立支隊「タンジエル」から「マダガスカル」に回航する

海軍少将「フェリケルザム」は、「ロジェストウェンスキー」長官の艦隊と別れ、戦艦2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦7隻、運送船9隻を率いて、スエズ運河を経由して「マダガスカル」に向かった。

戦艦2隻をスエズ経由の支隊に加えたのは、長官の意図に基づくもので、元来微弱な巡洋艦と駆逐艦で編成されたこの様な支隊に対し、もし日本から有力な巡洋艦2隻を紅海に派遣されたなら、同支隊は直ちに撃滅される恐れがあるため、戦艦を編入した。

11月3日「タンジエル」を出港し、スエズ運河を経由して12月28日「ノッシベ」に到着した。

この章の記述は省略する。

第5章第2太平洋艦隊の「マダガスカル」錨泊

マダガスカルのセント・マリー島

1「セント、マリー」錨泊、錨泊中に於ける艦隊の警戒法、行動予定の変更

1229日~3813日)

「セント、マリー」海峡に到着後、「ロジェストウェンスキー」中将は、仏の地方行政長官が海峡に停泊する事を禁じないと聞き、海峡若しくは付近の港湾に全艦隊を集合させ、長途の航海を経た艦船の機械を詳細に検査し、手入れを行うよう企図した。

12月29日午後4時頃病院船「アリヨール」が入港し、旅順港の我が艦隊は日本の攻城砲の為に撃沈されたとの悲報を伝えた。この悲報は完全に艦隊の士気を挫折させてしまった。

1229日艦隊司令長官は海軍大臣より次の電報を受けた。

「佛国政府は日本政府の強硬な抗議のため「ジェゴスアレツ」(仏の軍港)に我が艦隊を集合させる事が出来ない為、佛国政府の指定した「マダガスカル」島の西にある「ノシベ」湾又か「ロジェストウェンスキー」中将の適当と認める佛国領海外の場所に集合させられたい。又「フェリケルザム」少将には「ノシベ」湾に直行するよう命じた。」

長官は、艦隊に必要な修理並びに軍需品を補給する為「マダガスカル」島の北東端にある「ヂェゴスァレツ」軍港を利用したいと多大の望みを持っていたが前記の如く海軍省の電報により、計画が完全に絵に描いた餅となってしまった。

1230日長官は汽船「ルーシ」に電報を託し「フェリケルザム」少将の支隊及び旅順港の状態に関する確実な消息を得るため「タワタワ」に派遣した。

1231日も載炭する。正午頃汽船「ルーシ」が「タワタワ」から帰った。海軍省から接受した最新電報によれば1221日日本の装甲巡洋艦2隻、軽巡洋艦6隻がシンガポールの南方を通過した。また「フェリケルザム」少将の支隊は1228日「ノシベ」湾に到着、錨泊した。

この日英国巡洋艦数隻が来て、艦隊の前面水平線で艦隊の行動を監視する。

長官は電報で「フェリケルザム」少将に即刻「ノッシベ」湾を出動し、「セント、マリー」の北方90マイルにある「アントンジル」湾へ回航すべきを命じる。

中将が「ノッシベ」湾をもって艦隊の集合地として不便であると考えたのは同湾は「マユンカ」の電信局へも「ヂェゴスァレツ」の電信局へも約200マイルもあり、通信じ甚だ不便であるからであった。

11日南南東の大きなうねりを冒して石炭を搭載する。時々驟雨が来襲する。

解説:「ロゼストウインスキー」中将は、「フェリケルザム」少将に対して「ジェゴスアレツ」(仏の軍港)で艦隊の主力と合同するよう命じていたにもかかわらず、海軍省が独断で「ノシベ」に行動予定を変更した事に大いに憤慨した。また行方を心配していた少将の部隊が「ノシベ」に居る事を知る。

 

海軍大臣から第3太平洋艦隊の準備について知らされる。

「極東に派遣する第3艦隊の第1戦隊は戦艦3隻、巡洋艦2隻で編成し、指揮官は海軍少将「ネボガートフ」で1月28日から2月2日の間に出発させる。第2戦隊は戦艦2隻、巡洋艦2隻、570トン級の駆逐艦7隻で編成し5月上旬出発させるよう準備中である。」

中将が得た情報では、日本政府は我が軍艦がオランダ領海内で給炭等行えばオランダ国に対して宣戦すると威嚇した為オランダ国は植民地に危惧を抱き中立規則を厳守するものと思われる。

「マダガスカル」の海面に日本軍艦が遊弋する風説があり、長官は夜間に巡洋艦を指定場所に投錨させ、その水雷艇で担当区域内を照射させ、軍艦は水雷防御ネットを張り備砲に装填し、外部の灯火を隠させた。

11日冷蔵船「エスペランサ」が到着した。同船は糧食搭載の為「カブシュタット」に寄港したが途中冷蔵庫が故障し多量に積み込んだ牛肉が腐敗し海中に投棄した。

1月1日及び2日は共に南東の風が強く、海峡の波浪が高いため載炭作業を中止する。艦隊各艦の交通は辛うじて行われた。

12日情報を得る為汽船「ルーシ」を夜中に「タマタワ」に派遣する。

 

2「タング、タング」湾への回航13日~16日)

13日朝輸送船「マライア」の他全艦隊は隣接する「タング、タング」湾の新錨地に移動する。これはこの湾が強風、波浪、うねりを防ぐ事の出来る突出した砂洲に守られている為である。

輸送船「マライア」は度々故障を起す為遂に長官は露国へ返す事に決定した。

夕刻までに各艦は載炭を終わる。石炭の一部はドイツの貨物船より一部は艦隊の貨物船より搭載した。

 

長官は「ヂェゴスァレツ」からの運送船が到着しないのは、当海面には日本の巡洋艦が来ているとの情報がしばしばあることから、敵艦に捕獲された恐れがあると考え、「エンクースト」少将に命じ、巡洋艦3隻で、「ヂェゴスァレツ」に行き、運送船が艦隊に合同するまで護衛し、この任務終了後「ノシベ」湾の「フェリケルザム」少将に早急に艦隊主力と合同する様伝達する事を命じた。

15日午前5時巡洋艦戦隊は前記の任務を帯びて出動する。相前後して「ヂェゴスァレツ」から「フェリケルザム」少将の次の報告を持って1隻の運送船が到着した。

「海軍大臣の命令によりノシベ湾に到着後、機械の分解手入れ、ボイラーの洗浄を行っている。支隊に隋番する駆逐艦の殆ど全部が大修理を必要とする。しかし命令があり次第差し支え無き艦船を率いて出動する」

 

15日早朝曳船「ルーシ」が「タマタマ」より帰り、旅順陥落の悲報と次の海軍省の電報を伝えた。

「佛国政府は、日本の抗議により軍港「ジェゴスアレツ」での停泊を許さないため、「フェリケルザム」枝隊は「ノシベ」に停泊しており、主隊も「ノシベ」に赴くべし。

日本の軍艦が「スンダ」列島にいるとの情報がある。」

旅順港陥落の通報は一同に沈痛な感を起こさせた。

この通報により第2太平洋艦隊の極東出征に対する事後の行動はますます複雑となり、当初画策した全ての予定は根底より覆ってしまった。

解説:軍港「ジェゴスアレツ」は「マダガスカル」における仏の海軍基地で、バルチック艦隊は当初この基地からの支援を期待していた。また次のホームページに第2次世界大戦時、日本海軍特殊潜航艇の英国艦艇に対する攻撃が紹介されている。

http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/4yuusi.html

3 艦隊の「ノシベ」湾回航、「フェリケルザム」少将の率いる独立支隊と合同、独立支隊編制替え16日~19日)

解説:「ノシベ」湾はマダガスカル北部の「アンボディポナラ」西方にある小さな島「ヌシベー」にある。

「ロジェストウェンスキー」中将は予定に従い16日午前8時30分、艦隊に抜錨を命じ、全艦艇を率いて「ノシベ」湾に向かう。

17日は聖誕祭の第1日であるため、午前8時より正午まで艦隊は機械を停止して、各艦は祈祷式が終わるまで祝祭のための装飾を行う。

当日長官は「スーロフ」において将校及び兵員を後部甲板に集め、祝詞を述べ、終わって祝杯を上げ、将校及び兵員が良く出征の艱難辛苦に耐え満腔の努力を惜しまない事に感謝する演説を行い、31発の礼砲を発射した。

正午艦隊は前進を開始した。

18日午後7時「ノシベ」湾から30マイルの地点で「フェリケルザム」少将が出迎えのため派遣した駆逐艦と会合する。

既に薄暗くなっており、湾口の入口が危険である為に翌朝入港する事にした。

 

19日午前11時艦隊は「ノシベ」湾に入り「フェリケルザム」少将の準備した錨地に投錨した。

艦隊の入港に際し、乗組員は舷側に整列して「ウラー」の歓声を交換する。

「フェリケルザム」少将の独立支隊は主隊の来着と共にその編成を変更された。

113日海軍少将「フェリケルザム」は将旗を戦艦「ウェリーキー」から戦艦「オスリヤビヤ」に移す。

4 艦隊の前進に対する準備19日~119日)

「ロジェストウェンスキー」中将は、旅順艦隊全滅の報告に接し、海上に於いて戦勝を期すためには一刻も早く全艦隊を率いて前進する他ないと考えたが、この時「フェリケルザム」少将が支隊の多数の艦船に大修理をする必要があるとの報告を提出し又一方で海軍省が艦隊の行動予定を変更した為、長官は止むを得ず114日まで「マダガスカル」島に滞在する事に決めた。しかし艦隊司令長官として、軍艦や運送船の修理等の実情をつぶさに視察した結果出動を119日まで延期する事に決定した。

「ノシベ」湾には郵便局もまた電信局も無く、ようやく115マイル(213m)隔てた「マユンカ」に電信局あるのみである。

19日「ロジェストウェンスキー」中将は艦隊の「ノシベ」湾到着を「ペテルスブルグ」に打電すると共に行動予定の変更等報告する。

この時海軍省から次の通知があった。

「戦艦「ニコライ1世」「セニヤウイン」「アブラクシン」巡洋艦「モノマフ」からなる「ネボガートフ」少将の一隊は1月中旬頃「リバーワ」を出発する予定であり、「ネボガートフ」少将に対し、会合場所を指定せよ。」

 

長官は後援艦隊の到着を待たず、直ちに戦域に向かい、日本の艦隊が旅順港封鎖で被った被害がなお癒えず、諸艦の修理を完成させる暇を与えず、直ちに前進するのでなければ弱勢な艦隊を「ウラジオストック」に入港させる事は出来ない。この際艦隊の前進が最急務であると考えた。

海軍省は、第2太平洋艦隊の特殊な状況に注意を払わず、日本の海軍力に対抗する唯一の第2太平洋艦隊の勢力の増加することのみを考慮した。

 

10日より艦隊は石炭搭載を断続的に行い118日にようやく終わる。

「フェリケルザム」少将の支隊は、「ロジェストウェンスキー」中将が「ノシベ」湾に来るまでは、艦船の修理を行いつつ、毎日多数の兵員に上陸を許し、将校にも勤務の余暇に上陸を許していたが、長官の到着と同時に兵員の上陸は祝祭日のみ許され、しかもその人数を制限されて行状の良好な者にのみ許され、将校の上陸も各自の分隊で作業が無い場合にのみ許される事となった。

「ノシベ」湾停泊中に於ける警戒は、毎日巡洋艦を1隻づつ水平線外に出動させ、泊地の入口には駆逐艦2隻を派遣して警戒させた。各艦はその艦載水雷艇を武装させて沖合いに出動させ、また日没から水雷防禦網を展張し同時に哨戒配備に就き、当番砲に装填し、燈火を隠蔽した。しかし艦隊の静穏は一時の間のみで、長官はあらかじめ命令を発して、艦載水雷艇で艦隊を襲撃する演習を行わせ、各艦は直ちに探照灯を以って攻撃艇を照射した。

114日艦隊は不安の内に新年を迎えた。

115日艦隊は前日の休業を補う為に皆2倍奮闘して仕事をこなした。

各艦はボイラーを清掃し、機械の分解手入れを行い、艦船番号順に石炭を搭載した。尚作業の他に短艇訓練も実施した。

 

長官は1月19日までに艦隊を出港させ、インド洋を渡航するのに差し支えない準備を完成するため全力を注ぎ、各支隊艦船の編成航行序列、艦船が洋上で運送船から石炭を移載する順序及びその運送船がドイツの給炭船から石炭を補充する順序を発令した。

艦隊は、搭載している糧食及び材料の大部分を消費し、将に尽きようとしているため長官は海軍省に対し、東部諸港に貯蔵している機械用材料及び糧食を全部艦隊に送るよう要求した。なお長官は追加して艦隊の所在地を世界が注目している為、艦隊への物件輸送に際してはその目的地を示さないよう要求した。

5 独国載炭船我が艦隊に続行することを拒絶した為艦隊の出動を延期す(119日~120日)

119日艦隊の各艦は祈祷式及び神水式を行う。この日第2太平洋艦隊は困難な航海に対する準備を完了して極東に向かって出港しようとして抜錨の命令を出したが、石炭供給を請け負っているハンブルグ、アメリカン汽船会社が給炭を拒否した為出港を延期した。

英国は、戦域に向かう軍艦に対する石炭その他軍需品の供給禁止はインド洋、「マラッカ」海峡南部、支那及び極東の各植民地に適用するという新たな中立規則を発表した為、洋上に於ける石炭供給も無論禁止された。このためドイツの「ハンブルグ、アメリカン」汽船会社の社長は石炭供給を辞退した。

解説:露国海軍省は、ドイツの「ハンブルグ、アメリカン」汽船会社と契約して数十隻の載炭船を雇用しバルチック艦隊に石炭を供給させてきた。これが破棄されるとバルチック艦隊の極東回航は不可能となる。

この突然の給炭拒絶によって艦隊は「ノシベ」湾出動を延期した。

「ロジェストウェンスキー」中将は一時当惑したが海軍省に運炭船の艦隊随行を切に要請した。給炭拒否は、日本が「露国艦隊に石炭を供給する嫌疑ありと認められた汽船は捕獲する」という通告がハンブルグ汽船会社に達した結果である。

118日即ち「マダガスカル」出動予定期日の前日に長官は独逸会社の支配人から公式に次の通知を受けた。

「マダガスカル」以東に会社の傭船を艦隊の要求に応じて行動することはできない

長官は進退に窮し、直ちに海軍省に次の電報を送った。

「これまで、ハンブルグアメリカ汽船会社が義務を果たしてきた契約を破棄することは、東航に際して非常な打撃である。同会社の汽船には尚5万トンの石炭があり、艦隊の運送船に移載しようとしても不可能な為、前記会社の汽船を本職の指定する集合地へ是非とも前進させなければならない。「マダガスカル」の停泊が1日長ければ1日だけ艦隊に不利となるのでドイツ政府を通じてハンブルグアメリカ汽船会社の説得に尽力し、会社が同意しない場合には、積み残した石炭を破棄し、1週間後に前進する予定であり、その場合には速やかに艦隊の為に「サイゴン」及び「バタビヤ」に給炭船を準備されたい」

解説:「バタビヤ」とは現在のインドネシアの「ジャカルタ」

「ロジェストウェンスキー」中将はドイツの運炭船が前進を拒否した問題で神経を悩まし、自宅宛の私信にも苦悩を訴えている。

「ただ今余は極めて不愉快で興奮している。ドイツの運炭船の問題ではどのように知恵を絞っても名案が浮かばない。さりとて躊躇していれば艦隊は自滅のほか無く、また日本に十分な海戦の準備をさせるばかりか台風の時機に入り、日本人の力を借りなくても我が艦隊の半分を破壊される恐れがある。有名となった「ハル」事件よりも悪い。」

海軍省は「ロジェストウェンスキー」中将の報告に接して、早速ハンブルグアメリカ汽船会社と談判したが同社社長は船員が危険を恐れて戦域に向かわない事を口実にして、ロシアの国旗を掲揚する汽船で東航する事を提議した。長時間に亘る交渉の末会社は独逸政府の圧迫を受け、2月末運炭船に前進を命ずる事を承諾した。

たため混乱に陥りつつある。」

第6章 第2太平洋艦隊の「マダガスカル」島出動差し止め

1 「ノシベ」湾に於いて「ドブロッウオルスキー」大佐及び「ネボガートフ」少将の二支隊待ち合わせの為艦隊の出動を差し止める120日~)

120日「ロジェストウェンスキー」中将は特令するまで「マダガスカル」島からの出港を見合すべしとの命令を受領した。海軍省は第2太平洋艦隊のみで日本海軍に対抗するには勢力が微弱であるので、巡洋艦4隻及び駆逐艦2隻で編成された「ドブロッウオルスキー」大佐の支隊を「ノシベ」湾で待合わせ、合同するよう命令した。

艦隊司令長官はこれに答えて次の返電をした。

「今更少しばかりの戦闘力を増やす為に貴重な日時を費やしてはならない。戦場に向かう途中での停滞は艦隊の補給上からも乗組員の精神上も極めて悪影響を及ぼす為早速艦隊を率いて出動の許可を得たい。」そしてこれ以上「ノシベ」湾に滞在するのであれば艦隊を統率する責任を負い難いと付言した。

長官は極東に向かって前進しようとして「ノシベ」湾を出動する許可を鶴首して待っていたが許可がないため、さらに「ピータスブルグ」次の電報を発送した。

徒に当地に滞留する事は、敵にその主力を十分整備する時間を与える。「ネボガートフ」支隊と合同して出征するとなれば、到底6月より早く日本海に達する事は出来ない。今同隊と合同するため出港期日を延期するとならば、本艦隊の補給を根底から破壊する恐れがあり、そうでなくとも既に一旦航程を変更させられた為混乱に陥りつつある。」

 

「ロジェストウェンスキー」中将の自宅宛の私信より)

「艦隊の士気は衰え、統率が日々に困難となっている。この地に留まっていると補充される方法が無い糧食をいたずらに消費するばかりである。「マダガスカル」島は商業の中心地から遠く、ただ豊富であるのは牛肉のみで穀物、野菜は極めて少ない。食糧もあと二週間あるのみで何を食べて太平洋を横断すれば良いのか。明日にも我が派遣員がオランダ領の「バタビア」で購入した糧食が着くのではないかと待っている。

 

然しながら海軍省はアルゼンチン海軍の軍艦を購入する事に失敗した為、第2艦隊のみで日本の海軍に対して、単独で行動させるにはその勢力が不足しているとの認識を固持し、遂に「ロジェストウェンスキー」中将に「ドブロッウオルスキー」支隊と合同するまで、是非とも「マダガスカル」に錨泊すべしとの命令を下した。なお数日中に「リバーワ」を発して、極東に向かって出動する「ネボガートフ」少将の支隊に関しては、「ロジェストウェンスキー」中将の意見に任せられることとなった。(27日付電報)

解説:アルゼンチン海軍の軍艦とは190312月日本が購入に成功した「日進」と「春日」であり、日本海海戦で活躍した。

 

艦隊の勢力が少ないけれども前進運動は1日も猶予できないと確信している「ロジェストウェンスキー」中将は「ドブロッウオルスキー」支隊の軍艦の中で、航海に耐える事の出来るものには前進を継続すべき命令を下すことを要請した。また中将は更に電報を発して「艦隊が戦域に出動する事と制止するならば、艦隊の軍記は全く弛緩する。重罪犯のごときはこれを罰する為の方法が無い。艦内に拘禁すれば灼熱の為絶息し、その番兵までも発病する」の事情を述べた。

この様に徒に日時が経過するのみで、出動期日の未定は遂に艦隊の人々を倦怠させた。

ここに一言追加すると「ネボガートフ」少将の支隊に編入された軍艦は、第2艦隊を編成する際「ロジェストウェンスキー」中将が極力排除したものである。その支隊は艦型が旧式で、無難に第2艦隊の在泊地に到着しても、艦隊の行動を妨げられ、その勢力を減殺されるだけであると考えていた。

かくして中将は「ネボガートフ」少将の支隊が第2艦隊と合同するため、215日「リバーワ」を出発したとの通知の接した時は感慨に堪えず、遂に健康を害して217日及び18日の両日は感冒で吊り床に横臥し、数日後初めて甲板に出た時には、非常に憔悴して右足を少し引きずって歩く程であったがその後追々全快した。

艦隊司令長官が「ネボガートフ」支隊の派遣を無用視するのみならず、艦隊の各司令官、艦長、将校に至るまで皆支隊の派遣に反対し、艦隊が同支隊と合同するまで錨泊するならば、取り返しのつかない損害を招くことになるとの意見を固持していた。

 

2 旅順港の陥落後に於ける第2太平洋艦隊の戦略上の任務解決

「ロジェストウェンスキー」中将」は旅順港の陥落及び第1太平洋艦隊の全滅の通知に接して第2太平洋艦隊の直接遂行すべき戦略上の任務は艦隊の一部なりとも、敵の警戒幕を突破してウラジオストックに回航することであると認め、ウラジオストックは太平洋岸に於ける唯一の我が海軍の根拠地であるため、至急同地に相当の設備を施し、必要な物件を集め置かれたしとの意見を海軍省に具申した。

この具申に対し艦隊司令長官は海軍省から次の電報を受領した。

「艦隊司令長官に課せられた任務は、僅かに貴下の数艦をウラジオストックに入港させれば足りるとするのではなく日本海を領有せんとする事にあるそのために現在「マダガスカル」に集合している艦隊の勢力では、この任務に対して不十分と認められるため「ドブロッウオルスキー」支隊の他に3月下旬にインド洋に到達する「ネボガートフ」支隊を艦隊に合同させたならば艦隊の本任務を容易にするであろう。」

中将の信任を受けていた艦隊の後任参謀 海軍大尉「スウェントルシェツキー」の私信から抜粋

「今や艦隊は、勝利を得ることのできる戦策を確立する必要があるが策の出しようが無い。今日の様に孤立し、陥り不安を感じた事は未だかって無かった。実に第2艦隊は危機に陥った次第である。我が艦隊に石炭を供給するハンブルグ・アメリカ会社の不都合は諸君も既に知っているとおりである。又現在は機械用材料、糧食及び被服まで欠乏を感じるようになり、艦隊の兵員は殆ど皆、毛くずから作ったサンダルを履いている。しかし極めて重要な事は給炭問題であるが、本件はこの遠征に対し懸念に堪えない。次は艦隊の乗員一同が遠征に対し成功の信念を持っていない事である。旅順港の降伏及び第1艦隊の滅亡を聞くと、急に皆落胆した。」

 

3 「ロジェストウェンスキー」中将に課せられたる任務に関する同中将の意見

艦隊司令長官「ロジェストウェンスキー」中将は2月初旬、各司令官及び古参の艦長数名を旗艦に招いて、第2艦隊に課せられた遂行不可能な任務に関する電報を朗読した

この会議に於いて各員は第2艦隊の現状を審議した後、司令長官から陛下へ奏聞しようとしている電文に対し、全部賛成の意を表した。その電文は

「戦前に於いて、軍艦30隻及び駆逐艦28隻を有した第1艦隊でありながら、海上権を獲得する為には尚勢力が不足していたのに、現在軍艦20隻と僅かに9隻の駆逐艦で編成された我が第2艦隊で海上権を獲得させようとするのは、全く過重の任務である。もし地中海で、黒海の戦艦3隻及び2隻を「チフニン」によって指揮させ、「ネボガートフ」支隊と合同させ、共に来て第2艦隊と合わせば、軍艦の隻数だけは喪失した我が第1艦隊と等しくなる。この艦隊で軍需品の供給に欠くことが無ければ、海面を占有することは至難のことではない。もし黒海の軍艦を艦隊に加えることができなければ第2艦隊の直接の問題はウラジオストックに奔入するに留めざるを得ない。単に現在の第3艦隊のみを待って、黒海艦隊との合同が無ければ、その結果は徒に乗員の健康と精神上に悪影響を及ぼすに過ぎない。

ここに勅栽を得て、2月下旬指定地に向かいたい。」

4 「ロジェストウェンスキー」中将の苦哀

艦隊の行動変更、ドイツ給炭船の随行拒絶並びに「ドブロッウオルスキー」大佐及び「ネボガートフ」少将の2支隊の来着を待ち合わすべしとの「ペテルスブルグ」からの厳命その他艦隊の補給、調達及び専門技術の錯誤等艦隊司令長官の心を痛めるものが多かった。

中将は親族に宛てた私信で次のように述べている。

「艦隊に於いては余のため何ら好い事はない。前途に控えている大事な活動に対して蓄積してきた精力は「マダガスカル」の在泊1ヶ月半で消え尽きた。さらに陸軍の大敗北が伝えられた最近の通知で、今まで振るわなかった部下の士気をさらに阻喪させ、無頓着であるべき少壮者まで落胆している者が少なからず居る。」

2月下旬「ロジェストウェンスキー」中将は次の具申をした。

「給炭船との折り合いがつけば直ちにインド洋を横断する事が絶対に必要と認める。この上徒に「マダガスカル」に在泊する事は、自ら自分の肉を食べて生命をつなぐ事に等しい。体力も気力も尽き果てた艦隊がここに3カ月も滞留するならば最早インド洋を渡航する事は困難であるため3月10前には出動したい。」

5 「ロジェストウェンスキー」中将の病気

 状況の不明、不愉快な錨泊、有害な気候、自己の責任に対する観念、憤懣、憂惧及び自己の方略遂行に対する制約等により司令長官は前途の成功を絶望し、或いは煩悶ししばしば病気となった。

3月「マダガスカル」出動にあたり、艦隊司令長官は、自己の病気を具申し、適当な交代者として強健有為な「チフニン」提督を指名し、更迭を願い出た。

3月5日付私信で

「自己に課せられた任務を果たさんとするもこれに必要な諸要素を完備していない。この間、若し余の身に変化が起きれば艦隊はその統率者を失う事を恐れて、「チフニン」少将が「ネボガートフ」少将と共に来るのを待って、総指揮権を「チフニン」少将に引き継ぎたいと思い、海軍大臣に願い出た。

6 艦隊の士気

 前途が全く不明である事、露国から何ら消息が無い事、艦隊の「ノシベ」停泊を無意味に思える事、苛烈な気候の下に、炭塵にまみれる載炭作業や諸任務が続くため疲労する事等の為に艦隊の乗員は鬱々として楽しまず。

以上の他、艦隊の乗員をこの様な状態にさせた原因は遠征に対する成功の信念を失ったことも原因している。特に成功の信念は、旅順港の降伏、第1艦隊の滅亡を聞くと同時に喪失してしまったのである。

第7章 第2太平洋艦隊「マダガスカル」在伯のその後

マダガスカルのノシベ

1 艦隊生活

 艦隊の乗員は毎朝5時に起床し、戦艦「スウォロフ」の信号により各艦は水雷防御網を引き揚げ、そして総員を短艇に配乗して艦隊の周囲を一周させる。この時は大抵、灼熱の太陽が照りつける午前7時過ぎである。

午前8時過ぎ各艦は「ランチ」を運送船に送り、必要な物件を受け取たせる、或いは海岸に派遣して淡水を運搬させた。毎週行われる石炭搭載の外、殆ど毎日各種の物品を搭載する。午後3時から6時に至るまでは教練及び課業を行った。

上陸はすこぶる稀のみならず、平日の上陸は僅かに午前8時から正午までとし、祭日は午後6時まで許可された。これもまた士官及び准士官に許されるのみで、兵員の上陸は軍医が付き添い、小集団で朝に艦を出て、正午に帰艦する患者の外、許されなかった。

 艦隊の無聊な在泊も大精進日前の週間に入ると共に活気を帯び、兵員の為に娯楽を準備する。軍艦遊技、各種の余興、信号や操砲及び距離測定、懸賞短艇漕走、仮装行列、見世物等を兵員に行わせた。

 この週間を終わると艦隊は東航に対する準備のため、ようやく全力を傾注するようになった。

2 艦隊の戦闘教練及び課業

 1月23日から艦隊の各艦は、毎日砲術及び水雷術の教練及び課業、水雷襲撃撃退法、

機雷敷設、防火防水、水雷防御網展張、探照灯照射、短艇操縦等を行う。

 陸戦隊の上陸演習、駆逐艦の泊地掃海、魚雷発射及び戦術問題解決もまた稀に実施した。

 長官は掃海の為、駆逐艦が船体や機械を壊すと一大事であるとして、艦載水雷艇で掃海隊を編成すべしと命じた。

 艦載水雷艇は2月7日から1週間、毎日編隊運動及び掃海作業を行った後、単独で夜間、遠距離に離れた後、艦隊に対して突然襲撃をする演習を殆ど毎夜の如く行った。最初は成功を収めたが、艦隊の訓練が向上するにつれて、次第に艦隊に密かに接近して攻撃する事が困難となった。

 艦載水雷艇も又魚雷発射演習を行った。第1回は218日に行ったが全然不成績であったがその後の魚雷発射は満足な成績を得る事ができた。

3 戦術上の諸問題

戦術的研究の一例として、128日に行った演習の要点を記す。

巡洋艦「スウェトラーナ」を艦隊全部と仮想して、極東に向かって出動し、途中に敵の駆逐隊が潜伏し、艦隊を襲撃する機会を窺っているとの情報を得た為、巡洋艦1隻と第1駆逐隊を敵駆逐隊が潜伏の恐れにある海域に派遣する。

2駆逐隊(敵の駆逐隊に仮想)は、予め出動し、艦隊の航路を監視している。

この演習の研究の要点は、第1は砲力で襲撃艦を撃退する方法、第2は駆逐隊の艦隊襲撃方法を訓練することである。

演習は至極満足に遂行され、直接これに参加した人のみならず全艦隊の乗員全部が大いに興味を持ってこれを県究し、無聊な在泊の倦怠を吹き消した。

4 砲煩射撃

艦隊乗員の士気を振作する方法は、乗員に専ら正式な戦術的教練に従事させ、目前に迫った戦争に対する予備的訓練を実行する事である。これは将校以下乗員一同が等しく認める所であるがこれらの訓練をするために最も必要な砲煩に対して演習弾薬を持っていない。

長官は、艦隊の士気が非常に退廃するのを見て、これを鼓舞するため123日次の令達を発令した。

「我が艦隊は戦艦7隻巡洋艦7隻を有する。故に敵の艦隊は単に我が艦隊よりも優速を頼み、遠距離から我と交戦する策を取るに違いない。されば我が艦隊は直ちに敵弾を冒して有効射程内に接近して、敵を撃滅する必要がある。故にこの際安閑としていられず、精励し、一所懸命に訓練に励む事が必要である。

 我が艦隊は射撃訓練の為に弾薬を多数消費する事ができないので操砲及び照準の2科目に対しては十分な注意を払い、又砲員は望遠鏡照準器の使用法を会得しなければならない。

巡洋艦1隻及び駆逐艦1隻を縦列の両側から35マイル離して航行させ、各種の距離で任意照準点を得させ、照準発射訓練を行う予定である。」

1月26日に実施された戦艦、巡洋艦の射撃演習に対し1月27日に長官の行った講評は以下のとおり。

「出港時に戦艦「スウォーロフ」は楊錨機の汚れと錆びのため抜錨に1時間を要した。

正午頃に一斉回頭をして横陣を作ると早朝に予告していたにも関わらず、信号を揚げたところ各艦長は周到狼狽して乱雑な横陣しかできなかった。

射撃を行うため縦陣を作ったが、陣形が著しく長くなり、中央の艦で試射を行っても効果が無い。過去4ヶ月にわたり編隊航行をしてきたがその要領を会得せず、敵と遭遇した時も無理と思われるので今後は各支隊の先頭艦は敵の射界に入ると同時に試射を行え。

解説:試射とは大砲に調定する距離を確実にするため試験的に大砲を発射することである。

昨日の艦隊射撃において「オーロラ」の外演習の目的を理解し、熱心に努力した艦は一艦も無いのは極めて遺憾である。

12インチ砲の発射で数分間砲声が絶えた後発砲を聞いたがこれは目標までの距離、針路風向の関係等がその間に変化するはずであるのに砲術長は如何なる試射法で高価な弾丸を射撃したのか。

75mm砲の射撃もまた拙劣である。白昼全艦隊は日本の駆逐艦を想定した標的に対して、しかも射撃を容易にするため固定標的にしたにも関わらず1発も命中させる事が出来なかった。」

5 艦隊の無線電話

214日付艦隊司令長官の令達は、艦隊所属艦船の無線電信の状態を非常に明瞭に説明しているので次に掲げる。

「運送船「コレヤ」及び「キタイ」にはアンテナの高さが低い「マルコニ」式無線機を装備し、駆逐艦を除くその他の全艦船には、アンテナの高さが高い「スリヤビ、アルコ」式無線機を装備している。

運送船「ウラル」の無線電信もまた「スリヤビ、アルコ」式であり、500マイル以上に到達する能力を持っている。

艦隊の無線電信で、6ヶ月間の航海中に故障が皆無であったのは運送船「コレヤ」のみで、その他は全部しばしば故障が発生した。

「コレヤ」の電信は他の艦船よりも常に早く、遠距離の電波を受信した。ある日同艦は90マイル離れた電波を受信したが、他の艦船は65マイル離れた電波すら受信出来なかった。

なお本日午前630分運送船「コレヤ」の電信は、運送船「ウラル」と「オレーグ」間の交信を受信した。両船は昨日より交信しているが未だに了解していない。両艦の間には、陸地も1本のマストも無いにも関わらず受信出来ないのに、「コレヤ」は山を越えて70マイルを隔てて真っ先に受信した。これは電信機の優劣でなく同船の指揮官の配慮と1等水雷兵曹「アレクサンドル、スミルノフ」の技能が卓越しているためであり、本職は「コレヤ」の指揮官及び機関長に満足の意を表し、1等水雷兵曹「アレクサンドル、スミルノフ」に対し艦隊司令部から50ルーブルの賞を送った。」

6 艦船の修理工事

各艦は主機械及び補機械を取り外し、ボイラーを清掃し船体、武器及び機関の「マダガスカル」までの航海で発生した多くの損傷箇所を修理した。

艦隊の潜水兵によって戦艦等の水線下に付着した貝や海草を除去した。ドックや工場が無い場所で行う作業の為に、修理には全部兵員の特別な努力が必要であった。

7 運送船「イルツイシ」及び汽船「レギナ」の到着

 31日、待ちに待った運送船「イルツイン」が石炭を搭載して露国から到着した。艦隊司令長官は、同船は多量の弾薬、糧食及び金銭等を搭載して来るものと期待していたが、海軍省では別に長官からその様な物件の補充請求が無い為送付する必要が無いと考え、艦政本部も又自発的に艦隊の補給に割り込む義務なしと考えて、艦隊司令長官の期待に反して石炭の他は何らの物品も搭載していなかった。

 艦隊は露国を出発する時、戦闘に必要な一定の弾薬を受領したのみで、しかもその内2割は126日、31日、21日及び7日の4回の実弾射撃に消費したため、もはや敵に遭遇した時の外、一切訓練で使用する事ができなくなった。

 長官は多量の材料及び糧食等を搭載して来る予定の汽船「レギナ」の到着を待つ事にした。これは艦隊が露国より用意してきた貯蔵品は既に各艦船とも消費してしまい、インド洋の航海に困難をきたしていた為である。

 3月15日汽船「レギナ」は漸く糧食及び材料を満載して到着した。同船は艦隊司令長官の命により艦隊の援助の下で24時間内に全部の搭載物件を卸した。

 

8 運送船の雇員

 艦隊に所属している運送船に於ける勤務の過酷さを察知した長官は、義勇艦隊、露国海外貿易会社、東亜会社の汽船並びに曳船「ルーシ」の船員を奨励するため船長から船員に至るまで、次の様に俸給を上げる事を定めた。

1 露国を出発して6カ月を経過したならば、俸給の3カ月分をボーナスとして支給する。

2 露国を出発して9カ月を経過したならば、俸給の3カ月分をボーナスとして支給する。

3 露国を出発して12カ月を経過したならば、俸給の6カ月分をボーナスとして支給する。

これらは勤務忌避、又は怠慢の処分を受けた事のない者に限る。

解説:義勇艦隊とは商船に大砲を搭載した船である。

9 糧食の補給

艦隊は「ノッシベ」湾に在泊中は終始陸上から生糧品及び生肉を購入した。「マダガスカル」の北部は家畜が多く、新鮮な肉に不足した事は無かったが新鮮な野菜を入手する事は極めて困難であった。玉ねぎ、ジャガイモ、ほうれん草などの野菜は生産されていない為、南アフリカや欧州から缶詰にしたものを輸入し、非常に高価で艦隊の必要量を確保できないこともあった。この一帯の諸港から購入した玉ねぎ及び塩漬け肉の缶詰は開けた際、硫化水素が噴出し爆発を起すものがあり多くを海中に捨てた

バナナその他の熱帯地方の果物はただ同然で買えるがこれらは煮物にも汁物にも使用できないため、安い間食菓子として利用したのみであった。

10 淡水の補給

淡水の補給に関しても少なからざる困難を感じた。給水船「メテオル」は強力な蒸化器を持っているが無論全艦隊の需要を満たす事は出来ないので水が欠乏する事が多く、水は非常に貴重であった。幸い殆ど毎日の様にスコールが通過するので、その雨水を短艇、樽などあらゆるものに溜めたが艦内の1日分の使用に足らない。そのため淡水を求めて捜索したところ、小さな川がある小島を発見したので溜池を作り、蛇管を池に入れて、短艇で水を搭載した。

11 艦隊在泊中の気候並びに乗員に及ぼした影響

最も困惑したのは息苦しいことで、湿度が96~98%に達して、あたかも蒸し風呂の湯気の中で呼吸しているようである。艦隊が停泊して1ヶ月経過する頃からセキリ、憂鬱病、,結核,熱帯性発疹にかかり、また死亡者も発生した。次々と多数の病人が発生し完治の見込みがない者(士官5人兵員14人)は運送船「マライア」で露国へ送還した。

12 艦隊長期の在泊が乗員の軍紀の及ぼした影響

艦隊の「ノシベ」滞在が長くなるにつれ乗員の軍紀がしだいに退廃してきた。そしてこれを維持する事が次第に困難となり、疲労を極めた兵員は遂に軍紀を乱すようになってきた。犯罪者を処罰するために執った各種の手段は殆ど効果なく、特に軍紀に関する犯罪が増え、航海中である艦隊に於いて高等裁判である軍法会議の開催が常時行われるようになった。又その犯罪中戦時の法律で死刑に該当する程重大なものすらあったが艦隊司令長官は生死の境である戦陣に臨もうとしている人間に死刑は相応しくないとして、死刑の宣告を1回も承認した事は無かった。最も軽い刑罰は監禁に処し、番兵を付けた。これは艦内の閉鎖された所に収監するもので室内の温度が極めて高く呼吸が困難で、その苦痛は拷問に劣らない。監禁者のみならず番兵までしばしば発病した。  

軍紀に関する犯罪で最も多いのは故意に命令に反抗し、上官に相応の敬意を払わず、命令を遂行せず、服従を拒否する等の事である。

13 戦場よりの通信

123日「ロジェストウェンスキー」中将は次の令達を発した。

「日本は我が艦隊が敵の艦隊と接触する前に、途中で襲撃しようとして各種の策略をめぐらしており、さらに信頼すべき情報によれば我が艦隊を誘き出すために良い餌を用意しようとしている。日本の巡洋艦及び補助巡洋艦は我が艦隊の所在を発見するために諸湾の探索に全力を上げようとしている。

日本は「マダガスカル」及び「ノッシベ」湾に居留する自国の派遣員と電信を交換して、我が艦隊の動静に関する情報を十分に熟知している。」

211

「現在、佐世保及び横須賀の2港に在泊する軍艦は、戦艦4隻、1等巡洋艦8隻、2等巡洋艦3隻であり、又各地の軍港に散在する駆逐艦は20隻、水雷艇は30隻である。」

3月4日

「日本軍艦の修理後に於ける速力は戦艦約17ノット、巡洋艦18ノット、駆逐艦28ノットである。」

3月12日 我が陸軍の奉天に於ける敗報が艦隊に達した。

 艦隊の将士は我が祖国の上に降りかかった災難を深く慨嘆した。この前途が暗澹たる戦争中に於いて、通知される情報は全部失敗や悲運を伝えるものばかりで、各員の神経は既に衰弱の極に達しており、麻痺してしまっているようである

第8章 「マダガスカル」島より安南海岸に至る艦隊の航進

インド洋

 

  「ノシベ」湾出動

3月15日、艦隊司令長官は旗艦に各司令官、各艦長を招集し会議を開き、いよいよ艦隊は「ノシベ」湾を出港し、平均速力9ノットで東航することを告げた。なお輸送船には予備の弾薬がないため各艦は弾薬を浪費せず、石炭もまた現在艦隊が搭載している6万トンの外に、予備として輸送船に5万5千トンがあるのみである。また今後新たに給炭船の来航を望むことが出来ないため大いに節約すべしと訓示した。(海軍大佐エゴリエフの航海日記)

会議終了後艦隊司令長官は、信号で戦艦、巡洋艦、駆逐艦、輸送船に対し明日正午までにボイラーその他出港準備を完成せよと命令した。

3月16日、艦隊は午後3時出港し、陣形を作る。

司令長官は海軍省宛に「ノシベ」湾を出港する。との簡単な電報を発信したのみであった。艦隊の行動計画については、司令長官と親しい補佐官の外、誰一人知る者が居なかった。

艦隊の出港と前進は乗員の元気を回復させること大であり乗員一同の士気が極めて高くなった。

戦艦7隻、1等巡洋艦4隻、2等巡洋艦8隻、駆逐艦9隻、病院船1隻、運送船13隻の合計42隻であった。

艦隊司令長官は絶えず信号を揚げて、艦船の陣形を正確に保持しようとしたけれど、艦船の多くは遅れ、また列外に出るものがあり全く思うようにならなかった。

 

3月17日午前8時「マダガスカル」島の北に於いて、艦隊は針路を「セイシエル」列島の微南にとる。午後2時には既に「マダガスカル」島の陸岸が見えなくなった。

2 印度洋の渡航

運送船の機械がしばしば故障するために、艦隊の航進が阻害される事が多かった。

317日 太陽がようやく没しようとする時、艦隊の後方に数条の煤煙を発見した。司令長官は駆逐艦を派遣しその煤煙を調査させたが皆商船であった。

 

る3月18日午前6時、艦隊司令長官は運送船に駆逐艦の曳航を命じる。この命令により各艦はほぼ1時間半を費やし曳航準備を完成した。航進を始めると間もなく運送船「イルツイシ」の曳航索が切断し、艦隊は曳航索の係維が終るまで微速力で航進した。作業が終わると共に前進を続け、午前10時までに速力を8ノットに増速した。

午前10時30分戦艦「シソイ、ウェリーキー」の舵機が故障し、列外で機械により操縦しつつ航進する。艦隊は午後1時から2時まで航進を止め「シソイ、ウェリーキー」を待つ。

夜戦艦「ボロジノ」の舵機が故障し、艦隊はまた3時間航進を停止す。

一昼夜の航程は147マイルで平均速力は6ノットであった。

「マダガスカル」停泊中は、灼熱の太陽と息苦しい気候に苦しんだ艦隊は、海上に出て曇天となり、時々小雨にあう。

艦隊は「ノシベ」湾を出港し安南に至るまで石炭搭載日を除いて、全乗組員は一定の任務に就き、絶えず教練及び作業に従事した。特に距離測定儀を使用して、或いは目測による距離の測定及び大砲の照準発射に深く注意を加え、艦隊の諸艦は展開した巡洋艦を目標として照準発射訓練を行う。

 

3月20日恒例により課業及び教練を行う。駆逐艦「ブレスチャシチー」の曳航索が切断したため艦隊は航進を止め、暫く停止した。一昼夜の航程187マイル、平均速力は7,8ノットであった。

この日長官は、信号により明日石炭を搭載する予定であると告示した。

夜中戦艦「スウォロフ」の舵索が切断したため、予備索を機関室内の防水扉に孔を開けて通すこととした。しかしこの作業は極めて難作業で、機関室内は高温である為に2人の職工を10分で交代させ、24時間その作業に就かした。

 

3月21日午前5時45分長官は信号を発令し、艦隊を停止した。天候は微弱な西風が吹き、大洋特有の大きなうねりはあるけれども、石炭搭載には非常に適している。

石炭の搭載準備の為、軍艦は大型ボートや汽艇を降ろして搭載作業にあてた。軍艦から水兵を数組に分け、将校の指揮の下に運送船に派遣し、石炭の袋詰めを行い、諸艇に積み込ませた。運送船に派遣した員数は、大型艦の場合100人以上に達した。

艦隊は石炭搭載終了後航行序列に復するまで長時間を要し、午後7時になって初めて前進した。艦隊が停止した時間は13時間15分に及んだ。石炭搭載に8時間45分を費やし、残りの4時間30分は搭載の準備及び後始末に費やした。これは大きなうねりのため大小の短艇及び汽船の揚げ降ろしが困難であったためである。

 

3月22日、駆逐艦の曳航索が6回も切断した。駆逐艦「ブイストルイ」は、曳航索のために砲座を損傷した。一昼夜の航程は130マイルで、平均速力は5.5ノットである。

 

323 午前6時艦隊は機械を停止して、運送船から第2回の石炭搭載を行う。海上は僅かなうねりがあった。この時駆逐艦「グロムキー」の舵が破損しているのを見つけ、潜水兵に修理させた。付近に鮫が集まっているため、その作業中水兵に銃を持たせ、潜水兵に近づいた鮫を射撃させた。

午後5時、石炭の搭載が終わり艦隊は7ノットの速力で前進し、駆逐艦は曳航させた。

 

3月24日一昼夜の航程130マイル、平均速力5ノットであった。

夕刻巡洋艦「オレーグ」から、艦隊を追跡する駆逐艦に似た船影を発見したと報告があった。各艦の将校及び兵員は警報が発令された時と同様に総員が部署についた。

運送船「カムシャッカ」はボイラーに故障を起こしたが良くその位置を保った。巡洋艦「オレーグ」の舵輪が故障した。

天気は静穏であるが曇天であり小さなうねりがあった。

 

3月25日戦艦「シソイ、ウェリーキー」の復水器の管が破裂したため航進を停止する必要が起こり艦隊の前進を阻害した。

一昼夜の航程は180マイル、平均速力7.5ノットである。この日曇天であったが遂に雨となった。午前中艦隊運動を行う。

 

この日第3太平洋艦隊は、黎明より運河通行のため前進し、軍艦は順番に運河に入り、パイロットの指導の下に独立して運河を航行した。各艦の速力は8ノットであった。

日没と共に運河会社の手配した強力な探照灯を点灯した。

3月26日 静穏であった天気が変化して、次第に荒れ模様となり、風浪が次第に大きくなり駆逐艦の曳航が困難となった。

一昼夜の航程は180マイルで平均速力は7,5ノットである。

戦艦「シソイ、ウェリーキー」は舵機を損傷し、修理の間列外に出ていた。

(第3太平洋艦隊の動静)

支隊は午前3時スエズの停泊地に到着するとともに直ちに石炭の搭載を始める。

支隊は運送船をも停止させず、連続して通行させたため、会社は反航してくる船舶を全て湖中に避難させた。結局支隊は僅かに16時間で運河を通過した。

 

3月27日風は無くなったが大きなうねりが残った。

午前は艦隊運動を行い、戦闘序列から簡単な陣形運動を行ったが満足な結果を得た。

一昼夜の航程は165マイルで、平均速力は6,9ノットである。艦隊は午後10時から水雷襲撃及び撃退の演習を行う。

 

3月28日午前中から天候は全く平穏となり大きなうねりも収まった。

午前6時から石炭搭載を開始する。当日は準備及び復旧ともに前回に比べ成績が良好であった。

午後4時天候が荒れ模様となったため載炭を中止し午後5時から前進する。

(第3太平洋艦隊の動静:紅海を航行)

紅海に出るととともに昼間は列氏36度(摂氏45度)になり、夜中も22度(摂氏27度)から24度(摂氏30度)を下らない酷暑となった。

3月29日朝となって風が静まったが大きなうねりは変わらず、斜めから来る。

午前6時戦隊は機械を止め、再び採炭を開始する。当日は数回雨を帯びた疾風が襲来する。

艦隊は採炭終了後前進する。

(第3太平洋艦隊の動静:紅海航行)

温帯地方の航海に適する様に設計された装甲海防艦では、特に居住甲板及び各室の通風が悪く、室内温度が摂氏50度以上になったため将校、兵員とも皆上甲板で就寝した。

 

3月30日午前9時艦隊は赤道を横切り、北半球に入る。正午過ぎ風が吹き始め波浪が高くなる。一昼夜の航程160マイル、平均速力6,7ノットである。

この日は艦隊が「ノシベ」湾を出港以来、初めて軍艦、運送船共に何らの故障も無く、又1分も停止せずに航進した。

 

3月31日午前零時から風が次第に強くなり、午前1時には暴風雨となった。且つ熱帯の豪雨で隣の艦影も見る事が出来ない。強風のため駆逐艦「ボードルイ」はマストが折られ、駆逐艦「グロムキー」は曳航索が切られた。

強風であるが温度が非常に高く、閉鎖された場所では呼吸が困難なほど蒸し暑い。

(第3太平洋艦隊の動静:紅海を航行中)

各艦の曳航する標的に対して互いに内筒砲射撃を行う。

4月1日風が尚強く波浪が高い。

長官は、信号により翌日載炭を行う命令を与えた。なお前日曳航索を切断した駆逐艦「グロムキー」を又運送船に曳航させた。

4月2日風浪が強い為、予定していた載炭を中止し、諸種の訓練を行いながら無事に航進した。

気温が急に下がり、冷気を感じるようになった。

最近数日間、毎晩のように、巡洋艦から艦隊の北方にマストが見えるとの報告があり、敵の駆逐艦の攻撃が予想された。

「ノシベ」湾出港いらい毎日日没後、「水雷防禦」の部署を発動し、大砲に装填し,終夜砲員及び将校を当直させ、何時でも敵の攻撃を直ちに撃退する用意をさせた。

(第3太平洋艦隊の動静:ジプチ着

午前8時「ジプチ」に到着し、港から7マイル沖合いの開放された海面に投錨した。)

4月3日の黎明となり天候が平穏となったため艦隊は黎明より機関を停止し、石炭、糧食及び淡水の搭載を始める。

司令長官は、石炭搭載中汽船「ルーシ」に令達及び「カムラング」湾内に於ける艦隊の錨地指定図を各艦に配布させた。長官はこの令達で、艦長は、将校及び砲員に対して、敵と遭遇したときは弾薬を慎重に且つ有利に消費する事が極めて必要な事を再三訓示する事、迅速に砲弾を装填し、精密な照準を励行し、照準器の備付け方が悪ければ如何に照準を正しくしても無意味な事を戒め、また射手は隣の砲の弾着点を見て照準の修正の参考とせよ、またこの令達は、将兵の面前で朗読し、しかも毎日必ず復唱する事を命じた。

4月4日1回も停止する事無く航行する。戦艦「クニヤージ、スーロフ」から無線電信で次の命令を伝える。「夜間の水雷攻撃を撃退する際には、味方打ちを避けるために十分な静粛を保ち、損害を被り艦隊の速力を保つ事が出来ない場合を除き列外に出てはならない」

艦隊がマラッカ海峡に近づくと長官は航行序列を改めて第1戦艦戦隊を運送船隊の右側に、第2戦艦戦隊をその左側、偵察隊を艦隊の先頭に航行させた。巡洋艦戦隊は戦艦戦隊の航跡に入らせた。

長官は信号命令で目的地をサイゴンの北方200マイルの「カムラン」湾に指定した。夜になって「水雷攻撃に注意せよ」との信号を掲げた。

 

(第3太平洋艦隊の動静:ジプチ停泊

支隊は開放した海面に居るため大きなうねりを冒して来着する載炭船から石炭を積み込み、又淡水、糧食やその他の需品を積み込んだ。

支隊は野菜の外穀物及び生糧品を大量に搭載する事が出来た。佛国官憲はこれらの搭載について何ら異議を称えず支隊に対して非常に親切であった。

支隊の停泊場所と港との距離は非常に遠く、陸上との往来は困難であった。各艦から波止場までは汽艇で1時間半を要し、陸岸から僅かに艦影を認め得る程であった。)

 

4月5日午前6時艦隊は「ニコバル」諸島の近くに来た。

午前7時艦隊は「スマトラ」島と「ニコバル」諸島の中間に於いて変針し、針路を「マラッカ」海峡の中央にとって東航する。

正午艦隊は「マラッカ」海峡に入る。

日没後各艦は航海灯を全部消して、艦尾灯のみを点灯する。

午後830分戦艦「アリヨール」の主蒸気菅1本が破裂したため艦隊は航進を停止し、同艦は列外に出て修理を行い、1時間半後に旧位置に復帰し、艦隊は再び航進した。

「マラッカ」海峡通航中、艦隊は一隻の反航又は同航する船を認めなかった。

将校及び砲員は夜中受け持ち砲の傍を離れず、その付近で休息した。

 

(第3太平洋艦隊の動静:ジプチ停泊

支隊は「ロジェストウェンスキー」中将の率いる艦隊の所在を知らない為海軍省に次の請訓を行った。

「支隊は3日後に出発する予定であるが、単独でウラジオストックに向かうべきか或いは「ロジェストウェンスキー」中将の艦隊と合同して、共に航進すべきか直ちに指令を乞う。もし中将と合同する場合には艦隊の所在地及び取るべき航路を知らされたい」)

 

 

4月6日は無事に経過する。夜明けになって曇天となり午前8時より雷雨が起こり、正午まで雨が降り続き、その後ようやく止んだ。

(第3太平洋艦隊の動静:海軍省からの返電

貴隊は自分で艦隊の所在地を捜索して、これと合同されたい。本省に於いても艦隊の予定航路は不明である。)

4月7日夜中は無事に経過する。各艦船に於いては蒙古祭を行い、その後兵員を休養させる。艦隊は海峡の狭い所に近づくにつれて反航船に出会うことが多くなった。数艦から敵艦を発見したとの通報があったが皆商船であった。

(第3太平洋艦隊の動静:ジプチ出港

午前10時抜錨してアデン湾に向かう。)

 

4月8日午前未明マレー市の近くを通過し、陸岸の灯火がはっきりと見えた。この夜も前日同様将校及び砲員等全員を戦闘部署につけ、一人も就寝しなかった。

午前中艦隊は戦闘訓練を行う。

午後2時艦隊はシンガポールを見たが、泊地には巡洋艦2隻が錨泊していた。

シンガポールから小蒸気船1隻が露国領事旗を立てて来航した。

海軍少将「ネボガートフ」の率いる支隊が「ジプチ」を47日出発した事を知る。

午後7時艦隊は南支那海に入る。

 

4月9日一夜は無事に経過し午前5時艦隊は「アナンバス」諸島付近で機械を停止し載炭を始めた。載炭中、巡洋艦4隻は艦隊を離れて水平線を監視した。

午前11時から艦隊は再び前進する。

(第3太平洋艦隊の動静:アデン湾)

病院船「カストロマ」を「バタビア」に先行させる。これは同地の領事若しくは海軍省を介して中将の所在地及び意図を知る為である。

アデン湾の「ソコトル」島付近に於いて実弾射撃訓練を行う。

 

4月10日午前8時艦隊は「アナンバス」諸島を通過する。艦隊司令長官はこの朝、参謀を集め幕僚会議を開催した。主題は「ネボガートフ」少将の率いる支隊が「ジプチ」を出港したとの情報を受け、今後の行動をいかにすべきか討議した。

(第3太平洋艦隊の動静:アラビア半島南岸)

射撃終了後アラビア半島の南東岸にある広漠とした一つの湾「ミルバート」(現在オマーン国)に向かう。

 

4月11日「カムラング」の南300マイルの地点に達した。幸いにして我が艦隊は追尾する日本艦隊より攻撃を受けることなく、又「カムラング」湾内への寄港を許されるなら、この地に滞在して、命令を待ち、戦地の形勢特に「ウラジオストック」の状況に応じて今後取るべき行動に関する勅令を仰ぎたいと考える。もし又艦隊を前進させることに決定すれば至急発令されたい。

不可解な無線電信に絶えず感応していることから日本艦隊が近傍にいるようである。

「ウラジオストック」に於いて、今なお艦隊の到着を必要とし、同地に於いて3万余人に対する食物を欠く憂いが無く、又海軍用の弾薬が残存するならば、「ネボガートフ」少将の支隊が来着するのを待たずに直ちに出動する。1週間たりとも徒に日時を遅らせるなら、償うことのできない不利を招くことになる。そしていよいよ「ウラジオストック」に出発すべき命令を下すことに決定したならば、海軍省は上級職員にすらこれを秘密にし、なお我が海外派遣員等に偽電を発信させ、艦隊は当地に於いて「ネボガートフ」支隊及び今春出発する支隊との合同を待っている様に宣伝すべし。艦隊が「ウラジオストック」に到達するのが既に遅いのであれば、根拠地の無い所に艦隊を長く滞在させる事は出来ないので露国に引き返す必要がある。」

この電報は414日「ペテルスブルグ」に達し、即日長官に対し次の返電があった。

「「ウラジオストック」の陸正面は開放している。又同地には貯蔵品があり、「ネボガートフ」支隊を待たずに前進せよ」

司令長官はザイゴンに滞在する巡洋艦艦長に対し、至急「カムラング」湾へ食糧と石炭を送り、なお汽船を購入し「カムラング」間の交通を維持するよう早速取り計らう事を命じた。

 

4月12日午前2時から艦隊の速力を9,5ノットに増加する。当夜は無事に経過して黎明を待って機械を止め、載炭を始める。カムラン湾まで60マイルであれば、洋上で採炭するより到着後行う方が容易であるのに何故行うのか、司令長官の命令に皆驚いた。

この日は朝から、「ロジェストウェンスキー」中将は何となく落ち着かないようで、怒りやすく無言がちで、自室にいることは少なく、或いは前部艦橋に出て、或いは後部艦橋に来た。又後部マストに登って運動をした。

午後3時不可解な電信に感応し、しかも接近するように思われたため載炭を中止し、短艇を引き上げ、昼間の航行序列とした。午後5時針路を「カムラング」」湾の入り口に向けた。

(第3太平洋艦隊の動静:第4章 :アラビア半島「ミルバット」)

午前630分「ミルバット」湾に到着し、海岸から5マイルの地点に投錨し、石炭搭載に着手する。大きなうねりがあり、運送船の横付けが危険なため「ランチ」を使用して、載炭作業を行う。暑気が強く船倉に入る水兵は短時間で交代する。

3 「カムラング」に到達す

4月13日午前6時艦隊は「カムラン」湾の入口に到着し、機械を停止し、直ちに駆逐艦を入港させ、その入口と投錨地に予定している湾内及び泊地に於いて掃海を実施した。又艦載水雷艇を派遣し、艦船序列に便利なように浮標を配置した。艦隊は錨泊準備が整うまで運送船から石炭を搭載する。

午後3時掃海がまさに終わろうとする頃、運送船を番号順に入港させたが軍艦は湾外で一夜を過ごした。

(第3太平洋艦隊の動静:インド洋)

夕刻、抜錨してインド洋に向かう。天気は良好であるが気温は高く、正午頃の外気温度は55度、艦内居住区57.5度、機械室60度、ボイラー室62.5度に達した。

 

4月14日黎明より各艦は湾内に進入した。

2戦艦戦隊が進入し、第1戦艦戦隊がこれに続き、最後に巡洋艦及び偵察艦が徐々に湾内に進んだ。巡洋艦「ドンスコイ」及び「リオン」の2艦は海上及び湾口を警備するため湾口付近に残留した。

艦隊の艦船は予め敷設された浮標に係留したが湾内は広く、配列表に従って位置に就いた諸艦船は互いに非常に離れた距離であった。

「ノシベ」湾より「カムラング」湾まで航走した艦隊の航程は4560マイルであった。

艦隊の「ノシベ」出発より7日遅れて「ディエゴアレス」を出発したハンブルグ、アメリカン汽船の貨物船3隻も3万トンの石炭を搭載して「カムラン」湾に到着した。

正午頃サイゴンから、同地の独逸汽船会社汽船「ダグマル」が、海軍省がサイゴンに向け発信した電報を届けた。

艦隊は連続28日間を航海したが乗員の元気は頗る旺盛であった。

(第3太平洋艦隊の動静:インド洋)

支隊は毎朝及び昼食後に距離測定訓練を行う。司令官より「距離測定訓練を開始せよ」の命令で巡洋艦1隻が遠ざかり、支隊の真横に位置し、各艦が距離を測定した。

 

4月15日早朝より2日間石炭搭載を行う。

この日佛国巡洋艦1隻海軍少将の将旗を掲げ「カムラン」湾に入港し、艦隊の停泊期間中錨泊した。

4 艦隊の印度洋渡航概況

艦隊は「マダガスカル」より「カムラング」湾まで4560マイルの航程を頗る良好な天候の下に28日間で航海した。潮流を利用し160マイルを短縮したけれども載炭作業、又エンジンの修理を余儀なくされ、海上に6回停止し、その都度約12時間を費やし、合計三昼夜に及んだため、潮流の利用及び海上の停止を除けば即ち4400マイルを平均7ノット半、25日間で渡航したことになる。又艦隊の速力は、実際には8ノット半或いは9ノット或いは少しの間であるが9ノット半を出したこともある。

平均速力が低い原因は、各艦に発生した故障のため全艦隊の速力を減少させ、或いはまったくエンジンを停止させたことによる。またこれらの事象は112回を数え、その内39回は駆逐艦を曳航している運送船の曳航索が切断したためであり、残り73回はボイラー、エンジン、操舵機が故障したためである。

駆逐艦は全て、航路の大部分を運送船に曳かれて航行した。

艦隊と支隊とが合同するためにはその集合地点を中立国の港湾にとる必要があるがこれは佛国の港湾に限らざるを得ない。英国人、オランダ人、米国人はその港湾或いは領海に於いて我らが停泊しようとするとこれに反対する口実を設けることは間違いない。

佛国政府に於いても戦略上の目的に適する港湾に停泊しようとすると必ず抗議をするであろうが、しかしこの抗議は形式的なものに過ぎないであろう。

「マダガスカル」に於いては小麦粉の品質が粗悪であり、しかも数量に限りがあり、そのため「マユンダ」及び「ジェゴスアレツ」に於いて求め得られる限りの量を「ノシベ」湾へ輸送させたが、市場に出ている小麦粉は30トンに過ぎず、然るに艦隊に於いては日々10トンを消費する。又艦隊のパン職人等は良質の粉をもってすら上手にパンを焼くことができない。大麦粉一分に小麦粉五分を混ぜて大麦パンを食用にしようとしたが温かい間は糊のようで、冷めたら堅い固まりとなって到底口に入れることが難しい。そのためハンブルグ会社から雇い入れた獨国の汽船「レギナ」が艦隊のために搭載した雑品4千トン、航海用堅パン5百トンが「ノシベ」湾に到着するのを待つことにした。

艦隊の兵員は靴が無く、裸足で働き、特に載炭の場合にはその苦痛は甚だしい。そのため、被服装具の全部でなくとも、裸足の兵員に対し12千足の靴を「イルツインシ」の搭載するよう要求した。

運送船「イルツインシ」は、排水量18千トンであるにも拘らず、石炭をわずかに8千トン搭載して来たばかりであり、その他には何も搭載していなかった。

315日「ノシベ」湾に獨国汽船「レギナ」が、堅パン、バター、茶、少量の塩肉、15トンの冷肉及び機関科及び掌帆科の材料4百トンを搭載して到着した。

艦隊は汽船「レギナ」より必要な食料品を搭載し、終了後316日午後3時「ノシベ」湾を抜錨した。

4月11日正午、サイゴンを経て電報をペテルスブルグへ発信し、艦隊の所在点を告げ、「ネボガートフ」少将の支隊を待たずに、引き続き「ウラジオストック」に向け前進すべきか否か、その指令を仰いだ。

艦隊は414日の朝「カムラング」湾に錨泊した。

艦隊と同時にハンブルグ・アメリカ会社の汽船4隻も3万トンの石炭を搭載して「カムラング」湾に到着した。

第9章安南海岸に於ける第2太平洋艦隊

カムラン湾

 

  石炭補給の困難及び艦隊の安南海岸滞留

艦隊司令長官は、石炭補給に関し問題が発生した1月以来、海軍省に対し、極東の諸港に勤務する我が派遣員に注文させて、石炭を購入するようしきりに主張したが、海軍省はその処置を取らなかったため、作戦行動を取るために必要な数量の石炭を調達できていなかった。

「ロジェストウェンスキー」中将は次の報告書を提出した。

「艦隊の「ノシベ」湾出港後、二三日遅れて出港しサイゴンに直行するよう下命した、機関科材料を搭載した汽船「レギナ」の所在不明を知る。海峡に於いて日本軍に拿捕されたのではないかと推測する。

獨国汽船4隻で、マダガスカルから輸送した3万トンの石炭では到底全艦隊の要求を満たすことは出来ない。この様な次第で早急にウラジオストックに向かって前進するという計画を実現する事は出来ない。

明日4月19日は艦隊運動を行うため、艦隊を率いて出動する予定であるが、しかし石炭不足のため艦隊運動も再三実施できるかどうか疑問である。」

2 外交上の困難

佛国政府は、植民地の領海内に「ロジェストウェンスキー」中将の艦隊が来て、近傍を通過する商船に停船を命じ、臨検する行動に対して、中立違反の非難を受けることを恐れて、領海外への退去を求めた。これらは植民地の官憲より直接艦隊に加えられ、また外務省を通じ海軍大臣に抗議があった。

「ロジェストウェンスキー」中将は、しばしば自ら佛国植民地の官憲に交渉し、又談判した。

第2太平洋艦隊は、前記の様な困難を忍んで一つの湾から他の湾へ移りつつ、1ヵ月間安南の海岸を遍歴した。

 

3 艦隊の「カムラング」湾在泊及び軍需品の不足

4月15日佛国巡洋艦「デスカルト」が少将旗を掲げ「カムラング」湾に入港し、艦隊の在泊期間中錨泊した。但しその間に時々サイゴンに行っていた。

中将は3月12日、艦隊と会合した運送船「イルツイン」が予定していた予備弾薬を搭載して来なかった為、不安となり海軍大臣に宛て、艦隊の予備弾薬は如何なる汽船で、何日頃、何処に向けて送られたかと問い合わせ電報を発信した。

これに対して海軍省の電報では、艦隊の予備弾薬は全てウラジオストック向けに発送した。既に大部分は同地に到着し、残りも輸送の途中である。海路を使用しなかったのは危険と判断した為であると返電してきた。

4月16日サイゴンから派遣された汽船が到着し瀬糧品、野菜及び郵便物を艦隊に渡した。

 

4 敵との遭遇を予期する、艦隊運動及び石炭搭載

艦隊司令長官は次の令達を発した。

湾前に優勢な敵艦隊が現れたならば、司令長官自ら艦隊の主力を率いて出動する。

巡洋艦「ジェムチューク」「イズムルード」及び駆逐艦は敵の水雷攻撃に対し、戦艦の翼面を援護するのに便利なように位置をとり、又巡洋艦戦隊は中央戦艦戦隊の列外に於いて、我が戦艦戦隊の両端を迂回して本隊を挟撃しようとする敵の巡洋艦に対抗し、又苦戦に陥り、火災を起こした戦艦戦隊の諸艦を援護すべき任務を与えた。

艦隊造船大監は、長官の命により艦隊乗組み造船官を率いて戦艦及び巡洋艦に赴き、隔壁及び舷側の水密や防水装置を検査した。

4月19日午前8時戦艦全部と巡洋艦「オウロラ」は従陣を組んで出港し、自差を測定した後最も単純な艦隊運動を行い、同日午後2時諸艦は停泊地に帰り、従前の位置に投錨した。

司令長官はこの後艦隊の北進に要する石炭準備の不足を甚だしく苦慮し、「カムラング」湾に1週間錨泊した後、海軍大臣に次の電報を打った。

「本職は、「カムラング」湾に向かう途中に、石炭の用意はサイゴンに於いてされているものと考え、即刻ウラジオストックに向かって航進する必要をサイゴン経由で電報を発信し、又1月以来幾度となく反復して要請していたにも拘わらずサイゴンに於いて何も用意されていなかった。その為に敵の不意に乗ずる機会を失い、又前進出来る時期が不明となっている」

5 艦隊に於ける無線電信の状態

長官は艦隊の無線電信が甚だ満足し難い状況であることを令達で告示した。

艦隊が無線電信を採用するについては、8ヶ月間非常に辛酸をなめたがその結果は次のようである。

昨日419旗艦「スウォロフ」は15マイル離れた巡洋艦「アルマーズ」に向かい1時間15分にわたり呼び出しを行ったが遂に応答しなかった。泊地に残った「オレーグ」も呼び出そうとしたがこれも何ら応答がなかった。本日は午後2時から艦隊に接近する巡洋艦戦隊の3隻と交信する計画で、「スウォロフ」は受信に努めたが機器の調整不良のため大気の放電に類する信号に感応したのみであった。「スーロフ」の無線機がこのような状態である事は嘆かわしい限りである。

この令達の結論として、各司令官、艦長に対してこの重要な海軍の特殊技術に対して熱誠を込めて効果を上げるよう訓示した。

 

6 艦隊に対し24時間内に佛国領海退去の要求

421午後1時、佛国巡洋艦「デスカルト」に座乗する海軍少将「デ、ジョンキエル」は戦艦「スウォロフ」に来艦し、第二太平洋艦隊の中立国在泊に対し、日本から抗議があった為に露国艦隊は佛国政府の要求に従い24時間内に佛国植民地の領海を退去すべきよう伝えた。

サイゴンから糧食及び郵便物を持って汽船が到着し、艦隊の運送船に搭載する。

翌朝司令長官は、旗艦に各司令官及び各艦長を招集し、佛国政府の要求を告げ、諸艦を率いて公海に出て、艦隊の糧食、石炭等の補給及びペテルスブルグとの電信交換の便宜上「カムラング」湾を遠く離れない佛国の領海外に留まり、運送船は中立規則を適用せられないため、巡洋艦「アルマーズ」と共に湾内に残すことに決める旨伝えた。

7 艦隊の「カムラング」湾出動

 422日午後1時艦隊は抜錨して公海に出、そして運送船及び巡洋艦「アルマーズ」は湾内に残した。仏国巡洋艦「デスカルト」は艦隊の出港を監視しながら続いて、一旦出港した後湾内に引き返した。

艦隊は公海に出た後、微速力で隊列を保ちつつ、「カムラング」湾の前面を遊弋した。

司令長官は艦隊の出動前に海軍大臣に宛てて、次の電報を発信した。

「約束の石炭は、422日までに1トンもサイゴンに於いて受け取っていない。ハンブルグ・アメリカ会社の汽船その他の汽船も搭載し、来ていない。佛国政府の要求により、止むなくその領海外に退去せざるを得なくなった。本職は公海に留まって、サイゴンとの連絡を保つ予定である。艦隊の石炭の供給について、安心を得ない限り、一歩も目的地に向かって進むことができない。艦隊が海上に留まる限り日々消費する石炭は千トンにもなり進退に窮する。石炭の納入契約を結んだ業者に対してピータースブルグから切実な督促を行われる事が急務である。」

4月23日朝艦隊は「カムラング」湾前の公海に於いて、機械を停め時々隊列を整える為に航進する。巡洋艦を四方に環状に配置して、水平線外の監視を拡大し且つ商船の臨検をしやすくする。

(第3太平洋艦隊の動静:インド洋

海軍少将「ネボガートフ」は、「ロジェストウェンスキー」中将の隊と遂に合同できない場合ウラジオストックに直行する計画を立案した。

日本の海岸の東側を2百ないし250マイル離して8ノットの速力で航行し、千島水道を通り、樺太の海岸に出て石炭を補充した後全速力で宗谷海峡を通過し露国の海岸に向かう。)

 

4月24日及び25艦隊は「カムラング」湾付近の陸岸を視界内に保ちつつ、微速力にて行進し

「ロジェストウェンスキー」中将は424日付の電報を接受したが、その大要は「ネボガートフ」少将の支隊が到着するまで待てであった。

同時に海軍省から423日付けの電報を受信した。「佛国政府は日本の抗議により艦隊がカムラン湾を速やかに退去する事を強く要求した。若し艦隊が佛国の領海内にあるのであれば退去せよ。」

 

第3太平洋艦隊の動静:インド洋

2回の実弾射撃

午前8時インド洋に於いて5個の標的に対して第2回の実弾射撃を行う。この射撃は前回よりはるかに好成績で、5個の標的中2個を破壊し2個を損傷させた。この成功は、距離測定儀の測定が正確であった事と乗組員が訓練に熱心であった事による。

4月25日「ネボガートフ」少将は、旗艦に参集した各艦長に対して次の事項を告げた。

「ロジェストウェンスキー」中将の艦隊について何らの情報も得られない場合には、日本海岸を遠く離れて太平洋を迂回し、日本艦隊の主力を避けてウラジオストックへ向かう。

マレー海峡を通る為支隊は針路を「スマトラ」の北端にとった。

 

4月26日午前6時巡洋艦「アルマーズ」及び運送船は石炭搭載を終わり艦隊に合同する為、湾内から公海に出て、巡洋艦「アウロラ」も同じくその哨戒地を去って、艦隊に復帰し、航行序列に於けるその位置に就いた。

午前930分艦隊は8ノットの速力で北進する。                                                                     

8 「ワン、フォング」(「ホンコーヘ」)湾に寄港する

426午前3時頃艦隊は「カムラング」湾の北60マイルにある「ワン、フォング」湾に到着した。同湾は600mから1500mの高い山々で囲まれ、半ば開放された大きな湾である。

全艦隊は午後6時までに湾内の前部に投錨した。その配列は四線となっており、陸岸に沿って運送船が錨泊し、これに平行に偵察隊及び巡洋艦戦隊が錨泊し、その沖に戦艦戦隊が錨泊し、駆逐艦は陸岸と運送船の間に位置した。

艦隊は夜中に全ての燈火を隠蔽し、水雷防御網を張り、駆逐艦及び艦載水雷艇を哨戒のため派出した。

この錨泊の積極的特点は湾口が広大であり、沖合から来襲する波濤のために不安を感じる。

本湾の特徴は、敵の魚雷攻撃は一方向からのみである事、電信局の設備がないこと、官吏が居ない事でありこれらは艦隊のために好都合であった。

「ワン、フォング」湾の南方20マイルにある佛国官憲から我が艦隊に対して、24時間以内に佛国植民地の領海外に退去するよう要求を受けた。しかし陸上からの交通が不便な為艦隊司令官に伝わったのは52日であり、それまで艦隊は悠々と湾内に停泊する事ができた。

426戦艦「スウォロフ」は石炭を搭載し、巡洋艦戦隊はその晩から兵員を派出し、27日の夜に亘って徹夜で獨国の汽船から石炭を運送船「ウオコネジ」に移載する。

艦隊の各艦の周囲に、付近の集落から安南人が来て、牛、鶏、鴨、「バナナ」、南瓜等を売り、代金の釣銭に彼らは日本に於いて偽造した露国の小紙幣を渡した。

 

(第3太平洋艦隊の動静:インド洋

支隊は「スマトラ」島の西岸から150マイルの所で石炭搭載を行う。天気良好であり大きなうねりも全く無く又無風であった。今回は特に大量の石炭を搭載した為長時間を要した。)

 

4月28日艦隊は運送船から石炭、材料、麦粉、牝牛を積載した。これはハンブルグ アメリカン汽船会社が、艦隊に随行してこれ以上北に随行することを拒否したためである。

そして同地北方の石炭譲渡を請け負った会社は、数隻の汽船を雇入れ、又サイゴンから汽船を呼び寄せ、確実にその義務を履行した。

艦船は皆載炭作業に忙殺させられたとはいえども、受難週間の終日であるので正式の祈祷会を行った。

最近数日間に於ける士官公室に於いては、その期待する「ネボガートフ」少将の支隊に関し、談話が何時も行われた。

艦隊の諸艦は不明に無線電信を受信し、ある者は「ネボガートフ」少将の支隊から発する電信であるといい、ある艦は旗艦へ一将校を派遣し戦艦「ニコライ一世」から戦艦「スウォロフ」へ所在点を問い合わせた電信を受信したと告げた。艦隊司令長官は、「ネボガートフ」少将の支隊の航進を確かめるため巡洋艦1隻を外海に派遣したが、上記の電信は佛国の軍艦2隻で交換していたものであることを確認した。

(第3太平洋艦隊の動静:インド洋

載炭未了の軍艦は、その作業を継続し他の軍艦は運送船から弾薬、機関科材料、真水及び糧食の補充を行った。)

9 復活祭

復活祭は汽船で回送してきた糧食を受け入れ、又土人から牛、鶏及び鶏卵等を買い込んだため、露国の習慣どおり迎えることができた。

429は神聖土曜日であるため、艦隊は祭日を迎える準備を行い、旗、花及び緑葉をもって隔壁を覆い、兵員甲板及び砲甲板にクリーチ(復活祭用のパン)、彩色した鶏卵を配置し、作業は艦内の掃除、室内の整理にとどめて全部休業した。

艦隊司令長官は令達を以て以下の注意を促した。

「一か月前に於いてすら日本人は我が艦隊の在泊する当地に巡洋艦及び駆逐艦を配置した程であるので、今日に至っては不意の夜間攻撃を決行する準備は一層完備していると思われる。

日本人は不意の攻撃の時期として、大祭日の前夜である今夜は彼らの絶好の機会であろう。故に祈祷中及び除斎式中といえども、当直員の他に、分隊は半数の将校、探照灯は半数の兵、47ミリ及び75ミリ砲は半数の砲員、12インチ及び6インチ砲は全部の砲員又無線電信所付きで経験を有する信号兵は甲板に残って、各人は部署を離れてはならない。

当直の巡洋艦、駆逐艦、艦載水雷艇は特別慎重にその任務を遂行すべし」

この夜日本人の攻撃はなし

(第3太平洋艦隊の動静:インド洋

この日は神聖土曜日であるため、各艦は皆キリスト復活祭の準備に着手する。)

 

4月30日は神聖日曜日であり、午前から満艦飾を施し全ての作業を休む。

司令長官は汽艇に乗り艦隊を一周して祝賀を交換し甲板に整列した兵員に向かって祭日を祝った。

この日長官は令達を以て、各艦長に対して、自艦の石炭搭載に留意させ、常に現在炭量によって、430日より今後10日間 3千マイルを10ノットの速力で航海するに差し支えないように石炭の現在量を維持せよと訓辞した。

(第3太平洋艦隊の動静:インド洋

復活祭の第1日目であり、支隊の各艦は停止し、司令官の許可を得て汽艇を降ろして、互いに往来し、士官公室に於いて終日祝賀の交換を行う。)

51佛国駆逐艦「ジ、カ、ウエイ」気象台の発表した台風襲来の警報を伝える。

 

(第3太平洋艦隊の動静:マラッカ海峡

午前8時支隊は航行序列を整えマラッカ海峡に向かって航進する。

日没後警戒を厳重にし当直舷の将校以下全員配置に付いた。)

 

52風強く、大波が起こり、且つ霧が発生した。艦隊は急いで石炭を搭載する。

10 「ロジェストウェンスキー」中将「ウラジオストック」に於ける石炭の不足を憂う

「ロジェストウェンスキー」中将はこれまで艦隊の石炭及び糧食の補給は幸いにして好都合であったが、艦隊が「ウラジオストック」へ到達後に於ける石炭の供給について、大いに配慮し、次の電報を「ペテルスブルグ」に向け、発送した。

「艦隊は、「ネボガートフ」支隊と合同して、結氷前に「ウラジオストック」に根拠を固めるためには50万トンの石炭を至急、「ウラジオストック」へ運搬し、保存しておく必要がある。これは朝鮮半島を6回往復するに足る石炭量である。そしてこの石炭は、豪州及びニュウヨークから宗谷海峡を経て、「ウラジオストック」へ至急輸入する必要がある。」

11 艦隊出動して再び「ワン、フォング」湾に帰還する

52日陸上の官憲は艦隊の領海退去を要求した佛国政府の文書を手渡した。

艦隊は午前8時頃、海軍少将旗を掲げた佛国巡洋艦「ギシヤン」と会合した。同巡洋艦は、「ワン、フォング」湾に赴いた後、南下したようである。

艦隊は外海に出て、エンジンを停止し、日没後戦闘序列を取、終夜最少速力にて編隊のまま巡航する。

 

(第3太平洋艦隊の動静より:マラッカ海峡

シンガポール:「ビューロ、ウエー」の正横を通過する際、シンガポール市の灯火をかすかに認めた。マラッカ海峡の航行に3日を要した。夜中に豪雨を伴った熱帯地の雷雨に遭う)

 

5月4日午前零時、艦隊司令長官は信号火箭を上げて、水雷攻撃、撃退の演習を行わせた。

艦隊は午前8時「ワン、フォング湾」に入り、以前の位置に再び投錨する。

 

(第3太平洋艦隊の動静より:シンガポール沖

当夜支隊は最も危険なシンガポールの近くを通過する。支隊は航路標識を迂回して左に煌々たる灯火に照らされたシンガポールの全市街及び泊地に投錨した船舶を見る。かくして支隊は全く認識される事無く市の傍を通過した。)

 

5月5日の午後は、通常の諸訓練及び課業を行った。「ロジェストウェンスキー」中将は更に、今後安南の各湾を遍歴せざるを得なくなる事が予想される為、曳船「ルーシ」に艦隊の錨泊に適し、沖合いから発見されにくく、又電信局の存在しない湾を調査させた。「ルーシ」は「ワン、フォング」湾に並んだ「クアベ」湾の「ダヨット」港を漸く発見し、上記の条件を具備したものに近いと報告した。

司令長官は「クアベ」に回航しようとしたが台風が襲来する予報に接したため、その回航を延期する。

(第3太平洋艦隊の動静より:南支那海

午後1時針路上に1隻の汽艇を認めたが、シンガポール駐在の露国領事の代理人で既に2日間海上に留まっていた。)

 

海軍大臣の電報

 1 「ロジェストウェンスキー」中将は全艦隊を率いてサイゴンの北方「カムラン」湾に入り、以後の行動は不明である。貴官が「ロジェストウェンスキー」中将の艦隊に合同できない場合にはウラジオストックへ回航する裁可を得た。

 2 可能な限りその在泊日数を短縮して中将の指定する地点に急航せよ。

 

5月6日は皇后「フェオドロウナ」の命名日であるため艦隊は全ての作業を休む。

乗員一同は「ネボガートフ」少将の支隊の来着が著しく遅れ、しかも何らの消息が無い為不安の念を持つようなった。

(第3太平洋艦隊の動静より:南支那海

司令官は次の信号を掲げた。

5月9日に北緯12度50分、東経109度23分の地点で第2太平洋艦隊と合同の予定である。)

 

5月7日「カムラン」湾から、郵便とともに「ネボガートフ」少将の支隊が5月5日午前4時に無事シンガポール沖を通過したとの電報を受領した。この報告に接し、艦隊の乗員は5月9日までには支隊と合同し、北進でき、安南海岸の遍歴は、今後行う必要がないと大いに歓喜した。

12 佛国政府より艦隊の中立侵害に対する再度の抗議

5月7日午後430分海軍少将の座乗した佛国巡洋艦「ギシャン」が沖合いから来て、艦隊が安南の諸湾に在泊する事は佛国の中立を侵害するものであるとする佛国政府の抗議書を艦隊司令長官に交付した。よって艦隊司令長官は海軍大臣に宛てて、次の電報を発した。

「佛国人は我が艦隊が連続して当地付近に滞在し、艦隊の戦闘力の増加に努めたとして大いに譴責しているがこれはまったくの妄想である。艦隊が「カムラング」湾に入ったのは414日であり、416日には既に我らに退去を促すために、佛国海軍の一将官が来て、その後艦隊は絶えず遍歴している。艦隊は既に一カ月彷徨した為大量の石炭を消費し、機械を損なった」

「ネボガートフ」少将の支隊を捜索して、この案内に任務のために巡洋艦4隻を出動させた。

この日載炭船4隻が入港し、又サイゴンから汽船「エリデン」が、艦隊に送付された水兵靴1万2千足を搭載して、漸く到着した。

 

(第3太平洋艦隊の動静より:南支那海

昼間はしきりに戦闘訓練を行った。夜間はマレー海峡を通過した時のように警戒を行った。)

13 海軍少将「フェリケルザム」病む

海軍少将「フェリケルザム」は416日脳溢血をおこした。幸いに一命をつなぎ止めたが病体の少将は、健康を甚だしく損ない、自分自身で衰弱していくことを感じられるようで、全快の望みは無い。

 

(第3太平洋艦隊の動静より:南支那海

夜第2太平洋艦隊の巡洋艦「ジェムチューグ」及び「イズムルート」を呼び出す無線電信を受信したため、艦隊の偵察艦が近くで遊弋している事を知る。)

 

14 敵と遭遇した場合に於ける運送船の処置に関する長官の訓示

司令長官はウラジオズトックに赴く途中、敵の攻撃を受けることを予測し、運送船の取るべき行動の概要を次の様に定めた。

1 敵がもし我が航路の前方右側に現れた時、主力は、第3戦艦戦隊、巡洋艦戦隊及び偵察隊と連携を保ちつつ、、敵と交戦するため長官の命により敵側に向かうべし。

 運送船は運送戦隊指揮官の長旗を掲げた巡洋艦を先頭として、この運動に倣い敵と反対方向に左八点の正面変換を行い、艦隊より5~6マイル離れた後、巡洋艦に従い常に敵と反対する側方に於いて、艦隊と離れているべし。

2 敵がもし我が艦隊の前方左側に現れた時は、信号に従い諸隊は皆前項に掲げたように行動すべし。

3 敵が若し我が正横に現れた時・・・・・・

4 敵が若し我が艦隊の後方に現れた時・・・・     略

5 敵が若し我が艦隊の針路上に現れた時・・・・

15 艦隊の「ワン、フォング」湾出動

5月9日午前6時艦隊は抜錨用意を整えた。午前8時海軍少将旗を掲げた佛国巡洋艦「ギシャン」が湾内に来た。艦隊は「ギシャン」の入港後程無く抜錨して、外海に出た。先頭に巡洋艦「アルマーズ」、運送船の順に出動し、次に艦隊は10時頃二列縦陣となって出動したが、佛国巡洋艦「ギシャン」もまた艦隊に続いて出港した。

16 「ネボガートフ」少将の支隊と合同する

この日正午艦隊は支隊の巡洋艦と無線電信の応答を得て、司令長官は巡洋艦にその所在する経度、緯度を問い、艦隊と出会うための針路を指示する。

午後3時「ワン、フォング」湾の入口から20マイルの海上で、「ネボガートフ」少将の支隊と無事に合同し、新来の軍艦を支隊に編入する。

新来の軍艦を艦隊に編入した連合艦隊は、その針路を北東に取り、しばらく航進した後「クァ」湾入り口の正面で航進を止めた。

午後7時までに巡洋艦及び運送船は全部湾内に投錨し戦艦は海上に残った。

 

(第3太平洋艦隊の動静より:「クァベ」湾

午後3時支隊の航路上に煤煙を見、続いて第2太平洋艦隊の艦船が2列の縦陣で西進する艦影を見るに至った。艦隊は機械を停め、「ロジェストウェンスキー」中将は支隊に対し「航海の成功を祝し且つ喜ぶ」「支隊の合同を祝す」との信号を掲げる。諸艦は「ウラー」の歓声を挙げ、軍楽隊は国歌を演奏する。

少将は汽艇を降ろし、司令長官を訪問した。会談は一般の挨拶に留まり、今後の準備と石炭搭載の為支隊を「クアベ」湾に回航するよう命じた。

支隊の装甲艦で第3戦艦戦隊を編成し、巡洋艦は艦隊の巡洋艦戦隊に編入された。)

 

17 「ロジェストウェンスキー」中将の健康状態

「ロジェストウェンスキー」中将は自己の重責を遂行することに対して,不断の難題と各種交渉が原因で心を痛め、疲労と衰弱が甚だしく、又隷下艦隊の勢力に対し不安の心を起こし、以前未だが「マダガスカル」に在泊当時は、激しく反対した「ネボガートフ」支隊の来着を首を長くして待つようになっていた。そして「ネボガートフ」支隊の来着と共に無意味な安南海岸の遍歴を止めて、いよいよ第2太平洋艦隊最後の行動に移らんと決心した。

514司令長官は、北進に臨みペテルスブルグへ次の電報を発した。

「ネボガートフ」支隊と合同した。「フェリケルザム」少将は倒れて、5週間になるが未だ起き上がる事ができず、容泰はますます悪化している。本職も僅かに歩行ができる程度であり、甲板を一周することすらできない。故に至急健康で適任の海軍総指揮官若しくは艦隊司令長官をウラジオストックへ派遣されるよう要請する。この様な理由で艦隊の状態は頗る不良であるがしかし本職は倒れるまで海軍総指揮官の下で艦隊の指揮を継続したいと思っている。」

第10章 最終の渡航に対する艦隊の準備

ホーチミン(旧サイゴン)とカムラン

  「クアベ」の錨泊及び艦隊の補給

510日黎明、「ネボガートフ」少将支隊の戦艦は全部「クアベ」湾に入り、直ちに投錨し、石炭を搭載する。

「ロジェストウェンスキー」中将も又、第1及び第2戦艦戦隊を率いて海上に於いて、大短艇を使用して、運送船から石炭を積載する。

艦隊は「クワベ」に仮泊すること四昼夜に及びこの間諸艦はエンジン、ボイラーの検査及び修理並びに運送船より石炭、糧食及び材料を搭載する。

軍艦は全部石炭を極度に搭載し、中でも装甲海防艦の如きは、その載炭量は600トン乃至650トンに達した。各艦はいずれも、砲塔の周囲、砲台内、兵員室、士官公室、艦長室に至るまで少しでも隙間のある所には石炭を搭載した。

「ネボガートフ」少将の支隊が佛国の領海に来た為佛国政府の抗議を引き起こし、ペテルスブルグの佛国大使は、艦隊司令長官は佛国の中立を遵守しようとする権利と義務を無視していると述べた。海軍省は植民地官憲の提言する所に適合するよう行動すべしとの命令を発した。

これに対して「ロジェストウェンスキー」中将は諸艦のエンジン検査及び修理が終わるならば、全艦隊を率いて直ちに出動すると回答した。

海上に漂白する戦艦は、大きなうねりのため石炭搭載を継続することができず中止となったので「ロジェストウェンスキー」中将は満足に石炭を搭載するため、戦艦戦隊を率いて「ワン、フォン」湾に入り、徹夜で載炭して、黎明になってその外海に出て、全艦隊に対して出動準備を令し、514日午前5時いよいよ出港の令を発した。

5月13日サイゴンから病院船「カストロマ」来る。

「クワベ」に在泊中は兵員に散歩上陸を許した艦もあったが多くは毎晩兵員に対して講和を行い、愛国心を高める幻燈、戦時に於ける海上や陸上の生活状態を写した絵画を鑑賞させた。

「ロジェストウェンスキー」中将は海軍省から「英国の汽船を拿捕したとの事であるがどのように処置したか」との質問を受け次のように返電した。

「艦隊が船舶を拿捕したとの通信は全くの虚報である。しかし安南海岸を離れた後は禁制品を多量に搭載した船舶は悉く撃沈するつもりである」

2 将校の会合及び相互の訪問に於ける感想談

新来した支隊の将校は、艦隊各艦の将校と会いその感想を交換した。

支隊の将校は、艦隊の将校が憂鬱に沈み気勢が上がらないのに反して、頗る快活である。艦隊の将校は、次の様に語った。

未曾有の困難を極めたこの航海に於いては、皆不慣れな気候に侵され、煩雑な載炭作業及び倦怠な当直勤務に追われ休息の暇がない状態であるのに、単調な食物を取り、しかも最も不便な条件を今後なお忍ばなければならなず、且つ我が海軍が出征準備が不十分であるのに引き換え日本海軍は全ての点に於いて優越していることを知った為士気は甚だ振るわない。実際艦隊の欠点は顕著である為吾人は労力を惜しまず手段を尽くして欠点を補う努力をする必要がある。

司令長官は剛毅な性質と過酷な要求とをもって専ら部下に臨み、模範的にこれを服従させ、もって自己の艦隊は如何なる妨害に出会っても、容易に突破することができるとの確信を部下に持たせようとした。

艦隊司令長官は、司令官及び艦長の対してすら艦隊の行動予定又は戦局の推移等を熟知させる必要はないとして、部下には全て単に命令に盲従することを要求した。

3 支隊の合同した後の艦隊の士気

前記の様な状態である為、艦隊の乗員の士気は非常に消沈し、陰鬱に陥っていたが「ネボガートフ」少将の完全な一支隊と合同したため、俄かに勇気を回復し、多数の者は勝利を確信し、又前途を悲観している少数の者までも、この連合艦隊を巧妙に運用すれば、多大の損害を被ったとしても日本海軍の勢力を減殺して、これを軍港内に閉じ込めつつ、ウラジオストックの巡洋艦戦隊と残存する旅順艦隊と策応して制海権を収めることができるとの望みを持つようになった。

4 艦隊司令長官の戦略及び戦術的方策

「ロジェストウェンスキー」中将は、最後の航海に臨み「如何なる航路を採るべきか」の問題について何人にも諮らず独断でこれを決定した。

ウラジオストックへの突破をすることが急務で、この目的を達成するには最短航路である朝鮮海峡を通過する他ないとして、同海峡付近に集中する日本の戦艦戦隊等と遭遇することを覚悟したが、1904810日の会戦と同様に数艦を失うが多数の艦船を率いてウラジオストックに達することができるものと考えた。

長官の選択した朝鮮海峡は日本海軍にとって最も有利な条件を付与し、全艦隊を遺憾なく活躍させた。しかし若し第2艦隊が日本海軍を、その根拠地からなるべき遠い所へ誘い出すことができたなら、決戦の成果を著しく減却させることができたに違いない。そのため日本の周囲を迂回することが必要であった。

朝鮮海峡を経由する航路に比較すれば、他の航路ははるかに良好であるため長官が他の航路を取らなかった事は極めて遺憾である。要するに我が艦隊の弱点を補足するため戦略上の成算を巧妙に立て、好機を捉えて地理上の利用を図ることが必要であった。

 

無論「ロジェストウェンスキー」中将もこれらの事を考慮したに違いないが津軽海峡は航海するのが困難であり、且つ機雷を敷設されることを懸念し、又第2艦隊の速力は非常に遅く、日本列島を迂回したとしても日本の軍艦に察知され、敵の艦隊は朝鮮海峡と同様に津軽海峡に来襲し我が艦隊を阻止するであろうとした。

又中将は宗谷海峡5月に通過する事はの有無の為不可能であると判断した。

 

この他中将は、運送船及び載炭船の石炭不十分であることを憂い、そのため我が派遣員は石炭を買い入れ、艦隊に送ろうとしたが、英国政府は石炭商に対して、地方官憲の証明を得なくて港内から石炭を積み出すことを厳禁したため、東洋の諸港では遂に第2艦隊に送るべき石炭を入手することが不可能となった。

59日「ロジェストウェンスキー」中将は次の令達を発した。

「「ネボガートフ」少将の支隊と合同した為、我が艦隊の勢力は敵の海軍力に匹敵するに留まらず、戦艦の数に於いて既に敵を凌駕する」

しかし長官は艦隊の乗組員が訓練不足であることを十分承知していた。

無線電信装置は複雑を極め、故障が多くその効力は望むべくもなかった。射撃は、弾薬が不足であるため、演習を行うことができず、露国出発以来艦隊の実弾射撃は、「マダガスカル」在泊中の4回のみであった。

第11章 安南海峡より朝鮮海峡に至る艦隊の行動

1    艦隊の出動及び陣形

艦隊はいよいよ514午前5時「クアベ」を出港する。この日天気は極めて快晴であった。

先ず駆逐艦が抜錨し先頭となり、続いて巡洋艦、運送船、第3戦艦戦隊の順で出港した。

「ロジェストェンスキー」中将は第1、第2戦艦戦隊を率いて海上に漂泊し、湾内から出港する諸艦を待って、午前9時頃、完全に隊形を整えた。この時海岸に接近して錨泊する佛国巡洋艦1隻が我が艦隊の行動を監視しているのが目撃された。

午前9時20分航行陣形を作り、8ノットの速力で針路を北に取る。11時40分となり針路72度に変針し台湾島に向い速力を9ノットに増加する。

艦隊は総数50隻の艦船からなり、その内37隻は軍艦旗を掲げ、13隻は商船旗を掲げる。

午後5時より艦隊は夜中の航行序列とする。

5月15日は終日好天である。午前6時艦隊は昼間の隊形に改める。

外洋に出た後各艦は毎日射撃訓練、距離測定訓練及び距離側定儀の修正を行った。各艦の測定した距離を審査したところ、多いものは10ケーブル以上の誤差が発見され、艦隊司令長官は「目前に戦闘を控えている今日、各艦が距離測定をおろそかにしているのは嘆かわしい。距離測定は戦闘開始数時間まであろうとも決しておろそかにしてはならない」との令達を出した。

戦艦「アリヨール」が機械に故障を生じた為艦隊は1時間余り、微速力で航進した。

 

5月16日艦隊は朝から昼食まで射撃訓練及び距離測定訓練を行う。この日は何らの事故も無く平穏に航進する。

偵察隊を朝から出動させた。艦隊との通信連絡には無線電信を使用せず視覚信号を使用させた。午後5時艦隊の30マイル前方に派遣していた偵察隊が帰り、艦隊の隊列に入る。

戦艦「ナワリン」は舵機を破損した為、夜間列外に3時間も出ていた。

 

5月17日午前零時艦隊は針路40度に変針し、午前7時30分まで速力8ノットで航進し、針路51度に変針する。艦隊は例の如く射撃及び距離測定訓練を行う。

2    石炭搭載

5月17日午前11時30分、司令長官は「明日黎明から石炭を搭載する。各艦は運送船に石炭袋を配布すべし」との信号を掲げる。

戦艦「アリヨール」「ナワリン」及び巡洋艦「ドミトリー、ドンスコイ」は機械に故障を生じ、修理の為列外に出た。

5月18日午前515分艦隊は機械を停止し、汽艇及び大短艇を降ろし運送船から石炭を搭載する。載炭中は巡洋艦に信号の到達する範囲内で哨戒線を張らせて警戒した。

当日は海上静穏であるが大きなうねりのため戦艦といえども動揺が激しかった。

午後320分載炭を終わり、短艇を収容する。

深夜に戦艦「ナワリン」及び「ゲネラル、アブラクシン」のエンジンに故障が発生した為微速力で航進する。

 

3    二汽船を抑留する

5月18日午後1045分ごろ舷灯を点灯せず艦隊と平行して航進する船影を発見し、司令長官は巡洋艦「オレーグ」に臨検を命じた。「オレーグ」は汽船に向かって航進し、探照灯を点灯し、空砲を発射して停船させ、短艇を下ろし武装した水兵9名と将校2名で臨検した。将校は自ら艦橋に立って航進を命じ、艦隊に向かって巡洋艦「オレーグ」に続行させた。この汽船は英国船籍の「オールドハミヤ」で日本向け石油を搭載していたが船籍証書を持っていなかった。長官は明朝黎明に、艦隊の航進を止め、更に綿密に検査する事を命じた。

 

5月19日午前5時戦艦「アブラクシン」の機械に大きな故障が発生した為艦隊は航進を停止した。

この時南方に1隻の汽船を発見し巡洋艦「ジュムチウグ」に臨検を命じたが、「ベルゲン」籍の汽船でマニラから日本に向かう途中で、積荷は無く証書類を全て完備していた為開放した。

4    艦隊の航進

「オールドハミヤ」は、巡洋艦「オレーグ」に対して手旗信号で「水夫の一人が船尾の船倉内の石油缶の下に砲を隠していることを告白する」と報告した。司令長官は巡洋艦「オレーグ」に将校からなる数名の委員を選び、同船に派遣することを命じた。

委員等は臨検の結果を審議し、「オールドハミヤ」は15万個の石油缶を搭載しながら船籍証明書を保有しないのみならず船長の釈明が要領を得ないため、この商船を押収する事に決定した。

艦隊は諸艦から少尉候補生3名及び水兵37名を選び、英国船員の代わりに送り、船長以下乗組員を巡洋艦に収容した。

午後10時過ぎまで終日「オールドハミヤ」より石油缶を運び、一方同船へ石炭及び糧食を積みこんでいたが午後11時から天候が急変したので石炭の積み込みを急いだが、天候が深夜から更に悪化したので中止した。

 

5    駆逐艦の任務

この日午後長官は令達240号を諸艦に配布した。「日本の諸島間を夜間に航進する時、駆逐艦は横陣を作り、偵察隊の前方1.5マイルに占位し、航海燈を掲げて航進すべし。但し燈火を弱光にすべし、又両翼の駆逐艦は外側の舷燈を点灯ずべからず。航路の直前に艦船を見た時は、駆逐隊司令の選定した駆逐艦に追跡を命ずべし。もし浮遊機雷を投下した疑いがある時は、探照灯を点灯し、浮遊機雷を認めた駆逐艦は信号灯で艦隊を停止させ、最も近い駆逐艦は機雷の爆破に従事し、その他の駆逐艦は残余の海面を隈なく照射すべし」

520午前425分艦隊は北50度東に転針し「バタング」島と「バリングタング」島との間を通過する。

この付近より日本海流が起こり、航進速度に影響を及ぼす事頗る大である。

5月21日司令長官は巡洋艦「クバン」に命じて、「オールドハミヤ」に石炭百トンと必要品を供給させた。同艦は作業終了しだい秘密命令に従い日本本島の東岸を独立して行動することを命じた。「オールドハミヤ」は日本を迂回して宗谷海峡を通過しウラジオストックに行く事となった。

「オールドハミヤ」の船長及び機関長は捕獲審判に必要な為ウラジオストックに送致することとなった。このため病院船「アリヨール」に移したがこのため後日日本が同船を戦利品とする口実を与える事となった。

6    補助巡洋艦二隻の分離及び艦隊の編成変更

521艦隊の正午位置は北緯2229分、東経125度であり、一昼夜の航程は150マイル、平均速力は65ノットである。

艦隊は台湾の海岸に沿って航進する。

艦隊は回帰線を超えると共に著しく冷気を感じた。

522午前520分長官は天候が極めて不良である為に載炭作業を中止する信号を掲げた。

午前530分艦隊は宮古及び琉球諸島の海峡に向かい針路を337度とし、日本が堅固に防備している台湾を迂回する。

午前6時頃暴風雨に会う。

軍艦旗を掲揚する時刻となり、巡洋艦「テレク」は四国及び九州以南の商船航路に於いて活動する為に直ちに発進せよと命じられた。

艦隊は昼間の航行序列と変更し、偵察隊は前方34鏈(3,4マイル)の位置に楔型の隊形を取って航進させる。第一及び第三戦艦戦隊は右縦列とし、第二戦艦戦隊及び巡洋艦4隻は左縦列となり、運送船は2列の従陣を以て軍艦の縦列間を進み、それぞれの後部に巡洋艦1隻を航行させた。また2隻の巡洋艦は左右に分かれ、戦闘戦艦の正横に占位して航進する。

新航行序列をとった後艦隊は朝及び昼間の休憩後射撃訓練及び距離測定訓練を行う。

夕刻となって風はおさまったが急に寒くなり、急激な温度変化は数ヶ月間熱帯地方を航行した後であるので乗員の健康に悪影響を与える事を心配し、甲板上に勤務する兵員に「フラネル」の上着を着用するよう令達を発した。

523の朝に至り、風は全く凪いだ。

7    最後の石炭搭載

艦隊は琉球諸島を通過する。午前5時長官は艦隊を停止させ、大短艇を使用し、運送船から石炭を搭載させる。

当時艦隊は装甲海防艦に至るまで、各艦共に日本を迂回してウラジオストックに達するに足る石炭を既に搭載していたにも拘らず、今また搭載させるのは司令長官が津軽海峡を通過しウラジオストックに向かう計画であろうと多くの人が想像した。

各艦は満載石炭量よりもはるかに多くの石炭を搭載した。特に装甲海防艦のごときは積載できる限り多量の石炭を搭載したため、舷側装甲は完全に水中に没した。しかも石炭と同時に淡水をも搭載した。

8    「ロジェストウェンスキー」中将最後の令達

523日「ロジェストウェンスキー」中将は最終の令達243号及び244号を全艦隊に配布する。

「刻々戦闘の準備を完成させておくべし。

戦闘中戦艦は、損害を受けた僚艦或いは遅れた僚艦を乗り越すべし。

戦艦「スウォロフ」が損害を受け、進退の自由を失った場合には戦艦戦隊は「アレクサンドル」三世に倣い、若し「アレクサンドル」三世も又損害を受けた場合には戦艦「ボロジノ」に倣い、又「ボロジノ」故障の際は戦艦「アリヨール」に倣って行動すべし。

1駆逐隊は各司令官の旗艦を常に監視し、同艦がもし傾斜し、或いは進退の自由を失った場合、直ちに司令官及び司令部員を収容すべし。

艦隊の直接目的はウラジオストックに到達することであり、各支隊司令官はこの主旨を体して又この目的を達するためには艦隊の協力が必要であることを記憶すべし。」

艦隊は午後3時30分頃石炭搭載を終わり、短艇を引き揚げ航進する。

午後6時艦隊は一般の予想に反し日本を迂回する航路をとらず北西に向かった。

この時長官が旗艦に揚げた煩雑な信号から、長官が如何に興奮していたか察することができる。午後3時半から同5時までの1時間30分に50回の信号を揚げた。

9    海軍少将「フェリケルザム」病死

523日夜、数日来重態であった海軍少将「フェリケルザム」が逝去した。艦隊司令長官はこの報告を受けても、これを艦隊に告知せず、各司令官にすら通知しなかったが、近くの戦艦は手旗信号で信号しているのを傍受して承知していた。中将は戦艦「オスラビア」に掲げた少将の将旗を撤去させず、艦長「ベール」大佐に内命どおり第2戦艦戦隊の指揮を執らせる。

10 夜中の警戒法及び運送船の分離後に於ける編製の変更

この日以後夜間、艦隊はマスト灯を消し、舷燈及び艦尾燈の光力を減じて点灯させる。夜中の信号にも又小掲燈を使用し、発光信号の使用を禁じた。

523日の夜は曇天であり、冷気が強く時々強烈な風雨となったが無事に航進する。

524午前930分第二戦艦戦隊は第一戦艦戦隊に続航し、第三戦艦戦隊は第二戦艦戦隊の位置に移り、左縦列の先頭に立つべしとの命令があった。

この新隊形は令達第239号で示されたもので、本令によれば、運送船分離後の昼間の航行序列は次のように定められた。

「即ち右縦列は第一及び第二戦艦戦隊を以て、左縦列は第三戦艦戦隊及び巡洋艦戦隊(巡洋艦6隻)を以て編成し、艦隊の後尾である運送船は縦列となって航進し、第一駆逐隊の駆逐艦2隻は右縦列の先頭戦艦の右舷正横に航進する巡洋艦の後に続き、同じく2隻の駆逐艦は左縦列先頭戦艦の左舷正横を航進する巡洋艦の後に続いて航進し、第二駆逐隊の諸駆逐艦は大列内で巡洋艦「オレーグ」の正横に占位して航進するものとする。

病院船「アリヨール」及び「カストロマ」は昼夜とも艦隊の後方数マイルを隔ててその後側に位置して航進すべし」

11 運送船及び補助巡洋艦は分離して艦隊はいよいよ朝鮮海峡に向かう

午後2時30分司令長官は信号を使用して、明朝黎明となって運送船を分離し、この護衛を巡洋艦「ドネップル」及び「リオン」に命じた。そしてこの2隻の巡洋艦は運送船と共に編隊航行をする必要はなく、専ら敵の巡洋艦に対して安全を図るべしとの命令を発した。

午後5時25分艦隊は、終夜5ノットの速力で針路337度に向かって航進する。

夜中水平線に支那の大帆船数隻を認める。

 

5月25日午前5時、艦隊は針路276度に変針する。この日曇天にして小雨があり、西風が非常に強い。

午前8時頃運送船6隻は旗流信号により艦隊と別れ、巡洋艦「ドネップル」及び「リオン」の2隻に護衛されて上海に向かう。この2隻の巡洋艦は運送船を東経122度20分の子午線まで護衛した後、独立して黄海に於ける通商破壊に向かう予定

午前9時艦隊は針路73度に変針し朝鮮海峡に向かったが、間もなく巡洋艦は15ノットの速力に応ずるボイラーの準備をするよう命令された。

各艦は戦闘準備を行う。

午後9時針路64度に変針する。

夕刻日本の無線電信を傍受する。最初は不明瞭であったが暫くすると明瞭に判別できるようになった。その中で数語は解読できた。我巡洋艦「ウラル」の強力な無線電信機を発信して、日本艦隊の通信を妨害し、或いは交信を不可能とさせる事は容易であったが、艦隊司令長官は艦隊の接近を敵に覚られないため許可しなかった。

 

5月26日黎明、数隻の艦船間で無線通信が行われている事を知った。しかも30マイル乃至40マイルの距離と推測されるが、ひどい曇天であり水平線には何ら敵を見なかった。しかし電信の交換は終日にわたって絶えず行われ、夜になって漸く止んだ。

正午頃日本の偵察艦らしき白色の商船を右弦正横に見る。

艦隊は戦闘準備を行いながら航進し、可能な限り木造の部分を全て撤去し、短艇には水を入れ、水雷防御ネットで包み、司令塔には鎖索を巻きつけ、又甲板には炭袋と砂袋で壁を設けた。

各砲には砲員を配置し小口径砲には砲弾を装填し、ますます警戒を厳重にする。

午後4時30分「戦闘準備」の信号が掲る。

午後6時、明朝黎明までに全速力に対するボイラーの準備をせよとの信号があった。

午後10時左弦正横に探照灯の光芒を見る。

艦隊はいよいよ朝鮮半島に近づいた。

第12章 対馬海戦

対馬海峡

1 信濃丸 和泉

日本側海戦史より

5月27日 信濃丸は午前2時45分北東に航進中、その左舷に東航する一汽船の灯火を発見し、近づく。

左舷に10数隻の艦影を発見、自艦の位置は隊列の中間にあることを知り、急遽舵を転じ増速すると同時に敵艦隊が現れたと発信する。午前4時45分なり。

和泉は信濃丸の「敵艦見ゆ」との報を得て、我が艦隊を発見し4~5マイルの間隔を保って我が艦隊と平行の針路を取る。

2 出羽隊及び片岡隊の行動

出羽中将は戦隊を率いて午前10時遂に神崎の南方15マイルに我が艦隊を発見した。

第3艦隊片岡中将は午前9時、我が艦隊を発見してその左舷正横5マイルに位置して我が艦隊に隋伴した。

3 我艦隊の主力遭遇す

馬山浦に停泊していた東郷提督及び上村中将は信濃丸の電報を受信するや否や第1、第2、第4戦隊に直ちに抜錨を命じる。午前6時7分露国艦隊の針路を知り、これを沖ノ島付近に於いて撃滅せんと決心し加徳水道を出て沖ノ島方面に向かい、正午沖ノ島の北方に達する。

東郷提督は我が艦隊の針路を断つため「スーロフ」の左弦で左15点の正面変換を行う。

4 砲撃開始

第1撃は「スーロフ」から敵艦三笠に向かって放った。後続諸艦も皆一斉に砲撃を開始する。不意の好機に「スーロフ」は試射を行わず、しばしば乱射に陥った観があった。

日本の艦隊は回転を終了すると同時に、先頭の4艦は「スーロフ」に、次の残余の諸艦は「オスラビア」に向かって砲火を集中した。

午後2時40分ごろ「オスラビア」は全艦隊の目前で転覆した。

人事不省に陥った中将を中部6インチ砲塔に移す。この日2時半以後は我が艦隊を指揮する者は事実上存在しなかった。日本側記録によればこの時「スーロフ」は哀れ無残な残骸に過ぎなかった。

5 「ネボガートフ」隊包囲されて遂に日本艦隊に降伏す、「イズムルード」及び「アリヨール」の最後

5月28日午前10時「ネボガートフ」隊は完全に四面から包囲された。即ち北方及び東方には第四戦隊が、又その後方には第5戦隊が位置していた。西方並びに南西方面には第1、第2戦隊が、南方からは出羽中将の巡洋艦千歳が将旗を掲げて迫ってきた。

日本艦隊は三笠のメインマストが折れている他一見した所大きな損害はなかった。

午前10時30分彼我の距離が60鏈に接近すると日本の第1、第2戦隊は砲火を開き「アリヨール」もまた数弾を発射してこれに応戦する。

この時「ニコライ」一世は突然軍艦旗並びに少将旗を降下し万国信号により、「我包囲された為降伏する」との信号を掲げた。

日本艦隊の射撃はしばらく継続したため「ネボガートフ」少将は日本の国旗を掲げ、機械を停止した。ここで日本艦隊は射撃を中止し、東郷提督は「ネボガートフ」少将と交渉をするため幕僚を「ニコライ」一世に派遣した。

 

「ネボガートフ」少将は5千の人命を救い、無益な流血を避けるため敵に降伏したという。

敵の兵力が圧倒的であっても我艦隊の名誉のために血を流す事は決して無益ではない。古来戦士の名誉ある死は独り現代の国民の士気を鼓舞するのみならず子々孫々までも及ぼす。艦隊将兵の勇敢で模範的な行動は幾世紀を経ても国旗の名誉と共に永久に朽ちない。

 

 

我「スウォロフ」が全体火炎に包まれ猛火を噴きつつ、なお僅かに残る艦尾の小口径砲で発射を続けつつ、10ノットを出して驀進を続けた。

日本の戦記に「火焔に包まれ列外に出た「スウォロフ」は尚航進を続けたが、暫くして全部マストを折られ、2個の煙突を壊され全体が火焔に包まれ、その惨状は何人もこれで戦前の形状を想起することはできない。しかし尚残存する艦尾砲をもって、あえて戦いを止めず、死力を尽くして我に対抗しようとしたのは、実に旗艦の面目を発揮したものと称すべし」と

 

「ベドウイ」及び「グロズヌイ」は5月28日3時過ぎ鬱陵島の南方30マイル付近に於いて、敵の駆逐艦漣(さざなみ)、陽炎(かげろう)に発見され、3時43分遂に僚艦に追撃された。これより先この僚艦が接近すると参謀長「デコロング」は「グローズヌイ」に対して、ウラジオストックに向かうよう命じた。艦長は何故戦闘しないかと尋ねたがこの時既に「ベドウイ」は白旗並びに赤十字旗を掲げていた。「グローズヌイ」は全速力で離脱した。

「ロ」中将の幕僚並びに「ベトウイ」艦長は、降伏の理由として「司令長官の生命は駆逐艦よりも貴重である」。無論かかる価値なき説明には我軍法会議は一顧をも払わない。いわんや「ロ」中将は既に半ば人事不詳の状態にあって何ら指揮する能力がない状態においてをや。

 

我艦隊の行動は遂に終わった。要するに計画が極めてずさんであり思慮が浅く、しかも何ら定見の無い行動で終始した。特に艦隊司令長官の行動は、戦闘中と準備中を問わず全く正当性を発見する事ができない。又部下の指揮官は全てに消極的で一度も積極的に行動した跡が無い。

「ロ」中将は意思強健であり豪胆、又職務に忠実でしかも補給、経理の才能もあるが残念ながら軍事上の知識が皆無であった。

露都から対馬海峡に至る「ロ」中将艦隊の遠征は実に空前の壮挙であるといえども一度戦場の指揮官となると何ら軍事上の才略もなく、戦闘に対する準備,指揮共に実に拙劣を極めた。

 

指揮下の艦長並びに将校の多くはその軍人的手腕に於いて「ロ」中将の上位であり、良くその任務を尽くし軍艦の名誉を後世に残した。

 

幾多の艦船将校中には最後まで責任を果たし芳名を後世に残した者が非常に多い。これらは我が勇将猛卒の名誉ある戦死と共に、この不名誉な敗北と数隻の軍艦が敢えてした降伏恥辱とをいささか償って余りあるものがある。特に最後に「ドミトリ、ドンスコイ」が将旗10個を掲げ数10隻からなる敵の大艦隊と勇戦奮闘した名誉は我海軍の前途に対する吉兆となるであろう。