第8章 「マダガスカル」島より安南海岸に至る艦隊の航進

   「ノシベ」湾出動

3月15日、艦隊司令長官は旗艦に各司令官、各艦長を招集し会議を開き、いよいよ艦隊は「ノシベ」湾を出港し、平均速力9ノットで東航することを告げた。なお輸送船には予備の弾薬がないため各艦は弾薬を浪費せず、石炭もまた現在艦隊が搭載している6万トンの外に、予備として輸送船に5万5千トンがあるのみである。また今後新たに給炭船の来航を望むことが出来ないため大いに節約すべしと訓示した。(海軍大佐エゴリエフの航海日記)

会議終了後艦隊司令長官は、信号で戦艦、巡洋艦、駆逐艦、輸送船に対し明日正午までにボイラーその他出港準備を完成せよと命令した。

3月16日、艦隊は午後3時出港し、陣形を作る。

司令長官は海軍省宛に「ノシベ」湾を出港する。との簡単な電報を発信したのみであった。艦隊の行動計画については、司令長官と親しい補佐官の外、誰一人知る者が居なかった。

艦隊の出港と前進は乗員の元気を回復させること大であり乗員一同の士気が極めて高くなった。

戦艦7隻、1等巡洋艦4隻、2等巡洋艦8隻、駆逐艦9隻、病院船1隻、運送船13隻の合計42隻であった。

艦隊司令長官は絶えず信号を揚げて、艦船の陣形を正確に保持しようとしたけれど、艦船の多くは遅れ、また列外に出るものがあり全く思うようにならなかった。

 

3月17日午前8時「マダガスカル」島の北に於いて、艦隊は針路を「セイシエル」列島の微南にとる。午後2時には既に「マダガスカル」島の陸岸が見えなくなった。

2 印度洋の渡航

運送船の機械がしばしば故障するために、艦隊の航進が阻害される事が多かった。

317日 太陽がようやく没しようとする時、艦隊の後方に数条の煤煙を発見した。司令長官は駆逐艦を派遣しその煤煙を調査させたが皆商船であった。

 

る3月18日午前6時、艦隊司令長官は運送船に駆逐艦の曳航を命じる。この命令により各艦はほぼ1時間半を費やし曳航準備を完成した。航進を始めると間もなく運送船「イルツイシ」の曳航索が切断し、艦隊は曳航索の係維が終るまで微速力で航進した。作業が終わると共に前進を続け、午前10時までに速力を8ノットに増速した。

午前10時30分戦艦「シソイ、ウェリーキー」の舵機が故障し、列外で機械により操縦しつつ航進する。艦隊は午後1時から2時まで航進を止め「シソイ、ウェリーキー」を待つ。

夜戦艦「ボロジノ」の舵機が故障し、艦隊はまた3時間航進を停止す。

一昼夜の航程は147マイルで平均速力は6ノットであった。

「マダガスカル」停泊中は、灼熱の太陽と息苦しい気候に苦しんだ艦隊は、海上に出て曇天となり、時々小雨にあう。

艦隊は「ノシベ」湾を出港し安南に至るまで石炭搭載日を除いて、全乗組員は一定の任務に就き、絶えず教練及び作業に従事した。特に距離測定儀を使用して、或いは目測による距離の測定及び大砲の照準発射に深く注意を加え、艦隊の諸艦は展開した巡洋艦を目標として照準発射訓練を行う。

 

3月20日恒例により課業及び教練を行う。駆逐艦「ブレスチャシチー」の曳航索が切断したため艦隊は航進を止め、暫く停止した。一昼夜の航程187マイル、平均速力は7,8ノットであった。

この日長官は、信号により明日石炭を搭載する予定であると告示した。

夜中戦艦「スウォロフ」の舵索が切断したため、予備索を機関室内の防水扉に孔を開けて通すこととした。しかしこの作業は極めて難作業で、機関室内は高温である為に2人の職工を10分で交代させ、24時間その作業に就かした。

 

3月21日午前5時45分長官は信号を発令し、艦隊を停止した。天候は微弱な西風が吹き、大洋特有の大きなうねりはあるけれども、石炭搭載には非常に適している。

石炭の搭載準備の為、軍艦は大型ボートや汽艇を降ろして搭載作業にあてた。軍艦から水兵を数組に分け、将校の指揮の下に運送船に派遣し、石炭の袋詰めを行い、諸艇に積み込ませた。運送船に派遣した員数は、大型艦の場合100人以上に達した。

艦隊は石炭搭載終了後航行序列に復するまで長時間を要し、午後7時になって初めて前進した。艦隊が停止した時間は13時間15分に及んだ。石炭搭載に8時間45分を費やし、残りの4時間30分は搭載の準備及び後始末に費やした。これは大きなうねりのため大小の短艇及び汽船の揚げ降ろしが困難であったためである。

 

3月22日、駆逐艦の曳航索が6回も切断した。駆逐艦「ブイストルイ」は、曳航索のために砲座を損傷した。一昼夜の航程は130マイルで、平均速力は5.5ノットである。

 

323 午前6時艦隊は機械を停止して、運送船から第2回の石炭搭載を行う。海上は僅かなうねりがあった。この時駆逐艦「グロムキー」の舵が破損しているのを見つけ、潜水兵に修理させた。付近に鮫が集まっているため、その作業中水兵に銃を持たせ、潜水兵に近づいた鮫を射撃させた。

午後5時、石炭の搭載が終わり艦隊は7ノットの速力で前進し、駆逐艦は曳航させた。

 

3月24日一昼夜の航程130マイル、平均速力5ノットであった。

夕刻巡洋艦「オレーグ」から、艦隊を追跡する駆逐艦に似た船影を発見したと報告があった。各艦の将校及び兵員は警報が発令された時と同様に総員が部署についた。

運送船「カムシャッカ」はボイラーに故障を起こしたが良くその位置を保った。巡洋艦「オレーグ」の舵輪が故障した。

天気は静穏であるが曇天であり小さなうねりがあった。

 

3月25日戦艦「シソイ、ウェリーキー」の復水器の管が破裂したため航進を停止する必要が起こり艦隊の前進を阻害した。

一昼夜の航程は180マイル、平均速力7.5ノットである。この日曇天であったが遂に雨となった。午前中艦隊運動を行う。

 

この日第3太平洋艦隊は、黎明より運河通行のため前進し、軍艦は順番に運河に入り、パイロットの指導の下に独立して運河を航行した。各艦の速力は8ノットであった。

日没と共に運河会社の手配した強力な探照灯を点灯した。

3月26日 静穏であった天気が変化して、次第に荒れ模様となり、風浪が次第に大きくなり駆逐艦の曳航が困難となった。

一昼夜の航程は180マイルで平均速力は7,5ノットである。

戦艦「シソイ、ウェリーキー」は舵機を損傷し、修理の間列外に出ていた。

(第3太平洋艦隊の動静)

支隊は午前3時スエズの停泊地に到着するとともに直ちに石炭の搭載を始める。

支隊は運送船をも停止させず、連続して通行させたため、会社は反航してくる船舶を全て湖中に避難させた。結局支隊は僅かに16時間で運河を通過した。

 

3月27日風は無くなったが大きなうねりが残った。

午前は艦隊運動を行い、戦闘序列から簡単な陣形運動を行ったが満足な結果を得た。

一昼夜の航程は165マイルで、平均速力は6,9ノットである。艦隊は午後10時から水雷襲撃及び撃退の演習を行う。

 

3月28日午前中から天候は全く平穏となり大きなうねりも収まった。

午前6時から石炭搭載を開始する。当日は準備及び復旧ともに前回に比べ成績が良好であった。

午後4時天候が荒れ模様となったため載炭を中止し午後5時から前進する。

(第3太平洋艦隊の動静:紅海を航行)

紅海に出るととともに昼間は列氏36度(摂氏45度)になり、夜中も22度(摂氏27度)から24度(摂氏30度)を下らない酷暑となった。

3月29日朝となって風が静まったが大きなうねりは変わらず、斜めから来る。

午前6時戦隊は機械を止め、再び採炭を開始する。当日は数回雨を帯びた疾風が襲来する。

艦隊は採炭終了後前進する。

(第3太平洋艦隊の動静:紅海航行)

温帯地方の航海に適する様に設計された装甲海防艦では、特に居住甲板及び各室の通風が悪く、室内温度が摂氏50度以上になったため将校、兵員とも皆上甲板で就寝した。

 

3月30日午前9時艦隊は赤道を横切り、北半球に入る。正午過ぎ風が吹き始め波浪が高くなる。一昼夜の航程160マイル、平均速力6,7ノットである。

この日は艦隊が「ノシベ」湾を出港以来、初めて軍艦、運送船共に何らの故障も無く、又1分も停止せずに航進した。

 

3月31日午前零時から風が次第に強くなり、午前1時には暴風雨となった。且つ熱帯の豪雨で隣の艦影も見る事が出来ない。強風のため駆逐艦「ボードルイ」はマストが折られ、駆逐艦「グロムキー」は曳航索が切られた。

強風であるが温度が非常に高く、閉鎖された場所では呼吸が困難なほど蒸し暑い。

(第3太平洋艦隊の動静:紅海を航行中)

各艦の曳航する標的に対して互いに内筒砲射撃を行う。

4月1日風が尚強く波浪が高い。

長官は、信号により翌日載炭を行う命令を与えた。なお前日曳航索を切断した駆逐艦「グロムキー」を又運送船に曳航させた。

4月2日風浪が強い為、予定していた載炭を中止し、諸種の訓練を行いながら無事に航進した。

気温が急に下がり、冷気を感じるようになった。

最近数日間、毎晩のように、巡洋艦から艦隊の北方にマストが見えるとの報告があり、敵の駆逐艦の攻撃が予想された。

「ノシベ」湾出港いらい毎日日没後、「水雷防禦」の部署を発動し、大砲に装填し,終夜砲員及び将校を当直させ、何時でも敵の攻撃を直ちに撃退する用意をさせた。

(第3太平洋艦隊の動静:ジプチ着

午前8時「ジプチ」に到着し、港から7マイル沖合いの開放された海面に投錨した。)

4月3日の黎明となり天候が平穏となったため艦隊は黎明より機関を停止し、石炭、糧食及び淡水の搭載を始める。

司令長官は、石炭搭載中汽船「ルーシ」に令達及び「カムラング」湾内に於ける艦隊の錨地指定図を各艦に配布させた。長官はこの令達で、艦長は、将校及び砲員に対して、敵と遭遇したときは弾薬を慎重に且つ有利に消費する事が極めて必要な事を再三訓示する事、迅速に砲弾を装填し、精密な照準を励行し、照準器の備付け方が悪ければ如何に照準を正しくしても無意味な事を戒め、また射手は隣の砲の弾着点を見て照準の修正の参考とせよ、またこの令達は、将兵の面前で朗読し、しかも毎日必ず復唱する事を命じた。

4月4日1回も停止する事無く航行する。戦艦「クニヤージ、スーロフ」から無線電信で次の命令を伝える。「夜間の水雷攻撃を撃退する際には、味方打ちを避けるために十分な静粛を保ち、損害を被り艦隊の速力を保つ事が出来ない場合を除き列外に出てはならない」

艦隊がマラッカ海峡に近づくと長官は航行序列を改めて第1戦艦戦隊を運送船隊の右側に、第2戦艦戦隊をその左側、偵察隊を艦隊の先頭に航行させた。巡洋艦戦隊は戦艦戦隊の航跡に入らせた。

長官は信号命令で目的地をサイゴンの北方200マイルの「カムラン」湾に指定した。夜になって「水雷攻撃に注意せよ」との信号を掲げた。

 

(第3太平洋艦隊の動静:ジプチ停泊

支隊は開放した海面に居るため大きなうねりを冒して来着する載炭船から石炭を積み込み、又淡水、糧食やその他の需品を積み込んだ。

支隊は野菜の外穀物及び生糧品を大量に搭載する事が出来た。佛国官憲はこれらの搭載について何ら異議を称えず支隊に対して非常に親切であった。

支隊の停泊場所と港との距離は非常に遠く、陸上との往来は困難であった。各艦から波止場までは汽艇で1時間半を要し、陸岸から僅かに艦影を認め得る程であった。)

 

4月5日午前6時艦隊は「ニコバル」諸島の近くに来た。

午前7時艦隊は「スマトラ」島と「ニコバル」諸島の中間に於いて変針し、針路を「マラッカ」海峡の中央にとって東航する。

正午艦隊は「マラッカ」海峡に入る。

日没後各艦は航海灯を全部消して、艦尾灯のみを点灯する。

午後830分戦艦「アリヨール」の主蒸気菅1本が破裂したため艦隊は航進を停止し、同艦は列外に出て修理を行い、1時間半後に旧位置に復帰し、艦隊は再び航進した。

「マラッカ」海峡通航中、艦隊は一隻の反航又は同航する船を認めなかった。

将校及び砲員は夜中受け持ち砲の傍を離れず、その付近で休息した。

 

(第3太平洋艦隊の動静:ジプチ停泊

支隊は「ロジェストウェンスキー」中将の率いる艦隊の所在を知らない為海軍省に次の請訓を行った。

「支隊は3日後に出発する予定であるが、単独でウラジオストックに向かうべきか或いは「ロジェストウェンスキー」中将の艦隊と合同して、共に航進すべきか直ちに指令を乞う。もし中将と合同する場合には艦隊の所在地及び取るべき航路を知らされたい」)

 

 

4月6日は無事に経過する。夜明けになって曇天となり午前8時より雷雨が起こり、正午まで雨が降り続き、その後ようやく止んだ。

(第3太平洋艦隊の動静:海軍省からの返電

貴隊は自分で艦隊の所在地を捜索して、これと合同されたい。本省に於いても艦隊の予定航路は不明である。)

4月7日夜中は無事に経過する。各艦船に於いては蒙古祭を行い、その後兵員を休養させる。艦隊は海峡の狭い所に近づくにつれて反航船に出会うことが多くなった。数艦から敵艦を発見したとの通報があったが皆商船であった。

(第3太平洋艦隊の動静:ジプチ出港

午前10時抜錨してアデン湾に向かう。)

 

4月8日午前未明マレー市の近くを通過し、陸岸の灯火がはっきりと見えた。この夜も前日同様将校及び砲員等全員を戦闘部署につけ、一人も就寝しなかった。

午前中艦隊は戦闘訓練を行う。

午後2時艦隊はシンガポールを見たが、泊地には巡洋艦2隻が錨泊していた。

シンガポールから小蒸気船1隻が露国領事旗を立てて来航した。

海軍少将「ネボガートフ」の率いる支隊が「ジプチ」を47日出発した事を知る。

午後7時艦隊は南支那海に入る。

 

4月9日一夜は無事に経過し午前5時艦隊は「アナンバス」諸島付近で機械を停止し載炭を始めた。載炭中、巡洋艦4隻は艦隊を離れて水平線を監視した。

午前11時から艦隊は再び前進する。

(第3太平洋艦隊の動静:アデン湾)

病院船「カストロマ」を「バタビア」に先行させる。これは同地の領事若しくは海軍省を介して中将の所在地及び意図を知る為である。

アデン湾の「ソコトル」島付近に於いて実弾射撃訓練を行う。

 

4月10日午前8時艦隊は「アナンバス」諸島を通過する。艦隊司令長官はこの朝、参謀を集め幕僚会議を開催した。主題は「ネボガートフ」少将の率いる支隊が「ジプチ」を出港したとの情報を受け、今後の行動をいかにすべきか討議した。

(第3太平洋艦隊の動静:アラビア半島南岸)

射撃終了後アラビア半島の南東岸にある広漠とした一つの湾「ミルバート」(現在オマーン国)に向かう。

 

4月11日「カムラング」の南300マイルの地点に達した。幸いにして我が艦隊は追尾する日本艦隊より攻撃を受けることなく、又「カムラング」湾内への寄港を許されるなら、この地に滞在して、命令を待ち、戦地の形勢特に「ウラジオストック」の状況に応じて今後取るべき行動に関する勅令を仰ぎたいと考える。もし又艦隊を前進させることに決定すれば至急発令されたい。

不可解な無線電信に絶えず感応していることから日本艦隊が近傍にいるようである。

「ウラジオストック」に於いて、今なお艦隊の到着を必要とし、同地に於いて3万余人に対する食物を欠く憂いが無く、又海軍用の弾薬が残存するならば、「ネボガートフ」少将の支隊が来着するのを待たずに直ちに出動する。1週間たりとも徒に日時を遅らせるなら、償うことのできない不利を招くことになる。そしていよいよ「ウラジオストック」に出発すべき命令を下すことに決定したならば、海軍省は上級職員にすらこれを秘密にし、なお我が海外派遣員等に偽電を発信させ、艦隊は当地に於いて「ネボガートフ」支隊及び今春出発する支隊との合同を待っている様に宣伝すべし。艦隊が「ウラジオストック」に到達するのが既に遅いのであれば、根拠地の無い所に艦隊を長く滞在させる事は出来ないので露国に引き返す必要がある。」

この電報は414日「ペテルスブルグ」に達し、即日長官に対し次の返電があった。

「「ウラジオストック」の陸正面は開放している。又同地には貯蔵品があり、「ネボガートフ」支隊を待たずに前進せよ」

司令長官はザイゴンに滞在する巡洋艦艦長に対し、至急「カムラング」湾へ食糧と石炭を送り、なお汽船を購入し「カムラング」間の交通を維持するよう早速取り計らう事を命じた。

 

4月12日午前2時から艦隊の速力を9,5ノットに増加する。当夜は無事に経過して黎明を待って機械を止め、載炭を始める。カムラン湾まで60マイルであれば、洋上で採炭するより到着後行う方が容易であるのに何故行うのか、司令長官の命令に皆驚いた。

この日は朝から、「ロジェストウェンスキー」中将は何となく落ち着かないようで、怒りやすく無言がちで、自室にいることは少なく、或いは前部艦橋に出て、或いは後部艦橋に来た。又後部マストに登って運動をした。

午後3時不可解な電信に感応し、しかも接近するように思われたため載炭を中止し、短艇を引き上げ、昼間の航行序列とした。午後5時針路を「カムラング」」湾の入り口に向けた。

(第3太平洋艦隊の動静:第4章 :アラビア半島「ミルバット」)

午前630分「ミルバット」湾に到着し、海岸から5マイルの地点に投錨し、石炭搭載に着手する。大きなうねりがあり、運送船の横付けが危険なため「ランチ」を使用して、載炭作業を行う。暑気が強く船倉に入る水兵は短時間で交代する。

3 「カムラング」に到達す

4月13日午前6時艦隊は「カムラン」湾の入口に到着し、機械を停止し、直ちに駆逐艦を入港させ、その入口と投錨地に予定している湾内及び泊地に於いて掃海を実施した。又艦載水雷艇を派遣し、艦船序列に便利なように浮標を配置した。艦隊は錨泊準備が整うまで運送船から石炭を搭載する。

午後3時掃海がまさに終わろうとする頃、運送船を番号順に入港させたが軍艦は湾外で一夜を過ごした。

(第3太平洋艦隊の動静:インド洋)

夕刻、抜錨してインド洋に向かう。天気は良好であるが気温は高く、正午頃の外気温度は55度、艦内居住区57.5度、機械室60度、ボイラー室62.5度に達した。

 

4月14日黎明より各艦は湾内に進入した。

2戦艦戦隊が進入し、第1戦艦戦隊がこれに続き、最後に巡洋艦及び偵察艦が徐々に湾内に進んだ。巡洋艦「ドンスコイ」及び「リオン」の2艦は海上及び湾口を警備するため湾口付近に残留した。

艦隊の艦船は予め敷設された浮標に係留したが湾内は広く、配列表に従って位置に就いた諸艦船は互いに非常に離れた距離であった。

「ノシベ」湾より「カムラング」湾まで航走した艦隊の航程は4560マイルであった。

艦隊の「ノシベ」出発より7日遅れて「ディエゴアレス」を出発したハンブルグ、アメリカン汽船の貨物船3隻も3万トンの石炭を搭載して「カムラン」湾に到着した。

正午頃サイゴンから、同地の独逸汽船会社汽船「ダグマル」が、海軍省がサイゴンに向け発信した電報を届けた。

艦隊は連続28日間を航海したが乗員の元気は頗る旺盛であった。

(第3太平洋艦隊の動静:インド洋)

支隊は毎朝及び昼食後に距離測定訓練を行う。司令官より「距離測定訓練を開始せよ」の命令で巡洋艦1隻が遠ざかり、支隊の真横に位置し、各艦が距離を測定した。

 

4月15日早朝より2日間石炭搭載を行う。

この日佛国巡洋艦1隻海軍少将の将旗を掲げ「カムラン」湾に入港し、艦隊の停泊期間中錨泊した。

4 艦隊の印度洋渡航概況

艦隊は「マダガスカル」より「カムラング」湾まで4560マイルの航程を頗る良好な天候の下に28日間で航海した。潮流を利用し160マイルを短縮したけれども載炭作業、又エンジンの修理を余儀なくされ、海上に6回停止し、その都度約12時間を費やし、合計三昼夜に及んだため、潮流の利用及び海上の停止を除けば即ち4400マイルを平均7ノット半、25日間で渡航したことになる。又艦隊の速力は、実際には8ノット半或いは9ノット或いは少しの間であるが9ノット半を出したこともある。

平均速力が低い原因は、各艦に発生した故障のため全艦隊の速力を減少させ、或いはまったくエンジンを停止させたことによる。またこれらの事象は112回を数え、その内39回は駆逐艦を曳航している運送船の曳航索が切断したためであり、残り73回はボイラー、エンジン、操舵機が故障したためである。

駆逐艦は全て、航路の大部分を運送船に曳かれて航行した。

艦隊と支隊とが合同するためにはその集合地点を中立国の港湾にとる必要があるがこれは佛国の港湾に限らざるを得ない。英国人、オランダ人、米国人はその港湾或いは領海に於いて我らが停泊しようとするとこれに反対する口実を設けることは間違いない。

佛国政府に於いても戦略上の目的に適する港湾に停泊しようとすると必ず抗議をするであろうが、しかしこの抗議は形式的なものに過ぎないであろう。

「マダガスカル」に於いては小麦粉の品質が粗悪であり、しかも数量に限りがあり、そのため「マユンダ」及び「ジェゴスアレツ」に於いて求め得られる限りの量を「ノシベ」湾へ輸送させたが、市場に出ている小麦粉は30トンに過ぎず、然るに艦隊に於いては日々10トンを消費する。又艦隊のパン職人等は良質の粉をもってすら上手にパンを焼くことができない。大麦粉一分に小麦粉五分を混ぜて大麦パンを食用にしようとしたが温かい間は糊のようで、冷めたら堅い固まりとなって到底口に入れることが難しい。そのためハンブルグ会社から雇い入れた獨国の汽船「レギナ」が艦隊のために搭載した雑品4千トン、航海用堅パン5百トンが「ノシベ」湾に到着するのを待つことにした。

艦隊の兵員は靴が無く、裸足で働き、特に載炭の場合にはその苦痛は甚だしい。そのため、被服装具の全部でなくとも、裸足の兵員に対し12千足の靴を「イルツインシ」の搭載するよう要求した。

運送船「イルツインシ」は、排水量18千トンであるにも拘らず、石炭をわずかに8千トン搭載して来たばかりであり、その他には何も搭載していなかった。

315日「ノシベ」湾に獨国汽船「レギナ」が、堅パン、バター、茶、少量の塩肉、15トンの冷肉及び機関科及び掌帆科の材料4百トンを搭載して到着した。

艦隊は汽船「レギナ」より必要な食料品を搭載し、終了後316日午後3時「ノシベ」湾を抜錨した。

4月11日正午、サイゴンを経て電報をペテルスブルグへ発信し、艦隊の所在点を告げ、「ネボガートフ」少将の支隊を待たずに、引き続き「ウラジオストック」に向け前進すべきか否か、その指令を仰いだ。

艦隊は414日の朝「カムラング」湾に錨泊した。

 

艦隊と同時にハンブルグ・アメリカ会社の汽船4隻も3万トンの石炭を搭載して「カムラング」湾に到着した。