第3章 艦隊の主力「タンジエル」より「マダガスカル」に向け出動する

1「タンジエル」より「ダカル」への回航 115日~1112日)

11月5日午前7時艦隊は抜錨し、8時頃になり2列の縦隊となって東航を開始した。右側縦列は、戦艦「スーロフ」、「アレクサンドル三世」、「ボロジノ」、「アリヨール」、「オスラビア」、左側縦列は工作艦「カムチャッカ」、輸送船「アナズイリ」、「メテオル」、「コレヤ」及び「マライヤ」である。エンクエスト少将の指揮する巡洋艦「ナヒモフ」、「オウロラー」及び「ドンスコイ」の3隻は艦隊の後衛となって航進する。病院船「アリヨール」は艦隊の後方1マイルを続行する。

 

118午前輸送船「マライヤ」が故障を起こしたため、艦隊は約6時間航進を停止した。

 

119日午後艦隊は北回帰線を越える。この間天候は実に平穏であった。艦隊は商船乃往来する航路から特に遠く離れた航路を通っているので同航、反航する1隻の船にも会わなかった。

英国巡洋艦隊は依然として艦隊を追跡し、昼間は遠く、夜間は接近し、艦隊が漸く「カナリヤ」列島以南に至るに及んで、始めて追跡を止めた。

解説:北回帰線は太陽が真上に来る北半球の限界である。

カナリア諸島はアフリカ大陸沿岸から115kmに位置する大小13からなる大西洋に浮かぶ島々で、北回帰線のやや北側にあり、アメリカ,アフリカ、ヨーロッパの3大陸を結ぶ中継地として,需要な役割を果たした。

1112日午前9時ダカールに投錨する。タンジールより1600マイル(2900Km)、169時間を要した。ドイツ石炭船11隻、英国石炭船1隻、糧食船エスペランサ及びブレストより回航した曳船1隻が入港を待っていた。

 

2「ダカル」錨泊 1112日~1116日)

解説:ダカールはアフリカ大陸の西端に位置し、16世紀から19世紀にかけて、大西洋に於ける奴隷貿易の基地であり、1902年仏領西アフリカの首都となった。

1112最初フランス官憲は領海内に於ける石炭搭載を許可したがその後日本政府の抗議で許可を取り消した。ロジェストウェインスキー中将は露国政府に対して「フランスの諸港で自由に石炭を搭載できるようフランス政府と交渉されたい。もし許可が得られないのであれば東航を中止すべきである」と申請した。しかし「国際法上の中立宣言」のためこの願いは適わず反対に友好国の感情を害した。

我が艦隊司令長官の請求でダカール総督は再度フランス政府に石炭搭載について請訓する。

午後6時石炭搭載を開始した。

解説:艦隊は、フランス政府の許可が無いまま石炭搭載を開始している。1600マイルの航海をして石炭庫は空に近く、また露国にとって一番の友好国であるフランスから石炭搭載を拒否されて、司令長官としてのロジェストウェインスキー中将は居ても立っても居られない気持ちであったと思われる。それが東航は中止すべきであるとの電報に表れている。

熱帯に於ける石炭搭載

11月13日午前4時総員作業を始めたが特にこの日は全くの無風で気温は32度以上、将校も兵員も全員麻屑を口にくわえ炭塵の吸入を防ぎ、総員汗まみれになって働き、立ち上る粉塵は各艦を覆っていた。炭庫内の温度は50度に上がっていた。

パリー政府からの返電

ダカール総督は、夕刻パリー政府から領海内に於いては一切石炭搭載を許さないとの電報を受領した。この時各艦は全て石炭搭載を完了し、掃除も終わり通常の停泊状態となっていた。

 

ロジェストウェンスキー中将は、海軍大臣に次の要求をした。

今後今後艦隊が航進する途中で、石炭を搭載できる港湾は恐らく一か所も無いと思われる。アフリカ植民地の官憲は本国の命令により、艦隊が入港する事は無論、領海内へ入る事すら許可しないと思われる。そのため石炭の搭載は、港外に於いて好天を選び、ランチ(艦載ボート)を使用し、石炭船より石炭を搭載せざるを得ない。従ってハンブルグ・アメリカ汽船会社と交渉して給炭船の艦隊への随行を禁止する処置を取り消す様交渉してもらいたい。(1113日付「ロジェストウェンスキー中将」の行動報告)

 

石炭搭載の為日射病に罹った者が数名いたが、1人オスラビアの当直士官「ネリドフ」のみが11月14日死亡した。

 

1115次回の航海は1500マイルであるため艦隊司令長官は定量の一倍半の石炭を用意すべき命令を出したので各艦は(1)75mm砲砲台(2)艦首水雷発射管室(3)浴場、洗濯場、乾燥場(4)ボイラー室通路(5)ボイラー員非常通路(6)艦尾最端部にも石炭を搭載した。

「ダカール」に於いて長官はかい海軍大臣からの電報を受け取った。

「佛国政府は、日本の抗議により政治的難問題を起こす事を憚り、露艦に一旦許可した佛国港内に於ける石炭搭載を、港内に於いてはせず、付近の安全な湾内に於いて行う様要請した。

日本の巡洋艦が3隻マレー群島の西側において待ち受けているとの情報を受けた。また日本人はインド洋に於ける我が艦隊の集合地点を探知している。」

艦隊司令長官たるロジェストウェンスキー中将は、当然知る必要があった我が満州軍、第1太平洋艦隊及び沙河の敗戦、旅順及びウラジオストックの状況について海軍省は一切電報しなかった。

3 「ダカル」より「ガブン」へ回航する1116日~1126日)

1116日艦隊は「ダカル」を抜錨して「ガブン」に向かう。

「ダカル」出港後3日間、艦隊は無事に航進したがその後軽微な故障が頻発した。

1128日付艦隊司令長官報告では

「「ダカル」より「ガブン」に至る行程は2000マイルであるが運送船「マライヤ」は故障が続出して、1000マイルの間汽船「ルーシ」に曳航されたため、艦隊の航進は非常に遅れた。

艦船の故障が絶えず起こり、航進を止める事34回であり、一昼夜に250マイル航進する予定が実際には200マイルを出ず。

また載炭に相応しい場所を発見するため海岸に接近して航行する必要があり、艦隊の東航は益々困難となっている。巡洋艦「ドンスコイ」は、「ダカル」出発後三日目に外海を航行しているにも拘らず「キングストン」(注 船底にある海水吸入口)から砂を吸い上げたため側鉛(注 水深を計る道具)を投じたところ水深は60尋であった。海図には付近の水深2000尋と記載されていた。石炭搭載のため風波を防止できる海岸を探そうとして、一度過ちを犯すと取り返しのつかない大事故を招くことになる。どの港からも援助を求める事ができないので、戦艦を一隻も失う事がないと保証する事ができない。

4 「リブルウィル」港の「ガブン」河口に錨泊する(1126日~121)

1126日午後6時艦隊は「リブルウィル」港から20マイルにある「ガブン」河口、フランスの領海外の沖合に投錨する。しかしフランス政府は、政治的問題を避けるため「ガブン」河口でなく、70マイル離れた「ロペス」湾へ入港し、石炭の搭載をするよう勧告した。

 「ロジェストウェンスキー中将」は、測量不完全で不案内の湾に行くことは危険であり、さりとて測量を行う十分な時間もなく、また喫水30フィートもある戦艦を案内出来る程沿岸の航路に精通した水先案内人を見つけることは難しいため戦艦を率いて「ロペス」への回航は不可能と判断した。

 

1127日ドイツ給炭船及び冷凍船「エスペランサ」が艦隊の停泊場所に来航した。当時無風の好天気であった為艦隊は直ちに石炭搭載の難作業に着手した。そして翌日の早朝になって戦艦の搭載が終わり、まさに運送船に着手しようとしている時、にわかに熱帯性の雷雨が来襲した。

1130日艦隊が載炭を終わったので長官は空船4隻を欧州に還し、残りの石炭船を「エスペタンス」と共に「グレート、フイッシ、ベー」に向け先行させる。

1130日「ロジェストウェンスキー」中将は海軍軍令部からポルトガル兵員輸送船1隻が我が艦隊と会合する希望を持っているとの通知を受け、同船に何らかの要件を委託しているかもしれないと思料し、当方面におけるポルトガル国唯一の大きな湾である「グレート、フイッシ、ベー」に向うことに決し121日午後4時艦隊は抜錨し「ガブン」を出港した。

5 「グレート、フイッシ、ベー」への回航121日~126日)

121艦隊の出港に際し、工作船「カムチャッカ」は右舷機に故障が発生し、左舷機のみで航進したため艦隊も微速力で午後10時まで徐航した。戦艦「アリヨール」もまた舵機の電気装置の故障を発生した。

122黎明に艦隊は赤道を通過する。

当日も戦艦「アリヨール」及び「ボロジノ」の復舵機の電気装置に故障が発生し、航進を停止する。午後4時運送船「マライヤ」を待つため艦隊は更に航進を停止する。ここに於いて「ロジェストウェンスキー」中将は「マライヤ」の故障は気缶の不良、機械の長時間の放置によるが又乗員の技量が拙劣であると認め、船長として高い名声を博し、現在「スォロフ」に勤務中である海軍予備将校「ツレグーボフ」少尉補を「マライヤ」の指揮官とすることに決した。

1212日付「ロジェストウェンスキー」中将の報告に曰く

「前記の処置は極めて適切で、その効果は顕著であり、艦隊は9.25ノットで航行中、運送船「マライヤ」は瞬く間に前方に進出し122日より126日までこれを追い越すことができなかった。」

125戦艦戦隊は単純な艦隊運動を行ったが運送船はそのまま航進させる。

12月5日および6日は曇天で大きなうねりがある。著しい冷気を感じる。数日前までは炎熱で焼けるような暑さであり士官室の温度は列氏24度(30C)であったがこの日午前10時の室外温度は列氏14度(17,5C)に降下した。

艦隊は容易に「グレート、フイッシ、ベー」を発見する事ができず、不案内で危険極まりない海面に側鉛を投げつつ航進し、25尋の水深となるところまで近づいた。そしてようやく2~5フィートの高さの砂州で形成された湾を発見し、そこに数個の標識と小屋があったが、5マイル内に接近するまで認識できなかった。

6 「グレート、フイッシ、ベー」に錨泊する126日~127日)

解説:「グレート、フイッシ、ベー」はポルトガル領アンゴラの湾で、ポルトガルはルアンダを拠点として、奴隷貿易や植民地開発を行った。

艦隊司令長官は外交上の紛争を避けるため湾内に入港する事なく、陸岸より3マイルの所に投錨する。艦隊は外海にあるため大きなうねりに翻弄されつつ獨国の給炭船が来るのを待った。

艦隊の投錨と同時に湾内よりポルトガルの砲艦が近づき中立宣言の趣旨に従い24時間以内の出港を求めた。長官は海岸から3マイルの領海外であること、ペテルスブルグのポルトガル公使から艦隊と会合したい汽船があるとの通知を受けたため当地に来たと告げた。艦長は、砂州に建てた標識から3マイル内が領海であると弁明し、汽船の事は全く知らないと答えた。長官は砲艦艦長の見解を認めないが24時間以内の出港を告げた。

砲艦が艦隊の間を去る前に、獨国給炭船3隻、英国船2隻、冷蔵船「エスペランス」が接近してきた。戦艦は直ちに給炭船を横付けさせ、「エスペランス」へは糧食を受領のため「ランチ」を派遣し、各艦は石炭搭載に着手する。

127日午後2時載炭を終わり、長官は載炭戦及び冷蔵船に前進を命じ、空船1隻をハンブルグヘ帰還させる。

7「グレート、フイッシ、ベー」から「アングラ、ベケナ」に回航する

127日~1211日)

12月7日午後4時艦隊はドイツの植民地「アングラ、ベケナ」に向け抜錨する。外部の温度は日中なお列氏16度(摂氏20度)以上に上がらない。

12月8日午後3時艦隊司令官は戦艦全部と巡洋艦「オーロラ」及び輸送船「カムチャッカ」に自差測定を行わせる為列外に出させた。病院船「アリヨール」は郵便物を受け取る為「カブシタッド」に派遣し、同地より予定艦隊集合地に向かわせた。

解説:当時は磁気羅針儀が使用されており、この磁気羅針儀が示す北と地球の磁北との差を自差といい、今回これを測定している。

12月9日艦隊は南回帰線を越える。(南回帰線とは、太陽が天頂に来る最も緯度が高い地域で南緯2326分)

1211払暁、艦隊は「アンゴラ、ペケナ」湾に達し、連続する同じ高さの丘陵を前面に望見したが、方向を定める事ができず、しかも沿岸は靄がかかっており、且つ風力10の南風の強風が吹いていたため、漸く午後2時に各艦は「シーア、ウオータ、ベー」に入って投錨する。

この時、戦艦「アリヨール」は45尋の長さで錨鎖を切断し、錨と共にこれを喪失した。戦艦の投錨した場所は、湾を東西に両分する細長い多岩岬の西部で海岸は皆ドイツの植民地である。

8 「アンゴラ、ペケナ」に錨泊する1211日~1217日)

解説:「アンゴラ、ペケナ」湾とは現在のナンビアのリューデリッツにある湾であり、ドイツ領南西アフリカの根拠地があった、。

19041月土地を追われた先住民がドイツ人に対する攻撃を開始し(ホッテントット蜂起)、これに対してドイツ帝国が1904年から1907年にかけて先住民族の虐殺を行い「ヘレロ・ナマクア虐殺」として知られる20世紀最初のジェノサイトとなった。1212日この戦闘で派遣された輸送船が入港している。

 

「アンゴラ、ペケナ」小湾の沿岸には、欧州人の人家が若干あり、給炭船は同湾内に錨泊して艦隊の入港を待っており、その他に他国の商船2隻も錨泊しておいた。湾内に艦隊の停泊する余地がなく、しかも風力8以上の南風が吹き込み、大きなうねりがあり、給炭に着手し難いため、長官は運送船及び巡洋艦を沖合に漂白させ、巡洋艦「ナヒモフ」のみは復水器の修理を要するために湾内に留めた。

当地の欧州人は、僅かに20人のドイツの官吏と商人のみで極東の情報について信ずべき情報を何も入手できず長官は大いに落胆した。

1212午前3時頃、風が凪いだ為長官は沖合で漂白中の運送船及び巡洋艦を「アングラ、ベケナ」湾に錨泊させた。2隻の運送船は「シーア、ウオータ、ベー」に投錨し、残りの運送船と巡洋艦2隻は戦艦より少し沖に投錨した。各艦船は沖合から進入する大きな浪のため動揺が甚だしいために給炭船を戦艦に横付して載炭しようとしてもできず、午前6時より風が更に強くなり「スーロフ」に横付けた給炭船のごときは戦艦の中甲板にある75mm砲に舷側を突かれ大きな破口を生じた。戦艦の75mm砲も歪曲してしまった。その後風がますます強くなったため給炭は中止したが午前9時には風力が12に達し、四面が砂塵で覆われた。

この日ドイツの輸送船1隻が土人の暴徒鎮圧のために入港する。

1213天候は依然として回復せず、「ランチ」を石炭運搬に使用して載炭を試みたが搭載できなかった。午前10時頃にはその「ランチ」が各艦の舷外で沈没する恐れがあるため全て艦内に収容した。

解説:荒天の為戦艦に給炭船が直接横付け出来ないため、石炭を給炭船から一旦ランチ(ボート)に積み替えて、ランチから戦艦に搭載しようとした。

12月14日も引き続き天候で、夜明けより午前10時まで、全く暴風に近く、日没になるまで、全然艦船間の交通が途絶する。

夜中になって、風力がやや凪いだため、材料及び糧食を運送船より受領し、冷蔵船「エスペランサ」より冷凍肉を搭載したが給炭船の横付はなお危険があるため石炭は僅かに「ランチ」を使用して搭載した。

午前11時頃となって「カッター」でやっと交通し得るようになり、土民の鎮圧の為派遣された獨国軍隊の指揮官及び「アングラ、ベケナ」港の民政長官が艦隊司令官を表敬訪問した。

載炭は夕刻より深夜にわたって行ったが作業は著しく捗った。

12月15日午前3時から風が俄かに吹き始め、石炭搭載を中止する。午前7時頃急に風が凪、終日無風となり、霧が非常に濃くなった。

艦隊は天候が静穏になるとともの載炭を続行しまた戦艦「アリヨール」が投錨の際喪失した錨を、四爪錨を使用して引き上げた。

12月15日の晩載炭を終わり、冷蔵船「エスペランス」と給炭船の一部を前進させ、空船4隻を欧州に帰還させる。

艦隊が将に抜錨しようとしている時、工作船「カムチヤッカ」は左舷機の汽笛の故障を発見し、この修理のため36時間を要した。

1216「カブシタット」から一汽船のもたらした新聞によれば、旅順港の日本軍は悪戦苦闘を久しく行っていたが、強襲の末遂に軍港及び泊地の要塞を見降ろし、各地の射撃修正に便利な203高地を占領したとの記事があった

この報道が真実であれば、我が海軍の根拠地に於ける壮烈な防御戦も遂に終局を告げたということができる。

9 「アングラ、ベケナ」から「マダガスカル」に回航する

工作船「カムチャッカ」の修理は1217午前8時に完了し、又前夜より発生していた一面の霧も午前9時には晴れたため艦隊はマダガスカル島の北西岸にある「セントマリー」海峡に向かって抜錨した。

長官は当初アフリカ東海岸のポルトガル領「デラゴア」湾に寄港し、載炭する予定であったが今までの状況からポルトガルの官憲は必ず英国の抗議を受け入れて給炭に反対する事が予想されるため同港への寄港を中止した。

長官は次の寄港地「セントマリー」まで2700マイルもあり、途中海上で「ランチ」を使用して給炭できる天候を期待することが難しいため「スーロフ」「ボロジノ」「アレクサンダー三世」「アリヨール」の各戦艦に炭庫の総積載量1100トンに対して2200トンを搭載させた。

各戦艦は公称の満裁量であっても「メタセンター」が低く大洋を航行するのに不安な状態であるにも拘わらず、長官は一気に2700マイルを回航する必要に迫られ2200トンの石炭の搭載を命令した。そのため75ミリ砲の下、砲台及び魚雷発射管まで石炭で埋めた。(1012日海軍技術会議から長官に対し、戦艦の転覆予防に必要な手段を通告した事は既に前に述べている)

喜望峰を迂回する際には、荒天が予想されるため75mm砲の砲門には隙間を塞ぎ密閉した。これは普通の閉鎖では、接合部からの海水の浸入を防ぎ難いためである。

「アングラ ベケナ」を出港した翌日即ち12月18日航路に対して6点(注67,5度)の交角で押し寄せる南西の大きなうねりを受け、新戦艦の縦揺れは1分間に7回もあり、傾度7度となったが横揺れは甚だ軽微であり、又不同である。

12月19日も同様の天気で、風は夕刻から西に変わり次第に強くなり、風力7に達した頃、波高が非常に高く波長が短い波浪が発生し、艦尾より迫り新造戦艦は1分間に6~7回の横揺れを起しその傾斜は一方に5度となった。

午前11時頃艦隊は「ストローワヤ」山を望み終日山脈に沿って沿岸を南下する。午後4時に艦隊は喜望峰の南7マイルの所で針路を「イーゴリヌイ」岬に取る。

解説:喜望峰はアフリカ最南端にあり、次のホームページに写真と共に詳しく紹介した旅行記がありました。

http://yasyas.web.infoseek.co.jp/africa-16.htm

12月20日午前1時同岬の西南に至り、北東に転針してインド洋に入る。

夜中に風が一層強くなり、翌朝は風力9に達し、全く暴風のように高さ25フィート(約8m)長さ200フィート(約61m)の大波が押し寄せ、艦隊はこれを艦尾より受けて航行する。この時戦艦の傾斜は一方に8度も傾き、艦体が甚だしく振動して鋼質防御部に少なからざる隙間を生じた。

12月21日の朝は既に暴風となり、波浪がますます大きく(高さ約10m、長さ約100m)なった。正午になって艦隊が左に約10度変針した時、怒涛の頂頭が崩壊し、旗艦の右舷から後方に打ち込み、後部の信号艦橋を越えて、海図室に浸水した。

この時に於ける状態に関し「ロジェストウェンスキー」中将の報告に次の一節がある。

「単縦陣を組んで航進する戦艦5隻の隊形は、希有の奇観を呈し、1万トン以上の巨艦が1分間に6回も12mの高さまで放り上げられる海上の光景は実に物凄く、後続艦を振り返って見ると、降下した時はマストを波間に没し、又その上昇する際には丘の上に登っている様で、まるで5隻の戦艦が交互に跳躍する様である。横揺れは毎分に8回、傾斜は本艦では12度を超えないが巡洋艦「ドンスコイ」や工作艦「カムチヤッカ」の如きは40度に及び戦艦「オスリヤビヤ」は20度、巡洋艦「アウロラ」は30度に達した」。

午後7時戦艦「スーロフ」は右舷側のカッター1隻を波に浚われた。

新造戦艦は全部各所を閉鎖したが諸甲板には滝の如く海水が漏れ、士官室及び兵員室の空気は呼吸困難で、蒸し風呂の様である。砲塔、汽機室、缶室まで海水が滴った。

この時若し故障する艦が発生しても 他艦が救助することは絶対に不可能であり、全く絶望的である。

12月22日黎明より風が著しく衰え、風向南西より南に変わり漸く静まる。

解説:10月13日の記事に見られるようにバルチック艦隊の戦艦は復元力の不足という重大な欠陥を抱え、しかも石炭は定量の2倍も搭載しており、そして昨日は未経験の荒天に遭遇した。恐らく生きた心地がしなかったのではないかと推察される。

12月23日早朝から風も無く好天気であったが午後からは南風が吹き始め、その風力は5となり、非常に大きなうねりを受けるようになった。

12月24日、12月21日からの3日間に渡った暴風は却って艦隊の航程上好都合であった。逆潮に向かうはずであったが暴風のために順潮のようになり結局24時間分を短縮する事が出来た。

この暴風のために新造戦艦はその荒天航行性能を初めて試すことができたが、但し巨大な波に逆らって航行する場合の性能を検査する事は出来なかった。長官は正面或いは斜め前から波を受けると75mm砲の砲門を破壊し戦艦が沈没する恐れがあると考え、特に海軍技術会議より海洋航行中新造戦艦の釣合いに対して慎重な態度をとるべきであるとの忠告に多大の注意を払った。要するに過大な石炭を搭載した戦艦が追い波を受けた場合の成績は非常に良好であった。

12月25日以後、艦隊の北航するに従い風向は東から北東に転じ、遂に北に移り、マダガスカル島の南端に達した時、風向は北西に変わった。艦隊はマダガスカル島の南端から15マイル離れた所を通過し、同島に近づくにつれ夏季の無風圏に入り、密雲満天を覆い、気温は29度を越えないが湿度95%で、空気は蒸気を飽満し、呼吸に苦しむ。

1231日付「ロジェストウェンスキー」中将の報告より

「機関兵、缶兵及び信号兵以外にも航海に疲れた兵員が多い。もし艦隊の射撃を行ったならば3ヶ月前「レーウエリ」で行った時よりも成績が悪くなっているに間違いない。これは艦隊の前進に主眼を置いているために砲撃訓練、水雷発射訓練、短艇橈漕、水道掃海、水雷敷設等を演習する暇が無い為である。特に信号兵にとっては、実に技能習得に絶好の機会であるが先ごろより信号旗の不足を感じている」

解説:「レーウエリ」の訓練とはバルチック艦隊の回航前に、本国の「レーウエリ」湾で行った訓練を指す。

12月26日艦隊司令長官は病院船「アリヨール」との会合地点をマダガスカル島の南端と定めていたが会合できない為、艦隊航路の左右へ巡洋艦を出し病院船を捜索させたが遂に発見できなかった。

1227になろうとする夜半、熱帯地の雷鳴、豪雨を伴う台風が北東から来襲したが夜明けとともに雷鳴が止み、空気は非常に清爽となった。

1227日午前11時頃、戦艦「スウォロフ」の蒸気菅1本が破裂し、缶室内に蒸気が噴出し多くの火傷者が発生するところであったが、殆ど全員が石炭庫に逃げ去る中、機敏にも缶兵の一部がその場に留まり、噴出口を塞いだので一人の火傷者も出さなくて済んだ。

1228「セントマリー」島を去る200マイルの洋上に於いて、艦隊の無線電信機が約4時間にわたって、極めて遠い両地点間の無線電信を傍受した。これは2艦の間で「マルコニー」式無線電信機を使って交信しているようである。

1229午前1130分艦隊は「セント、マリー」海峡に投錨する。

「セント、マリー」海峡は「セント、マリー」島と「マダガスカル」島との間を通じ、その幅が10マイル余りあるため、その中央に投錨し、以て中立侵害の抗議を公式に受ける事の無きを期す。

解説:当時の領海は3マイルであり、幅10マイルの中間の5マイルは領海外となる。

艦隊が「マダガスカル」に到着したので「ロジェストウェンスキー」中将は石炭に対する苦慮が漸く去り、分離した各隊の集合に専ら心を砕いたがその書信の一節に次の様に記述する。

「マダガスカル」に来たならば、最早目を覆っていても東航することが出来る。

本職等は艦隊で海上を航進し、2ヶ月間も海水の飛沫を浴びてきたが学んだ事は少しも無く「レーウエリー」に於いて少し学んだ事も既に忘れてしまっている。今はただ盲者の様なまた「いざり」のような艦隊を離散させずに、これを率いて飽くまで前方へ這い出させようと努力するのみである。航海する事既に3か月目に入ったが、未だ航路の半分も進んでいない。さりとて予定より長く滞留したところも無し。

解説:本紙9月25日、10月6日に「レーウエリー」に於ける訓練の様子が記述されている。