第2章 艦隊「リバーワ」を出港し「タンジエル」に向かう

1「リバーワ」を出港(19041015日)

艦隊は石炭を搭載した後予定通り10月15日朝「リバウ」を出航した。

ロゼストウインスキー少将は、出航に先立ち艦隊の未搭載物品は輸送船「イルツイシ」の修理完了しだい同船に搭載させて運送させるよう軍港司令官に依頼した。

「リバウ」出航時の航行隊形は入港時に同じ。雇入れた輸送船3隻、給水船1隻、救難用曳船1隻等を艦隊に随伴させた。

艦隊は夜間の水雷攻撃に対して必要な警戒をする為に副砲に弾を装填し、砲手は砲側に休ませた。

解説:本日第2太平洋艦隊(バルチック艦隊)はいよいよ地球を半周するという世紀の大航海に出発した。ロゼストウインスキー少将は現在の海軍の常識から考えると必ずしも艦隊としての熟練度が十分でない部隊を率いてこれから様々な困難に遭遇する事となる。

最初の兆候は、この記事にあるように日本の水雷艇が攻撃してくるという脅威への過剰反応である。北海まで常識的には日本海軍の水雷艇が進出する事はあり得ないにも拘わらずロシア海軍はそれを信じた。そしてそれがドッカーバンク事件へとつながって行った。

 

10月16日午後2時艦隊は「ボルンゴリム」島に到達したが前進を継続した。

同日駆逐艦「ブイストルイ」は通信連絡のため戦艦「オスラビヤ」に接近しようとして操縦を誤って戦艦に衝突し、自艦の艦首及び艦首発射管を圧壊して水線部に少破孔を生じた。次の停泊時を利用して修理することに決定した。

 

10月17日朝艦隊は「ランゲラント」島に達し、「ファツケベルグ」灯台の近くに投錨する。昼間より風力が次第に強くなったため予定していた石炭搭載を中止する。

前日破損した駆逐艦「ブイストルイ」は工作船「カムチャッカ」により修理をした。風雨激しく、波が甲板まで打ち上げ作業は困難であったが工員の努力により夕刻までに完了した。

10月18日 風力ようやく衰えたので石炭搭載を行う。

艦隊は長官の命令で、当地において艦隊掃海作業の訓練を行う。砕氷船「エルマルク」及び曳船「ルーシ」を掃海船としたが操艦が未熟で掃海を始めると直ぐに掃海策を切断し、第1回の訓練は失敗に終わった。その後艦隊はバルト海峡を通過して「スケラグ」岬に向かって航進した。

解説:デンマークの大バルト海峡を通過し、スエーデンとデンマークの間にあるカラガット海峡を通っている。

10月20日朝スカーゲン岬に投錨する。スカーゲン岬に投錨しようとしているとき司令長官は海軍中将に昇任し侍従将官の称号を授けられた。

我が太平洋艦隊の東航を阻止するため日本は既に我が艦艇を攻撃する準備を終わっているとの情報さえあり、海軍省はデンマーク海峡方面に哨戒隊を配置しまた要所に監視所を設け警戒していた。

艦隊は投錨後直ちに石炭搭載を始めようとした時、石炭船がスカーゲン駐在露国副領事の「国旗を掲揚していない水雷艇7隻海上に現れた」と言う情報をロゼストウインスキー中将に提出した。長官は、石炭搭載を中止し夜間の停泊を避け前進する事に決し、抜錨し、厳重な警戒態勢をとりつつ航進する。

解説:この記録にあるように露国海軍省とロゼストウインスキー中将は異常とも思われる程日本の水雷艇攻撃を警戒していた。これがやがてイギリス漁船団に対する無差別砲撃(ドッガーバンク事件)につながっていった。

 

10月21日夜8時50分工作船「カムチャッカ」より戦艦「スウロフ」に無線電信が多数入ってきた。

「カムチャッカ」 「水雷艇が追跡してきた」

「スウロフ」 「水雷艇は何れの方向より来ているか、又何隻なりや」

「カムチャッカ」 「四方より攻撃を受けようとしている」

「スウロフ」 「水雷艇は何隻なりや詳しく報告せよ」

「カムチャッカ」 「水雷艇は約8隻なり」

午後11時

「スウロフ」 「司令長官より 貴船は今もなお水雷艇を見るや」

午後11時20分

「カムチャッカ」 「見えず」

解説:艦隊は前方に駆逐艦部隊を派出し、深照灯を照射し極度に警戒しつつ航行していた。その矢先霧で艦隊からはぐれた工作船「カムチャッカ」より水雷艇に追跡されていると言う電報が旗艦に飛び込んできた。これらは単なる思い込みであったが全ての悪夢はこの「カムチャッカ」の一の電報に始まり、全艦隊は恐怖に支配されていった。そして翌日の零時過ぎ悲劇が起こった。

 

2 北海に於ける艦隊の怪船砲撃(1904年10月22日~)

10月22日午前零時55分「ドッガーバンク」沖を航行しようとしている時戦艦「スーロフ」の艦首を左右より横断して逆行する無灯火の船影を多数認めた。「スーロフ」は浮遊機雷を撒かれた恐れがあり,転舵すると同時にその他の諸艦と共に探照灯を照射したところ水雷艇に酷似した2隻を見つけ「スーロフ」以下1~2隻の戦艦はこれに向かって砲火を開いたがこの2隻はたちまち見えなくなり同時に「ランチ」型の舟数隻を発見した。この時この「ランチ」に対して射撃をするなと命令したが一部の砲員は水雷艇と信じて約10分間射撃を続けた。

この時巡洋艦「オウロラ」に砲弾5発命中し、従軍牧師1名重傷(タンジール入港後病院にて死亡)、砲兵1名軽傷を負った。

戦艦「アリヨール」は75ミリ砲1門の砲身が破裂した。

 

戦艦「スーロフ」乗組み少尉「ゴロウニン」の12月6日付け書簡より)

司令長官は海峡通過のため常に艦橋に立っていた。探照灯を照らしたところ忽ち信号兵が「水雷艇発見」と当直士官に報告する。果たせるかな直ちに三色の火箭を打ち上げた小船を確認する。この小船は曳網で漁業を行う汽船であることが後日判明したが艦長は艦橋で「撃ち方始め」を令し航海長は「又1隻あり」と指示し、参謀は「何事か」と叫び艦橋は混雑し司令長官もその中に在って双眼鏡で凝視しつつ射撃してよろしいと言われた声が歯隙より漏れて微かに聞こえた。各艦は本艦の第2発目の射撃に引き続き射撃を開始した。

 

ドッガーバンク事件に関する「ロゼストウインスキー」中将の説明より

戦艦「スーロフ」は後続艦からの射撃が味方に命中することを恐れて、探照灯の光を上に向け「射撃止め」の信号を全艦に向け発信した。間もなく午前1時5分最後の砲声を持って終わったが射撃開始から終了までの間は、僅か10分に過ぎなかった。

射撃の結果は不明であるが右舷側を航行した水雷艇には大損害を与えたと思われるが左舷側の水雷艇は逃げ去った。現場に居合わせた漁船は損害を被ったかも知れない。水雷艇を最後まで追撃しなかったのは平和な生業を営む漁船に損害を及ぼす事を恐れた為である。

本職は漁船の行動を怪しみ且つ艦隊に危害を加えんとした水雷艇が既に皆退却したとは信じ難かったため損害を被った漁船の救済を僚船相互に委ねた。

解説:ロゼストウインスキー中将は、漁船を水雷艇と信じた。

9月に行われた日露戦争に関するある国際シンポジュームで、参加したロシアの教授がドッガーバンクで沈没した船を引き上げ水雷艇かどうか調査する必要があると主張していた。

 

2戦艦戦隊の旗艦日誌より

午前零時50分第1戦艦戦隊の各艦は探照灯を照射し、次いで先頭の旗艦からの第1発の射撃に続き砲火を開き(多分両舷と思われる)約17分間非常に乱雑な射撃を行った。

午前零時50分に警報があったため、第2戦艦戦隊も探照灯を連続照射したが漁船の他旗艦の周囲には何も発見する事が出来なかった為警戒を解いた。

解説:この旗艦日誌を読むと、事件を起こしたロゼストウンスキー中将の乗艦している第1戦艦戦隊に比べて(本紙昨日の記事参照)、第2戦艦戦隊は極めて冷静に対応している。

 

3 「ウィゴ」入港及び錨泊

1026日午前1050分第1戦艦部隊は「ウイゴ」に入港した。

我が艦隊は予期しない好意なき中立を見た。独逸の給炭船5隻は艦隊の到着前に入港して、艦隊の投錨と同時に戦艦に横付けしたが港務部官憲は石炭搭載を許可しなかった。スペイン憲兵が給炭船に分乗しており、露艦の乗組員を遮って船倉に入らせなかった。そればかりか、同行している我が輸送船に補給用として搭載している「カージフ炭」7千トンまで同様に阻止した。このように許可するのか否か不明の内に30時間経過した。

解説:露国以外の初めての寄港地であるスペインの「ウイゴ」に入港した。戦艦の炭庫は1800マイルの航海を終わり、殆ど空の状態で、一刻も早く給炭を開始したかったがなかなか許可されなかった。ヴイゴ港の沖合いに英国の巡洋艦戦隊が監視していた。またロゼストウインスキー中将は入港後、北海での砲撃が大事件となっている事に初めて気がついた。

 

1027日の午後1になってスペイン政府から「ロゼェストウェンスキー」中将に対し搭載の許可があったが1艦の搭載量を400トンに制限し、それ以上は許可されなかった。

そのため支隊は直に搭載を始め翌日午前10時にこれを終わった。

石炭搭載後「ロゼストウインスキー」中将は第1次回航で消費した石炭量から当初予定した「ダカール」への直行を中止し途中の「タンジール」に寄港することに決定した。

 

4 第1艦隊の「ウィゴ」出港延期

10月28日正午第1戦艦戦隊を率いて「タンジール」に向け出港しようとした時、突然ピータースブルグより北海に於ける撃沈事件が落ち着くまで「ウイゴ」に停泊せよとの電報が届いた。「ウイゴ」停泊延期はスペイン政府が承認している。

 

午後4時英国巡洋艦1隻「ウイゴ」に入港し、直ちに無線電信で沖合いの地中海艦隊司令官の旗艦と交信する。英艦は「ロゼストウインスキー」中将を訪問後出港し隣の湾に集合して地中海艦隊と合同した。事後英艦1隻が監視に当たっている。

 

1029日即ち艦隊抑留の電報を受けた翌日「ロゼストウインスキー中将」は海軍大臣あて打電した。

「本職を罷免する必要があるならば速やかな断行を切願する。本職は外国の港に抑留させられる理由を理解できない。他の部隊との連絡を絶たれたままでは艦隊を指揮することが出来ない。」

 

1031日ロゼストウインスキー中将は北海事件の証人として将校4名を派出せよとの命令を受け、戦艦「スーロフ」より海軍中佐クラード、戦艦「アレクサンドル三世」より海軍大尉エリックス、戦艦「ボロジノ」より海軍少尉シェムチェンコ、輸送船「アナズイリ」より海軍少尉オットを派遣し、戦艦「アリヨール」からは誰も派遣しなかった。

同夜(1031日)ロゼストウイスキー中将は出港する許可を受けた。

5 「ウィゴ」ヨリ「タンジエル」に至る第1戦艦戦隊の回航

1031日午前7時第1戦艦戦隊は抜錨して輸送船「アナズイリ」を従え「タンジエル」へ向かった。スペイン領海を航行中は同国巡洋艦1隻が艦隊に同行した。

英国巡洋艦4隻が、艦隊が港外に出るや否や順次艦隊の航跡に入り接触を保ちつつ、タンジールまで追尾した。

解説:「ドッガーバンク事件」について英露の話し合いが進展しロゼストウインスキーはやっと許可を得て出港することができた。

英国艦隊はロシア艦隊に随伴し、ロシア艦隊を目標として見事な陣形運動を行っている。ロゼストウインスキー中将はこれを見て「あれが本当の艦隊というものだ。彼らは本当の海軍軍人だ」と呟いたと言われている。

6 艦隊の「タンジエル」錨泊

艦隊司令長官直卒の第1戦艦戦隊がタンジールに入港したのは11月2日午後3時であった。

タンジールに於いて艦隊は歓迎され、当地の知事は全ての便宜を図ると申し出た。

 

艦隊司令長官直卒の第1戦艦戦隊は、輸送船「アナジウル」と共にタンジールに漸く入港したのは11月2日午後3時であった。

泊地には英国巡洋艦2隻と佛国巡洋艦1隻停泊していた。

タンジールに於いて艦隊は歓迎され、当地の太守はモロッコ王の名をもって何日停泊しても差し支えなく、全ての便宜を図ると申し出た。

英国領事が抗議したが無効に終わった。

タンジールに停泊中、病院船「アリヨール」及び冷蔵船「エスペランス」(佛国旗の下に)が合同し、「エスペランス」は冷凍肉100トンを搭載している。

解説:海軍少将「フェリケルザム」、海軍少将「エンクウィスト」及び海軍大佐「シェイン」の率いる部隊はすでに10月29日入港していた。

モロッコのタンジールは、艦隊の入港が歓迎された唯一の港で、以後の各港ではロゼストウインスキーは石炭の搭載に苦労することとなった

7 「フェリケルザム」少将戦隊の分離

11月3日午後9時戦艦2隻及び巡洋艦3隻よりなる「フェリケルザム」少将の戦隊は、艦隊と分離して「スダ」に寄港の上、スエズ運河を経由して東航するために出港した。

この戦隊は「スダ」に於いて駆逐艦の全て及び輸送船2隻と黒海から回航する7隻の輸送船と会合する予定である。

解説:最初巡洋艦3隻のみの予定であったが戦艦「ナワリン」の復水器と「シソイ、ウエリキー」のボイラーの調子が悪い為と同時に日本海軍の巡洋艦が紅海に出現する恐れがあるため2隻の戦艦を加えている。

8 「タンジエル」に於ける石炭搭載

11月4日天候が回復した為に石炭搭載作業を再開したが各戦艦の1時間の平均搭載高は50トンに及んだ。これは艦隊司令長官が成績優秀艦に懸賞金をだすと告示したためである。

ロゼストウインスキー中将は次のダカールまでの距離が1500マイルあるため途中の天候や故障を考え、新造戦艦の使用していないボイラー室にまで石炭を搭載するよう命じたためタンジールにおいて各戦艦が搭載した石炭は平均1200トンとなった。

 

解説:「アレクサンドル3世」が成績優秀艦として賞金1500ルーブルを獲得している。