1 艦隊の出動及び陣形
艦隊はいよいよ5月14日午前5時「クアベ」を出港する。この日天気は極めて快晴であった。
先ず駆逐艦が抜錨し先頭となり、続いて巡洋艦、運送船、第3戦艦戦隊の順で出港した。
「ロジェストェンスキー」中将は第1、第2戦艦戦隊を率いて海上に漂泊し、湾内から出港する諸艦を待って、午前9時頃、完全に隊形を整えた。この時海岸に接近して錨泊する佛国巡洋艦1隻が我が艦隊の行動を監視しているのが目撃された。
午前9時20分航行陣形を作り、8ノットの速力で針路を北に取る。11時40分となり針路72度に変針し台湾島に向い速力を9ノットに増加する。
艦隊は総数50隻の艦船からなり、その内37隻は軍艦旗を掲げ、13隻は商船旗を掲げる。
午後5時より艦隊は夜中の航行序列とする。
5月15日は終日好天である。午前6時艦隊は昼間の隊形に改める。
外洋に出た後各艦は毎日射撃訓練、距離測定訓練及び距離側定儀の修正を行った。各艦の測定した距離を審査したところ、多いものは10ケーブル以上の誤差が発見され、艦隊司令長官は「目前に戦闘を控えている今日、各艦が距離測定をおろそかにしているのは嘆かわしい。距離測定は戦闘開始数時間まであろうとも決しておろそかにしてはならない」との令達を出した。
戦艦「アリヨール」が機械に故障を生じた為艦隊は1時間余り、微速力で航進した。
5月16日艦隊は朝から昼食まで射撃訓練及び距離測定訓練を行う。この日は何らの事故も無く平穏に航進する。
偵察隊を朝から出動させた。艦隊との通信連絡には無線電信を使用せず視覚信号を使用させた。午後5時艦隊の30マイル前方に派遣していた偵察隊が帰り、艦隊の隊列に入る。
戦艦「ナワリン」は舵機を破損した為、夜間列外に3時間も出ていた。
5月17日午前零時艦隊は針路40度に変針し、午前7時30分まで速力8ノットで航進し、針路51度に変針する。艦隊は例の如く射撃及び距離測定訓練を行う。
2 石炭搭載
5月17日午前11時30分、司令長官は「明日黎明から石炭を搭載する。各艦は運送船に石炭袋を配布すべし」との信号を掲げる。
戦艦「アリヨール」「ナワリン」及び巡洋艦「ドミトリー、ドンスコイ」は機械に故障を生じ、修理の為列外に出た。
5月18日午前5時15分艦隊は機械を停止し、汽艇及び大短艇を降ろし運送船から石炭を搭載する。載炭中は巡洋艦に信号の到達する範囲内で哨戒線を張らせて警戒した。
当日は海上静穏であるが大きなうねりのため戦艦といえども動揺が激しかった。
午後3時20分載炭を終わり、短艇を収容する。
深夜に戦艦「ナワリン」及び「ゲネラル、アブラクシン」のエンジンに故障が発生した為微速力で航進する。
3 二汽船を抑留する
5月18日午後10時45分ごろ舷灯を点灯せず艦隊と平行して航進する船影を発見し、司令長官は巡洋艦「オレーグ」に臨検を命じた。「オレーグ」は汽船に向かって航進し、探照灯を点灯し、空砲を発射して停船させ、短艇を下ろし武装した水兵9名と将校2名で臨検した。将校は自ら艦橋に立って航進を命じ、艦隊に向かって巡洋艦「オレーグ」に続行させた。この汽船は英国船籍の「オールドハミヤ」で日本向け石油を搭載していたが船籍証書を持っていなかった。長官は明朝黎明に、艦隊の航進を止め、更に綿密に検査する事を命じた。
5月19日午前5時戦艦「アブラクシン」の機械に大きな故障が発生した為艦隊は航進を停止した。
この時南方に1隻の汽船を発見し巡洋艦「ジュムチウグ」に臨検を命じたが、「ベルゲン」籍の汽船でマニラから日本に向かう途中で、積荷は無く証書類を全て完備していた為開放した。
4 艦隊の航進
「オールドハミヤ」は、巡洋艦「オレーグ」に対して手旗信号で「水夫の一人が船尾の船倉内の石油缶の下に砲を隠していることを告白する」と報告した。司令長官は巡洋艦「オレーグ」に将校からなる数名の委員を選び、同船に派遣することを命じた。
委員等は臨検の結果を審議し、「オールドハミヤ」は15万個の石油缶を搭載しながら船籍証明書を保有しないのみならず船長の釈明が要領を得ないため、この商船を押収する事に決定した。
艦隊は諸艦から少尉候補生3名及び水兵37名を選び、英国船員の代わりに送り、船長以下乗組員を巡洋艦に収容した。
午後10時過ぎまで終日「オールドハミヤ」より石油缶を運び、一方同船へ石炭及び糧食を積みこんでいたが午後11時から天候が急変したので石炭の積み込みを急いだが、天候が深夜から更に悪化したので中止した。
5 駆逐艦の任務
この日午後長官は令達240号を諸艦に配布した。「日本の諸島間を夜間に航進する時、駆逐艦は横陣を作り、偵察隊の前方1.5マイルに占位し、航海燈を掲げて航進すべし。但し燈火を弱光にすべし、又両翼の駆逐艦は外側の舷燈を点灯ずべからず。航路の直前に艦船を見た時は、駆逐隊司令の選定した駆逐艦に追跡を命ずべし。もし浮遊機雷を投下した疑いがある時は、探照灯を点灯し、浮遊機雷を認めた駆逐艦は信号灯で艦隊を停止させ、最も近い駆逐艦は機雷の爆破に従事し、その他の駆逐艦は残余の海面を隈なく照射すべし」
5月20日午前4時25分艦隊は北50度東に転針し「バタング」島と「バリングタング」島との間を通過する。
この付近より日本海流が起こり、航進速度に影響を及ぼす事頗る大である。
5月21日司令長官は巡洋艦「クバン」に命じて、「オールドハミヤ」に石炭百トンと必要品を供給させた。同艦は作業終了しだい秘密命令に従い日本本島の東岸を独立して行動することを命じた。「オールドハミヤ」は日本を迂回して宗谷海峡を通過しウラジオストックに行く事となった。
「オールドハミヤ」の船長及び機関長は捕獲審判に必要な為ウラジオストックに送致することとなった。このため病院船「アリヨール」に移したがこのため後日日本が同船を戦利品とする口実を与える事となった。
6 補助巡洋艦二隻の分離及び艦隊の編成変更
5月21日艦隊の正午位置は北緯22度29分、東経125度であり、一昼夜の航程は150マイル、平均速力は6,5ノットである。
艦隊は台湾の海岸に沿って航進する。
艦隊は回帰線を超えると共に著しく冷気を感じた。
5月22日午前5時20分長官は天候が極めて不良である為に載炭作業を中止する信号を掲げた。
午前5時30分艦隊は宮古及び琉球諸島の海峡に向かい針路を337度とし、日本が堅固に防備している台湾を迂回する。
午前6時頃暴風雨に会う。
軍艦旗を掲揚する時刻となり、巡洋艦「テレク」は四国及び九州以南の商船航路に於いて活動する為に直ちに発進せよと命じられた。
艦隊は昼間の航行序列と変更し、偵察隊は前方34鏈(3,4マイル)の位置に楔型の隊形を取って航進させる。第一及び第三戦艦戦隊は右縦列とし、第二戦艦戦隊及び巡洋艦4隻は左縦列となり、運送船は2列の従陣を以て軍艦の縦列間を進み、それぞれの後部に巡洋艦1隻を航行させた。また2隻の巡洋艦は左右に分かれ、戦闘戦艦の正横に占位して航進する。
新航行序列をとった後艦隊は朝及び昼間の休憩後射撃訓練及び距離測定訓練を行う。
夕刻となって風はおさまったが急に寒くなり、急激な温度変化は数ヶ月間熱帯地方を航行した後であるので乗員の健康に悪影響を与える事を心配し、甲板上に勤務する兵員に「フラネル」の上着を着用するよう令達を発した。
5月23日の朝に至り、風は全く凪いだ。
7 最後の石炭搭載
艦隊は琉球諸島を通過する。午前5時長官は艦隊を停止させ、大短艇を使用し、運送船から石炭を搭載させる。
当時艦隊は装甲海防艦に至るまで、各艦共に日本を迂回してウラジオストックに達するに足る石炭を既に搭載していたにも拘らず、今また搭載させるのは司令長官が津軽海峡を通過しウラジオストックに向かう計画であろうと多くの人が想像した。
各艦は満載石炭量よりもはるかに多くの石炭を搭載した。特に装甲海防艦のごときは積載できる限り多量の石炭を搭載したため、舷側装甲は完全に水中に没した。しかも石炭と同時に淡水をも搭載した。
8 「ロジェストウェンスキー」中将最後の令達
5月23日「ロジェストウェンスキー」中将は最終の令達243号及び244号を全艦隊に配布する。
「刻々戦闘の準備を完成させておくべし。
戦闘中戦艦は、損害を受けた僚艦或いは遅れた僚艦を乗り越すべし。
戦艦「スウォロフ」が損害を受け、進退の自由を失った場合には戦艦戦隊は「アレクサンドル」三世に倣い、若し「アレクサンドル」三世も又損害を受けた場合には戦艦「ボロジノ」に倣い、又「ボロジノ」故障の際は戦艦「アリヨール」に倣って行動すべし。
第1駆逐隊は各司令官の旗艦を常に監視し、同艦がもし傾斜し、或いは進退の自由を失った場合、直ちに司令官及び司令部員を収容すべし。
艦隊の直接目的はウラジオストックに到達することであり、各支隊司令官はこの主旨を体して又この目的を達するためには艦隊の協力が必要であることを記憶すべし。」
艦隊は午後3時30分頃石炭搭載を終わり、短艇を引き揚げ航進する。
午後6時艦隊は一般の予想に反し日本を迂回する航路をとらず北西に向かった。
この時長官が旗艦に揚げた煩雑な信号から、長官が如何に興奮していたか察することができる。午後3時半から同5時までの1時間30分に50回の信号を揚げた。
9 海軍少将「フェリケルザム」病死
5月23日夜、数日来重態であった海軍少将「フェリケルザム」が逝去した。艦隊司令長官はこの報告を受けても、これを艦隊に告知せず、各司令官にすら通知しなかったが、近くの戦艦は手旗信号で信号しているのを傍受して承知していた。中将は戦艦「オスラビア」に掲げた少将の将旗を撤去させず、艦長「ベール」大佐に内命どおり第2戦艦戦隊の指揮を執らせる。
10 夜中の警戒法及び運送船の分離後に於ける編製の変更
この日以後夜間、艦隊はマスト灯を消し、舷燈及び艦尾燈の光力を減じて点灯させる。夜中の信号にも又小掲燈を使用し、発光信号の使用を禁じた。
5月23日の夜は曇天であり、冷気が強く時々強烈な風雨となったが無事に航進する。
5月24日午前9時30分第二戦艦戦隊は第一戦艦戦隊に続航し、第三戦艦戦隊は第二戦艦戦隊の位置に移り、左縦列の先頭に立つべしとの命令があった。
この新隊形は令達第239号で示されたもので、本令によれば、運送船分離後の昼間の航行序列は次のように定められた。
「即ち右縦列は第一及び第二戦艦戦隊を以て、左縦列は第三戦艦戦隊及び巡洋艦戦隊(巡洋艦6隻)を以て編成し、艦隊の後尾である運送船は縦列となって航進し、第一駆逐隊の駆逐艦2隻は右縦列の先頭戦艦の右舷正横に航進する巡洋艦の後に続き、同じく2隻の駆逐艦は左縦列先頭戦艦の左舷正横を航進する巡洋艦の後に続いて航進し、第二駆逐隊の諸駆逐艦は大列内で巡洋艦「オレーグ」の正横に占位して航進するものとする。
病院船「アリヨール」及び「カストロマ」は昼夜とも艦隊の後方数マイルを隔ててその後側に位置して航進すべし」
11 運送船及び補助巡洋艦は分離して艦隊はいよいよ朝鮮海峡に向かう
午後2時30分司令長官は信号を使用して、明朝黎明となって運送船を分離し、この護衛を巡洋艦「ドネップル」及び「リオン」に命じた。そしてこの2隻の巡洋艦は運送船と共に編隊航行をする必要はなく、専ら敵の巡洋艦に対して安全を図るべしとの命令を発した。
午後5時25分艦隊は、終夜5ノットの速力で針路337度に向かって航進する。
夜中水平線に支那の大帆船数隻を認める。
5月25日午前5時、艦隊は針路276度に変針する。この日曇天にして小雨があり、西風が非常に強い。
午前8時頃運送船6隻は旗流信号により艦隊と別れ、巡洋艦「ドネップル」及び「リオン」の2隻に護衛されて上海に向かう。この2隻の巡洋艦は運送船を東経122度20分の子午線まで護衛した後、独立して黄海に於ける通商破壊に向かう予定
午前9時艦隊は針路73度に変針し朝鮮海峡に向かったが、間もなく巡洋艦は15ノットの速力に応ずるボイラーの準備をするよう命令された。
各艦は戦闘準備を行う。
午後9時針路64度に変針する。
夕刻日本の無線電信を傍受する。最初は不明瞭であったが暫くすると明瞭に判別できるようになった。その中で数語は解読できた。我巡洋艦「ウラル」の強力な無線電信機を発信して、日本艦隊の通信を妨害し、或いは交信を不可能とさせる事は容易であったが、艦隊司令長官は艦隊の接近を敵に覚られないため許可しなかった。
5月26日黎明、数隻の艦船間で無線通信が行われている事を知った。しかも30マイル乃至40マイルの距離と推測されるが、ひどい曇天であり水平線には何ら敵を見なかった。しかし電信の交換は終日にわたって絶えず行われ、夜になって漸く止んだ。
正午頃日本の偵察艦らしき白色の商船を右弦正横に見る。
艦隊は戦闘準備を行いながら航進し、可能な限り木造の部分を全て撤去し、短艇には水を入れ、水雷防御ネットで包み、司令塔には鎖索を巻きつけ、又甲板には炭袋と砂袋で壁を設けた。
各砲には砲員を配置し小口径砲には砲弾を装填し、ますます警戒を厳重にする。
午後4時30分「戦闘準備」の信号が掲る。
午後6時、明朝黎明までに全速力に対するボイラーの準備をせよとの信号があった。
午後10時左弦正横に探照灯の光芒を見る。
艦隊はいよいよ朝鮮半島に近づいた。
第12章 対馬海戦
1 信濃丸 和泉
日本側海戦史より
5月27日 信濃丸は午前2時45分北東に航進中、その左舷に東航する一汽船の灯火を発見し、近づく。
左舷に10数隻の艦影を発見、自艦の位置は隊列の中間にあることを知り、急遽舵を転じ増速すると同時に敵艦隊が現れたと発信する。午前4時45分なり。
和泉は信濃丸の「敵艦見ゆ」との報を得て、我が艦隊を発見し4~5マイルの間隔を保って我が艦隊と平行の針路を取る。
2 出羽隊及び片岡隊の行動
出羽中将は戦隊を率いて午前10時遂に神崎の南方15マイルに我が艦隊を発見した。
第3艦隊片岡中将は午前9時、我が艦隊を発見してその左舷正横5マイルに位置して我が艦隊に隋伴した。
3 我艦隊の主力遭遇す
馬山浦に停泊していた東郷提督及び上村中将は信濃丸の電報を受信するや否や第1、第2、第4戦隊に直ちに抜錨を命じる。午前6時7分露国艦隊の針路を知り、これを沖ノ島付近に於いて撃滅せんと決心し加徳水道を出て沖ノ島方面に向かい、正午沖ノ島の北方に達する。
東郷提督は我が艦隊の針路を断つため「スーロフ」の左弦で左15点の正面変換を行う。
4 砲撃開始
第1撃は「スーロフ」から敵艦三笠に向かって放った。後続諸艦も皆一斉に砲撃を開始する。不意の好機に「スーロフ」は試射を行わず、しばしば乱射に陥った観があった。
日本の艦隊は回転を終了すると同時に、先頭の4艦は「スーロフ」に、次の残余の諸艦は「オスラビア」に向かって砲火を集中した。
午後2時40分ごろ「オスラビア」は全艦隊の目前で転覆した。
人事不省に陥った中将を中部6インチ砲塔に移す。この日2時半以後は我が艦隊を指揮する者は事実上存在しなかった。日本側記録によればこの時「スーロフ」は哀れ無残な残骸に過ぎなかった。
5 「ネボガートフ」隊包囲されて遂に日本艦隊に降伏す、「イズムルード」及び「アリヨール」の最後
5月28日午前10時「ネボガートフ」隊は完全に四面から包囲された。即ち北方及び東方には第四戦隊が、又その後方には第5戦隊が位置していた。西方並びに南西方面には第1、第2戦隊が、南方からは出羽中将の巡洋艦千歳が将旗を掲げて迫ってきた。
日本艦隊は三笠のメインマストが折れている他一見した所大きな損害はなかった。
午前10時30分彼我の距離が60鏈に接近すると日本の第1、第2戦隊は砲火を開き「アリヨール」もまた数弾を発射してこれに応戦する。
この時「ニコライ」一世は突然軍艦旗並びに少将旗を降下し万国信号により、「我包囲された為降伏する」との信号を掲げた。
日本艦隊の射撃はしばらく継続したため「ネボガートフ」少将は日本の国旗を掲げ、機械を停止した。ここで日本艦隊は射撃を中止し、東郷提督は「ネボガートフ」少将と交渉をするため幕僚を「ニコライ」一世に派遣した。
「ネボガートフ」少将は5千の人命を救い、無益な流血を避けるため敵に降伏したという。
敵の兵力が圧倒的であっても我艦隊の名誉のために血を流す事は決して無益ではない。古来戦士の名誉ある死は独り現代の国民の士気を鼓舞するのみならず子々孫々までも及ぼす。艦隊将兵の勇敢で模範的な行動は幾世紀を経ても国旗の名誉と共に永久に朽ちない。
我「スウォロフ」が全体火炎に包まれ猛火を噴きつつ、なお僅かに残る艦尾の小口径砲で発射を続けつつ、10ノットを出して驀進を続けた。
日本の戦記に「火焔に包まれ列外に出た「スウォロフ」は尚航進を続けたが、暫くして全部マストを折られ、2個の煙突を壊され全体が火焔に包まれ、その惨状は何人もこれで戦前の形状を想起することはできない。しかし尚残存する艦尾砲をもって、あえて戦いを止めず、死力を尽くして我に対抗しようとしたのは、実に旗艦の面目を発揮したものと称すべし」と
「ベドウイ」及び「グロズヌイ」は5月28日3時過ぎ鬱陵島の南方30マイル付近に於いて、敵の駆逐艦漣(さざなみ)、陽炎(かげろう)に発見され、3時43分遂に僚艦に追撃された。これより先この僚艦が接近すると参謀長「デコロング」は「グローズヌイ」に対して、ウラジオストックに向かうよう命じた。艦長は何故戦闘しないかと尋ねたがこの時既に「ベドウイ」は白旗並びに赤十字旗を掲げていた。「グローズヌイ」は全速力で離脱した。
「ロ」中将の幕僚並びに「ベトウイ」艦長は、降伏の理由として「司令長官の生命は駆逐艦よりも貴重である」。無論かかる価値なき説明には我軍法会議は一顧をも払わない。いわんや「ロ」中将は既に半ば人事不詳の状態にあって何ら指揮する能力がない状態においてをや。
我艦隊の行動は遂に終わった。要するに計画が極めてずさんであり思慮が浅く、しかも何ら定見の無い行動で終始した。特に艦隊司令長官の行動は、戦闘中と準備中を問わず全く正当性を発見する事ができない。又部下の指揮官は全てに消極的で一度も積極的に行動した跡が無い。
「ロ」中将は意思強健であり豪胆、又職務に忠実でしかも補給、経理の才能もあるが残念ながら軍事上の知識が皆無であった。
露都から対馬海峡に至る「ロ」中将艦隊の遠征は実に空前の壮挙であるといえども一度戦場の指揮官となると何ら軍事上の才略もなく、戦闘に対する準備,指揮共に実に拙劣を極めた。
指揮下の艦長並びに将校の多くはその軍人的手腕に於いて「ロ」中将の上位であり、良くその任務を尽くし軍艦の名誉を後世に残した。
幾多の艦船将校中には最後まで責任を果たし芳名を後世に残した者が非常に多い。これらは我が勇将猛卒の名誉ある戦死と共に、この不名誉な敗北と数隻の軍艦が敢えてした降伏恥辱とをいささか償って余りあるものがある。特に最後に「ドミトリ、ドンスコイ」が将旗10個を掲げ数10隻からなる敵の大艦隊と勇戦奮闘した名誉は我海軍の前途に対する吉兆となるであろう。