バルチック艦隊回航の概要

日 露 戦 争 全 般

1904210

日本と露国が相互に宣戦布告

1904810

黄海海戦 旅順艦隊壊滅 日本海軍は制海権を得る。

1904814

蔚山沖海戦 ウラジオ艦隊撃沈

190512

旅順降服

1905310

奉天陥落

190595

講和条約調印

 

 

1章 艦隊の出師準備及びクロンシュッタトより「リバーワ」への回航

823

「ペテルゴフ」に於ける御前会議でバルチック艦隊の東洋派遣が決定

l  海軍大臣、艦隊司令長官を除く、会議に参列した他の将官は、反対

911

艦隊はクロンシュタット軍港を出港

l  自ら艦隊を率い「レーウエリ」に回航し、戦闘訓練を行う。

9月13

艦隊は「レーウエリ」入港

l  入港当日より戦闘訓練を開始し、約1ヵ月間これを続行

103

極東軍司令官(ウラジオストック)アレクセイエフ大将からの電報

l  残存艦艇の全てを編入して始めてその成果を有する。

l  この決定が、艦隊司令長官を最も悩まし、敗因の大きな原因となった。

2章 艦隊「リバーワ」を出港し「タンジエル」に向かう

1016

リバウを出港、母国を離れる。

夜間の水雷攻撃を警戒し、副砲に弾を装填し、砲手は砲側に休ませた。

1022

l  午前零時55分「ドッガーバンク」沖を航行

l  水雷艇に酷似した2隻を見つけ、これに向かって砲火を開いた。

1026

スペインのウイゴに入港 

l  入港後、北海での砲撃が大事件となっている事に初めて気がついた。

l  ドッガーバンク事件の為、1031日まで出港延期となる。

112

モロッコのタンジェル入港

l  タンジールは、艦隊の入港が歓迎された唯一の港

3章 艦隊の主力「タンジエル」より「マダガスカル」に向け出動する

1112

佛領のダカールに到着 錨泊

l  フランス官憲は日本政府の抗議で石炭搭載許可を取り消した。

l  長官は、フランス政府の許可が得られないならば、東航を中止すべきであると打電

1113

熱帯に於ける石炭搭載

l  将校も兵員も全員麻屑を口にくわえ炭塵の吸入を防ぐ。

l  炭庫内の温度は50度

1126日~121

佛領のガブン河口、フランスの領海外の沖合に投錨

l  石炭搭載

12月6日~127

「グレート、フイッシ、ベー」に錨泊する。

l  湾内に入港する事なく、陸岸より3マイルの所に投錨する。

l  石炭搭載後出港

1211日~1217

アンゴラ、ペケナ」に錨泊する。

l  一汽船のもたらした新聞により、日本軍の203高地を占領を知る。

第4章海軍少将「フェリケルザム」の独立支隊「タンジエル」から「マダガスカル」に回航する

11月3日「タンジエル」を出港し、スエズ運河を経由して12月28日「ノッシベ」に到着した。この章の記述は省略

第5章 第2太平洋艦隊の「マダガスカル」錨泊

1229

3813

「セント、マリー」海峡に錨泊

l  旅順港の艦隊が日本の攻城砲の為に撃沈されたとの悲報を知る。

l  海軍大臣より「ジェゴスアレツ」(仏の軍港)に我が艦隊を集合させる事が出来ない」との電報があった。

19日~119

ノシベ湾錨泊

l  ハンブルグ、アメリカン汽船会社が給炭を拒否した為出港を延期

6章 第2太平洋艦隊の「マダガスカル」島出動差し止め

 

海軍省は巡洋艦4隻及び駆逐艦2隻で編成された「ドブロッウオルスキー」大佐の支隊を「ノシベ」湾で待合わせ、合同するよう命令した。

 

現在は機械用材料、糧食及び被服まで欠乏、兵員は殆ど皆、毛くずから作ったサンダルを履いている。

艦隊の乗員一同が遠征に対し成功の信念を持っていない。

 

長官は、自己の病気を具申し、適当な交代者として強健有為な「チフニン」提督を指名し、更迭を願い出た。

7章 第2太平洋艦隊「マダガスカル」在伯のその後

9 糧食の補給

新鮮な肉に不足した事は無かったが新鮮な野菜を入手する事は極めて困難

12 艦隊長期の在泊が乗員の軍紀の及ぼした影響

 

最も軽い刑罰は監禁に処し、これは室内の温度が極めて高く呼吸が困難で、その苦痛は拷問に劣らない。監禁者のみならず番兵までしばしば発病した。

312

我が陸軍の奉天に於ける敗報が艦隊に達した。

315

汽船「レギナ」は漸く糧食及び材料を満載して到着

8章 「マダガスカル」島より安南海岸に至る艦隊の航進

315

ノシベ湾出動

321

 

石炭搭載  カムラン湾に到着するまでに6回行う。

軍艦から水兵を運送船に派遣し、石炭の袋詰めを行い、大型ボートや汽艇で搭載

413

カムラン湾到着 

414

錨泊

9章安南海岸に於ける第2太平洋艦隊

421

佛国巡洋艦「デスカルト」、中立国在泊のため、24時間内に領海を退去するよう伝達

422

艦隊は公海に出た後、「カムラング」湾の前面を遊弋

426

艦隊は「カムラング」湾の北60マイルにある「ワン、フォング」湾に到着、湾内の前部に投錨した。

52

陸上の官憲は艦隊の領海退去を要求した佛国政府の文書を手渡した。

艦隊は外海に出て、終夜最少速力にて編隊のまま巡航する。

57

サイゴンから汽船「エリデン」が、水兵靴1万2千足を搭載して、漸く到着した。

59

「ネボガートフ」少将の支隊と合同

10章 最終の渡航に対する艦隊の準備

510

「ネボガートフ」少将支隊の戦艦は全部「クアベ」湾に入り、直ちに投錨し、石炭を搭載する。

艦隊は「クワベ」に仮泊すること四昼夜に及びこの間諸艦はエンジン、ボイラーの検査及び修理並びに運送船より石炭、糧食及び材料を搭載する。

 

11章 安南海峡より朝鮮海峡に至る艦隊の行動

514

午前5時「クアベ」を出港

11時40分、針路72度に変針し台湾島に向い速力を9ノット

艦隊の総数50隻、その内37隻は軍艦旗、13隻は商船旗を掲げる。

518

午前515分艦隊は機械を停止し、汽艇及び大短艇を降ろし運送船から石炭を搭載する。

深夜に戦艦「ナワリン」及び「ゲネラル、アブラクシン」のエンジンに故障が発生

519

戦艦「アブラクシン」の機械に大きな故障が発生、艦隊は航進を停止

 

522

宮古及び琉球諸島の海峡に向かい針路を337度とし、台湾を迂回

523

艦隊は琉球諸島を通過する。

数日来重態であった海軍少将「フェリケルザム」が逝去

524

終夜5ノットの速力で針路337度に向かって航進

525

午前9時艦隊は針路73度に変針し朝鮮海峡に向かった

526

午後4時30分「戦闘準備」

艦隊はいよいよ朝鮮半島に近づいた。

527

ロシア海軍の記録がない為、日本海軍の記録による。

第1撃は「スーロフ」から敵艦三笠に向かって放った。後続諸艦も皆一斉に砲撃を開始する。

午後2時40分ごろ「オスラビア」は全艦隊の目前で転覆

この時「スーロフ」は哀れ無残な残骸に

528

午前10時「ネボガートフ」隊は完全に四面から包囲され、降伏

ロゼストウインスキー」中将を乗せた駆逐艦「ベトウイ」降伏

 

 

第1章 艦隊の出師準備及びクロンシュッタトより「リバーワ」への回航

1 1904年8月23日「ペテルゴフ」に於ける御前会議

第2太平洋艦隊(バルチック艦隊)の派遣時期に関しては、艦隊司令長官は既に雇入れている運送船を一度解雇したならば回航のために再び雇入れるのは不可能であるため艦隊は直ちに出発する必要があると主張し、海軍大臣も同少将の意見に賛成した。

 

しかし会議に参列した他の将官は、艦隊司令長官及び海軍大臣の意見に反対していた。

(1)      日本海軍は戦闘の準備を更に整え、乗員は全部実戦の経験を積んでいるのに反して我が第2太平洋艦隊はその編成すら未完成である。

(2)      回航の途中は苛烈な熱帯地方でありとうてい満足な訓練は出来ない。第2太平洋艦隊の派遣を早める事は徒にその滅亡を早めることに同じである。

(3)      それ故に第2太平洋艦隊は、バルト海で十分に訓練を積み又建造中の諸艦を竣工させ又チリー及びアルゼンチンよりの購入軍艦を艦隊に加え、一挙に戦争の運命を決め得る勢力を持った上で、来春を待ち派遣するのが万全の策である。

 

しかし司令長官の主張どおり結局艦隊は、1904年の秋に出発し「マダガスカル」まで行き、購入軍艦7隻の到着を待ち、1905年3月ウラジオストックに到着するよう計画された。

2 艦隊はクロンシュタット軍港を出港(9月11日)

艦隊司令長官はクロンシュタットに艦隊の在伯する間は雑用が限りなくあり、いつまでも出発する事ができないため、艦隊の領収していない物品は輸送船で受け取ることとし、自ら艦隊を率い「レーウエリ」に回航し、同港に於いて戦闘訓練を行うことを決心した。

艦隊は911日午前9時戦艦「スウオロフ」、「アレクサンドル」三世、「ボロジノ」、「オスリヤビヤ」「ウエリーキー」及び「ナワリン」、1等巡洋艦「ナヒモフ」、「アウロラ」、「ドンスコイ」及び「スウェトラナ」、2等巡洋艦「アルマーズ」駆逐艦「ベドウイ」他6隻の諸艦はクロンシュタット泊地を抜錨し、皇帝の親閲を受けた後9月13日午前7時「レーウエリ」の泊地に投錨した。

 

3 艦隊の「レーウエリ」停泊及び戦闘に関する諸訓練(9月13日~)

艦隊は「レーウエリ」入港の当日より戦闘に関する訓練を開始し「リバーワ」に回航するまで約1ヵ月間これを続行した。

9月21日の日中は、艦隊運動を行いながら移動標的を使って内筒砲射撃訓練を行い、日没からは当直艦を停泊中の湾の入口付近に配置し探照灯で警戒させ、その沖合いに駆逐艦2隻及び艦載水雷艇を派出して巡回させている。艦隊の各艦は日没より戦闘訓練を行い、夜中は大砲の傍に交代で当直させ又小口径砲には弾薬を装填している。

923に演習弾を搭載した輸送船が「レーウエリ」に入港し、各戦艦及び巡洋艦は演習弾100発と75mm砲弾60~150発を搭載した。

925より10月2日まで数回「カルロス」島付近に出動し、同島に立てた標的を射撃して各種の砲熕機関砲を試験した。

926引き続き「カルロス」島の標的を目標に射撃訓練を行い、射撃訓練終了後は艦隊砲術長が主催して各艦の砲術長を集めて研究会を実施し、組織、射撃要領、戦術に関する改善策について討議した。

駆逐艦は9月27日及び29日には75mm砲の射撃を行った。第1回は各射手に5発づつ射撃させ、次いで射手見習いに同じく5発づつ射撃させた。この時の駆逐艦の速力は12ノットであった。

9月28クロンシュタットから回航中艦隊は「スラビ、アルゴ」式無線通信機と輸送船の2隻に装備した「マルコニ」式無線通信機との交信を行い、「マルコニ」式無線通信機の調整を行う。

ロゼストウインスキー少将の特命により行われた無線電信の試験は「レーウエリ」に於いても最初十分な成績を得られなかった。

9月29「スーロフ」は修理後の各種領収試験を行ったが数多くの修理箇所があり、艦内で工事が続行されていた。

「ボロジノ」は更に準備が遅れ、9月13日になってやっと試験を終えている。

「アリヨール」はクロンシュタットの岸壁に係留中、工員のサボタージュで浸水し、触底してしまった。そのため武器等装備品の一部は取り替える必要があり、出動準備は著しく遅れた。そのため艦隊が「レーウエリー」を出港する2日前に合同することが出来た。

新造戦艦で出動準備が完了していたのは「アレクサンドル」三世のみであった。

「オスラビア」は外国から帰国後、艦内各部屋の通風装置の改造工事が9月14日現在も完了していなかった。

103

8月23日の御前会議の2日後、極東軍司令官アレクセイエフ大将は第2太平洋艦隊の派遣について「現在の編成では海戦で勝利を得る事は難しい。我が海軍が有する軍艦の悉く(残存艦艇の全てと黒海艦隊の一部)を編入して始めてその成果を有する」との電報を送った。このため,バルチック艦隊が出発後残存艦隊で第3太平洋艦隊が編成される事となった。

106引き続き「レーウエリー」に留まり訓練中であり、103日、5日、6日は、駆逐艦の魚雷発射訓練を行った。

皇帝は、109戦艦「アリヨール」「ボロジノ」「アレクサンドル3世」「スーロフ」を巡視し、正午全艦隊は抜錨、出航し戦闘射撃訓練を行った。翌10日は巡洋艦、駆逐艦を巡視された。皇帝は各艦において「露国軍艦旗の名誉にかけて任務を完遂することを確信する」と勅語を賜わった。

艦隊は1011日午前6時「レーウエリ」港の停泊地を出発して「リボウ」に向かう。

1列は戦艦4隻、運送船1隻、巡洋艦3隻及び第2列は戦艦3隻、巡洋艦2隻、駆逐艦7隻、運送船1隻であった。

10月12日正午頃、艦隊は「リボウ」の灯船(灯台の代わりをする船)に近づき、順次外港に到着した。

艦隊は外港に停泊中、10月13日戦艦「オスラビア」「アリヨール」の2隻が浅瀬に乗り上げたので曳船で引き離した。10月14日の早朝戦艦「スーロフ」は係留浮標の錨鎖が切断し、漂流を始めた。そのためロゼストウインスキー少将は、軍港で搭載すべき諸物品が未だ搭載されていないにも拘わらず事故が再び発生することを恐れ、同日錨を一旦上げて安全な沖に投錨した。

10月13日「ロゼストウインスキー」少将は海軍技術会議より書面を受け取った。これは戦艦「ボロジノ」の復元力を計算したもので、満載炭の場合2、5フィート(新造時通常搭載炭 4.3フィート)と異常に低く、海洋の航行や戦闘において注意を要する。

2005年5月27日の日本海海戦における戦闘の際、新戦艦の水線部に命中した敵弾の為生じた破孔が原因で沈没した。これは海軍技術会議の指摘が的中した事を証明し、「スーロフ」「アレクサンドル三世」「ボロジノ」も同じ理由で転覆している。

1014日巡洋艦「オレーグ」「イズムルード」「リオン」及び「ドネツブル」は航海をする準備が未完成であるので、海軍大佐「ドブロツウオルスキー」が指揮する一部隊を編成し、遅れて出航して途中で第2艦隊に合流することとなった。艦隊の出航当日入港する駆逐艦4隻もこの部隊に編入される事となった。

 

解説:バルチック艦隊はいよいよ明日「リバウ」を出航して極東に回航することとなるがロゼストウインスキー少将は、艦隊が行動する為の石炭の確保に加えて、1万2千名の乗組員の食糧と熱帯地方での防暑服や北極地方での防寒服を準備する必要があった。当時のロシアの官僚組織を考えるとこれらの準備をするには想像を絶する苦労があったものと思われる。そのためロゼストウインスキー少将は、1日18時間も働き続けたといわれている。今回の出航も全ての準備を完了させる事は出来なかった。