パナマ運河と清国人(漢民族)

パナマ運河の工事は、1880年、スエズ運河を作ったフランスのレセップスが工事を開始したが黄熱病等で1889年失敗している。この黄熱病は蚊が媒介する恐ろしい病気で、顔が黄色くなったら数日の内に亡くなったそうである。その為に、この工事人夫の募集に対し、日本政府は応募禁止とした。

190582日の新聞記事によると、田中内務省衛生技師等が出張して調査した結果、同地の気候は到底日本人に適せず、強いてこれを行えば百人中九十人は熱病者となる結果を見る事になるとして、応募禁止となった。しかし国の庇護がない清国人は応募したのである。

1906823日の新聞によると「支那苦力募集」として、米国政府は、パナマ運河開削に使用する為、南清地方に於いて、25千人の苦力(くりー)を募集しようとしていると書かれていた。

そして1903年米国の陸軍が中心となって開始された工事は、1914年8月15日に完成しているが、工事人夫は現地人及び支那人であったとさらっと書いてあった。