明治37年8月29日(月曜日)

東郷大将と某従僕 敵が撃ち出す巨弾は、着弾、三笠艦上の諸所に爆発した

軍楽隊員の奮闘 楽隊一組26人のうち残っていたのは僅かに10人であり

日進春日の射撃 我が2艦の放った巨弾はその砲台に達し石垣を砕き

東郷大将と某従僕

本月10日の開戦において、敵が旗艦三笠を目標として撃ち出す巨弾はいんいんごうごうと怒雷が空中に跋扈する(おおきな雷が方々に落雷している)ように着弾、三笠艦上の諸所に爆発した。この時我が長官は幕僚を従え収容として艦橋上に起立していたが一弾が直ぐ近くで爆発し、伊地知艦長、植田、小倉両参謀を傷つけた。長官の従僕(食事、着替え等身の回りの世話をする)某は同じく負傷し治療室に運ばれていたが、将軍を大切に思う熱心のあまり同僚である参謀長の従僕を招き、長官の司令塔内(厚い鋼鉄で囲まれた場所で艦橋同様指揮することが出来るようになっており、艦橋の下にある)に入る様伝言を依頼した。参謀長の従僕は快諾し、永田副官の前に言って再三再四切望し、副官遂にその熱誠に動かされ長官にお願いし、殆ど拉致するように司令塔内に移っていただいた。

解説:旅順艦隊を破った最後の戦いである黄海の海戦時の情況で、艦橋上の艦長伊地知大佐、参謀植田少佐等が負傷した。特に植田少佐は重傷であった。本紙8月15日(8月10日海戦死傷者)、8月18日(三笠艦上の死傷者)に関連記事がある。

軍楽隊員の奮闘

10日の海戦において旗艦三笠に乗組んでいる軍楽隊員の死傷者が多かったが、これは木村軍楽長が楽隊全員の希望を入れ司令長官に是非戦闘に従事したいと訴え、長官も遂にそれを受け入れ2月初旬以来信号助手として採用したことによる。10日の戦闘中も信号手の職務を果たし、戦い終わり演奏しようとした時、楽隊一組26人のうち残っていたのは僅かに10人でありその他は皆死傷していた。

日進春日の射撃 28日佐世保特派員発電

我が陸軍が除家村(じょかそん)に進軍するのを妨害している砲台があり、23日午前10時龍王塘(りゅうおうとう)西方の沖合いからこの砲台を攻撃した。今までは背面に向けていた砲身をこちらに向け盛んに発砲を始めたが照準が悪く一つも我が2艦に命中せず水柱を上げるだけであった。我が2艦の放った巨弾はその砲台に達し石垣を砕きまたその付近に落ちて爆発する様子が手に取るように見えた。約1時間の交戦で敵の砲台は沈黙し我が陸軍の行動に何らの支障がないことを認め2艦は引き揚げた。

解説:日進、春日はイタリー製の1等巡洋艦でアルゼンチンから購入したが主砲の仰角(上を向く角度)が大きく遠距離を射撃できる為陸上砲撃に威力を発揮した。