明治37年8月18日(木曜日)

軍使勧降 陛下の聖旨と勧降書を敵の要塞参謀長に手渡した

新捕虜の状態 ウラジオ艦隊捕虜は601名であり

敵帥挙動について クロパトキン将軍の兵力数は、はるかに日本軍を超えるようになる

三笠艦上の死傷者 博恭王殿下は胸部打撲でご軽傷であるがしばらくご帰休となった

軍使勧降 817日午前大本営着攻囲軍司令官発

16日朝8時軍参謀山岡少佐を軍使として敵の前哨(最前列の敵陣)に派遣し、陛下の聖旨(民間人の安全な退去を保障)と勧降書(降伏を勧告)を敵の要塞参謀長に手渡した。

17日朝10時に敵が回答する事となっている。

解説:陛下の聖旨(民間人の安全な撤退を保障)とは、完全に包囲されている旅順市街に残っている婦人、子供、その他民間人の安全な脱出を保障するものであった。

軍使は陸戦法規32条の規定により不可侵権を持ち、白旗を掲げ、ラッパ手、旗手、通訳を伴い、ラッパを吹奏しつつ徒歩で敵陣まで進んだ。

新捕虜の状態 17日佐世保特派員発電

ウラジオ艦隊捕虜は601名であり、リューリック艦長は開戦後間もなく倒れ、副長次いで倒れ、その他の高級士官がことごとく倒れたので捕虜の中の将校は大尉以下23名に過ぎない。彼らには将校服を与え当海兵団(佐世保の新兵教育隊)で収用することとなった。佐世保海軍病院に収容した負傷兵は40余名であり、彼等は我々の治療、看護が親切と感じているようである。

敵帥挙動について

遼陽に於いては、遠からずして開戦以来最大の戦闘が起こり、この戦闘が今後の戦局を左右する決定的な戦争になるものと誰もが信じ疑わない。しかし欧州の軍事界ではこの戦闘は決定的なものではないと考える人も居る。日々到着する増援部隊により間もなく満州の露軍は優勢となり、クロパトキン将軍の兵力数は、はるかに日本軍を超えるようになる。この時を待って猛烈な攻勢に移ることが出来、これが露軍の取るべき最良の策であり、むしろ遼陽における決戦を避け徐々に退却し時期の到来を待つべきという。

三笠艦上の死傷者

 鈴木連合艦隊軍医長よりの報告では、三笠に最も敵の砲火が集中し死傷者が110余名に達した。病院船で佐世保病院に後送した者は准士官以上9名、下士官兵35名であり博恭王殿下も含まれる。殿下は胸部打撲でご軽傷であるがしばらくご帰休となった。植田参謀は右肩胛部に拳大の失肉創と右頬部貫通創の重傷で、伊地知艦長は右腓腫筋盲管砲創(うはいしゅきんもうかんほうそう)で骨及び血管に損傷が無く極めて軽傷である。