明治37年6月19日(日曜日)

常陸丸の最後 連隊長須知中佐は軍旗、重要書類はことごとく焼却しした後、自らピストルで悲愴な最後を遂げた

常陸丸の遭難者である軍曹田所亀松氏等の談によれば、常陸丸は十五日午前十一時二十分頃二隻の露艦に囲まれた。ロシア号は右舷、リュリック号は左舷で約千メートルの距離に接近し、二十数発の砲弾を発射した為に数十名の負傷者が発生した。ロシア号は更に五百メートルの距離に接近し五十~六十発の砲火を浴びせ、再び前位置に離れて監視した。この第二回の砲撃で何もすることが出来ないと覚悟した頃に最後の命令が下った。連隊長須知中佐は軍旗、重要書類はことごとく焼却しした後、自らピストルで悲愴な最後を遂げた。各将校、上級職員や各兵員等多くの人がピストルや軍刀で壮烈な死を遂げた。

本船が簡単に沈没しなかったのでロシア号は更に二百メートルに接近して砲弾三百発余りを乱発して、船内並びに海中に浮かんでいる兵士や船員等を虐殺した。船が完全に沈んだのは午後二時半頃であり、勇壮な兵士達は始終万歳を高唱し、船は盛んな万歳の声を上げつつ千古の恨みを込めて玄海の海底深くに沈没してしまった。

常陸丸事件について次のURLに詳しい(佃)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E4%B8%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6