朝鮮の改革
英国夫人イザベラ・バードは、李町末期の1894年1月から1897年3月にかけ、モンゴロイドの特性調査の一環として4度にわたる朝鮮旅行を行っている。その朝鮮紀行によれば
改革
日本人が「改革」と呼ぶ新しい秩序は1894年7月23日日本兵が景福宮を武力で占拠した時点から始まった。(474p)
朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り 巻きと共に、全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ,改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。
このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。(342p)
ソウル
城内ソウルを描写するのは勘弁していただきたいところである。
北京を見るまでわたしはソウルこそこの世で一番不潔な町だと思っていたし、紹興(しゃおしん)へ行くまではソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどいにおいだと考えていたのであるから!都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。路地の多くは荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た個体及び液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。(59p)
沿海州の朝鮮人
朝鮮半島の不潔で荒れた貧しい村々とは異なり、この定住地の家々は同じ朝鮮家屋でも立派である。住居の多くは部屋数が4間か5間、ときには6間ある。朝鮮本国では高級官僚の家ですらめったに見られないような家具がふんだんにある。男たちの態度はわずかながらも確実に変わってきており、本国朝鮮人の特徴である猜疑心、怠情と慢心、目上への盲従は、きわめて全般的に、アジア的というよりイギリス的な自主性と男らしさに変わってきている。きびきびした動きも変化の一つで、両班の尊大な歩き方や農夫の覇気のないのらりくらりぶりに取ってかわっている。金を儲けるチャンスはいっぱいあり、儲けてもそれを搾り取る官僚や両班はいない。
朝鮮にいたとき、わたしは朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望みなしと考えていた。ところが沿海州でその考えを大いに修正しなければならなくなった。彼らは大半が飢饉から逃げだしてきた飢えた人々だった。そういった彼らの裕福さや品行の良さは、朝鮮本国においても真摯な行政と収入の保護さえあれば、人々は徐々にまっとうな人間となりうるのではないかという望みをわたしに抱かせる。(306p~307p)