合併と佛国 23日巴里通信社発
日韓合併の発表は、永く予期され、了解されており、佛国においても何らの驚きもなく、日本に反対する保守的新聞すら、韓人の日本人となることは韓人の為に幸せであるであろうと論じ、それは、韓国に於ける日本の行動が、文明を意味し、従って人民の安全、平和の保証となるからである。
日韓合併と獨逸 同上
獨逸政府は、日韓合併をもって、両国関係の必然的発展であるとし、これに対する獨逸の利害関係は、ただ将来の経済的状態及び関税規則にあるのみと考えている。
合併の英国新聞 26日上海経由路透社発
ロンドンタイムス
日韓合併は、以前より明らか分かっていた。合併は多くの面倒な問題を確実に解決する唯一の手段である。隆隆として勃興した日本は、遂に島嶼国的地位を離れた。そして
日本は、従来常に高等政治に表示した高邁不撓の勇気を奮って、更に国運の伸張を図らなければならないことを自覚している。
日韓合併と米国 29日紐育特派員発
合併協約の全文は、29日の新聞に掲載された。そして関税が10年間据え置かれる保証を与えたので、賛成反対の声は共になく、至極平穏である。
清人の併合観 内国電報29日
30年前の韓国皇帝は、清国からすると一つの藩王に過ぎなかったものが、その後情勢の変化に伴い、一藩王は何時しか韓国皇帝陛下として、立派な独立国皇帝となったものである。しかし今や又再転して、前時代に於ける藩王よりさらに権力がない一王族となったのは止むを得ない結果であろう。韓国については、昔と今で事実に於いて、変化があったわけではない。従って今、これに対し俄かに驚くほどのものではない。
期日 |
政治 |
期日 |
軍事 司法 治安 宗教 |
期日 |
金融 財政 商業 |
期日 |
工業 農業 教育 通信 鉄道 その他 |
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1月27日 |
暗殺は韓国魂 |
1月9日 |
倉庫殷賑 |
1月6日 |
曽禰統監着 |
1月6日 |
曽禰統監着 |
2月1日 |
虐殺された日本人 |
1月22日 |
穀物輸入税問題 |
1月9日 |
曽禰統監談話 |
1月8日 |
韓太子帰国 |
2月6日 |
暴徒又起る |
2月14日 |
初期の韓国銀行 |
1月10日 |
曽禰統監帰京 |
1月9日 |
曽禰統監談話 |
2月9日 |
安重根の自白 |
2月19日 |
統監政治不信用 |
1月22日 |
甜菜栽培計画 |
1月10日 |
曽禰統監帰京 |
2月14日 |
安重根弁論終結 |
3月17日 |
道路工事費 |
1月28日 |
最近調査の在韓邦人 |
1月16日 |
内閣と合邦論 |
2月15日 |
安重根死刑 |
7月27日 |
水道工事と韓人水汲 |
2月24日 |
道路修築計画 |
1月21日 |
韓人海牙に向かう |
3月5日 |
鶏井暴徒討伐 |
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3月1日 |
韓国綿花輸出好調 |
3月2日 |
韓国政界趨勢 |
3月10日 |
安重根と教父 |
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3月4日 |
拓殖会社の漁業 |
3月16日 |
合邦催促 |
5月20日 |
李在明等判決 |
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3月12日 |
京元鉄道通過の賀会 |
3月20日 |
合邦賛成 |
6月16日 |
平壌憲兵隊 |
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3月12日 |
全国民籍調査 |
3月24日 |
合邦急施の上書 |
6月20日 |
韓国警備機関統 |
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3月17日 |
東拓の漁業 |
3月26日 |
安の死刑執行 |
7月3日 |
警察官署彙報 |
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4月4日 |
湖南鉄道祝賀会 |
6月2日 |
統監更迭と清紙 |
7月8日 |
新警備機関 |
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4月11日 |
電鉄敷設 |
7月1日 |
諸官制改廃 |
7月31日 |
暴徒挟撃 |
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4月15日 |
ロ氏の演説 |
8月22日 |
韓国民心の趣向 |
8月5日 |
韓国新聞取締り厳重 |
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5月2日 |
韓海漁業事情 |
8月23日 |
韓国合併 |
8月20日 |
外戚の借金 |
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5月3日 |
韓国鉄道経営方針 |
8月24日 |
韓廷の御前会議 |
8月26日 |
梅法学博士死去 |
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6月22日 |
韓国瓦斯電気会社出願 |
8月28日 |
合併内容細目 |
8月31日 |
京城平穏 |
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6月26日 |
電燈請負契約成立 |
8月28日 |
寺内統監の苦言 |
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7月7日 |
両班と儒生 |
8月30日 |
李王告別辞 |
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7月24日 |
韓国両班の処分 |
8月30日 |
韓国併合詔書 |
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8月13日 |
水道紛糾事件落着 |
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8月21日 |
平南鉄道開業期 |
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8月26日 |
朝鮮の殖産事業 |
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8月29日 |
韓国の製塩 |
1月2日
名刺交換会 1日京城特派員発
天気青陵で寒気が強い正午、京城ホテルに於いて名刺交換会が開かれた。官民の参集者は8百名、倉富氏の発声で、陛下の万歳を三唱した。市中は大いに賑わい、何となく活気があり、来るべき発展を期している様に思える。
宮中の元旦 同上
宮中は、今朝一般の拝賀を受けられ、統監は参内し、新年の祝賀を申し上げた。
聖影祝賀会 1日平壌特派員発
午前10時より、理事庁小学校に於いて聖影祝賀会が行われた。11時より日韓人合同の名刺交換会があった。昨日は、数日来の珍しい暖気で、雨であった。本日は晴れであるが、寒気が俄かに増し、道路が氷結し一面の鏡と化し、奇観である。市内の模様は例年と大差なし。
1月4日
曽禰統監帰朝(物々しい警戒) 3日京城特派員発
曽禰統監は、佐竹秘書官、石井、戸波両武官を従え、3日午前9時半、南大門駅発、仁川に行き、同港より弘済号に乗船し帰朝の途に就いた。元気を装っているがやせ衰えた様子である。病体の安全を保つ為、下関に直行し、大阪上陸、ここから汽車にて帰京の予定である。特に目立ったのは、沿道は無論、停車場にも憲兵、武装巡査を夥しく配置した大警戒で、一同奇異な感に打たれた。(一部抜粋)
統監不在の京城 同上
統監の帰朝は、小康を保っている政界に何か暗示を与えた様で、これから政治が始まるに当たり、何らかの処置が行われるのではないかと期待されている。
1月5日
李完用氏容態 4日京城特派員発
さしたる変化なし。2日石塚長官は、統監代理として病床を見舞い、統監が帰朝した件を伝えたが、彼も英語で色々と尋ねた。元気に変わりはないが、とにかく咳がひどく、苦しい様子との事であった。体温は上がっていないが、背部の傷は深いそうなので、なお予後の経過が気がかりである。
曽禰統監の意気込 同上
統監帰朝中は代理を置かず、普通の政務は、石塚長官が代理する。尚統監は、約10日間、東京に滞在し、以前から構想している意見について廟議の決定を待った後、3週間片瀬の別荘で静養の予定である。廟議の如何によっては、統監は再び帰任しないと明言したと言われている。
1月6日
曽禰統監着(下関) 内国電報(5日発)
曽禰統監が記者の質問に答えて(一部抜粋)
韓国民の貧弱な農産物は、一駅毎に値段が違い、物々交換の状態なので、殆ど通貨が不要である。若し1千9百万の人口に割り当てる時、一人に就き通貨1円にも当たらない貧乏国であるので、これを救う道は、先ず殖産を奨励し、交通を便にして、且つ物産を買い上げて、物価の何物であるかを知らしめる必要がある。
この度も1千反の麻を買い上げる事になったが、初めは献上品と勘違いをしていた。その後奨励品の為と理解し買い上げに応じ、同地の麻織工女が2万人と多数に達したのには驚いた。
この様な地方にさえ、相当な殖産力があるとすれば、全韓諸道に亘っては、決して失望する必要はない。故に鉄道も京元、湖南2線の速成を期すべく提案している。鉄道の敷設、道路の開通と共に、漸次地方人民を潤おすことになるであろう。普通道路は全て13尺幅とする様取り決めた。
解説:京元鉄道とは京城と現在北朝鮮の元山(日本海に面した)を結ぶ線である。湖南鉄道とは、大田と韓国最南端の港町木浦を結ぶ線である。日本に搾取されたと主張する現在の韓国人にとって耳に痛い話であるが、通貨が不要なほど貧しかった当時の韓国の実情が良く分かる記事である。
1月7日
統監の進退(下関) 内国電報(6日発)
統監の帰朝は、無意味な事ではないであろうと伝えられている。2カ月間の滞京中、現状にどの様な変化が現れるが予測し難いものがある。内閣の意見を統監がこれを受け入れる余地があるならば、統監は依然としてその職に留まると思われるが、若しこれに反する場合には、対韓政策上、自ら何らかの変化を来すと思われる。とにかく来る2月中には、何らかの新しい展開があるのではと云う者が居る。
1月8日
韓太子帰国 7日京城特派員発
韓国太子は、4月早々、岩倉哺育総裁と共に韓国に帰り、約20日間、京城に滞在し、両宮陛下とお会いになる予定と言われている。
解説:韓国皇太子は、明治天皇の方針で日本で教育されている。
合邦反対運動 同上
合邦問題に関し、金原漢(きんげんかん)、李根澤(りこんたく)等は、水原地方まで出張し、反対運動を行っている。順次、各地方を遊説する積りと思われる。
1月9日
倉庫殷賑 8日仁川特派員発
当地の米相場は非常に安く、普通1升が7銭であるので思惑買いをする者が多く、その為当地の在米は6万トンに達する。倉庫内は殷賑(いんしん)である。
解説:殷賑とは活気があって賑やかな事
一進会亦奏文 8日京城特派員発
一進会はあくまで上奏の目的を達する為に問安に託し、一篇の奏文を奉ろうとし、それを起草中であると言われている。
曽禰統監談話(大阪) 内国電報(8日発)
統監は灘萬に到着後、来訪の記者に語った。
産業奨励については、韓国政府も特に新事業として起こす程の事は無い。自分の考えでは、韓国はまだ産業を奨励する時期に達していない。即ち官吏が苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)を事とする悪習慣があるから、国民が一般に産業に力を尽くし、富力を増す様な考えはなく、ただその日を暮らせば良いという浅ましい考えだから、先ずその風習を矯正し、国民として官吏を信じると言う観念を養わせた後でなければ、たとえ政府が奨励の為に保護金を与えても何の効果もない。
解説:苛斂誅求とは、情け容赦もなく取り立てる事であり、両班の腐敗が韓国近代化の最大の障害であった。
1月10日
曽禰統監帰京 内国電報(9日発(
曽禰統監は9日午後2時20分新橋着にて帰京した。統監が汽車の中で語った談話の要点は次のとおりである。
昨秋の韓国米作は、平年より2割の増収があり、又大豆も非常な豊作であり、今は香港方面にまで販路を開き、従って価格も騰貴した。これまた韓国の利益を増した一つである。この上京元と湖南の両鉄道が敷設されるならば、韓国の産業は、自然に発達するであろう。又この開通と同時に大いに産業を奨励する覚悟である。あの韓国内の4大道路の敷設も着々と進行中であり、これも又韓国の交通、産業の発達に大きな利益がある事は言うまでもない。(一部抜粋)
解説:疲弊した韓国にとってインフラの整備が急務な様子が良く分かる記事である。
1月11日
在米韓人盲動 10日京城特派員発
米国サンフランシスコに居住する大東保国会という排日派の韓国人団体は、韓美商業組合なるものを組織し、本部を平壌に、支部をサンフランシスコに置き、排日思想の普及に努めようと盛んに運動中であるが、昨今は京城に居て、専ら有力紙と気脈を通じていると言われている。
1月12日
平壌工業所拡張資金 11日京城特派員発
平壌工業所の拡張資金は、興業銀行借入金より約70万円を割いて充当し、10年間で元利償還の予定
李在明の連累 同上
在明の連累6名が10日平壌より連行された。なお残党がいると思われる。
解説:李在明は総理大臣李完用を襲った犯人
統監政治に関する質問 同上
或る向きに達した情報によれば、今期議会に各政党が連合し、統監政治に関し、猛烈な質問を試み、答弁如何によっては、統監の不信任、予算の大削減を行う意気込みであると言われている。
何処までも怪しき韓人 11日平壌特派員発
兇漢安重根の連累者として逮捕され、病気の為に保釈をゆるされた当地の泰西学校主幹、安昌浩(あんしょうこう)は、更に兇漢李在明の連累として捕縛され、嫌疑者として検挙された同校生徒数名と共に京城に送られる。
1月13日
満州中立案と韓国 12日京城特派員発
米国が提議した満州処分案が当地に伝わり、10日朝、例の大韓毎日紙は、論説欄にこれを記載し、列強は十分頼るに足る存在であると指摘し、巧みに排日を鼓吹した。その他韓人間にも、同様の言論を提唱するものがおり、少なからざる影響がある。
刺客所感 同上
一旦保釈され、今又拘禁中の安昌浩は、昨今感じる所があると人に次の様に語っている。
捕縛された当初は、日本官憲が我々一派を謀殺するつもりであると思い、それならば寧ろ先に自殺した方が良いと、縊死を図ったが果たさなかった。天を仰いで慨嘆する中、審問の開始と共に、官憲の待遇が以外に鄭重であり、旧来の排日説が誤っている事を知り、釈放後は、潔く泰西学校(平壌にある排日)の校長代理をも辞し、田舎に隠遁するつもりである。
対韓政策革新 同上
統監の考えと伝えられている対韓意見なるものが非常に多いが、何れが本当であるか判断し難い。各方面に亘って調査の結果、多分次の様な事ではないかと信じられる。
地方行政機関の統一 これは積年の宿題であり、現状の政令が多岐に分かれる弊害を根本より改革しようとするものである。
警察権の掌握 法権を委任した結果、司法警察は、我が手に収められたが、その他は依然韓国にあり、諸般の不便が多く、警察の目的を全うする事が出来ないので、この全権を掌握する意がある。
内閣各部の併合 保護政策の下で韓国が現状の様な厳めしい各部を持つのは、形式的でその効果がない。財政窮乏の現在、この様な事に冗費を使うのは得策でない。(一部抜粋)
1月14日
内部高等官会議 13日京城特派員発
内部高等官は、13日地方行政制度に関し、協議会を開いた。これは間もなく上京する岡次官が持参する資料を作る為である。
解説:内部とは日本の旧内務省の様な存在である。
朝鮮同志会特派員着京 同上
朝鮮同志会特派員大谷外一氏は、13日夜着京し、当地記者団と打合せをすると思われる。
1月15日
税関新設抗議 14日京城特派員発
清国がポンシュン及び龍井村に税関を新設し、徴税を開始した事は、韓清通商条約に違反したものであるとして、我が外務省は、数日前に清国政府に抗議を申し込んだ。
発行停止 同上
朝鮮日日新聞は、東拓無用論を連載し、且つ総裁以下重役の私事を4回に亘って摘発していたが、13日の夜、突然発行を停止された。
露韓国境貿易視察 14日元山特派員発
元山税関長の野手耐氏は、豆満江沿岸に新設した3か所の税関監視を兼ねて、国境貿易を視察する為に、14日同方面に向け出発した。
1月16日
北韓憲兵制度議 15日京城特派員発
既に報道された統監の対韓策の外に、一つの重要なものがある事を発見した。それは北韓一帯の警察制度を全部撤廃し、これに代えて憲兵制度を以てする事である。その理由は、同地方は清露両国に近接するのみならず、古来より不良の徒の巣窟であり、特に最近、煙狄(はんてき)地方を中心として、排日派の陰謀策源地となっている状態であるので、この取締は、秩序ある憲兵制度を用いなければ不可能であると言っている。
内閣と合邦論 同上
この程朴齋純氏を除く各大臣が尹徳榮(いんとくえい)氏の宅に会し、一進会の唱える合邦を是認する決議を行い、入院中の李総理の許に意見書を付して提出したと伝えられた。その目的は、現内閣の強化を図る為と言われるが真否の程は不明である。
1月19日
石塚長官の言明 17日京城特派員発
総務長官の更迭の噂が東京より届いた事に対し、石塚長官は、今の統監政治に於いて、何らか非難があるならば、余は僭越ながら職責を重んじ、甘んじて退職するであろうと言明した、
解停 同上
朝鮮日日新聞の発行停止が解除された。その筋が世論を考慮した結果である。
解説:1月15日発行停止の記事がある。
曽禰統監辞任 内国電報(18日発)
曽禰統監の病気は胆石であり、予が引き続き韓国統治の任に当たるのは不可能である。予の辞任については、桂首相もこれを認めているので、近いうちに之は発表されるであろう。
1月20日
松樹の檄文 18日京城特派員発
この程、狩猟に出掛けた一日本人が、当地監獄署裏手の山に於いて、松の樹を削って檄文を記したものがある事を発見した。文中に一、宋秉畯、李容九の暗殺のこと 二、日本高等官暗殺のこと 三、韓国独立のこと 四、有志者はこの山中に来たれ、韓国青年58人広告する。とあり、固より児戯に過ぎないが、この種の悪戯が最近盛んであると当局者が言っている。
解説:宋秉畯は、改革派の両班で、その集まりである一進会を組織した。李完用内閣での商工部大臣、内相を務めた。今の一進会の代表である李容九と連名で「韓日合邦」の声明書を出している。
直ちに再停止 同上
発行再開後の朝鮮日日新聞は、東拓必要論と改題し相変わらず鋭鋒を向けようとしたので即日又停止された。
握手成らず 同上
漢城府(かんじょうふ)尹の趙憲植(ちょうけんしょく)は、一進会と李完用の手先である国是遊説団を握手させようとし17日夜、某所に会合したが議纏まらず、且つ席上、趙は遊説団員の為に殴打され、落花狼藉を極めた。
解説:漢城府とは東京都庁に該当、尹はその長官で東京都知事に当たる。
朴永孝転地 同上
済州島の朴永孝は、間もなく馬山に転地する筈
解説:朴永孝は栄枯盛衰の激しい魅力的な改革派の両班である。クーデタで閔妃派を倒す事に失敗(甲申事変)し日本に亡命、甲午改革で内務大臣となり、改革の中心となったが謀反の疑いで再び日本に亡命、李完用内閣で宮内大臣となったが大臣暗殺の陰謀で現在済州島に流刑処分となっている。朝鮮併合後は実業家、貴族として活躍している。
観察府新設 19日釜山特派員発
地方制度改正の結果、釜山に観察府が新設される予定である。
1月21日
不穏の言論 20日京城特派員発
例の大韓毎日新聞は、満州問題について討論するとして、連日評論しているが、要は惨めな被保護国同胞に、近隣の国の活劇状況を教えると称して、時代を上古、中古、近世の三段階に分けて、満州の歴史を説き、韓国との関係を論じ、結局列強が満州に関与する事を感謝している様である。又在米の韓国民と同地青年会とは何事か頻りに通信を交換し、ウラジオ在留民も又これに加わり、情勢が何となく不穏な様子である。(一部抜粋)
解説:満州問題とは、米国が満州鉄道を列強で管理する様申し入れている件と思われる。
国民演説団の意見書 同上
国民演説団は、19日会合し、我が貴族院、衆議院の両院に合邦反対の意見書を提出する事としたがその文中、我ら2千万の民は、死すとも首を日本人に渡さずとの意を声明した。
韓人海牙に向かう 同上
名も知れない韓人2名が、急遽出発しヘーグに向かった。来る3月の平和会議に何事が持ち出すと伝えられるが信じ難い。
朴永孝出遊 20日馬山特派員発
済州島に蟄居中の朴永孝氏が19日、海路で馬山に来訪した。旧馬山の韓人富豪孫某方に、当分静養の筈
解説:昨日の記事の続報
1月22日
甜菜栽培計画 21日平壌特派員発
東拓会社では、いよいよ本年度より当地付近の2百か所に甜菜を栽培する事となった。嶺日生薬は、調査の為に平壌に来た。多分大規模は製糖工場を当地付近に設立すると思われる。
解説:甜菜(てんさい)は、サトウキビと同様に砂糖の原料となる野菜で、カブに似ている。
穀物輸入税問題 21日京城特派員発
穀物輸入税問題に関し、在京中の児玉書記官より政府の方針は現行の率を保持する事に決定したが、政友会の意向は再び増率案を提出しようとする情勢にあるとの来電があったので、当商業会議所の狼狽は一方ならず、全韓会議所に急電して警告を与え、一面臨機運動員2名を東上させる事とした、
解説:日本が韓国からの穀物に掛ける関税の問題である。
1月23日
宮相に脅迫状 22日京城特派員発
現宮相に宛て、李完用を絶命させ、を大官に任命して、一進会を解散させる旨を皇帝に奏達せよ。しないならば自由行動を執るとの脅迫状を送った者がいる。張基鶴と署名している。
1月24日
平壌鉱業部開始 23日平壌特派員発
新任平壌鉱業部長武田少将、次長水田中佐が23日着任した。
雄基湾結氷 23日清津特派員発
雄基湾が凍結した。ウラジオよりの流氷が多い。立神丸(たてがみまる)」は、ウラジオ行を中止するかも知れない。
解説:雄基湾は、現在の北朝鮮の羅先特別市にあり、ロシアと国境を接している。
1月25日
徳壽宮火災 24日京城特派員発
24日朝、徳壽宮の西洋室より出火し、階上の天井78間を焼いたが、警察官の尽力により、鎮火した。一時の混雑は甚だしく、各大臣及び統監府の代表者国分参与官等が続々と見舞った。
合併反対請願運動 同上
既電の国民演説団の合邦反対意見を、日本の貴族院、衆議院に送る件は、悪例を残すものであるとその筋より厳禁されたが、24日朝、又もやこの委員は統監府を訪問し、同様の意見書を提出した。しかしただ受理し置くだけとされた。
海牙に密行せる韓人 同上
ヘーグに密行したと言われる韓人は、申正輝(しんせいき)、全ユウ臺(せんゆうたい)の2名であり、何れも元軍人の親露派である。彼等は、間島に至る時李範允(りはんいん)と会見し密議したとある。
解説:李範允は、独立活動家でロシアに亡命した事もある。
1月27日
暗殺は韓国魂 26日平壌特派員発
平壌在住の米国宣教師は、キリスト教学校の開校式に臨み、凶漢安重根が伊藤公を射殺した事、凶漢李在明が李総理を刺した事は、共に韓国魂の発揮、否愛国的行動であると称賛し、大いに排日思想を鼓吹し、韓人を煽動した事により、非難の声が沸き上がっている。
福島参謀次長 同上
満州より26日平壌着、無煙炭鉱その他を視察し、27日京城に向かう予定 議州から引き返した山根武官も同行すると思われる。
朴永孝北京に行かんとす 26日仁川特派員発
朴永孝氏及び家族11名は、27日済州島を出発し、木浦を経て当地に上陸し、北京に向かう筈である。
解説:1月20日「朴永孝転地」、1月21日「朴永孝出遊」の続報である。
大韓毎日申報の暴論 26日京城特派員発
大韓毎日申報は、26日雑税に苦しむ地方同胞に告ぐと題して、地方費の徴税に応じるなとの暴論を吐き、その筋によって押収された。
亀山理事官 26日釜山特派員発
水力、電気、軽便鉄道、水道工事等の調査の為、統監府から大阪、京都、岡山、広島、山口の二府三県に出張を命じられ、27日夜出発の予定
1月28日
福島参謀次長視察 27日京城特派員発
福島参謀次長が27日夜、来着した。倭城館に投宿し、28日より京龍仁(けいりゅうじん)に渡り、仔細に視察をする予定である。
最近調査の在韓邦人 同上
最近の調査によると、在韓邦人は14万4千4百4人であり、内京城4万千6百83人である。
列車に石を投ず 同上
26日榊原憲兵大隊長、山縣分隊長が仁川よりの帰途、列車に石を投げた者が居た。ガラスを破ったのみで負傷なし。
1月29日
国民会同志会顧問 28日京城特派員発
合邦問題に同意するために起こった国民同志会賛成会は、主として儒生等の組織したもので、比較的に有力であるが、今回閔泳琦(びんはいき)、金宗漢(きんそうかん)、李埈鎔(りしゅんよう)氏を顧問とした。
解説:金宗漢は、韓国財界人で1867年、漢城銀行を創立した発起人の一人となっている。
李埈鎔は、皇帝純宗の「はとこ」に当たる家柄で大臣を歴任し、後に朝鮮貴族
鴨緑江架橋問題 同上
鴨緑江の架橋工事に関し、清国が、条約上に架橋の文字がない事を盾として抗議を申しこみ、今尚紛争中であるが解氷期の近づいた昨今、捨て置き難く、安奉線と同様、是非共工事を遂げなければならないと言われている。
1月30日
嚴柱益渡日の用向 29日京城特派員発
厳妃の甥であり宮内府ギ候官の嚴柱益(げんちゅうえき)は、韓太子見舞いの為、間もなく渡日する。そしてその裏面の用向きは、先日来言われている昌徳宮と徳壽宮の両宮の衝突の結果、冊立問題の都合を図る為に、日本大官の消息を伺うにある。
解説:厳妃は、先の韓皇である高宗の妻であり、日本に留学中である皇太子李垠の実母である。昌徳宮には、韓皇である純宗が住んでおり、徳壽宮には先の韓皇であった高宗が住んでおり、両者が対立している様である。なお皇太子李垠の妻である李方子(元梨本宮方子)は戦後、昌徳宮に住んでいた。
李範允一派の渡米 同上
本日初旬、渡米したキリスト教青年会の幹事尹致コウ(いんちこう)に付随して李範允一派も渡米したが彼等は、サンフランシスコ在住の者等と連合して何事が図ろうとする形跡がある。その筋では、厳重に警戒中である。
解説:李範允は日韓併合に反対する活動家である。
明治43年2月
2月1日
日本人二十名虐殺(平安南道暴徒蜂起) 31日京城特派員発
平安南道順川郡に暴徒が起こり、財務署、郡庁、郵便局等で官吏20数名を虐殺したとの報告があった。憲兵、警官が30日朝急行した。地方税徴収に原因があるらしいと伝えられる。
解説:事件は平壌から11里で発生した様である。
虐殺された日本人 31日京城特派員発
平安南道粛川(しゅくせん)財務署より、平壌財務監督庁への報告によれば、29日順川財務署は、排日党の為に襲撃され、日本人主事野澤辰三郎氏、金融組合理事渡邉大三郎氏(山口高等商業学校出身)の2名が殺された上、郡の庁舎を焼き討ちされ、郵便局も又同様で所長が殺され、郡守も現在行方不明との電報が昨夜、度支部に来た。想うにこの程来、地方費の徴税に応ぜず、不穏な情勢であったのは、この暴挙を行う下準備であったものと思われる。以前大韓毎日申報が暴論を吐いたのはこの件と今思い当たる。
2月2日
日本人虐殺後報 1日京城特派員発
順川の暴徒は、約3千5百の大集団で、官公庁を焼き払い、日本商家2戸を破壊した。殺害された者は、既電の外、農事試作場の森源作、売薬商矢島政吉、雑貨商浮村政太郎、外日韓人3名であり、金融組合の渡邉氏は生存している様である。外に教員1名行方不明、10名以上の死者がいる。郡守は、殷山に避難しているのを発見された。日本人は、19戸30名が居住しており、その後沈静化したが、後難を恐れて皆他所に避難した。
2月3日
邦人被害続報(主謀者は耶蘇教徒) 2日京城特派員発
順川の暴徒に殺されたのは、前報の外郵便局の大野、農事試験場の森、商人4名、韓人1名である。負傷者は韓人1名、邦人1名、行方不明者1名であり、野澤妻女の惨殺は誤報であった。そして主謀者はキリスト教徒のようで、現在検挙中である。
順州暴動後報 2日京城特派員発
順川暴動の詳報によれば、渡邉金融組合理事は無事であった。死傷者は日本人7名、韓人の財務署主事1名と判明した。学校教師1名が今なお行方不明である。捕縛された暴徒は既に十数名であり、尚続々と検挙中である。統監府では1日の参与官会議にて善後策を議し、厳重な処置を行う事に決定した。或は当分武装行政を行うものと思われる。
2月4日
朴永孝出游 3日木浦特派員発
朴永孝は家族9名を伴い、2日夜郡山丸にて釜山に向かった。34カ月馬山地方で静養の上、入京すると思われる。
解説:1月27日の朴永孝に関する記事の続編である。
3月5日
昨今の安重根 4日旅順特派員発
安重根等は監獄内に於いて獄吏の懇切丁寧な取扱いに常に感泣している。唯今回公判に付せられるに際し、外国弁護士、特に韓国人弁護士を謝絶された事を非常に遺憾であると言っている。彼ら4名の内、安重根は不規則ながら教育があるが、他の3名は日本の小学校程度の者である。彼等は入獄当時、得意然として気焔を吐いていたが、今は漸く消沈に傾き、安も実弟の同伴する弁護士の意見を伝えても案外平気に構えている。(一部抜粋)
3月6日
暴徒又起る 4日京城特派員発
3日再び暴漢が大挙して財務署を襲おうとした大事件が発生した。これは龍厳浦から約3里の楊市に於いて、市場税反対の為韓人5百名が群れを成して、同地の財務署を襲おうとした。急を聞いた憲兵下士官3名、補助憲兵10名は、直ちにこれに向かい、首領らしきもの4名を捕えて、懇々と説諭したがなお鎮撫の様子が無いので、更に新義州に急報して応援を頼むとの電報がその筋に達した。暴徒の影響、死傷者の模様等その後の報道が無く、判明していないが再度この様な事件が発生するのは捨て置き難く、或は他の地方にも及ぶ事も考えられ、情勢は険悪である。
解説:龍厳浦は鴨緑江河口にあり、1903年ロシアはこの地に鴨緑江沿岸の森林伐採権を得たのを機会に,その経営を理由に電信設備,兵舎,倉庫などを竜巌浦に設置してその租借を要求し、これが日露戦争発端の理由の一つと言われている。
市場税とは、売上価格の1%の様である。(放売価格10G分の1であった)
北韓尚不穏 5日京城特派員発
龍厳浦付近の楊市の暴動に付いて、その後統監府に達した報告によれば、一時平穏に帰したが尚注意を怠らなかった所、4日午後2時、俄然約2百余名の韓人が龍厳浦警察署の押し寄せようとしたので、途中で抑制、退散させた。しかし2時間後に約4百人の韓人が警察分署より約10町まで押し寄せて来た。中3名を取り押さえ説諭した所何事もなく退散した。(一部抜粋)
2月7日
南韓鉄道速成運動 5日郡山特派員発
坂上民長は、南韓鉄道速成運動及び水道、電気等の調査の要務を帯び、5日上京する。
穀物関税引上反対 同上
郡山商業会議所の議員1名が、韓国商業会議所連合会を代表して、輸入穀物税の引上げに反対する運動の為、5日東上する。
安重根最後の用意 6日旅順特派員発
安重根の弟2名は、兄の裁判が決定次第、兄嫁と甥の2名を当地に呼寄せて、後始末をするとの事で、郷里に対し金百円を送れとの電報を発し、又安重根の妻子にも至急来順せよとの電報を打電した。弟達は、6日朝に最後の面会を望む旨を溝渕検察官まで願い出たが、以上の様に彼らは最後の用意を全てする所より察すれば、第一審の判決に対し控訴する意志が無いと思われる。
2月8日
各地依然不穏 7日京城特派員発
順川及び龍厳浦付近は、なお不穏な兆候があるので、警保局は伝習生15名を応援の為に急行させた。又黄海道の各所に不逞の徒が出没し、里長等を脅迫して私財を掠め、これに応じない者を殺害する等の暴挙が激しい旨頻りに各所より急報がある。その筋では、捨て置き難いとして大討伐を行う議があり、そして順川暴動の大検挙で、今日までに男25人、女2人を捕縛し、有力な証拠を押さえた。中にも2名の女は、放火及び殺害の補助をした不逞の悪女である。
3月9日
安重根の自白(伊藤公暗殺事件公判) 7日旅順特派員発
公爵は、降車し、露国の出迎え武官等に挨拶し、その後公は露兵の間を過ぎ、各国領事団の方向に歩を進めた。被告も又同じく露兵の後ろを密かに歩き、機会があれと窺っていたところ、公爵が領事団の前より引き返そうとしたので、好機を逸してならずと直ちに露兵整列の間より約10歩を隔てた公爵の右側部を目がけて、続け様に23発発射した。(一部抜粋)
暴動善後策 8日京城特派員発
その後の情報によれば、7日平壌に於いて、順川に於ける暴動の頭目らしきもの1名捕縛され、その他の嫌疑者も又多く、44名となった。粛川に於いてもその後不穏な模様であったが、警戒厳重な為7日の市場は無事開かれた。揚市の市場は7日、被捕縛者に同情し、開かれていなかったが、何事も知らない地方商人が集まって来た為に、一部が開かれた。但し税吏は、税金徴収を見合わせた。(一部抜粋)
解説:3月6日の記事で市場税は、売上の1%とあるが、その徴収方法は、ここに書かれている様に市場に待機して徴収した様である。
2月10日
暴動鎮圧策決定 9日京城特派員発
その後各地方で開かれた市場はなし。商人が動揺した原因を探求すると新市場税は、従来に比べて非常に低率であるが官吏は地方の慣習に通じていない為、上手く徴税できず、且つ公平を維持しようとして、却って厳しくなった様である。この機に乗じて、キリスト教徒の排日派が巧みに煽動した結果と思われる。何れにしても威圧手段は採られる様であり、9日の会議に於いて、ほぼこの方針が決まった様である。
2月11日
仁川の火事 10日京城特派員発
10日朝仁川に火事が起こり、日韓人家屋40戸を焼いた。
囚徒脱監と死傷 同上
全羅北道の金州監獄分監にて9日午前9時、囚徒の巡検の際、90名が脱監を謀ったが失敗し、看守4名負傷、囚徒14名重軽傷、同1名即死したとの報告があった。
2月12日
英韓弁護士の感服 10日旅順特派員発
韓国弁護士安秉讃(あんへいさん)は10日の案重根等に対する検察官の論告は、実に公平であり一点の異論を挟む余地はない。且つその論旨の公明正大である事に被告の同国人として望外の満足であると語った。又英国弁護士ダグロス氏は真淵裁判長の取調方の巧みで老練である事を頻りに称賛し、溝渕検察官の論告に対しても論旨明確にして精細を極め、その用意の周到な事に感服している。
2月13日
大廟検閲仰出さる 12日京城特派員発
16日皇帝は、大廟を検閲し、17日両陛下は徳壽宮を訪問の旨仰せられた。
解説:徳壽宮は、皇帝純宗の父である高宗の住まいである。
統監代理説と政界 同上
統監の病気が重く、4,5月頃にならなければ帰韓せず、その間代理として総務長官の親任がある旨東電が伝わり、政界またまた色めいている。
解説:曽禰総監は病気療養の為に、1月3日韓国を出発し、日本に居る。
1月14日
安重根弁論終結 12日旅順特派員発
被告最後の陳述 安は最後の陳述として、1時間に亘る長々しい愚論を吐いた。
その要点は、例の五か条よりなる日韓協約及び伊藤公の統監当時、韓国人を虐待し、徒に皇帝を擁立して韓国人を激怒させ、到る處に暴徒が蜂起して今も鎮圧に汲々としているのは、これは公爵の対韓政策が誤った事に起因している。且つ在韓日本人のあらゆる階級即ち軍人、商人、宗教家等も皆伊藤公を恨んでいる。況や韓国民に於いては知られている通りである。故に我は東洋平和の為、韓国独立の為に一命を賭してこの凶行を行ったのであり、検察官の言う様な決して誤解から行ったものではない。
解説:「徒に皇帝を擁立し」とは、皇帝高宗が、日本が韓国の外交権を奪っている事を訴えるため、オランダのハーグで開かれている万国平和会議に密使を派遣した事件である。明治40年7月9日「ハーグ事件責任者」の記事があり、それ以降の新聞で連日の様に報道されている。その結果、高宗は退位し、子の純宗が皇帝となった。
初期の韓国銀行(市原総裁談) 内国電報13日発
営業40日間 韓国銀行は昨年42年11月21日に開店した為、第一期の営業期間は、同日より12月31日に至る僅か40日間に過ぎなかった。
営業の概況 韓国銀行は第一銀行の業務を引継ぎ、韓国中央銀行として営業を開始し、預金貸出利率の標準を定め、一方内部の組織を整頓させ、鋭意その業務の経営に努めた。
銀行券は第一銀行より11月20日現在、発行高1,183万3,127円80銭を引き継いだ。(一部抜粋)
解説:これまでは日本の第一銀行が韓国の中央銀行の役割を果たして来た。
2月15日
安重根死刑 14日旅順特派員発
14日午前安重根に対する判決の言渡しが行われ、主文は次の通りである。
被告安重根を死刑に、ウ徳淳を懲役3年に、曹道先及び柳東夏を懲役1年6カ月に処し、犯罪に要した押収品はこれを没収する。(一部抜粋)
李完用経過良好 14日京城特派員発
李完用氏は、その後の経過良好であり、14日大韓病院を退院し、自宅に帰った。
解説:12月23日「李氏遭難」の記事がある。
西韓依然不穏 同上
暴動地域を巡視して帰京した今村警視の談によれば、順川は古来李朝反対派の根拠地であり、何事に対しても反対の挙に出るものが多い。楊市も、とかく民情が殺伐を好み、度し難い地方であり、西韓一帯は今尚不穏である。そして現在までに逮捕した暴徒は、順川で70余名、楊市で13名に及んだが、現在も検挙の手を緩めず、日夜捜索に余念がないとの事である。
土地調査着手期 同上
土地調査はいよいよ3月から開始する事に決定した。
2月16日
死刑宣告後の安重根 15日旅順特派員発
安の全ての行動は、死刑宣告後も平常と変わらず、且つ食欲及び睡眠等も減退していない。二人の弟及び従弟と面会した際、母よりの伝言があり、犯せる罪に服するのは当然である。最期に及んで家名を汚す様な振舞いが無い様にして下さい。然らば控訴の如きはこの際、当然断念すべきであるとの忠告を受け、安も意外な感に打たれ、沈黙していた。(一部抜粋)
2月17日
耶蘇教徒大会 16日京城特派員発
平安南道宣川に於いて15日よりキリスト教徒大会が開かれた。同日は、参加者千人であったが、次々と群衆が参加し凄まじい光景であった。開会の目的は、布教活動と言っているが時節柄最も注意される。
外国宣教師盲動 同上
在韓諸外国宣教師の費やす布教費は、1年7百万円であり、統監府の倍額である。然るに先日米国派の宣教師は、大会の決議で今後の布教は、魂の為にせず、肉の為にするのが得策であるとして、本国に要求して多額の布教費を得て、授産の途を講じて益々勢力の発展の用に供する事になった様である。これが実行される日は、最も注意を要する時と思われる。
2月18日
何故の秘密ぞ 17日京城特派員発
釜山に於ける宋と李の会見は、何故か殊更に秘密となっており、日韓の新聞紙上へ一切の掲載を止めてる。たまたま大韓毎日紙がこれを掲げ、忽ち発売禁止となった。釜山から達した詳報でも李容九が来なかったとなっており、同地に於いても厳重に秘密を守っている様である。これは暗殺を予防したいその筋の策と思われるが、如何にも異様に感じられる。
徳壽宮展閲 同上
皇帝は17日、徳壽宮を訪問し、各殿を視察した。皇后は微熱の為に中止された。
解説:徳壽宮は皇帝の住まいであり、1月25日徳壽宮火災の記事がある。
2月19日
統監政治不信用 18日京城特派員発
17日の地方行政調査会に於いて、市場税の徴収に付いて次の様に規定された。
この際市場にその趣旨を周知させる事、各個人からの徴収を止めて市場全体より徴収する事、地方の実情に合わせて厳しさを加減する事、2百円未満の売上高は市場と見なさない事
そして先ず暴動の起こった西韓地方より実施する事にされた。要は日本の縁日と同様に扱うものであり、在来の徴収方法を改めるのは良いけれども、一暴徒の為に直ちに改正したのは、朝令暮改である事を免れないず、遺憾であると識者の笑いを招いた。
解説:2月1日以降、暴動の記事が連日の様に報道されている。
2月20日
安重根裁判確定 19日旅順特派員発
死刑の宣告を受けた安重根は、控訴するかしないかについて、決定していなかったが、終に19日控訴しない趣を申し出た。
汽車線路と大石 19日平壌特派員発
2,3日前、新安州付近の京義線路に於いて、汽車の進行を妨害する為、一間四方の石を横たえた韓人が居たが、早く発見した為、乗客等には被害がなかった。犯人は現在捜索中である。
電灯会社設立不穏 同上
民団経営の電灯事業は中止され、私立会社設立請願者が既に2名いる。その他にも1,2名は居る模様である。
市場尚不穏 19日京城特派員発
18日の報告によれば、安州市場は、表面上危険が無かったが、徴税額は僅か数円に過ぎず、尚十分な警戒が必要とある。又平安北道の博川(はかせん)にも市場税反対の檄を飛ばしているので、19日の市場は不穏と思われる。平安北道泰川(たいせん)、平安南道の龍山共にやや不穏であり、それぞれ警戒に向かったとの報告があった。
李容九釜山発 同上
釜山に居た李容九氏は19日東莱(とうらい)に向かった様である。会見の模様は、未だに当地には何等の確報がない。
宋李の会見 内国電報(19日発)
宋秉畯と李容九氏の釜山での会見は、双方の意見を交換し、合邦運動頓挫後の善後策を講じる事であった。一進会の主張が達せられる時期まで、平静な態度を執る事を決めた外、別に積極的方針を定めるに至らなかった。李は19日釜山発で帰京し、宋も同日帰京の予定であると釜山最近信は奉じている。
解説:2月18日の「何故の秘密ぞ」の記事で宋と李の会見は宋秉畯との会見であった。
宋秉畯は日本との併合を主張している一進会の指導者であり、又李完用内閣の大臣である。
2月21日
伊藤公暗殺連累放免 20日京城特派員発
伊藤公暗殺連累嫌疑者として久しく憲兵隊に拘束中の李甲、安西稿等4名は、証拠不十分で19日夜放免された。
李容九氏 同上
20日朝帰京した。その筋の警戒が非常に厳重であった。
李容九氏 20日釜山特派員発
守屋ホテルで宋秉畯氏と秘密会見をした李容九氏は19日夜帰京した。
2月23日
安重根の伝言 22日京城特派員発
安重根の従弟安命根は、21日夜旅順より帰京したが、安重根の伝言として佛国宣教師ウルハヌ氏が旅順に来るよう求めとの事である。ウルハム氏は安命根と同道し、近日中に旅順に向かうと思われる。
2月24日
道路修築計画 23日京城特派員発
曽禰統監が産業政策の一歩として計画した韓国14大道路は、本年完成するので、新たに借款を起こし、道路の新計画を立てる事を決定し、その予算166万円を22日の参与官会議で決定した。
2月26日
西北学会組織変更 25日京城特派員発
従来学術研究を標榜した西北学会は、組織を変更し西北韓の各郡より代議員1名を選出し、純然たる政党となろうとしている。
宋秉畯氏談(門司) 内国電報 25日発
24日夜突然、京阪通信員その他新聞記者11名に面会を求め次の談話を行った。
一進会は、会長李容九氏の上手い指揮の下で、世評に惑わされず、国賊の汚名も売国奴の醜聞をも聞き流し、ただ時運の回転を期待した。爾来2カ月、世人は一進会の軽挙盲動を冷笑して、敢えて一片の同情をも寄せなかったのは、会員の不徳のいたすところで慚愧に堪えない。
しかし後援者は意外な所より表れた。国民同志賛成会は門地と識見ある両班、儒生の団結した会であり、悉く愛国慨世の士である。その他日韓合同の情勢を達観する先覚者は、陰に陽に合邦の止むを得ないことを唱道した。要するに公明正大な世論は必ず近い将来に於いて大勢を発展させることになるであろう。(一部抜粋)
2月27日
安重根の母 26日鎮南浦特派員発
死刑囚安重根の母は今回の判決を聞き、少し精神に異常を来たしている様で、伊藤公は韓国で多数の志士を殺害したのに、安が一人の伊藤公を殺害したとて何の罪があるのかと絶叫している。なお各地の新聞に安の母が控訴を見合わし、潔く死刑に服すべしと勧めたとの記事があったが、これは全くの虚報であった。(一部抜粋)
解説:2月16日の記事に母が控訴を見合わせるよう述べたとの記事がある。
平壌付近の暴徒 26日京城特派員発
平壌の西2里の地に、23日30名の暴徒が現れ、銃を乱射したので巡査が同地に急行し、嫌疑者として男7名、女1名を逮捕し、村田銃と弾薬を押収した。
明治43年3月
3月1日
日韓合邦問題 28日京城特派員発
日韓合邦問題は廟議で決定され、議会閉会後に日韓両政府は同時に宣言書を発表するであろうとの東京電報が伝わり、京城の政界は極めて動揺している。
韓国綿花輸出好調 同上
韓国の綿花輸出額は昨年の収穫期より2月までに百万円を超過するに至った。これを前年に比べると5倍の増額であり、その原因は豊作と且つ米国綿花の優秀にある。
大同江解氷 28日鎮南浦特派員発
昨今の暖気により大同江が解氷中である。兼二浦と当地間は2日より航路を開始し、内地の初航路も来る9日入港の予定であり、昨年の解氷より1週間早い。
解説:鎮南浦は、大同江を介して平壌の外港となっている。兼二浦は、現在の北朝鮮松林市であり、日清戦争当時、日本の工兵将校渡邉兼二郎が上陸地点の港湾として整備した為、兼二浦と呼ばれていた。
3月2日
西北学界の発表(一進会と提携) 1日京城特派員発
西北学界は、先に大韓協会が鄭雲復を除名した事を憤慨し、政党の組織に関して一進会と提携すべきであるとして、李甲氏は李容九氏と会見した結果、機運が非常に進展し、近々主義綱領を発表する事になるものと思われる。
暴徒大討伐 同上
現在激しい暴動が行われている黄海道の暴徒討伐は、終に両3日中に、軍隊、憲兵、警察合同で行われる事となった。
土地調査 同上
土地調査に関する官制及び施工規則は、先日来参与官会議に於いて大体可決し、意見を付して統監に上申した。
韓国政界趨勢 2日京城特派員発
議会閉会後、日韓合邦が実行されるであろうとの来電は、1日の大韓毎日新報(排日紙)に掲載され、発売禁止と命じられたが京城内は、その前に配布されていた。しかも政界は何等の反響もなく極めて平静である。近々発表されるであろう新政党も親日主義を標榜すると思われ、従来排日派と称せられた大韓協会も最近では著しい親日の傾向を示し、時局の解決に何らかの関係を持つことを希望している様である。この様にして政界はここ暫くは、現状を維持し、格別注意を要するであろう変動はないであろうと想像される。
3月4日
暴徒亦来襲 3日京城特派員発
2日午後7時、忠清北道丹陽郡に約60名の暴徒が襲来し、欲しい侭に略奪し、引き揚げた。暴徒は洋式銃を携えていたので、解散した軍隊の一員と思われる。
親蚕の準備 同上
宮中に於いては、本年も親蚕を行う予定であり、現在準備中である。皇族、各大臣及び富豪の夫人等も養蚕の計画があり、農工商部の技術者がこの指導の任に当たるであろうと言われている。
解説:親蚕とは、桑の葉を摘み取り、養蚕を行う儀式である。
拓殖会社の漁業 同上
拓殖会社はいよいよ4月より漁業に着手の予定であり、漁船4百隻を佐賀、熊本、長崎、福岡の4県下より、招致し、漁獲物は会社に於いて、これら全てを処理する方針である。その為根拠地を耳湖浦に置き、諸般の設備に着手中である。
一進会亦噪ぐ 同上
一進会は近頃日韓合邦が実行されるであろとの報道に接して、非常に得意の色がある。この際大いに活動する必要があるとして、菊池某が4日に上京すると思われる。
安重根刑前の祈祷 同上
旅順監獄に居る安重根は、旧教の例により死刑執行前、教父の祈祷を得る様希望して来たので、教父ウルハム氏は2日旅順に向かった。
暴徒討伐開始 3日平壌特派員発
我が守備隊は2日より黄海道の暴徒討伐を開始した。
3月5日
暴徒汽車を覆へす 4日京城特派員発
3日龍山より64里の京義線鶏井(けいせい)と岑城(しんじょう)間に暴徒の一団(李鎮龍の率いる80余名)が現れ、鉄道に大石を横たえた為、この地12時発の平壌行列車の機関車が転覆した。幸いにも死傷者は居なかった。この報に接し、京城憲兵隊は直ちにその地に急行した。
解説:京義線は京城と義州(朝鮮半島北部)を結ぶ線であり、龍山駅は京城にある。鶏井は京城から北64里で北朝鮮の黄海北道にある。
鶏井暴徒討伐 同上
京義線鶏井(けいせい)と岑城(しんじょう)間に於いて汽車の転覆を企てた暴徒は、平山の西1里の所に引き上げ、開城郡両合里の南麻南里に宿泊している所を両合里分権隊の憲兵4名が夜襲し、激戦数刻の後、賊数名を斃し、銃4丁、軍刀その他数個の捕獲品を押収した。賊は西方に潰走し、討伐隊は今尚追撃中である。
3月6日
趙民凞の弁明 5日京城特派員発
承寧府総監趙民凞(ちょうみんき)は、最近その態度に付いて非難の声が多かったが、30日石塚長官を訪問し、風説が無根であると弁じた。身の不徳により種々の風説を受ける事は余儀ない事であるが、万一累を皇室に及ぼす事があっては恐懼に堪えず、依って特に貴官を訪問して弁解する。宜しく諒察を請うと述べた。
解説:承寧府は先の皇帝高宗の世話をする役所である。
某侍従疑はし 同上
某侍従は最近頻りに米国総領事館に出入中であるとして注意を惹いている。
討伐の準備 同上
憲兵隊では、最近各地に暴徒が蜂起する為に、東上中の榊原司令官に照会の結果、その指揮を待って一大討伐を行う為現在準備中である。
国是遊説団の前途 同上
李総理の手足である国是遊説団は、各所に演説会を開き、盛んに一進会に反対の運動を行ってきたが、格別の反響もなく、近頃はその経費の補助をしない為に、いよいよ維持する事が困難となり始めており、或は解散する事になるかも知れない。
3月7日
暴徒討伐 6日京城特派員発
憲兵隊の追撃に圧迫された暴徒は、5日定釋山を越え、開城郡北東面に到り、民家を徴発し宿営していた。両合里憲兵分憲署に於いて、これを探知し追撃した所、大胆にも鼾をかいて熟睡しており、突然4名を射殺すると賊は驚愕、狼狽して四散したが遂に10名を銃殺し、軍銃5、軍刀1、その他を捕獲した。(一部抜粋)
解説:現場は開城郡とあり、ソウル北方にある現在北朝鮮の開城と思われる。
3月9日
土地調査局官制通過 7日京城特派員発
土地調査局の官制は既に閣議を通過し、現在統監の承認を申請中であるが、長官は総裁として度支部次官がこれに当たる予定であり、来る15日発布し、即日より実施される予定である。
新政党成らん 同上
西北学会を中心とする新政党組織は、その後崔錫夏(さいしゃくか)が急先鋒として、頻りに計画中であるが李甲(りこう)、鄭雲復(ていうんふく)等は安昌浩(あんしょうこう)、梁起鐸(りょうきたく)等を引き入れようと奔走したが安、梁の2名はこれを承諾せず、その為に一頓挫を来していた。しかし今回いよいよ組織する事に決定し、近々政見を発表するまでに進捗した。親日主義を標榜する事は既電のとおり。
地方実業学校設置 8日京城特派員発
今回地方費で各道に実業学校を設置する事になり、学部の内部調整の結果、地方費予算を認可し、既に建設に決定したもの2,3か所ある。
3月10日
安重根と教父(獄裏の対面) 8日旅順特派員発
安重根の為7日旅順に来た佛国宣教師ウイルヘルム氏は、8日午前高等法院に出頭し、安の弟二人と共に約2時間の面会を行った。
今回はるばる訪ねた所以のものは唯最後の懺悔を受ける為であり、本国に居る教友は、皆君が末期を潔くする事を祈っている。予は最後に於いて君に告ぐべき三つの訓戒がある。一つは十数年愛して来た君を飽くまでも正道に導かねばならぬ事、二つは伊藤公を殺害したのは深い罪悪であると自覚させる事、三つは君の最後の悔悟を得て、教友及び老母等に満足を与える事即ち是である。
安は沈黙し感慨深かそうであったが、唯日本の官憲より非常な優遇を受けているので、足下より宜しく謝辞を伝えて頂く様に願うと述べた。(一部抜粋)
解説:安が日本の官憲に、特に検察官に謝意を持っていたと聞いていたがやはり本当であった。安重根は伊藤公殺害を反省していたのではないだろうか。
3月11日
安重根の墓地 9日京城特派員発
近々死刑が執行される予定の安重根は、ハルピンへ遺骸を埋葬せよと豪語しているが、安の母弟は墓地の選定は、風水によって卜すべきもので、子孫の安寧、幸福を祈るならば矢張り韓国に葬らなければならないとの意見であり、9日旅順に向かった安命根はその意を伝え、協議の上、多分遺骸は韓国に持ち帰ると思われる。
軍司令部の記念会 10日京城特派員発
陸軍紀念祝賀会は、10日龍山軍司令部に於いて行われる。この日は天気晴朗、式場の設備は、贅沢を極めていた。大久保司令官の挨拶に次いで、石塚民政長官、朴内部大臣の祝辞があり、次いで趙農相の発声で日本陸軍の万歳を三唱し、予定の模擬店を開いた。来賓5百名、来観者千余名で盛会であった。夜に入り統監府及び所属官庁職員による提灯行列が行われた。
3月12日
京元鉄道通過の賀会 10日元山特派員発
京元鉄道敷設案が上院を通過したとの報に接し、10日全島民がこぞって祝賀会を開き、夜に入り、盛んな提灯行列の催しが行われた。
清国居留地設定問題 11日京城特派員発
予て交渉中であった韓国に於ける清国専管居留地の設定問題は、今回双方間の協議が纏まった為、清国総領事は11日統監府に行き、調印を終わった。
全国民籍調査 同上
全国民隻調査は着々と進捗し、既に大略調査を終わり、現在各道観察使に於いて整理中であるが、報告到着の分に於いて、戸数人口共に多大の増加であるので、この成績より推定すると全国人口に1500万を下らないと思われる。
汽車障害と訓戒 同上
今月3日の機関車脱線以来、各地の鉄道線路に石を置く事件が続出しているが、幸いにも巡回工夫の発見により事なきを得ている。しかし時節柄容易ならざる事件につき、それぞれ憲兵を派遣し、巡視警戒させ、尚鉄道の重要な事を知らせる為、郡守と協議し、付近村民を諭し、特に村民より巡視者を出させている。しかしこれらの悪戯は暴徒の行為とは認め難い。
3月13日
東拓移民規則 12日京城特派員発
東拓会社の移民規則は、数年来10回の重役会議を経て、近頃ようやく成案を見るに至ったが、その内容は約50カ条であり、借入金返済法、利率その他各方面より観察した規定であり、いよいよその筋の認可を得るに至るまでには、なお2,3カ月を要すると思われ、この実行は明年度になると思われる。
暴動討伐続報 同上
過日京義線に来襲した李鎮龍の率いる暴徒63名の一群が、7日黄海道瑞興郡に現れ、ゆうゆうと晩食を喫して逃走した。この報に接して憲兵分遣隊は直ちに出動し、現在追撃中である。
清国居留地規定 同上
既電の調印を終えた清国居留規定は、更に清国政府の承認を求め、その後1カ月を経て実行の予定である。その場所は、仁川、釜山、元山等であり、これらは新たに居留地を設定するのではなく、単に各地区で従来慣行として行っていた規定を統一し、種々の欠陥を補い、時勢の変化に伴って改善を加えたものである。
3月14日
第二艦隊 13日馬山特派員発
13日朝、第二艦隊は、鎮海湾抜錨した。18日再び入港する予定
水利組合工事起工式 13日郡山特派員発
13日水利組合は、工事の起工式を挙げ、盛会であった。
3月16日
安重根の母 14日鎮南浦特派員発
安重根の母は、9歳になる安の娘と共に当地に住んでいる。彼女は、安の宣告依頼、深い憂慮に沈み、日本人の訪問を喜ばない様である。予(特派員)は、彼女を訪れたが、彼女は涙に上瞼を泣き濡らし、深く心労した様子で、安に会いたくとも旅費が無いので、旅順に行く事が出来ず、残念である。私は政治上の事は分からないが、最愛の息子を失う事は誠に堪えがたい苦痛であると、心中安の暴挙を正義と信じている様であった。(一部抜粋)
合邦催促 14日京城特派員発
国民同志賛成会は、一進会と同一歩調を取って来たが、13日同会長は統監府に出向き、統監府の合邦断行を促した建白書を提出した。
取引所設立申請 同上
京城取引所発起人会に於いて、取引物件は、有価証券、米、豆、麦、牛皮、綿布のみに決し、14日理事庁に設立認可の陳情書を提出した。
神父訪韓 同上
安重根に慰藉を与えようと旅順に赴いたウイルヘルム氏は、13日安の従弟を伴い、帰韓し、14日安の伝言を家族に伝える為に、平壌に赴いた。
3月17日
安重根の請願 16日大連特派員発
安重根は、25日迄死刑執行の猶予を請い、更に16日より向う15日間の猶予を願い出た。その理由は東洋平和論を書くつもりで、その序論が漸くできたのみであり、完成したいとの希望である。又二人の弟に面会し、死後の家族を頼み、執行の際血塗れた衣服を着ては天国に行いけないとして、朝鮮服を新調し差し入れる様に依頼した。
李在明の公判 15日京城特派員発
李総理を刺した李在明の起訴は、担当検事の都合により延期していたが、いよいよ両3日中に起訴の手続きを行い、来月初旬に公判が開廷されるであろう。
東拓の漁業 同上
東拓漁業経営方法は、販売を会社に於いて引受ける筈であり、根拠地の耳湖浦(じこほ)に漁獲物運搬用の団平船10隻を新造し、備え付ける。安東県では、小蒸気にてこれを引かせ、盛漁の時は、価格の均衡を保たせる為、根拠地より龍厳浦まで電話を架設し、それより電報で市場の情勢を報告する組織とする。九州の4県より来る事になっている漁船は、来月中旬までに到着の予定であり、熊本県より來る予定の数十隻の漁船は汽船を以て庇護させる筈である。
解説:耳湖浦は、朝鮮半島付け根の中国に隣接する平安北道にある。団平船は幅が広く、底を平たく頑丈につくった船で近距離輸送に用いた。龍厳浦は平安北道の鴨緑江河口付近にある。
軍隊配置変更 同上
最近暴徒横行の地は、守備隊の警戒が比較的行き届かない辺鄙な場所に限られており、彼等は人民の無知に付け込んで、愛国と云う名を使って勢力を作る傾向にある。その為現在の駐韓軍隊の配置は、暴徒の現状に鑑み、憲兵、警察の守備と調整し、多少の変更を見るであろう。
道路工事費 同上
既電の地方道費及び土地調査に要する経費は、14日の閣議に於いて新たに借款を起こす事に決定した。地道費の支出箇所は21万円を南韓に、50万円を前年来の繰替え金補填に、50万円を地方の地道工事に残し、50万円を京城市内の道路工事に使用する予定である。
暴徒首魁逮捕 16日京城特派員発
去る40年10月頃より、暴徒の首魁として京畿道各地を横行し、数十回軍隊、憲兵、警察隊と交戦した権重窩(けんじゅうか)、高在植(こうざいしょく)2名は13日逮捕された。
清韓犯罪者引渡問題 同上
清韓国境に於ける両国人の争闘は常に絶える事が無く、現に鴨緑江が解氷し、伐木公司の事業が開始され、清韓人の多数が入り込むので、種々の難問題が起こる恐れがある。この際犯人相互の引渡に関する協定を行っておく事が必要であるとして、統監府は外務省と打合せの為、小松外務部長は16日東上した。
3月20日
一般の民心 18日京城特派員発
地方では暴徒の活動が激しい所が一二個所あったが、何れも系統的なものでなく、その跡を絶ったが、唯黄海道及び京畿道の一部は、尚不穏な状態である。されどこれは歴史的なものであり、昨今に始まったものでない。一般の民心を通観するに、今ここに合邦という旗印があるためか、日一日その周囲に集まって来たものである。
合邦賛成 同上
13道の新進儒生代表と称する者20名が署名捺印し、統監に宛てた合邦賛成の上申書を提出した。文中「未だ遅くはないので、閣下がこの際英断を下された場合には、挙国一致して歓迎するであろう」との文字がある。従来の徒党と異色があり、極めて真面目である。
安重根死刑に就いて 同上
安重根の死刑執行日は乾元節に相当する為に猶予ありたい旨、韓廷より交渉して来た。
3月24日
合邦急施の上書 23日京城特派員発
新進儒生9名が連署して、又急いで合邦する必要があるとの上申書を22日統監府に提出した。
咸鏡道民間島移住 同上
咸鏡南北道民は、続々と対岸の間島に移住している。道は、毎年水害を受け、農作物が思うようにならず、加えて輸入の粟、大豆は清国税関に徴税される為、価格が騰貴して生活難となった為である。一面清国政府が全力を挙げて、移住を奨励し、若干の資金と食費を供給する事が主たる原因であるとも言われている。
仮軌道布設達成と韓人 同上
安奉線改良工事中、安藤県と鶏冠山間の仮軌道布設は、7月竣工の予定であったが、一カ月短縮する事とし、その速成に要する人夫は韓人を使用する為、多数の韓人が渡満した。又南満鉄道会社は解氷と同時に広軌用機関車15台を安藤県に輸送の予定であり、景気付いている。
暴民掃挙 23日平壌特派員発
当地方に於ける市場税徴収に対する人民の不平はやや静まったが、怪しき韓人の徘徊が少なからずある為、憲兵と警察が連合してこの検挙に着手した。
3月26日
安の死刑執行 25日大連特派員発
安重根は藤公暗殺より154日目の26日午前藤公遭難と同時刻に死刑執行される予定である。25日弟2人は最後の面会を許された。
解説:当初死刑執行は3月25日であったが、当日は皇帝純宗の誕生日の為に皇帝の要請で26日に変更された。
一切経元版の発見 25日京城特派員発
慶尚北道の古刹海判寺倉庫内にて一切経元版15万枚を発見し、日本人佐藤某と結託して、日本で出版しようとしたことを探知し、警官数名を同地に急行させ、差押えを命じた。間もなく当地に携帯と思われる。
解説:一切経とは、釈迦の教えを経、律、論の三蔵とその他注釈書を含む経典の総称であり、当初のものは、掲載するお経の基準が厳格に決められていましたが、後世になると後の研修者の論文も収録されるようになりました。
耶蘇嚮を国教とするの決議 同上
24日夜、鐘路キリスト青年会員学生部5百余人が集会し、韓国独立の基礎を固めようとするならば、キリスト教を以て国教としなければならない云々の決議を行った。これは確かに伝道韓人の教唆に依るものであり、この取締を一日も早くする必要がある。
乾元節御宴 同上
乾元節について、25日午前11時日韓文武官の祝賀を受け、皇族、親勅任官80余名に陪食を賜った。大久保司令官が祝辞を述べ、午後2時両陛下とも徳壽宮に太皇帝をご訪問、夕刻までご面談が行われた。李総理は同夜、宮中敦徳殿に夜会を催し、祝意を表した。首相は同席する事が出来ず、朴内相が代わって主人役となった。ちなみに漢城腑尹の張憲植(ちょうけんしょく)氏は、午後2時交通館に日韓朝野の紳士を招き、祝賀の宴を張り、韓人町は全部休業となった。
3月27日
湖南鉄道解決祝賀会 26日木浦特派員発
湖南鉄道問題が解決したので、26日寿座に於いて、官民大祝賀会が開かれ、来会者4百名で未曽有の盛会であった。又夜に入り、提灯行列を行った。
解説:湖南線は、大田と木浦間を結ぶ線であり、日本海沿岸の元山と平壌を結ぶ平元線と競っていたが両者とも工事が行われる事になった。現在の韓国の鉄道の大部分はこの様にして日本の統治下で布設されている。
3月28日
中央党決議の反響 26日京城特派員発
中央倶楽部代議士会に於ける韓国問題の決議は、大なる反響を与えた。特に統監府不信任の項は、合邦、非合法何れにせよ国論が次第に沸騰しようとしている今日、今の様に進退さえ不明であるのは、当事者としては捨て置き難いとの声が高く、韓字新聞は一斉に東京電を2号活字に現わし、何か軽蔑の色を表した。(一部抜粋)
解説:中央倶楽部とは、大浦兼武の率いた政策集団と思われる。
大蔵経国有 同上
昨電の大蔵経を発見したのは、開印寺の誤りであったが、現在までの調査によれば、明らかに国有の物の様である。その筋では、世界の珍品としてその始末について考慮し始めている。
解説:一昨日の記事では、海判寺となっていた。
秋山騎兵監 27日平壌特派員発
27日来着、28日より守備隊を検閲し、29日新義州に向かう予定
解説;騎兵監とは、秋山好古と思われる。
3月30日
李総理の辞意 29日京城特派員発
李総理は、この程朴内相に対し桂冠の意を仄めかし、朴氏総理の下に実兄李允容氏を内相にしてはと申し込んだ。朴氏は大臣の任命は、実に両国陛下の思し召しに依ると体よく断ったと伝えられている。真偽の程は不明であるが、李総理が桂冠の意志があるのは確かであり、病後で勇気が衰えた為か、或は政機の変遷を早くも察知し、責任を避けようとする機敏な処置とも考えられる。
言論制限 同上
27日夜警察署は当地新聞通信社に対し、対韓政策の現状は、絶対に掲載をしてはならないと命じた。しかし統監府では、単に合邦の時期は5月であると誠しやかに報道した某通信社及び合邦に関する事のみを禁止させたと弁明し、方針が今だに曖昧な為に避難の声が高い。
基督教青年会と米国 同上
キリスト教青年会に対し、米国より2万円を拠出する事になったとジレット総務より故伊藤公の関係上、統監府へ申し出があった。同会の今後は注意を要する。
3月31日
朝鮮の政友会(発会式とその綱領) 29日京城特派員発
国是遊説団の高義峻(こうぎしゅん)等の元老は、閔泳商(びんえいしょう)、金宗漢(きんそうかん)等と共に政友会を組織し、28日発会式を挙げ、29日総会を開いた。その綱領に、皇室の尊栄、政治刷新、教育振興、実業発達、社会改良、貧困刷新、日韓親善の7項目を列挙している。昨今の形勢に対し、少し危惧の念が生じるのは、或は合邦がやや早いと一進会等と戦う為ではないかと。
元軍人の合邦論 同上
早期合邦の建議は、殆ど毎日の様に提出されており、28日新たに出た臨時参政建議者の名の下に、前領館以下31名の元軍人を並べているのは、殊更異彩を放っている。
景福宮払下広告 30日京城特派員発
大破し使用できない景福宮は、終に昌徳宮の不要建物と共に取り除く事に決し、宮内府は、その払下げのを広告した。公園設置の準備と思われ、多少物議を生じると思われる。
明治43年4月
4月1日
政友会正副総裁 30日京城特派員発
元老閔泳琦は、この程組織された政友会の総裁となり、李載克が副総裁となった。
交代師団先着将校着 31日京城特派員発
守備隊が帰途に就き、これと交代する第2師団の先着将校が31日来着し、事務の引継ぎを行いつつある。
4月2日
国分秘書官東上 31日京城特派員発
国分秘書官は、電命により1日、急遽東上する。予て提案して、韓人側の主要者に就き、動静を探っていたので、これを綜合報告の為と思われる。何れにしても時局問題に関係があるのは間違いがない。
4月3日
新政党内情 1日京城特派員発
疑問であった新政党政友会の内幕が漸く暴露された。即ち彼らは、国民演説会国是遊説団、漢城腑民会、孔子教を中堅とするキリスト教青年会、興士団等を右翼として、大韓協会とも意を通じ、合併尚早を絶叫しようとするものであり、現内閣の一部がその黒幕であるのは疑いが無い。総裁に閔泳琦氏、副総裁に李載克氏、評議員中に金宗漢を戴こうとしているが、皆快く頷かず、早くも瓦解の兆候が見える。
岩倉公弔問使派遣 2日京城特派員発
岩倉哺育総裁薨去の為、皇帝は高礼式官長、太皇帝は李承寧(りしょうねい)府侍従を弔問使として派遣されることとなり、明日出発の予定である。又皇帝は本日、日本陛下に向け、岩倉公薨去の弔電を発せられた。
統監帰任説と民心 同上
統監が20日帰任するとの説が伝わり、折角好調に向かっている民心が又もや惰気を生じている。政友会及びその他の非合邦派は、我が事成れりと得意の色があるのに反し、合邦派は、日本には政治家が居ないのかと疑いの裡に憤慨の様子である。政界は一斉に統監対桂候の会見がどうなるか注目している。
4月4日
湖南鉄道祝賀会 3日郡山特派員発
湖南鉄道問題が解決した為、祝賀会を開き、桂首相、曽禰統監、後藤逓相外数名に謝電を発した。夜間は、提灯行列を行い、非常に盛大であった。
解説:光州の大田から木浦を結ぶ線で、当初日本海に面した元山と京城を結ぶ京元線と敷設を競っていたが両方とも布設される事になった。なお韓国の鉄道の殆ど全ては、日本の統治時代に日本が敷設している。
4月6日
韓帝弔問使入京 内国電報5日発
伊藤太師薨去の例により、韓太子哺育総裁岩倉公薨去の弔問使高義誠(こうぎせい)、李恒九(りこうきゅう)の2氏は、韓廷の命を受けて、5日午後2時10分入京した。2氏は宮内官吏及び韓太子近侍の諸官に迎えられ、宮内省より差し回された馬車に乗り、先ずホテルに到着し、その後弔文、供物、勲章(瑞星章)等を携え、霊南坂にある宮相官邸に向かい、恭しく故公の霊前に礼拝し、供物を捧呈した。2氏は今日の葬送にも参列する。
4月7日
李完用の別動隊 5日京城特派員発
李完用氏は、民間有志と図り、相救会という団体を組織し、表面は非政党の様であるが内実は例の政友会の別動隊として有事の際、使嗾する計画であると伝えられる。
解説:李完用は1907年当時の伊藤統監の要請により内閣総理大臣となり、1910年8月の日韓併合時も内閣総理大臣であった。侯爵
4月10日
岡山師団渡韓 8日京城特派員発
岡山師団の一部が渡韓命令に接したとの報道があった。これは駐韓軍の組織変更の結果である。
ハリス博士 同上
英国で開催された宣教師大会に出席の為に、5月初旬渡英し、約半年の後、伝道費50万円を携えて再び来韓すると思われる。
京城龍山合併の議 同上
要約進行し、丹波理事官は、民団議員と打合せの為、8日協議会を開いた。
李完用刺殺者起訴 9日京城特派員発
李完用を刺した李在明外、嫌疑者13名は数日中に遂に起訴されると思われる。
大韓協会妄動 同上
大韓協会は、民心の惰気を生じさせんがため、各部支部に檄を飛ばし、例によって頑迷な論を鼓吹する事に決し、9日総会を開く。
4月11日
防備隊運動会 10日馬山特派員発
平素視察を禁止されている鎮海湾軍港根拠地の懸洞(けんどう)に於いて、10日海軍防備隊の運動会があり、一般に観覧を許され、観覧者1千余名で、盛会であった。
解説:鎮海は現在でも韓国海軍の軍港として使用され、海軍兵学校もこの地にある。
交代兵来着 9日郡山特派員発
9日吉林丸にて、交代兵240名が来着、10日全州に向かう予定
埋立起工式 10日清津特派員発
10日、埋立起工式を挙行した。官民が式場に溢れ、花火、相撲等の余興があり、盛況であった。
電鉄敷設 同上
清津(せいしん)と羅南(らなん)間に電鉄を敷設する事が決定した。
解説:清津は現在北朝鮮となっているが、日本海経由の日本との貿易の重要な港湾都市であった。
4月13日
土地調査局と風評 11日京城特派員発
巨費を投じて新設した土地調査局に関し、早くも種々の風評がある。これは、予て総裁に任じられた荒井次官が、事志と異なって俵次官に功業を博された結果、鈴木幕僚と共に犬猿的復讐を試みようとしていることである。真偽は未だ不明であるが由来各参与官の間には、あらゆる系統の確執があるので、この様な事が全くないとは言えない。
島村長官拝謁 同上
仁川に錨泊の第二艦隊島村長官以下14名は、統監代理石塚長官を帯同し、韓皇に謁見し、終わって一同は午餐会に臨んだ。
4月15日
ロ氏の演説 14日京城特派員発
入京中のロビンソン氏は、キリスト教青年会の要請に応じ、13日「工業と教会の価値」と題し、韓国の現状は、富裕者は徒食し、貧者は労役に甘んじ、少しも正業に就くものがいない。これでは到底文明の域に達する事は出来ない。早く工業教育を施さなければならないと論じ、喝采を博した。氏は夫人の病気の為、15日の出発を延期し、多分16日に出発すると思われる。
統監の病気と民心 同上
統監の病状に関し、又々兎角の噂がある。一方寺内氏が第2回の片瀬訪問を行うとの東電(東京の電報)がある。民心は平穏の内にも何処やら疑いを持っているように見える。
解説:統監は日本に帰り、療養中である。
4月20日
韓国観光団 19日京城特派員発発
趙農相は、京城日報主催の両共進会観光団に加わり、渡日する事に決定したが、時局問題の為、一時見合わせる事にした。しかしそれでは折角の同行者に失望させることになるので、遂に意を決して、1週間の予定で福岡まで行く事にした。又共進会観光団員総代の兪吉シュン(ゆきつしゅん)は、18日参内し、暇乞いをした際、皇帝は各道実業家で組織した今回の団体は、良く日本文明を観察し、韓国開発の資に供せよとの御意があったそうである。(一部抜粋)
木浦観光団 18日木浦特派員発
当地商業会議所及び新聞社の主催する九州観光団が18日出発し、多数の見送りがあった。
4月21日
観光団出発 20日京城特派員発
京城日報主催の共進会見物観光団50名は、20日朝9時出発した。趙農相及び各道一流の実業家を網羅しているので、日韓大官の見送りが多く、非常に盛大であった。
4月23日
統監更任説紛々 21日京城特派員発
統監の辞職問題に関し、内地より様々な情報があるが、病状は重く、遂に起きる事が出来なくなったことだけは確認することができる。その為昨今は寄ると触るとその後任に関する噂にて持ち切りである。その内最も噂の高いのは、寺内子爵の兼任であるが、今又有力な方面から、宇佐川男爵の副統監説が起こっている。これは、男爵を東拓総裁のまま、副統監にし、東拓の事業を韓国将来の統治の骨子とする政府の方針であり、来月初旬、総会の為に東上する際、この決定が行われるのではと言われている。
国分参与官帰任 22日京城特派員発
東上中の国分参与官は、予定の期日が迫っているが、或る事件の段落が着くまで、滞在せよとの命を受けて、今日に至っている状況であるが、22日新橋発で帰任するものと思われる。
権東鎮渡日 同上
大韓協会の幹部である権東鎮は、21日夜、渡日の途に就いたが、時節柄注目を惹いている。
解説:権東鎮とは、開化運動家で大韓協会に属している。韓国併合後は1919年の3.1独立運動では、民族代表33人の一人となっている。
韓人観光団 22日平壌特派員発
韓人の地方官、実業家24名より成る本邦観光団が23日、出発の予定である。
4月24日
京城新報発行停止 23日京城特派員発
京城新報は、桂候が統監訪問の際、平井軍医正を伴い診察させた結果、遂に胃癌であることが確定し、全快が絶望であると診断した旨記載した。その為22日夜即時、発売頒布を禁止され、且つ発行停止を命じられた。なお同社主峰崎繁太郎氏は、統監の後任が後藤男爵に決定したと特筆した為、政界にやや動揺の兆しがある。
交代師団長謁見 同上
交代する駐屯両師団長及び幕僚は、23日朝、石塚長官に帯同され、謁見した。
4月25日
帰還兵 23日郡山特派員発
帰還兵200名が23日当地着、24日恒春丸にて木浦、釜山を経て、帰国する予定
4月27日
大疑獄首謀者捕縛 26日京城特派員発
昨年報道された大疑獄の首謀者は、趙南升(ちょうなんしょう)であり、太皇帝の姉の子息に当たる。以前侍従長を務め、従二品の位にある。彼は遂に25日逃亡先で捕縛され、26日護送され、現在警視庁にて尋問中である。事件の内容は、以前中央倶楽部が、統監の失政の一つに数えた例の韓美電気会社売渡し当時に於ける太皇帝への報奨金問題で、太皇帝は、同会社に70万園の持株があったが、会社経営者コール、ブラウンは、日韓瓦斯会社に売渡した時、30万園を太皇帝に報償し、現にこの受取証を所持している。然るに事実はこれと異なり、全く太皇帝に渡っておらず、誰かが横領した様で、しかも玉璽を偽造した形跡もあり、趙南升はその首謀者である疑いがある為である。趙の仲間及び弟も拘禁中で、尋問の進行に依っては、現大臣連に及びそうな形勢である。
解説:韓美電気会は、当初漢城電気会社として、太皇帝高宗とコール、ブラウンの共同出資した会社として発足し、路面電車をソウルに走らせる計画であった。高宗の出資は70万園であったが、ここにある様に結局1円も手にしなかった様である。
4月30日
巡査駐在所襲われる 29日元山特派員発
28日午後1時頃、一群の暴徒が安邊郡麻田店(までんてん)巡査駐在所(元山から6里)を襲い、これを焼き払い、神戸巡査及び同人の妻が行方不明となった。鈴木巡査は殺害され、電信電話線は全て切断された為に詳細は不明である。同夜当警察署より警部、巡査数名が同地に急行した。
玉璽偽装事件後報 29日京城特派員発
趙南升の玉璽偽装事件は、いよいよ進行している様で、以前コールブラウンに従って宮中に出入りしていた南廷卿及び趙鍾養(きんじょうよう)も拘引された。当局は、飽く迄厳密に取調、宮中、府中の混乱した状態を一掃すると意気込んでいる。太皇帝は、非常に心を悩まされ、しばしば趙梢寧(ちょうしょうねい)府長官等を召して、下問し、趙も亦心中が穏やかでないものがある様である。
記事:昨日の記事の続報
明治43年5月
5月1日
交代軍隊上陸 30日元山特派員発
当予備と交代すべき軍隊250余名は、福島大隊長の引率の下に30日午前8時上陸した。
石塚長官の帯同謁見 30日京城特派員発
石塚長官は、30日朝、為田憲兵司令官、大久保商務局長及び野田、改野、秋岡の3代議士を帯同し、謁見した。
大臣会議再開 同上
大臣会議は統監が帰朝以来休会していたが、来週火曜日より再開する事に決定した。
解説:曽禰統監は、病気療養の為に日本に帰国している。
進歩党結党式 同上
閔泳鱗(びんはいりん)を党首とする進歩党の結党式を行う。閔は、上海に居る閔泳〇の異母弟であり、閔妃の里方の甥である。党の主義、綱領は容易に想像できる。
5月2日
観光団の感想 1日木浦特派員発
九州観光団が1日、帰着し、解散式を挙げた。一行の感想を聞くと、日本の人文発達の度は、我らの予想以上であり、特に日本人の行動は、遊食の徒が多い韓民にとって愧死させる程であった。
解説:愧死とは死ぬ程恥ずかしい思いをすること
韓海漁業事情 内国電報 1日発
最近韓国農工部の調査による韓海の漁業事情は次のとおりである。
l 府県の漁業奨励 韓国に於ける漁業奨励及び移住漁村経営等の為に県費より補助中の県は、長崎、佐賀、熊本、鹿児島等(33府県)であり、補助金の最も多いのは福岡の1万3千8百円である。
l 移住漁村 合計1,146戸、4,820人である。
l 主要漁業経営状態 販路は、清人を目的とするエビ、フカ、アワビ、イカを除く外は、大抵日本人を顧客としている。
(一部抜粋)
5月3日
韓国鉄道経営方針 内国電報2日発
大屋韓国鉄道管理局長の韓国鉄道談は次のとおりである。
京元鉄道の規格は、全て現在の日本の鉄道と同様にし、将来の韓国各線共通のものとする様決定した。京元鉄道と湖南鉄道は、双方を同時に着工の予定であるので、帰任後直ちに手配し、両線の敷設測量に取り掛かる予定である。
現在布設中の平壌と鎮南浦間の鉄道については、その予算は160万円の予定であり、2年以内に使用できる様に速成する方針である。湖南線もこれに倣い、少なくとも今後7年以内に開通を期待している。京元線は軍事上の関係もあれば、別に施設案を立、人夫についてはなるべく韓人を使役し、地方疲弊救済の一助とするつもりである。(一部抜粋)
解説:京元線とは、京城と元山を結ぶ線であり、湖南線とは、韓国南西部の大田と港町木浦を結ぶ線である、鎮南浦は平壌の外港にあたる。
5月4日
李在明公判延期 3日京城特派員発
李在明の公判は、韓人弁護士が急に弁護届を提出した為、4日を延期し13日となった。
解説:明治42年12月3日「李氏遭難」の記事がある。時の総理大臣李完用を暗殺しようとし、重傷を負わせた。
東京留学生取締 同上
東京留学生に問題があるようなので、学部に於いて急にある取締を行う事に決定した。
赤十字総会準備 3日鎮南浦特派員発
来る14日石黒男爵が鎮南浦を訪問する予定であり、この機会に、赤十字総会を開催する事になり、現在準備中である。
満州視察団組織 同上
当地の新聞社の主催で、満州視察団を組織し、紳士24名で来る20日大連に航行し、満鉄沿線の重要地を視察し、ハルピンに入り、奉天線で帰着する予定で、往復2週間の行程である。
大倉喜八郎氏 同上
満州と韓国の視察の途中、4日当地に来て、5日出発の予定である。
解説:大倉喜八郎氏は大倉財閥の創始者である。
三須中将招待 3日馬山特派員発
3日夜、官民有志百余名は、三須海軍中将一行を望月楼に招待し、宴を張った。
解説:三須海軍中将は、日本海海戦時、東郷司令長官が率いる第1戦隊司令官として「日進」に座乗した。彦根藩出身であったが山本海軍大臣の信頼を得ていた。
5月5日
三須中将招待 3日馬山特派員発
3日夜、官民有志百余名は、三須海軍中将一行を望月楼に招待し、宴を張った。
汽車博覧会 4日平壌特派員発
京城新報主宰の汽車博覧会は、4,5両日当地で開催、人気が高い。
大倉喜八郎氏 同上
4日来着、5日満州に向かう。
韓人観光団出発 4日郡山特派員発
韓人観光団一行の25名は、福岡、名古屋共進会観覧の為、4日郡山丸にて当地を出発した。
5月6日
郡山観光団 5日木浦特派員発
5日到着、市中を巡覧し、即日長崎に向かう。9日大阪着の予定である。
親耕式 5日京城特派員発
皇帝は、東大門外の東籍田(とうせきでん)に於いて親耕の式を行った。各皇族、大官が花々しく付き従い、沿道内外の民も並び、盛観を極めた。親耕が終わった後、西陵裡の閔后の陵に参拝され、3時還行された。
解説:閔后とは、現皇帝の母で、1895年日本によって暗殺された閔妃である。
渡清実業団 同上
8日入京した渡清実業団に対して、その筋より充分な便宜が与えられ、且つ官民合同の大歓迎会を行う為に現在準備中である。
5月9日
東拓配当6分 7日京城特派員発
東洋拓殖は、年6分の配当をする事に決定した。
解説:東拓とは東洋拓殖株式会社で、満鉄と並ぶ2大国策会社であり、その後韓国の大地主となる。
御親電 同上
日本皇帝陛下より6日内親王の御婚儀に対する韓帝の好意を感謝するとの丁重な御親電を発せられた。
李範允一派の行動 同上
ウラジオに於ける李範允(りはんいん)と通じた排日派の千余名が咸鏡北道の鏡城付近に居り、不穏な行動をしているとして警戒中である。
解説:李範允は韓国の独立活動家であり、日露戦争中はロシア軍に協力した。
5月10日
渡清実業団 9日京城特派員発
渡清実業団は、8日夜勧銀、第一、商業会議所の内宴に招待され、9日朝
仁川に向かった。10日朝参内、謁見後二三ケ所を遊覧し、11日平壌に向かう予定である。
解説:日本から来て清国に向かう実業団の行動である。
韓太子(名古屋) 内国電報9日発
韓太子には、9日午前9時、平田内相の伺候を受けた後、馬車にて共進会に赴かれた。暫時休憩の後、本館北部の染め物の部より順次ご観覧され、高橋内務部長がご説明申し上げたが非常に興味を持って御観覧された。11時半貴賓館に入り、ご昼食を召され、1時半退場され、帰途武徳殿の古武器展覧会に立ち寄られ、3時御帰館された。
5月18日
解説:韓国の皇帝の弟にあたる李根であり、明治天皇の方針により日本で教育を受けているが、日本の皇太子同様の待遇を受け、大切に教育されている様子が分かる。後梨本宮の方子と結婚する。
5月11日
京城観光団帰京 10日京城特派員発
京城観光団は10日朝帰京し、盛大な出迎えを受けた。
三宮に贈勲 同上
皇帝は、竹田、北白川、朝香の三宮殿下に瑞宝一等章を送られ、趙某は奉持して渡日した。
5月12日
近藤廉平氏等一行 11日京城特派員発
近藤廉平氏等は11日朝到着、官民有志の晩餐会に臨み、12日北行する。
解説:近藤廉平は、三菱商会に入り、岩崎弥太郎の従妹である豊川従子と結婚し、後日清汽船社長、日本郵船社長となった。男爵
排日派の楊言 11日清津特派員発
李範允は、間島領事館を焼き、日本人を虐殺すると宣言し、部下5百名で来襲するとの風説があり、人心が恐々としている。
5月14日
李在明公判終結 13日京城特派員発
本日伊藤検事は、先に李総理を刺した李在明に対し死刑を、その他連累者に懲役3年乃至15年を求刑した。
解説:明治42年12月23日「李氏遭難」に李総理が李在明に襲撃された記事がある。
5月15日
赤十字総会 15日鎮南浦特派員発
15日午後1時より赤十字総会を開く。石黒男爵を始め、その他来会者5百余名で非常な盛会であった、因みに石黒男爵は16日出発の予定
解説:元陸軍軍医総監で第4代赤十字社長
学部大臣来馬 15日馬山特派員発
学部大臣李容植氏は、学術視察の為15日東莱より来馬した。
5月17日
統監更迭説飛電 16日京城特派員発
統監の後任は、寺内陸相兼任、副統監は中少路(なかしょうじ)逓信次官に決定、18日発表の旨が或る向きに来電した。
解説:伊藤統監の後、2代目曽禰統監は胃癌の為に日本で療養中である。
5月18日
ハレー彗星の恐怖 17日京城特派員発
ハレー彗星に関する韓人の恐怖は頂上に達し、李朝滅亡の時期が来たと唱え、地方民の多くは殊更気ままに好きな事をして過ごしている。
舊馬山駅開始期 17日馬山特派員発
来月10日いよいよ舊馬山駅の使用を開始する予定である。
馬山電燈会社出願準備 同上
馬山電燈会社創設に関し、発起人より現在出願準備中である。
5月20日
赤十字支部総会 18日京城特派員発
石黒男爵の入京する機会に、18日元軍司令部跡で赤十字京城支部総会を開く。日韓社員の参集するものが多く、盛会であった。
李完用氏御暇乞参内 同上
李完用氏は、いよいよ22日より湯治療養の為に出発する為、18日午後1時お暇乞いに参内、拝謁した。
李在明等判決 同上
李在明の第2回公判は、18日朝開廷され、いよいよ刑の宣告が行われると多数の傍聴人がいた。裁判長は、李在明を絞首刑、金定益等4名に15年、その他それぞれ10年から5年の懲役刑を宣告した。この時李在明は先ずアイゴーと叫び、他の被告も同じく号泣した。
解説:李在明は内閣総理大臣李完用を襲撃し、瀕死の重傷を負わせた。
韓国瓦斯電気会社許可 19日釜山特派員発
松平正直男爵、牟田口元学氏外25名より出願中であった韓国瓦斯株式会社(資本金3百万円)は18日許可された。
5月21日
英帝弔祭式 20日京城特派員発
英国前皇帝の弔祭式が20日午後1時から英国領事館で挙行され、日韓官民及び外交団、英国居留民の参列者約千名であった。我が砲兵が発射した弔礼砲の第一発を合図に式が始まり、総領事ボナー氏及び9名の宣教師が恭しく祭壇に立って、祭りを行った。(一部抜粋)
5月22日
太皇帝の舊謀(玉璽偽造事件の波及) 21日京城特派員発
趙南升事件に関し、趙南升は今回の事件について、多少の斟酌を加えられるならば、予は重大な秘密に係る太皇帝の陰謀を自白するであろうと、第1次の日韓協約により日本が宗主権を握った当時、時の伊藤統監が韓国と列国との条約及び協約の原本を引継ぎしようと迫ったが、太皇帝は、或は紛失又火災等の口実の下に大部分を隠匿した。これは自分が命を受けて、鉄製の箱に収め、佛国教会堂に隠匿したと申立てたので、当時の不審は解決されると共にその鉄箱を教会より取り出したが、明らかに自白の物を発見し、そのまま統監府に押収し取調中である。(一部抜粋)
秘密箱の正体 同上
趙南升事件の秘密鉄箱の中には、ヘーグ事件の草案を始め、各方面に往復した太皇帝の親書案等あらゆるものがあり、特に甚だしいのは、ベセル未亡人に下賜した1万5千円の受取証まであり、最近なお悪辣な手段を弄した証拠が顕著であると確聞した。
解説:ヘーグ事件とは、1907年韓帝高宗(現在の太皇帝)がオランダのハーグで開催された第2回万国平和会議に密使を送り、日本に取り上げられた外交権回復を訴えようとしたが、列強から会議への参加を拒否された事件
ベセル未亡人の夫であるアーネスト、ベセルは、イギリス人で韓国に於いて「大韓毎日」という新聞を創刊し、反日報道を盛んに行っていたが、1909年結核の為に死亡している。
勲章失態事件 同上
勲章失態事件に関し、中央政府の方針が決まった様で、当事者である金東完(きんとうかん)は無論、小宮次官、趙表勲院総裁も共に厳重な処分があると思われる。
宮相次官等辞表 同上
閔宮相、小宮次官、金東完の三氏は、21日午後4時、遂に辞表を提出した。しかし諭旨となると言われている。
両陛下徳壽宮訪問 同上
両陛下は、21日太皇帝を徳壽宮に訪問されたが、これは普通の時候挨拶であるとの事である。
5月23日
宮内官引責事件 23日京城特派員発
宮内官の引責は辞表提出であったが、本日大臣秘書官の分は統監府に回ったので、明日何らかの処置が行われると思われる。聞くところによれば、大臣は譴責位、小宮次官、金東完は懲戒免職のようである。次官の後任は予てから噂のあった国分参議官と思われる。
解説:5月22日報道の勲章失態事件の処分である。
李在明控訴 同上
李在明は昨日控訴した。他の連累者も既に控訴している。
解説:李総理の暗殺未遂事件の犯人である。
官民招待 同上
石黒赤十字常議員は今夜官民多数を花月楼に招待した。
解説:石黒男爵は元陸軍軍医総監で第4代赤十字社長
5月24日
太皇帝相変わらず 23日京城特派員発
太皇帝が今もなお独立の夢を見ており、その為にしばしば雑輩等に諮られて、陰謀じみた事を企画するのは隠れもない事実である。そして最近では、昨年膠州湾に逃走して、獨逸官憲の保護を受けてはどうかとの或る者の策を容れ、あらゆる手段を講じて獨逸領事までその意を伝えた。しかし獨逸領事は以ての外の事として、これを容れなかったので遂に意を果たせなかった事が今回図らずも露顕したと言われている。
李総理転療 同上
23日朝、いよいよ温泉に赴いた。
5月25日
言論抑圧反省の決議 24日京城特派員発
当地新聞社及び通信社は、最近官憲が妄りに言論を抑圧する事を非難し、その反省を促す決議を行い、石塚長官、三浦理事官と会見した。当局は大いにこれを諒として、事後寛大な処置をとると言明した。
統監邸の歓迎宴 同上
24日夜統監邸に於いて、獨逸大使を主賓とする歓迎宴が開かれた。
石黒男 24日馬山特派員発
24日夜石黒男爵が大邱より馬山に到着した。
5月26日
石黒男 25日馬山特派員発
本日午前7時、鎮海湾を視察し、10時より赤十字社馬山支部社員の為、理事庁に於いて媾和をし、午後釜山に向かった。
5月27日
第三回測量着手 26日京城特派員発
新設土木調査局は、いよいよ28日より第3回測量に着手し、一面には富平郡より順次各地に測量を行う由
京城龍山合併 同上
永らく解決しなかった京城と龍山の民団合併問題は、三浦理事官の尽力により25日夜、両地の当局議員等の協議会にて、遂に合併に決し、7月実行の事となった。新民団は議員の定数が30名にて、民団債の発行、新事業の計画等覚書を交換し、協定した。
5月28日
優柔な解決 27日京城特派員発
勲章失態事件は予期のとおり、極めて優柔に解決された。即ち閔大臣には注意の足らなかった点を責め、併せて部下一同に対し、将来この様な失態が無い様に戒飾(小宮は次官としてこの戒飾を受けたものである)金東完は減俸1カ月に処せられ、何れも26日申し渡される。
解説:戒飾という処分は、現代では使われていないが日露戦争当時の記録には、例えば「第7師団長を暗に戒飾し」の様に使用されている。海上自衛隊の訓戒程度の意味の様である。
秘密箱事件 同上
趙南升に関する秘密箱事件は別として、玉璽事件はなお解決していない。従って趙はなお
警視庁に抑留されている。或は間もなく裁判所に回されるかもしれないと統監府はしらばくれているが、結局一応中央当局に報告した後でなければ、何とも決められないようである。本件に対し、司法当局は、最初より留意し、飽く迄もその真相を確かめようと息巻いていたが、昨今何故かあまり気乗りしない様である。
解説:玉璽事件とは、韓国に於いて米人コールマンの経営する電気会社の株券について、太皇帝からコールマンに与えられたと称する株券売買の委任状を偽造したとする事件
5月29日
水道分水式 28日平壌特派員発
28日正午、綾羅島(りょうらとう)の水源地に於いて、水道分水式を挙げ、朴内相以下お官民多数が参列し、式後乙密台に於いて園遊会を開き、盛会であった。
解説:綾羅島は、平壌中心部で大同江がうねって作られた中洲の一つ
東拓支部新設 28日郡山特派員発
当地に東洋拓殖会社支部を新設する事に決定した。
5月30日
取引所設置の答申 29日京城特派員発
取引所設置に関する諮問に対し、商業会議所総会は、日本に於ける一切の法規を準用して設立するとの決議を行い、その旨理事官に答申した。許諾が今だに明らかでないが時期尚早のきらいが見られる。
郡守の日本観光 同上
慶尚北道観察使の音頭で郡守等30名の日本観光団が30日大邱を出発する予定
統監副統監更迭 高等官23名移動 同上
28日夜某所の電報には、統監は寺内正毅子爵、副統監は山縣伊三郎氏に決定し、30日親任式を挙げられる予定である。外に高等官23名の移動があると思われる。
曽禰病統監告別 同上
石塚長官は、29日午前10時頃参内し、曽禰統監の伝言として、病状が重い為に重任に堪える事が出来ないので本日辞表を提出した。今一度謁見できないのが残念であるとの意を伝えたが、陛下は容態がそれ程重いとは、大変遺憾であると申された。韓人一般は何事も知らないので政界は未だ何等の変化もない。(一部抜粋)
5月31日
新統監訓示 30日京城特派員発
朝から東京からの電報は頻りに親任式を伝えているが、午後4時になっても何故か公報は発表されない。然るに寺内新統監より、早くも石塚長官宛てに上聞に達せよとの命令があったので、長官は5時急遽参内して、正副統監の親任の次第を奏上し、引き返して統監邸に各大臣、参与官を集め、統監の訓示を伝えた。要は従前に倍し、ますます奮励せよと云うにある。
正副統監赴任期 同上
山縣副統監は6月初旬、寺内統監は下旬に入京する旨、或る向きに通報があった。尚統監府及び民団は新旧統監に挨拶の電報を発送し、又統監府にては、30日夕正副統監親任の模様を清国総領事に通牒し、各国代表者に通牒方を移植した。皇帝は30日夜新旧統監に、各親電を発し、挨拶された。
明治43年6月
6月1日
統監更迭と政界 30日京城特派員発
統監親任に関し、鏡城政界の模様を観察すると、予て予期した事とは言え、29日石塚長官が突如参内した事は、昌徳宮、徳壽宮とも多少危惧した様であり、特に親衛隊を配置し、ラッパ、捧銃の礼を行う等殊更なものがあった。しかし単に曽禰子爵の辞表提出のみと分かり、後で大いに安堵した様子であった。
解説:昌徳宮は現皇帝純宗の住まいで、徳壽宮は前皇帝である太皇帝の住まいである。5月22日の記事に両陛下が徳壽宮の太皇帝を訪問したとの記事がある。
6月2日
統監更迭と清紙 1日上海特派員発
今朝の北清日報は、朝鮮に於ける日本人に関して論評し、最後に寺内陸相が統監に任命された件に言及し、朝鮮の統監が同時に日本の陸軍大臣であるのは望ましい事ではない。これは伊藤公が熱心に警告し、反対した武治の観を呈している所以である。そしてその観を呈するだけでも、日本が朝鮮に於いて着手した善良な平和的事業を害するものであると言明した。
6月3日
韓国政界疑懼 2日京城特派員発
孔子協会地方部長李仁植(りじんしょく)は、曽禰前統監に教会を代表する感謝状を携帯し、2日朝出発し、渡日した。彼は世に知られた如く李完用の腰巾着であり、現内閣の御用紙大韓新聞の社長である事を思えば、今回の渡日は、単に前期の様なものではないと推測する事が出来る。その他政友会の幹事高義俊(こうぎしゅん)が、間もなく渡日する等内閣員は、新統監の政策如何を気遣っている様で、当分はこの種の偵察運動に腐心するものと思われる。
御親電と統監 同上
韓皇の御親電に対し、統監は2日石塚長官をして御礼を言上させた。
岡次官 同上
間もなく帰京の筈であったが突然統監より延期を命じられたとかで、澤田地方局長が急遽東上する。
6月4日
排日派逃鼠 3日京城特派員発
排日の領袖李範允(りはんいん)一派が北韓に於いて、何事か企てようとしているとの噂があり、一時騒然としたがその後厳重警戒の結果、平穏に帰した。しかし彼等一派は再び露国に遁走した形跡がある。
統監更迭と政派 同上
統監更迭の報が漸く地方にも伝わり、昨今各政派の地方幹部が続々と入京し、本部と何事か密議をしている。
電鉄電灯事業出願 同上
大阪の右近権左衛門外6名は、資本金50万円、東京の藤間勇強は11万円で、清津、羅南に電鉄、電灯その他の事業を行う為に統監府に出願した。
藤縄騎兵連隊南下 3日清津特派員発
羅南駐屯の藤縄連隊長は騎兵百余名を率い、特別任務を帯び、基隆丸にて南下した。
6月5日
秘密箱開函 4日京城特派員発
例の秘密箱事件について、4日統監府に預けてあった金属製トランクを持ち出し、警視庁に保管されていた鍵をもって内蔵物一切を改め引継ぎを完了した。内容は、既電のとおり保護条約当時、引継ごうとした、以前の列国条約書10カ国分及び他の外交文書、雑書等合計80余件の多数であった。(一部抜粋)
解説:5月22日の記事「太皇帝の舊謀(玉璽偽造事件の波及)」「秘密箱の正体」の続報
6月7日
暴徒横行 6日元山特派員発
4百余名の暴徒が、去る3日浦洞憲兵隊の付近に現れ、村民に暴行を加え、且つ金品を略奪し、何れかへ逃走した。彼らは洋服、或は韓服で、各自銃器を携行していた様である。
6月8日
新統監の電命 7日京城特派員発
新統監より官吏新任中止の電命が、7日行われた参与官会議で問題となった。直接関係がある土地調査局副総裁俵参与官は、先ずその不可であることを叫び、激論をしたが、上命で如何ともする事が出来ないので泣き寝入りとなった。尚新統監より現在居留邦人の分布状況、各官庁に於ける日韓官吏の配置状況、その他警備の設備一切を詳細に報告すべしとの電命があり、各官庁は多忙を極めている。
土地調査と民心 同上
土地調査の進捗に連れて愚昧な韓人間では、これは収穫高を人口に割り当て、他は政府が没収する準備であろうと反対の機運があり、民心不穏である。
6月9日
李総理の容態 8日京城特派員発
寺内統監は李完用氏の病気見舞いを兼ね、何事か命令した様で、統監府員1名が7日温陽に向かい、伝達した。因みに李氏は湯治の結果、経過が非常に良く、昨今は登山さえ出来、家に在っては揮毫に努めつつある。
解説:明治42年12月3日に「李氏遭難」の記事があるが、李在明が時の総理大臣李完用を暗殺しようとし、重傷を負わせている。
李内閣攻撃 同上
一進会の機関紙「国民新報」は老獪李完用の大罪一二案と題して、猛烈な毒筆を揮っている。その半ばは抹殺されているが、不穏の文字が歴々として現れ、いよいよ同会が李内閣の転覆に腐心し始めている事が伺える。
6月10日
官制改革説 9日京城特派員発
統監の入京に先立って、官制改革参与官の更迭があるようで、又もや某所に内報があった。多分一両日の中にあると思われる。
一進会献策 同上
一進会は、時局解決後の統治案を統監に献策しようとして、既に立案、脱稿したと言われている。その内容は分からないが、東京に於いて喧伝されているものと等しく、宋秉畯(そうへいしゅん)及びこれに近い連中の立案と思われる。
解説:宋秉畯は改革派の政治家で一進会の創設者である。1907年のヘーグ密使事件では、皇帝高宗に退位を迫り、李完用内閣では農商工大臣、内相となり、韓日合併を要求する声明書を提出した。併合後は朝鮮貴族に列せられている。
官民の救助 同上
清国は、鴨緑江沿岸を経営する為に、韓国人の移住を奨励した結果、その数3万の多きに達した。しかし何故か最近方針を改め、保護奨励は愚か厳重な取締を励行するようになり、移住韓民は泥炭の苦境に陥り、救済を哀訴して来た。その為その筋にては、今緻密に調査中であるが、或は日清間の一問題となるかも知れない。
6月12日
官海の恐慌 10日京城特派員発
官海に激しい低気圧があり、さては統監のスパイが入京して、憲兵隊と共にその実情を調査しているとまで伝えられ、胸騒ぎをしている者が少なからず居る。内部、学部、宮内府の大官は到底更迭を免れないであろうとは衆目の一致する所である。
韓昌洙と尹致晟 同上
内閣書記官韓昌洙(かんしょうしゅ)は、13日内閣を代表して、曽禰子の病気見舞いの為に東上する。又尹致旿(いんちご)の弟である尹致晟(いんちせい)という者は、元寺内氏の教育を受けた縁故に依り、諭吉俊(ゆきちしゅん)の大韓協会一派は、これを利用して統監に近づく為に東上させようと画策し始めている。
解説:曽根子とは前統監であり、胃癌の為に統監を辞し、大磯で療養中である。
韓国平和協会成立 同上
韓国平和協会は10日漸く成立し、総裁に閔泳奎(びんえいけい)、副総裁に金允植(きんいんしょく)を仰ぎ、主唱者である沈鎬澤(ちんこうたく)は総務長となって、日韓の親善、教育の普及、宗教の統一、殖産の振興、実業の発達を標榜し、大隈伯の同意を得たと吹聴しているので、かなり両班達には持て囃されている。
6月13日
総務長官の後任 12日京城特派員発
有吉千葉県知事の総務長官への転任内定は事実と思われる。
稀有の鯨群 12日清津特派員発
古龍津沖に鯨群が浮遊し、汽船立神丸の進行を妨げ、近来の壮観であった。
松永師団長 12日平壌特派員発
守備隊視察の為、12日来壌する。
6月15日
大韓毎日申報改革 13日京城特派員発
故ベッセル氏の後を継ぎ、大韓毎日申報を経営するマーナム氏(英人)はある事情があり、関係を断ち、主筆梁起鐸(りようきたく)も亦ある意味によって退社し、後は李垠澤(りこんたく)の子分李某という者が資本家となって引続き発刊する事となった。今後の態度は全く一変して、良好な成績を挙げると思われる。但しこの為同紙の声価がどうなるか不明である。
平壌日報発売禁止 13日平壌特派員発
平壌日報は、日韓合併問題を掲載した為に発売禁止を命じられた。
玉璽偽造事件 14日京城特派員発
趙南升(ちょうなんしょう)の玉璽偽造事件は、いよいよ若林警視総監の帰京を待ち、起訴する事に決まった。
解説:5月22日「太皇帝の舊謀(玉璽偽造事件の波及)」の続報
6月16日
官海騒然 14日京城特派員発
岡、若林両氏転任の公報が達し、官海は騒然としている。岡氏は多年内部に居て、巧みに優秀な官僚を集めているので、今回の転任と共に、主要な者二三は必ず岡氏に従うものと思われる。若林氏の後任は、当分これを置かず、警備機関を統一する為に、警視庁を廃止する考えである。
三浦理事官急遽東上 同上
三浦京城理事官は、15日朝突然東上した。外務省よりの急電に接した為であると一般の注意を惹いている。
平壌憲兵隊 15日京城特派員発
14日午前1時、50余名の暴徒が平壌憲兵隊仙嚴分遣隊に来襲したので、これに応戦して賊の多数に重軽傷を負わせ、13点の捕獲品を得たが他は元山方面に逃走し、我が憲兵が追撃中である。14日同時刻、54名の暴徒は京義線谷山駅付近の美山里及び清川里の各小学校を襲い、それぞれ2名の教員(日韓人何れか不明)を殺害し、跡をくらませた。前項の暴徒と関連があると思われる。
6月18日
内務次官と警視総監 17日京城特派員発
松井警務局長は、新たに内務次官、警視総監事務取扱を命じられた。
6月19日
大官の賭博 17日京城特派員発
15日中枢院顧問李址鎔(りしよう)、奎章閣(けいしょうかく)外数名の有力者が賭博に耽っている現場を憲兵隊に押さえられ、李址鎔外1名は逃走し、他は悉く捕縛された。
憲兵隊改正公布 18日京城特派員発
憲兵隊本部を司令部と改称し、隊長は司令長官となった。明石少将は転出するとの公報があったので韓国政府その他に通知した。
賊徒火を放つ 同上
14日江原道の村長方に賊徒十数名が来襲し、家財を略奪し、全村24戸の内1戸を残すのみで、悉く火を放ち、老幼婦女の悲惨な光景を後にして元山方面に逃走した。損害2万円である。
電灯事業協定 18日平壌特派員発
当地の電灯事業は、3社より出願し、競争の姿であったが、若松理事官の斡旋で1社は手を引き、2社が合同して発起人を確定し、資本金15万円にていよいよ着手すると思われる。
6月20日
京城日報発行停止 19日京城特派員発
京城日報は、特に禁止された憲兵隊編成の模様を19日の紙上に掲載した為、即日発売、頒布を禁止し、発効を停止された。
頭本氏出発 同上
頭本元貞氏は、華やかな見送りを受け、19日家族を従え出発、渡米の為に東上した。
解説:頭本元貞は札幌農学校を卒業後、伊藤博文の秘書官を務めた事がある。伊藤の統監就任に従って韓国に渡り、英字新聞ソウルプレスを買収し社長兼主筆となっていた。今回の記事にある様にニューヨークに渡り、隔週刊の「The Oriental Economic Review」を刊行した。
内部次官裁可 同上
統監は、宇佐美参与官を内部次官に推薦する件について、18日臨時閣議を開き、可決し、上奏し裁可を得た。20日の官報にて発表の筈
韓国警備機関統一 内国電報19日発
韓国の警備機関統一の問題については、久しく当局の苦慮した處であるが、いよいよ寺内新統監の英断により解決される事になった。即ち従来の韓国警備機関は韓国内閣に直属する警視総監の下に日韓巡査がおり、これは8道の郡司の監督を受け、保安警察、安寧秩序維持、行政警察の任務に服した。その他に憲兵隊長の指揮する駐韓憲兵隊があり、治安維持に関する警察については統監に、軍事警察に関しては駐韓軍司令官に直隷した。
今回警視庁を廃止し、郡司の監督する日韓巡査の統括権を憲兵隊に移し統一を図る事になった。そして従来の憲兵隊長の名称を憲兵隊司令官に改め、治安維持に関する警察に就いては統監に、軍事警察に関しては駐韓軍司令官に、軍政及び人事に関しては陸軍大臣に直隷する事に官制を改正する事に決定した。(一部抜粋)
6月21日
警務長候補談 20日京城特派員発
警備機関統一後の警察は、統監府に警務長を置き、司法行政の両警察を掌り、高等治安の両警察は分けて憲兵に委ねる方針であるとの事で、この為警視、警部の罷免される者が非常に多い。ちなみに現在警務長は松井警務長になるであるとの説があるが、氏は曽禰統監時代に警察機関の改良論を献策した行掛りがあり、今回の様な縮小機関を統率するのは快しとしないと思われ、依然として辞表を撤回する事は無いと推測される。
山縣副統監 同上
22日、23日頃出発し、入京するとの情報があった。
汽車に投石 同上
18日夜、北行列車が京釜線の永同駅から6里の所で一等車目がけて霰の様に石を投げた者が居たが、ガラス一か所の破損のみで無事であった。最近この様な事が再三ある。
退韓命令抗告 同上
朝鮮日々釜山支局主任今岡寿氏は亀山理事官の関係する東萊(とうらい)軽便鉄道の怪聞を報道した為、18日2カ年の退韓処分を受けたが、直ちに統監府に抗告書を差し出した。
6月22日
韓廷動揺 22日京城特派員発
21日大臣会議の後、各大臣は更に某所に会し、何事か協議し、又22日朝、朴臨時処理は病気引籠り中である石塚参与官を訪問し、何事か密議した。真相は伺う事が出来ないが、李総理の辞意問題ではないかと思われる。
暴徒に対する警戒 22日清津特派員発
咸鏡北道茂山付近で暴徒来週の恐れがあり、警戒中である。
6月24日
暗殺談成立説 22日京城特派員発
兇漢が李容九、宋秉畯両氏を暗殺する目的で剣誓団(けんせいだん)という秘密団を結んだとの説があり、官憲の探査が厳しくなっている。又22日夜、統監が狙撃されたとの説が何処からか伝わり、人心が騒がしい。
解説:李容九、宋秉畯は一進会を主宰し、両班による政治改革の限界を感じ、日韓併合を主張している。
国民新報の痛論 同上
一進会機関紙の国民新報は、度支部の3種の弊害を論じると題して、専売法の弊害、財務徴税の不法、建築所の乱脈を痛論した。やや急所を突いている。
警察委任裁可 23日京城特派員発
朴署理以下の各大臣が参内したが、丁度陛下は御苑を散歩中であり、奏上する事が出来ず、暫く待機した後、機を見て裁可を受けて退出した。日本政府との交渉が完了するまで当分発表を見合わせるであろうとの説がある。
解説:6月20日「韓国警備機関統一」の続報
学校に暴徒来襲 同上
22日午後1時、江原道平康郡に於けるキリスト教所属の学校に暴徒が襲来し、授業中の校舎を乱射し、遂に放火、全焼させ、校長を縛り、金品その他を略奪し逃走した。
韓国瓦斯電気会社出願 23日釜山特派員発
新設する予定の韓国ガス電気会社は、東莱(とうらい)に水力発電所を計画し、工費を50万円として、23日亀山理事官を経て内部へ出願した。
6月25日
江原道の暴徒 24日京城特派員発
江原道伊川付近に於いて、憲兵上等兵2名、補助員8名の捜索隊が、突如80余名の暴徒と衝突し、接戦の結果、上等兵2名行方不明、補助員3名戦死した。現在追撃中との報があった。
6月26日
李総理辞職説 24日京城特派員発
李総理の辞職説は、ますます高まり、統監の入京を待って決行するとまで言われている。急使が遣わされたのは、皇帝の意を受けた留任勧誘の意ではないかと言われている。
電燈請負契約成立 24日鎮南浦特派員発
当地電灯は今度シーメンスシユツケル門司支店との間に、請負契約が成立した。資本金15万円、株数3千株であり、内1千株を一般より募集する。電灯は年内に点火する予定
警察委託準備 25日京城特派員発
警察軍務委託に関する実施は、何時でも実行できる準備が整っているので、日本政府は、多分26日勅令を以て、官制を発表し、一切を決定すると思われ、韓国政府は即日、警保局、警視庁を廃止し、その他は勅令を以て発表すると思われる。そして実行の機関は、統監府に警務庁を置き、明石憲兵司令官が憲兵隊と共に統率し、警務長官は別に任命すると思われる。
警察委託と皇宮警察 同上
今回の覚書の交換について、李完用氏の最も苦心した事は、皇宮警察に代えて憲兵を以てするのではないかとの懸念であった。しかし統監より憂慮に及ばずとの暖かい電報があり、無事調印となった。
6月27日
警察委託と韓民 26日京城特派員発
韓人側に於ける警察事務委任の反響はどうかと見ても、未だ一般に周知されていないので平穏な様子である。唯文字ある者が自説を述べているがこの種の説は、度々のことであり、又かと言っているだけである。二三の漢字新聞は、一指づつ切って遂に手を失う事になると嫌味を掲げている。
取引所新設 26日釜山特派員発
商業会議所総会に於いて、米豆取引所を20万円以上の株式会社で新設する決議を行った。
6月28日
警察委任問題 27日京城特派員発
警察委任に伴う官制の改正は、直ちに発表される予定であったが、任免や昇任に関する準備がまだ整っていない為、今一両日延期すると言われている。韓人間にはなお何等の反響もなく、平穏である。
6月29日
不穏の兆 28日京城特派員発
警察権委任の反動として、漸く不穏な兆しが現れた。剣契団は、必死の徒50名を集めて、日韓人の目ぼしい者を暗殺する密約を行った。一部は温陽付近に、一部は渡日した形跡がある。首領は京城生まれの朱錫夏(しゅしゃくか)、大邱生まれの金基ゲン(きんきげん)の二人と認められる。又日本留学生の排日団体25名が26日入京し、催元植(さいげんしょく)を頭として何事か奔走中である。
政友会の建言 同上
政友会は、統監に三つの政策を建言した。その要点は、多年対韓政策が明瞭さを欠いているので、速やかに大英断を加える事、両班で生活状態が悲惨な者がいれば、救済する策を講じる事、各政体の統廃合を行い、幹部に大臣、元老の威望ある者を置く事、この為20万円の補助費を供給されたいと云うにある。
6月30日
李総理帰京 29日京城特派員発
李完用は、28日夜突然帰京した。固より健康は次第に快方に向かい、副統監の入京前には帰京の予定であったので、別に怪しむ必要はない。しかしこの様に急に出発したのは、危険な輩が温陽に向かった形跡があり、同地では十分に警護できない為、特にその筋より注意した様で、当分自邸で静養するとの事である。相変わらず辞職説が飛び交い、風雲が非常に急である。
解説:明治42年12月23日の記事「李氏遭難」にあるように、李総理は22日午前11時、沸国教会で行われたベルギー皇帝の追悼式に参列後、李在明(21才)に襲われ、重傷をおっている。
明治43年7月
7月1日
諸官制改廃 30日京城特派員発
勅令33号にて、内務部官制中、警察、出版、戸籍、移民、警視総監、警務局に関する一切を削除する。同34号で警視庁官制を30日限りで廃止する。同35号で地方官官制中警務の事一切を削除し、観察使の庶務及び警察の事を省く。何れも1日より施行の旨官報号外で発表する。(36号警察事務委任の経費、37号日本国警察職員給与省略)
7月2日
警察官制発表 1日京城特派員発
統監府警察官諸官制及びこれに付帯するものが7月1日発表され、警察事務引継ぎが滞りなく終了し、新官署の事務は多忙を極めている。
大臣に対する脅迫 同上
各大臣に対し、脅迫文を送る者が多く、徳壽宮も門前に日韓人に対する不穏な文字を並べ、同志の者は集まれなどの貼紙をする者が居る。
各理事庁閑散 同上
各理事庁は、警察官署が新設された為に事務の大半を奪われ、極めて閑散とした状態となった。新聞取締及び在住禁止処分の様な理事官の権限であるので、新雪警察機関との間に悶着を引き起こすと思われ、結局何らかの改正を加える必要があるであろう。
李総理参内 同上
李総理は、1日昌徳宮、徳壽宮の両宮に参内し、保養中のお見舞いに対し、お礼を述べた。
7月3日
警察事務引継 2日平壌特派員
警察事務委任の結果、当平安南道の警察部は廃止され、憲兵隊長が事務の引継ぎを終了した。岩佐警察部長は休職となり、日韓の警官の異動が多い。
解説:当時韓国は13道の行政区画に分かれていたが平壌は平安南道にある。この平安南道は、新聞では「観察道」となっていた。
警察官署彙報 2日京城特派員発
13道の憲兵隊長は、警察官署官制第8条の規定により、警務部長は両者を兼任させ、それぞれ任命する。△京城警察署は、従来5部1分署があったが今回南北警察の2署とし、高級警察と間もなく合併する龍山に於ける警察と合計4つを警務総監部に直属させ、署長を新任した。△警察官署を新設したが、その権限は何等異動なしとの公文を2日、特に各理事官に発送した。△当地の憲兵隊は第12の分隊で取り締まる事とし、分隊長がそれぞれ任命された。
解説:これによると韓国の行政区画である13道のそれぞれに憲兵隊長がおり、警務部長を兼務することになった。京城のみは警務総監部の直轄になり、憲兵隊の12個の分隊で取り締まる様である。
この記事の表題「彙報(いほう)」の意味は、「種々の事柄を集めて分類した報告」である。
水野参事官 同上
水野内務参事官は、2日大邱に向かう。京城の行政機関を見て、徒に組織が膨大であるのみで、秩序の不統一には驚嘆したと語ったそうである。
7月6日
副統監帰京 4日京城特派員発
副統監は、4日朝予定通り、弘済号で仁川着、勅使を初め、石塚参与官その他多数の出迎えを受け、同日午後2時過ぎ、仁川駅より乗車、3時49分無事入京した。南大門駅には、義親王を初め、各大臣、日韓官民の溢れんばかりの出迎えがあった。警護の騎兵に擁せられつつ官邸に入った。
副統監謁見 5日京城特派員発
山縣副統監は、5日朝以来、軍司令官、師団長その他の訪問を受け、6日朝宇佐美参与官及び秘書官を帯同して謁見し、新任の披露を行った。韓皇は正午より各参与官、王族、大臣等へ陪食を賜う予定 副統監は5日皇帝、太皇帝へ高貴な時計を、皇后厳妃に珊瑚の珠を献上した。
7月7日
副統監参内 6日京城特派員発
予定通り副統監は、夜来の豪雨を冒して参内、謁見し、新任の挨拶を行った。両陛下から大変優渥な勅語を賜った。約30分間、種々の談話をして退出、東光閣に於いて日韓人の主要な者に陪食を賜った。
両班と儒生 同上
その筋の調査によると、両班の総数は、鏡城府外13道を通じ、5万5千5百63人であり、儒生は1万8千5百14人である。
解説:この両班の人口は意外に少ない印象である。当時の韓国の人口は、約2千万人と思われるので、人口比0.3%である。1858年頃では人口の49%が両班であるとの資料もあるのに比べて非常に少ない。
一進会の建白 同上
一進会は6日、李容九の名前で、財政、法制に関する悪政救済策を建白した。内容は非常に浅薄なものと言われている。
7月8日
新警備機関 7日京城特派員発
新編成警備機関は、憲兵部にて司令部1、憲兵隊13、同分隊77、同分遣隊527、警察部にて、警視総監部1、警務部13、警察97、巡査駐在所263とした。但し京城を除く。
解説:憲兵隊、警務部とも13であり、韓国13道の各道にそれぞれ憲兵隊1、警察部1を配置するものと思われる。
韓国警察権限 内国電報
韓国警察委任に付き、寺内統監は次の様に令達した。
韓国政府の委任に係る警察事務に関しては、特別の規定の或るものを除く外、当分間、韓国従来の規定による。
前項の規定中、内部大臣及び警視総監の権限に属した事項は統監府警務総長、観察使の権限に属した事項は統監府警務部長、警察署長の権限に属した事項は統監府警察署長がこれを行う、
付則 本令は公布の日よりこれを施行する。
7月9日
統監赴任期決定 内国電報
寺内統監は、いよいよ来る15日午後3時40分新橋発の汽車で韓国に赴任する事となった。途中墓参りの為に郷里に立ち寄り、馬関より軍艦八雲に搭乗する由
解説:韓国併合は明治43年8月29日に行われた。
7月10日
結社法制定取調 8日京城特派員発特派員発
韓人小党続生の弊害を防ぐために、今後結社法を制定し、一定の保証金を納め、一定の人員を含まないものは結社させず、員数が減少した場合には解散させる方針のようで、現在しきりに調査中である。
浸水4万町 8日群山特派員発
6日以来の降雨が止まず、東鎮江その他の川が増水し、原野一帯が海の様で、水田の被害は概ね4万町で、溺死者14名であった。錦江流域では今のところ被害は少ない。
各大臣の副統監訪問 9日京城特派員発
李首相を除き、他の大臣は9日午後統監府に副統監を訪問した。これは大臣等より申し込んだもので、挨拶をした外何事もなかった。
7月11日
副統監を訪問する。10日京城特派員発
筆者が副統監を訪問したが、今は多くこれを語る自由がなく、唯至誠事に当たるのみであると堅い決心を示された。副統監は、昨今日夜大小の政務の調査中であり、近日各部を親しく巡検し、執務の実情を把握し、他日参考に供するつもりであると語られた。
韓皇儲御乗艦 内国電報(10日発)
韓国皇太子殿下は、山陽山陰地方を御見学の途中、舞鶴に御滞在中、港内御巡覧及び天の橋立を御遊覧の節は、同軍港の水雷艇に御搭乗され、同港より鳥取県網代港に御渡航の節、並びに同港より兵庫県津居山港に御渡航の際は、軍艦対馬に御搭乗される事とされている。
解説:韓国皇太子は明治天皇の方針により日本で教育を受けているが、日本の皇太子と同様に帝王教育を受け、大切に教育されている様子が解る。
7月12日
松井元警務局長 11日京城特派員発
松井元警務局長は11日朝出発し、帰朝した。氏の潔い進退は世の同情を惹いており、本日出発の際、非番警官が総出で見送った。
道郡廃合論 同上
やがて行われる地方行政革新について、まず道郡区画の廃合をしなければならないが、その実情に詳しい某大官は現在のなかで3道を廃して10道とし、1道の郡を25、全道で250郡位にするのが最も適当であろうと述べた。
警備機関運用訓示 同上
副統監は12日、13道の憲兵隊長等を集め、警備機関運用に関する重要な訓示を行う筈である。
李範允一派の処分 同上
ウラジオ付近に出没する李範允その他の抗日派に対しては、間島総領事より詳細に氏名、罪状を露国官憲に通知しているので、日露協約の成立により何時でも一網打尽の処置を行う事が出来るであろう。
7月13日
李在明の宣告 12日京城特派員発
12日朝、凶漢李在明の公判宣告があり、金ヘイ六は前判決を取消、15年の懲役に、他は何れも前判決通りの宣告を受けた。李は、たとえ法律は自分の生命を絶っても、精神は永遠に消滅しない等と豪語するかと思えば、傍聴席の母や妻女を顧みて,愈々死刑に処せられると別れを告げる狂態は見るに忍びなかった。権叮益(ごんていえき)は一旦控訴したが、何故か取り下げ、前判決の15年の懲役に服罪した。
駐韓憲兵管区改正 内国電報12日朝
韓国警備機関の統一に関する諸条例は既に発表され、近く駐韓憲兵隊改正条例も発表される予定であるが、従来の憲兵隊管区は8管区に区分されていたが、今回発表される予定の改正駐韓憲兵隊管区は13管区となり、各憲兵隊を各道に置く計画である。これは単に憲兵隊の管区にとどめず、これを基準として韓国の行政管轄区域を定める方針との事である。
7月14日
韓太子ご出発 内国電報 13日発
御見学の為、山陰、山陽、その他各地方を御巡啓される予定の韓国皇太子殿下には、御予定のとおり昨日午前8時30分、新橋駅発の列車にて、伊藤式部次長、趙東宮武官長、高太夫、金武官、その他供奉員を従えご出発され、同駅には寺内統監、戸田式部長菅、渡辺宮相、川村宮内次官、石井外務次官、その他宮内省高官等数十名の見送りがあった。
7月15日
日露協約の反響 14日京城特派員発特派員発
日露協約が締結されたが何ら著しい反響は無く、唯心ある韓人は、これで韓国最後の問題も解決されるのではと推量している。
統監出迎えの大臣 同上
大臣中1名が統監出迎えの為に、下関まで赴くと思われるが、多分趙農相と思われる。
韓皇儲来着 内国電報 14日発
韓国皇太子殿下一行28名及び大阪より陪乗した大森京都府知事、高崎警務長、木下高等課長を加えた特別列車は、14日午前10時50分舞鶴駅を通過して、永田舞鶴要塞司令官、木戸町長以下地方名誉職員の出迎えを受け、同11時6分新舞鶴駅に到着した。プラットフォームでは片岡鎮守府長官、和田参謀長、船越対馬艦長(御召艦)以下海軍将校及び山縣郡長、新舞鶴、餘部両町長等が奉迎し・・・(以下略) 朝から好天であり、三舞鶴市街は日韓国旗を交叉し、花火を打上げ、沿道では拝観者で人垣ができた。
解説:明治天皇の命で、日本の皇太子と同様に大切に教育されている様子が伺える記事である。
7月16日
韓太子(舞鶴)内国電報 15日発
15日朝8時、御旅館をご出発され、片岡司令長官、加藤工廠長の御先導で雨後の泥濘の中、徒歩にて海軍工廠を訪問され、造船部、造機部、電気課、木工部、船台等を順次ご閲覧され、一旦水交社に御帰館された。(以下略)
7月17日
警務機関の配備 15日京城特派員発
警務機関の配備について、13道の警務部長は全て出発したが、他の配備を含めて今月中に全て終了する予定である。
解説:各道警察の責任者は全て憲兵となっている。
留学生の不謹慎 同上
現在帰国中の留学生が志士を気取り、不穏な事を叫んでおり、甚だしいのは外国公使館を焼き払い、その館員を殺害して累を日本に及ぼし、その機に乗じて政府転覆の事業を図ろうと唱えており、警戒が極めて厳重である。
警務部長来馬 16日馬山特派員発
慶南警察部長の前田憲兵少佐は、15日夜馬山に着き、16日朝普州に向かった。
解説:「警務機関の配備」に関連した記事である。
7月18日
韓太子鳥取に向かう(舞鶴) 内国電報17日
韓太子殿下は、17日午前7時人力車で、宿泊していた水交社をご出発され、沖合に停泊する御召艦対馬に乗艦された。陪従しているのは第11師団参謀長金久保大佐、鎮守府より勝木参謀副官及び鳥取より出迎えの信田警部長、田子保安課長等であった。同8時御召艦対馬は錨を揚げ、供奉艦として第17水雷艇隊の45、46、47,48の4隻が、御召艦の両側に連なって随従した。(一部抜粋)
7月20日
注意人物拘引13名 19日京城特派員発
注意人物の大捜索は、18日を以て一段落し、拘引された者の総計は13名であった。何れも昨年まで日本に留学しており、帰国後無為徒食で、しきりに排日熱を煽動していた者である。各々家宅捜索が行われ、有力な証拠があった為に、当分禁足処分を行う事となった。夏期休暇となり、18日来続々と留学生が帰来しているので、その筋では一早く訓戒を加え、不良の連中に誘惑されない様に警告を与えている。
沖縄丸入港 19日元山特派員発
逓信省所管沖縄丸が海底電線敷設の為、19日朝入港した。
韓太子倉吉着 内国電報 19日発
韓太子は、19日午前9時15分鳥取発の特別列車にて、10時松崎着、温泉養生館に入り、ご休憩後午餐を召され、午後4時20分松崎駅をご出発、同30分倉吉に御到着、御旅館飛龍館にお入りになった。
7月21日
韓太子 内国電報 20日発
20日午前7時半倉吉の御旅館を出門、8時20分発特別列車にて御来屋駅に御到着、人力車にて海岸の後醍醐帝上陸場に行かれ、名和神社ご参拝後10時20分発名和臨時駅を出発され、日本海の景色を眺めつつ、同40分米子駅着、熱烈な奉迎をお受けになった。
7月22日
未曽有に警戒 21日京城特派員発
寺内統監は、23日入京の予定であるが、当日は憲兵、警察官が非常任務に服するのは無論、多数の軍隊が護衛する予定である。仁川と京城間の沿道各地の警戒が厳重な事は未曽有である。又特定の乗車券、入場券が無い者は何人も統監列車に近づく事ができないばかりか、南大門より日本市街に到る統監の通路は一般公衆の集合が禁止される。
韓太子(米子) 内国電報21日発
韓太子は、21日午前8時御出門され、増尾製油所を御見学の後、米子高等女学校に御成りあり、階上には米子実業協会の出品、陳列があり、鶏林八道の平安を意味する造物をご覧になり、10時還啓
解説:鶏林とは朝鮮を意味する言葉、還啓とは出先からお帰りになる事
7月24日
怪き学生団の行動 22日京城特派員発
韓人学生団38名は、最近日本より帰国した者であり、地方の遊説に出かけたが、両班、その他古老の識者より排斥され、遂に目的を達成する事ができず再び京城に帰ってきた。そして何事がなさんと某所で密会を重ねていたが、その筋に知られ検挙された。十余名中8名は巨魁と言われている。
統監入京 23日京城特派員発
23日の京城は完全に武装され、統監入京の沿道は、憲兵、警官が総出で、若干の憲兵補助員を合わせ、殆ど一間毎に配置し、更に左右両側に銃剣を閃かせた兵士を、これまた一間毎に配置し、全く蟻の這い出る隙も無い光景である。午前11時56分日章旗を交差した列車は南大門西側プラットフォームを目指し、まっしぐらに進んできた。南山の中腹より発する砲声は、殷々と19発の将官礼を表している。特別車より軍服の統監は、副官及び随員を従えて、出迎えの日朝文武官に挙手の礼をしつつ、東プラットフォームに出、此処には各団体代表者、新聞記者、外交団、皇族、愛国婦人の順序に整列しており、隈なく挨拶した。貴賓室にて小憩の後、大久保軍司令官、戸波武官が同乗し、前後を一小隊の儀仗兵に護衛されつつ、武装の町を静静と馬車を進ませた。(一部抜粋)
7月24日
統監謁見 24日京城特派員発
正副統監、有吉総務長官は、25日朝謁見、御陪食後徳壽宮に太皇帝を訪問する予定である。
解説:皇帝である純宗は昌徳宮におり、謁見はそこで行われ、前の皇帝である高宗が太皇帝と呼ばれており、徳壽宮に住んでいる。
文武官招待 同上
統監は、25日夜日韓分武官60余名を統監邸に招待する予定
度支部次官 24日釜山特派員発
荒井度支部次官が、24日朝製氷所を見て、午前京城に向かった。
解説:度支部とは大蔵省の意味である。
韓太子大社参拝 内国電報24日発
24日午前7時50分、御召し列車が盛んな奉送を受けて松江を出発し、8時20分庄原に御到着 県庁差回しの馬車に伊藤侯爵陪乗し、10時半今市町に御到着された。ご小憩の後杵築へご出発され、庄原と杵築間の約5里の沿道は奉迎者が隙間なく、殿下は幌を外して会釈された。殿下は出雲大社に御到着、御旅館稲葉屋に入られ、北島男爵、千家宮司等に拝謁を賜い、御昼餐後、3時大社に参拝された。
解説:韓国皇太子は、明治天皇の意向により日本で教育されているが、日本の皇太子同様に大切に教育されている様子が解る。
韓国両班の処分 同上
韓国合邦後の問題で、関係者が最も苦心しているのは両班の処分をどうするかという問題である。13道の両班総数は約10万人と言われているが、大は地方の大地主であり絶対の勢力を持つものから、小は貧弱でその日の糊口にすら窮する徒を含んでいる。故にその処分が適切でない場合には、再び反乱を引き起こす恐れがある。その為に一進会、大韓協会からも事後処分の一大案件として、しばしば我が国に対し、彼らの意見を建白している次第である。これに関して二つの意見があり、一つは我が国の廃藩当時の事に習い、公債を下付して彼らを救済すべきであるとの説とむしろ彼らの役人好きを利用して、地方小官吏に採用する方法とがあるが、韓国政府側は前者によって処分すべきとの意見を有していると韓国帰来の某政客が語った。
解説:両班総数10万人とは意外に少ない数と思われる。
7月26日
韓太子(松江) 内国電報 25日発
杵築で御一泊の韓太子は、25日午前7時半千家宮司を召し、御手で銀瓶を賜り、10時に御出門され、今市町に御到着され、遠藤多右エ門邸で小憩された。10時40分庄原駅に御着になり、11時半御召列車で松江に到着され、御旅館興雲閣にお入りになった。午後3時御旅館の前にて演舞をご覧になり、ご機嫌であった。
7月27日
韓皇の御親電 25日京城特派員発
統監は25日謁見の際、日本陛下よりの優渥な御親書を奉呈し、韓国皇帝は、御贈品に対する丁重なお礼の御親電を発せられた。
統監と韓国元老 同上
統監は24日、特に元老中の元老である金允植と南廷哲の両人を招き、何事か懇諭した様で、一般の注意を惹いている。
解説:日韓併合を推進する団体である韓国平和協会が設立されたが、その副総裁に金允植、会長に南廷哲がなっている。
寺内統監登府 26日京城特派員発
統監は26日、初めて登庁し、各課の執務の状況を視、入京中の各地居留民小学校長24名を官邸に引見し、教育上に関する訓諭を行った。
太皇帝の喜悦 同上
太皇帝は25日、統監より韓太子の写真、学業成績を受けて、その発達が顕著な事を喜び、直ちに旅行先へ親電を送られた。
解説:韓太子はこの時、山陰を旅行中である。
7月28日
水道工事と韓人水汲 27日平壌特派員発
水道工事は終了したが、一般に未だ給水する事ができていない。一般に給水が始まると、4百余の韓人水汲み人が職を失う事になり、その為に彼らの間に売買される権利株1万余円の下げ渡しをその筋に要求しようと、しばしば水道事務所に押し掛け、紛争を極め落着していない。この為に一般が非常に迷惑している。
慈恵病院設立計画 同上
内部は当地に慈恵病院の設立を計画し、当市民会設立の同仁病院をこれに引き渡す計画で手続き中である。
解説:内部とは内務省に該当する。
7月29日
統監の訪客謝絶 27日京城特派員発
政界は何ら異変の兆候が見られない。統監は止むを得ないものの外、一切の訪客を謝絶し、静かに何事か調査中である。
金玉均氏追悼式 同上
故金玉均の追悼式は、27日、旧宅跡である漢城高等学校内に祭壇を設けて執行した。勅使、その他数百の参拝者があった。
解説:李朝末期の韓国近代化を目指した政治家であったが、クーデターに失敗し、日本に亡命 その後上海で暗殺され、その遺体は切り刻まれ、ソウル等で晒された。日本では福沢諭吉が中心となり、金玉均の法要が行われた。
皇帝の統監訪問 28日京城特派員発
29日皇帝は、各大臣を従えて、統監邸に統監を訪問される予定である。この様な事は、伊藤統監時代に稀にあっただけであり、韓廷の統監に対する態度及び時局の推移が伺える。
外交団及び高等官の祝辞 同上
28日朝、統監は各部高等官の着任挨拶を受け、終わって駐在各国外交団の祝辞を受けた。
統監就任披露園遊会 同上
来る30日、龍山官邸に於いて統監就任披露の大園遊会を催すことに決定した。当日郵便局は紀念スタンプを押印する。
統監訓示 同上
統監は28日朝、高等官3百余名を引見した際、厳格な口調で、予は今回の大命を受け、韓国に於ける政務を遂行しようとしている。これを全くするには、一に諸氏の援助に待たざるを得ない。故に諸君は日韓両政府の何れかの所属を問わず、至誠を以て職に奉じ、忠実を以て君国の為に尽くされんことを望むと訓示した。因みに統監は28日大久保司令官を訪問した。尚民間側統監歓迎会は来月3日京城ホテルで開催の予定
7月30日
統監邸行幸 29日京城特派員発
皇帝は29日午前10時半出門、尹侍従院卿同乗、閔宮相、小宮次官等を従え、少数の儀仗兵に護られて、略式にて統監邸に行幸された。統監、同夫人、令嬢等に接し、国分参与官の通訳で参内に対する答辞を述べられ、四方山の談話を交換されつつ、約30分で退出された。正副統監、大久保司令官、有吉長官、石塚小松両参事官、児玉秘書官等の見送りを受けて還幸された。有吉長官は、還幸30分後に統監代理として御礼の為に参内した。
韓太子(岡山) 内国電報
29日午前7時、御旅館自由舎を御出門され、岡山中学校より天守閣にお登りになり、市内を御展望され、ご休憩の後中学校運動場で、内山下高等小学校女子生徒の薙刀体操を熱心に御覧の後、孤児院に行かれた。その後後楽園にお着きになり、知事より県政の概要を聴かれ、鶴鳴館にて知事、師団長及び供奉員等に陪食を仰せ付けられた後、韓服に召し代えられ、園内を御逍遥され、5時半に御帰館された。
7月31日
暴徒挟撃 29日木浦特派員発
忠龍浦からの電報によれば、全羅北道の萬頃(ばんけい)に於いて9名の暴徒が現れ、土地の金満家を脅して、金銭を奪取して去った。又28日邊山(へんざん)付近にも支那服及び朝鮮服を着て、小銃を携帯した暴徒140名がボートで上陸した。警備艇及び税関の汽艇により海上を警戒し、陸上では憲兵巡査を配置し、30日頃予定の地点に向け、海陸両面から迫って撃滅するはずである。
韓太子ご出発(岡山) 内国電報30日
太子殿下は当地のご見学を終わられ、伊藤供奉員(ぐぶいん)を従え、30日午前10時40分、岡山駅をご出発、広島へ向かわれた。ご案内の為に29日来岡した宗像広島県知事及び萩原警察部長が同行し、帰廣した。
韓太子来着(廣島) 内国電報30日
30日午後2時58分供奉員並びに岡山まで出迎えた宗像知事、萩原警察部長等と共に廣島駅に到着され、大谷師団長以下各連隊長、馬場控訴院長、乾地方裁判所長、その他官民等多数が出迎えた。県庁から差し回した馬車に伊藤侯が同乗し、本町通りを県庁に向かわれた。庁内をご巡覧の上、ご出門され、4時長沼旅館に御投宿された。
解説:文芸春秋に「李王家の縁談」林 真理子が連載中であるが、太子殿下がその当人である。広島県知事が岡山まで出迎える等、いかに大切に教育されていたかが分かる記事である。
明治43年8月
8月1日
韓太子殿下(岩国) 内国電報31日発
韓太子殿下には、供奉官一同及び宗像広島県知事、萩原警察部長、大谷第五師団長、河村第九旅団長等がお供をして、午前9時広島駅発、11時27分岩国駅着、錦帯橋の中央に設けられた休憩所にお入りになり、錦川に於ける工兵第五大隊の架橋並びに水雷爆発の演習をご覧になった。その後玖波物産陳列館をご観覧され、米平楼にお入りになり、昼食後1時12分岩国発広島に向け御発車になった。
8月2日
塩密輸入船拿捕 1日木浦特派員発
警備艇は、近海に於いて、1日朝、塩類を搭載した密貿易船の支那ジャンク5隻を捕え、税関に於いて取り調べ中である。
統監夫人参内 1日京城特派員発
統監夫人及び令嬢は、1日朝、参内し皇后に謁見し、特製縮緬7反を献納し、且つ近侍の面々にもそれぞれ贈りものをした。皇后は日本語で厚く好意を謝し、且つ四方山話をされた。これは偏に児玉伯爵夫人の賜物であると伯爵夫人に挨拶があり、その後陪食を賜った。その後統監夫人は徳壽宮に厳妃を訪れ、同様に献品した。
解説:厳妃とは、日本に留学中の韓太子の実母である。
韓太子(尾道発) 内国電報1日発
1日午後30分尾道駅にご到着、外町無塵庵にて暫くご休憩の後、国宝の仏像,經巻その他の宝物を御覧されて、6時過ぎに旅館濱吉楼にお入りになった。
8月3日
一進会長赴仁 2日京城特派員発
李一進会長は、1日仁川に向かった。宋秉畯(そうへいしゅん)の出迎えの為とも言われ、また時局に関するある用向きであるとも言われ、一般の注意を引いている。
無為なる大臣会議 同上
大臣会議例会は、正副統監、各参与官、各大臣が残らず出席したが、何らの問題もなく、単に形式に止まった。なお暑中の折柄の為に重要問題がない限り、本月中、例会中止のこととなった。
明石司令官招宴 同上
明石司令官は3日夜より3回に分けて、大臣元老を招待し、晩餐会を催す。
解説:明石司令官とは、日露戦争当時、対ロシア謀略工作にあたった明石元二郎である。
韓太子殿下(尾道) 内国電報 2日発
韓太子殿下には1日の汽車の中より軽い腸カタルの気味があった。侍医がお手当てをして、午前8時、尾道商業学校生徒の水泳を御覧になり、午後は漁船の投げ網打ちを御覧になった。そうしているうちに御気分も回復し、午後3時半、供奉員一同と共に神戸に向かわれる予定である。
8月4日
正副統監歓迎会 3日京城特派員発特派員
居留官民主催の正副統監歓迎会が、3日午後3時、京城ホテルで催された。設備万端統監の主義に倣い、極めて質素を旨とした。会したもの約500名、4時正副統監が到着され、一同食卓に就いた。
8月5日
韓国新聞取締り厳重 3日京城特派員発特派員
朝鮮日報、日韓電報通信共に時局に関する些細な記事を掲げたため、発行を停止され、韓国の新聞取締りは、これより漸く厳重になると思われる。
平南鉄道工事進捗 4日平壌特派員発
平南鉄道の工事が着々と進捗し、全線34マイルの内、当地より27マイルは既に建築され、列車の運転をしている。11月前後には開通の見込みである。
大津に於ける韓太子(大津) 内国電報4日発
韓太子殿下は仰々しい奉迎の中、4日午前10時25分神戸より馬場着の列車にて来津、馬車にて湖畔に移動され、武徳会主催のボート競技を見学され、その後旅館竹清楼にてご昼食、3時物産陳列所を経て、円城寺円満院に至り、宝物をご覧の後、県庁に至り知事より鯉、その他種々の献上品をご覧になり、高等官に謁見を許され、間もなく御帰館された。
解説:文芸春秋に連載中の「李王家の縁談」主人公の幼少時代の姿である。
8月7日
朝鮮日々発行停止 6日京城特派員発
朝鮮日々発行を停止させられた。先に停止を命じられた三新聞は6日解除された。
韓太子御帰京 内国新聞6日発
韓国皇太子殿下には、午後8時55分馬場駅発、昨朝午前9時新橋着で無事御帰京された。殿下にはすこぶるお元気でお迎えの馬車にて伊藤式部次長以下随員15名を従え、鳥居坂御用邸にお入りになった。
殿下は先月13日東京をご出発され、まず大阪に至り、舞鶴、鳥取,倉吉、米子、松江を経て木付に到着し、出雲大社に参拝した後、再び松江まで戻り、伯州境港より軍艦対馬にて但州城崎に至り、岡山、広島、岩国、尾道、神戸を経て大津に出て、一昨日午後8時55分の列車にお乗りになった。往復25日間を要したが至極お元気であった。
ご旅行中には時々、父君陛下に、何処に到着したか、何を見たかなど電報にてお知らせをし、これに対する陛下の御答電があった。(一部抜粋)
8月9日
時局と外国人 8日京城特派員発
時局問題を観察する為か、昨今外人の来韓する者が増加し、新聞記者も2名特派している。これら外人の多くは、上海方面より来た者でアストル、ソンタク両ホテル共満員の状態である。
宋秉畯(そうへいしゅん)は、2名の憲兵に護衛され、東京より7日夜8時半着関、大吉楼に投宿、8日夜発の関釜連絡船にて渡韓した。一進会会長李容九(りようきゅう)は、七日釜山に到着し、宋と会合し、合邦後に於ける一進会の態度及び善後策、その他を打ち合わせを行ったと思われる。
陳腐なる合邦反対(敦賀)内国電報8日朝
ニコリスクに在住する韓人約500名より大島ウラジオストク総領事の手を経て上奏を嘆願した1件の書類が8日鳳山便にて外務省に発送された。韓人関係者にその内容を聞くと
韓国は建国以来500年の歴史を有し、且日本政府は先に清国と戦闘を開き,露人と干戈を交えたが、我が韓国の独立を保障するにあり。今や当時の主張を捨て、我が韓国国民の独立を奪おうとしていることは、世界各国に言明した主張にも反している。我が韓国国民も決心する所がなきにあらず。これを日本天皇陛下に上奏して、聖断を待っている。
8月12日
朝鮮新聞停止 10日京城特派員発
仁川発行の朝鮮新聞は又停止された。
統監の意見徴収 同上
寺内統監は明11日、農商工部の高等官一同を招集し、事務の簡素化を行う方法について、各自の意見を聴取する事とした。その後他の各省にも及ぶと思われる。
排日学生巨魁捕縛 同上
排日学生の巨魁明治大学生李正ガンは、9日夜南大門に帰着の處、直ちに捕縛された。
8月13日
水道紛糾事件落着 12日平壌特派員発
当地の水道工事が落成したが、一般への給水を開始せず、水汲みを営業している韓人等が忽ち生計を失うと言う口実の為に紛糾中であったが、彼らの要求を一部認め、政府より営業者一人につき平均30余円合計8,000余円を支給することで落着した。
発行停止 同上
治安妨害の容疑で、平壌日報は12日発行を停止された。
8月14日
陰謀露見 13日京城特派員発
12日夜、学生及び不逞の徒が検挙されたが、27名という大人数であった。彼らは聞くのも恐ろしい陰謀を企てており、一味徒党へ電話で何事か話している現場を押さえられたので、何れも有力な証拠があり、罪状は顕著である。警察の活動はこの様なのに反し、統監邸及び統監府は至って閑静である。
8月15日
開国紀念 14日京城特派員発
14日は開国紀念日であり、宮中の儀式は例のごとくであり、韓人町は軒毎に国旗を翻しているが、時節柄何となく異様に見えた。
時局と騒櫌 同上
時局問題が次第に地方に伝搬し、色々と批判する声が多く、特に平安南道で激しくて、一進会を奪回する者が続出している。これから同地方は幾分の騒櫌はまぬがれないであろう。
大勢を知らぬ政党 同上
進歩党副総裁李基本(りーきほん)は除名された。その原因は、同党の名義である日本大官に3千円の借款を申し込み、これを自分の物としようとしていた事が発覚した為である。政党の状態はおおむねこの様なであり、今尚騒動が収まっていない。
厳妃の午餐会 同上
16日、厳妃は統監の婦人、令嬢を招いて午餐を共にした。
解説:厳妃は前皇帝高宗の妃であり、実子李垠は日本に留学している。
8月16日
興安丸座礁 15日平壌特派員発
15日午前3時、当港を出港した興安丸(3,461トン)は,平壌無煙炭を搭載し、徳山に向け航海中、同5時頃、大同江の姉妹島付近で座礁した。その為同船を取り扱っている中村組は救出の為に1隻の小蒸気船を現場に急派した。船員は付近の島に上陸非難した。多分次の大潮にて浮上がると思われる。船は東京有馬組の所有である。
解説:平壌の石炭について、40年9月20日の記事に、1か月1万トン産出とある。
平南線工事進捗 同上
平南線の鉄道工事が大いに進捗し、14日午後運搬列車が初めて当地に到着したが、一般市民が工事中の駅前で歓迎し、酒肴を送った。韓人の中には、初めて汽車を見た者が多く、大勢の見物人が集まった。
解説:平南鉄道とは、平壌と平壌の外港である鎮南浦を結ぶ鉄道である。明治40年6月5日の記事に、浅野と渋沢2氏が平壌と鎮南浦間に鉄道を敷設する申請をする記事がある。
8月17日
道路下水工事費 16日平壌特派員発
韓廷は当地の日韓共同事業である道路下水道工事費4万円を支出することに決定した旨をその筋に通知した。
私立学校廃止 同上
平安南道の私立学校は300以上の多数あるが、観察道は、学部の認可を得、今回この統廃合に着手した。
8月20日
外戚の借金 18日京城特派員発
皇后の父 尹澤榮は、以前、皇后をたてまつり以来、多額の債務を生じ、その為、しばしば皇室を煩わす事があった。伊藤公が在職中、一度ならず整理させたが、素行がどうしても修まらず、昨今は百万円の負債を生じ、弟である侍従院卿尹徳榮を通じて又もや累を皇室に及ぼす恐れがあるので、刑務総監部は、その真相を確かめる為、数日前より邦人及び支那人等の債権者15名を招集して、厳重に捜査中である。或いは意外な結果となるかも知れない。
大韓協会の機関誌大韓民法は又も停止された。その他韓字新聞、雑誌が続々と発売を禁止された。
昨今の京城 19日京城特派員発
警務総監部は、時節柄秩序の紊乱を防ぐため、流言飛語の根源を撲滅しようと活動を開始し、19日その首謀者及び連累者7名を逮捕し、北部警察署に拘禁した。大臣、元老の往来がますます激しいが、しかし何れも纏まった相談ではないようである。
8月21日
平南鉄道開業期 20日鎮南浦間特派員発
平南鉄道工事は予定より1ケ゚月早くなり、10月1日より営業を開始する予定である。
入京後の宋乗畯 20日京城特派員発
宋乗畯(そうへいしゅん)氏は、引続き訪問客を拒絶して、引き籠っている。20日、二三の新聞に入京を報じたので、早くも入閣間違いなしと認める者、宋乗畯内閣の成立が近いと云う者など色々あり、一般の評論の種となっている。しかし未だ顕著な反対運動の兆候は見られない。仁川にいる李容九(りようきゅう)は、宋氏との打ち合わせの為に、21日帰京するであろうと伝えられている。
内地新聞差押 同上
その後19日の北海タイムス、小b樽新聞、小樽毎夕、旭川毎日、18日の信濃日報が販売、頒布が禁止された。
8月22日
山縣副統監 21日京城特派員発
時局解決の遅れているのは、行政整理が未了の為であるとの説を唱える者がおり、筆者は21日朝、山縣副統監を訪問してこの事を質した。副統監は、時局に関する事には少しも触れず、世間では人員整理の声が高いが自分が各庁を視察した所によれば、決して冗員があるとは思えない。ただ真面目に事務を執るかどうかである。しかし韓人をなるべく多く使用しようとすることは自分のみならず、寺内統監の意思であるが、その能力如何は事務の如何によって決まるものであるので、必ずしも一般的に能力の有無を論ずることはできない。日本人はとかく理屈に落ち、人を受け入れる度量が無いのは、甚だ遺憾である。此の点に於いては到底、印度に於ける英人を学ぶことが出来ないのは残念である。
李容九氏 同上
20日、帰京後直ちに宋乗畯氏と会合し、何事か長時間密議をした。李氏は当分京城の自邸に籠るであろうと言われている。氏が、帰京した理由については、友人の説によれば、23日中の夜、統監と会見する予定であると言っているが、統監側では決してそのようなことはなく、当分会見する必要はないと言っている。
韓国民心の趣向 同上
比較的声望のある韓人五六名を歴訪し、所感を聞いた所、衆口一致して、何故解決を長引かせているのかと反問し、且曰く、人心の推移は恐ろしいもので、我々は無論思慮ある同胞は速やかに解決し、且姑息でないことを希望すると述べた。
8月23日
韓国合併 内国電報 22日発
寺内統監と李総理大臣との間に特殊な協約が成立し、去る16日李総理はこれを韓国皇帝陛下に奏上した。
韓国皇室の嘉納 李総理の奏上を受けられた皇帝陛下は、直ちにこれを太皇帝に諮られたが、太皇帝陛下も一言の疑いもなくこれを嘉納せられた。
解説:嘉納とは喜んで聞きいれること
去十七日 寺内統監は、この結末を全部電報にて、我が内閣に報告したので、桂内閣は18日参内して伏奏し、遂に昨22日枢密院会議が開かれることになった。発表はやがて行われるであろう。
解決形式 は協約によるが、処分の性質は合併でなく合邦とのことである。
統監帰京 長島首相秘書官が、何らかの任務を帯びて韓国に赴いたが、23日午後帰京する予定であり、寺内統監も一先ず帰京する筈である。しかしその時期は未だ明白でなく、或いは来月になるかも知れない。
合併協約内容
全てで78ヶ条であり、その要旨は次のごとし
一、韓国の主権は我が日本国に収めること
一、韓国皇室の尊厳を保たせる為、その尊称を維持させる皇室費を給すること
一、韓国の名称は之を廃し、朝鮮と称して我が国の一部となすこと
一、韓国の皇族及び有功者に対し,勲等によって爵位又は財産を与えること
一、内閣を廃し、我が官憲の下に置くこと
一、韓国政府の内容は当分、今のままとすること
韓国合併と費用
韓国皇室及び有功者、両班に給する金額及びその他一切の善後策に対する費用は約3千万円であり、既に我が政府に於いて公債により支出することに決定している。
都督府設置
合併処分発表の後には、統監府を廃して都督府を置き、寺内子爵が選任され、都督に任じられる予定である。又都督府の行政は、議会の協賛を経て法律を施行することになるまで、台湾の様に、全て勅令によることになるであろう。
解説:都督とは中国の官名 主に地方の軍事・民政をつかさどった。
合併と対外條約
韓国於ける外国人の既得私権は、何らの変更もなく持続されることは無論であるが、諸外国と韓国との間に締結された一切の国際条約が韓国の消滅と共に消滅するのは法理論上にて、亦当然の事である。
8月24日
韓廷の御前会議 22日京城特派員発
22日夜の光景は至極平穏であり、警備に関しても静かで、何ら目立ったことはない。この日午前9時半から各大臣は、続々と集まり、閣議が開かれた。午後1時、総理以下各大臣は、宮廷に入り、李載冕殿下、中枢院議長も参加して御前会議を開き、2時過ぎ総理、趙農相が相次いで退席し、統監を官邸に訪問し、後徳寿宮に至り、太皇帝に何事か奏上を行い、5時過ぎに退席して一先ず内閣に帰った。
22日夜の統監邸 23日京城特派員発
22日夜、統監邸は、大臣の訪問する者が1名も無く、極めて静かであった。統監は意気極めて旺盛であった。
各大臣には、数日間堅く秘密を守るべしと厳重に訓諭した。又大臣、元老の警戒は無論,公私邸とも厳重に警戒し、出入者は一々誰何されている。
京城市中静穏 同上
各大臣は、23日午後になってもなお外出せず、皆官邸に引き籠っている。市中の光景は極めて沈静である。
平壌方面 23日平壌特派員発
23日朝、大問題が解決したとの報が某所に達したが、未だ一般には知れ渡たらず、至極平静である。
合併協約発表期 内国電報23日朝
日韓合併協約並びにこれに関する宣言書発表期については、同協約の内容については、既に各條約国に対し、予めその意向を確かめているので、現在では、この発表と同時に正式な通牒を発することになっている。そしてその発表は内閣よりされる予定で、25日以降となると思われる。
8月25日
浮説粉々 24日京城特派員発
24日は各大臣とも自邸に引き籠り、来往せず。人心も矢張り極めて静粛であり,何の変りもない。問題の内容こそ十分に知られていないが兎角の噂が生じつつあるが、警備が十分に行き渡っている為、流石の政治狂も軽挙の不利益を知っている為かそれとも統監の威望に圧せられたものか少しも動かない。(一部抜粋)
尹侍従院卿の奔走 24日京城特派員発
尹侍従院卿は23日夜、統監を訪問した。時節柄兎角の噂をする者がいるが、これは尹澤榮の負債整理事件について、統監の意見を伺うためであると言われている。
8月26日
統監無聊 25日京城特派員発
依然として平穏である。統監は無聊に苦しみ、玉突き、高麗焼きの購入等に余念がない。
梅法学博士死去 同上
法学博士梅謙次郎氏は25日逝去した。
解説:梅謙次郎は民法の父と呼ばれており、韓国に招かれて法整備を行った。
内地新聞押収 25日釜山特派員発
25日朝着の朝日他13種の新聞が桟橋にて押収された。
朝鮮の殖産事業 某朝鮮通談
水利の供給
河川は多いが水面が深く、水を引き上げて農耕に用いる為には器械の力が必要であるが、資力に乏しい韓人の到底かなうことではない。故に河川の改修をするか或いは貯水池を諸所に設け、水利の供給地を作ることが必要である。
我が移民
我が東洋柘植会社も移民の奨励を図る必要があるが、移民に対する土地の貸与等も相当の制限があると共に韓人所有の土地を購買すれば、その生産を奪う恐れがある為、従来の官有地である荒れ地を耕作しなければならず、その為には水利の供給が必要で、水利事業の発展が必要である。
8月27日
李学相辞表 25日京城特派員発
李学相は、病気の為に日本行きを躊躇しているが、その病気は非常に疑わしい。確かに時局問題に係ることを不愉快に思うことが原因と思われるので、遂に辞表を提出したとの説がある。未だ秘密とされている様であるが、彼の平生より察すれば事実と思われる。閣員は、今も内閣に留まり、協議をしている。発表後の諸般の整理に関する件を協議をしている外、李学相の辞表問題及び日本水害見舞いの派遣使の後任等について苦心しているかも知れない。
韓国学生とキリスト教 同上
学生のキリスト教青年会に入る者が最近特に増加している。何れも時局解決の結果、日本の支配を受けることを不快とする偽慷慨家である。
李完用氏の旅行準備 同上
李総理は、昨今頻りに、永久的旅行の準備に忙しく、日本に行く決心かも知れない。
8月28日
合併内容細目 27日京城特派員発
韓国合併批准條約文は、韓国の主権を完全に日本天皇陛下に譲り渡す旨を表したに留まる極めて簡単なものであり、その細目の条件は次のとおりである。
第1 韓国皇室を王族として別に制度を設ける。
第2 現皇帝を李王と称し、太皇帝を李太王と称す。そして日本宮廷に於ける順位は皇太子の次に列す。
解説:現皇帝とは純宗 太皇帝とは純宗の父 高宗である。
第3 英親王を王世嗣(せいし)と称する。李載冕即ち完興君、義和宮は侯爵とし、日本親王の次に置き、その他の現皇族は臣籍に列せられて、朝鮮華族令によって、それぞれ綬爵される。
解説;英親王とは、日本に留学中の韓国皇太子李 垠である。世嗣とは後継ぎで、文芸
春秋に連載中の「李王家の縁談(林真理子)」の主人公である。
李載冕(りさいべん)は太皇帝高宗の兄
義和宮は高宗の第5子
第4 元老、大臣は朝鮮華族に列し、同時に御下賜金がある筈
第5 中枢院を拡張し、元老、大臣をこの議員とする。
第6 両班、儒生の主なる者には、それぞれ恩典を付す。
解説:両班とは韓国の貴族階級、儒生とは儒学を学ぶ者
第7 地方に参事を置き、地方の有力者を網羅して、地方行政上の一種の諮詢(しじゅん)機関とする。
解説:諮詢機関とは意見を求める機関
第8 信教の自由は、これを認める。
第9 庶民に対しては、来年度諸税の五分の一を免除する。
第10 慈恵病院を各道に設ける。
解説:慈恵とは慈愛の心で恵意味であり、貧者でも受診できる病院と思われる。
第11 国庫より、新たに千七百万円を支出し、これを全国に配布し、主として殖産及び教育事業に充てる。
第12 関税は、当分改正せず。
第13 領事裁判権は、これを撤去する。
合併発表期 26日京城特派員発
日韓合併條約は、29日午前10時に発表と確定した。
一進会解散 同上
一進会は、合併條約の発表と同時に解散する事に、会長李容九と宋乗畯の間で意見が一致し、先日来、準備中である。又大韓協会も朝から幹部会議を開き、これまた同日解散する模様である。
朝鮮政務変更 同上
総督府官制は、29日條約発表と同時に公布するが、他の政務機関の改廃は、漸次、その実情に照らして変更するので、約1か月を要すると思われる。
寺内統監の苦言 同上
26日午後4時半、統監邸に各新聞記者を集め、先ず山縣副統監が時局問題に関して、その経過を説き、終わって統監は厳粛な調子で、次いでながら世界を指導する諸君に同意を求めたい事があると次の様に述べた。
新聞雑誌の議論が、往々にして軽率に流れ、韓皇室を蔑視し、国民を奴隷視する様な字句があるが、この様な事は、平素から慎むべき事である。特に時局解決後の将来は、一層注意し、濫りにその功に傲り、彼我ともに、隔意を生じ、衝突を来す様な事は最も避けなければならず、もう少し慎重な態度が必要である。特に今回のように韓皇帝が親しく統治の全権を日本陛下に譲与され、韓国民をして世界の他の国民と同様の幸福を享受させ給う御心になられた上は、日本陛下は無論、聖慮をここに置かれるに相違なく、我ら国民もまた、陛下の聖意を体し、常に先進国民の態度を持って、韓国民を扶エキ指導し、その福利を増進させる義務があると考える。この決心を堅く心に置かなければ、遂に我が政策を誤り、国運の妨害になるに違いない。これは一人余が統監である故に言うのではなく、今後職にある者は、必ず同様である。
この様に記者の同意を求められ、終わって立食の饗応があった。(一部抜粋)
8月29日
最後の謁見 27日京城特派員発
統監は29日條約を発表後、参内し、最後の謁見を行う予定である。
韓国側各政庁 同上
発表後も尚、若干日数は、残務整理の為に残置すると言われている。名称のみ変更すると思われる。
28日の京城 同上
28日も平穏であり、特に宮中は何らの異常もなく、昌徳宮、徳壽宮とも至極寂寥であった。市中に時々降雨があり、一層寂しそうであった。鉄道沿線には投石の悪戯をする者が多くなりだし、その筋の警戒が厳重となった。
本日の寺内統監 内国電報28日
寺内統監は、明日29日合邦條約発表後、直ちに昌徳宮、徳寿宮に於いて、李王、李太王両殿下に謁見し、ご挨拶を申し、更に統監官邸に於いて、領事団の祝辞を受け、大久保軍司令官、山縣副統監 、有吉総務長官以下主要高等官に一場の訓示を行い、各道全てに陛下のお言葉を伝達し、新勅令の規定により、各官庁の部署執務の方針を指示する予定と聞いている。
韓太子の待遇 同上
40年11月、初めて我が国に来航後、宮中より特別の待遇を受けている韓太子殿下は、29日より皇太子の尊号に代えて、李王世嗣(せいし)の称号を使用することになったので、自然、我が宮中及び政府からの待遇上にも変化がある。宮中に於ける席次は無論、住居の護衛に我が東宮殿下と等しい近衛兵を用いる様なことは無くなり、御養育係長ヲ始め、各御養掛も置かず、従来日韓で均等に負担していた経費も多分李王一家の負担に改められるかも知れない。
韓国の製塩 (浜口長官の談)
韓国に於ける製塩は、石炭燃料による製法を採っており、その価格も非常に高く、百斤一円二三十銭乃至一円五十銭になる場所もある。しかしこれを天日製法によって製造する時は、製造費は僅かに二十四五銭に留まり、低価格の塩を供給できるので、政府は、官製でこの製法により生産する事とし、五か年計画で二千五百町歩の塩田を開く事としている。
8月30日
祝賀会禁止 28日京城特派員発
明石警務総長は、本日13道に対し、明日、合併を発表しても祝賀会を開かない様に、禁止命令を出した。
李王告別辞
朕は徳が薄いにも拘らず、大業を継承し、美徳について言及し、今日に至る迄、政治を改革する政令の実現に向けて試行錯誤してきた。しかし現在に至る迄、体力が衰えたわけではないが、積年の疲れで、遂に病となってしまった。そして疲弊が極限となった日々を過ごしており、挽回する希望が持てない。晝夜、憂虞しているが、善後策を思いつかないまま、改革に着手するも、事態は益々悪くなり、最悪の状況に至った事を、自ら認めざるを得なくなった。寧ろ大任を人に託し、完全なる方法で革新の為の改革案を作成させるしかない。
それ故、朕はここに、悩みながらも深く考え、自ら、明確に決断し、韓国の統治権を親しく、信頼し交流してきた隣国の日本皇帝陛下に譲与し、外に東洋の平和を確固にし、内に、全国に住む国民の生活を守りたいと思う。汝ら大小臣民は、国情と時期をよく考えて、思い悩むことなく、自分の仕事に励み、日本帝国の進歩した新しい政治に従い、幸福を享受せよ。朕の今日の言動は、汝ら国民を忘れたからではない。唯汝ら国民を良い国民にしたいが為である。汝ら国民は十分に朕の意を体せよ。
隆熙四年8月29日
御名御璽
解説:日本国天皇の韓国併合詔書に比べ、この李王告別辞は難解である。またこの告別辞を作り上げた韓国皇帝純宗とその諸大臣の胸中は察して余りあるものがあり、極めて重い文章である。その為、本文を掲載する他に、誤訳を恐れず、敢えて現代語訳に挑戦した。
今回の翻訳に使用した用語の意味は以下のとおりで、これらはWebから引用した。
菲徳(ひとく)徳が薄いこと。また、自分の徳をへりくだっていう語。
懿徳(いとく)りっぱな徳。美徳
丞 かたわらから両手をそえて助ける
用力 力を込める,力を出す.
由来 物事がそれを起源とするところ。 また、物事が今までたどってきた経過。来歴。由緒。いわれ。
積弱 長い間につみ重なった、体の衰弱。多年の衰弱。
痾(あ)とは。病気。特に、こじれて長引く病気。
支離(しり)分かれ離れること。ばらばらになること。
奏す 皇・上皇・法皇に 申し上げる。奏上する。
瞿然(くぜん)驚いて見るさま。驚いて顔色を変えるさま。
修交(しゅうこう)親しく交わること。特に、国家と国家とが親しく交流すること
爾とは。相手を卑しめていう。貴様。おのれ
煩憂(はんゆう) あれこれ思い悩んでうれえること。 非常に心配すること
有衆 国民のこと
救治(きゅうじ)悪いところをなおして、 もとのよい状態にすること。
韓国併合詔書
朕は、東洋の平和を永遠に維持し、帝国の安全を将来も保証することが必要であると考え、又常に韓国が騒乱の淵源であることに鑑み、先に朕の政府に、韓国政府と協定させて、韓国を帝国の保護の下に置き、以って騒乱を途絶し、平和を確保させることを期した。
それ以後、時を経ること4年有余、その間、朕の政府は鋭意、韓国政治の改善に努め、その成績も亦、見るべきものがあった。しかし韓国の現在の制度は、未だ治安の維持を全うするに足らず、不安に思う気持ちが常に国内に充満し、国民はその対策に安心していない。公共の安寧を維持し、民衆の福利を増進させる為には、現在の制度を革新することは、決して避けてはいけない、明白なことと考えるに至った。
朕は、韓国皇帝陛下と共に、この事態に鑑み、韓国を挙げて、日本帝国に併合し、以って時勢の要求に応じるのは、止むを得ないことと考え、ここに韓国を永久に帝国に編入することとした。
韓国皇帝陛下及びその皇室各員は、併合の後であっても、相当の優遇を受けるであろうし、民衆は、直接、朕の慰めを受け、その幸福を増進するであろう。又産業及び貿易は、平穏の下で顕著な発達をするようになるであろう。そして東洋の平和は、これによって、いよいよ、その基礎を強固にするであろうことは、朕が信じて疑わない所である。
朕は、特に朝鮮総督を置き、これに依って、朕の命を承けて、陸海軍を統率し、諸般の政務を総括させる。全ての役人は、良く朕の意を体して事を処理し、又上手く優先順序をつけて施策を行い、そして国民が永く太平の喜びを味わえる様に心掛けよ。
御名御璽
明治43年8月29日
漢字の意味
疑懼(ぎく)うたがって不安に思うこと。
現制(げんせい)現在行われている制度
堵(と) 塞ぐ 妨害する
瞭然(りょうぜん)とは はっきりしていて疑いのないさま。明白であるさま。
綏撫(すいぶ)安らかになるようにしずめおさめること。慰めいたわること。
治平(ちへい)世の中が治まっていて平穏なこと。また、そのさま。太平。
鞏固(きょうこ)強くしっかりして、ゆるがないさま。
百官(ひゃっかん)数多くの役人
有司(ゆうし) つかさびと 役人
衆庶(しゅうしょ)一般の人々。庶民。
新たなる朝鮮 同上
統監は、29日午前10時半、閔前宮相を官邸に招き、陛下の詔勅、その他勅令を説き示した。尚29日新橋発で、侍従が渡来するので、その到着を待って、李王以下の冊封式を行う予定である。これは陛下の特別な恩召しである。
隆熙の年号は29日を以って完全に消滅し、鉄道局は真っ先に朝鮮を名乗る。
発表当日の京城 同上
新聞紙の号外が煽る様に、時局解決が一斉に知れ渡った。憲兵隊長は時を移さず、各偵察隊を出動させ、現在状況を視察中である。今までは平穏である。鐘路を中心に大通りは、20歩毎に警官が歩哨の任に就いている。
8月31日
警務総監の慰問 29日京城特派員発
明石警務総監は、條約発表後、各元老、大臣等に特使を派し、その安否、動静を問い、且もし警備の必要があれば、直ちにこれに応じるつもりである旨を伝えた。
京城平穏 同上
市中を巡回してみると、南部方面は平静で以前と同じである。両班の2分の1強を網羅する北部の屯土全部は、早くから合邦となることを知っていたのか、非常に静穏である。唯西大門の内外に数名の武装巡査を配置し、往来を厳重に監視し、市中至る所で騎馬憲兵が駆ける。警察署、同派出所、及び要所々には、その筋よりの勅諭を張り出している。群衆は評し会い、語り合っているが、何れも満足そうである。29日大赦された者を注意しているが,これも又平穏であり、この分では決して暴動など起こらないであろうとの見込みで一致した
連合祝賀会中止 29日木浦特派員発
日韓合併問題解決に付き、連合の大祝賀会を開く予定であったが、その筋の内意により中止した。
赦免囚徒50名 同上
大赦令により木浦監獄支所収監中の囚人50名が赦免される予定で、現在、被服及び旅費の支給を斡旋中である。
9月1日
外人の裁判と関税 30日京城特派員発
条約施行と共に、外国人に対する裁判並びに関税その他に関し、次の様に決定された。
治外法権は当然撤去されるが、懸案中の事件は、なお領事裁判権を適用する。
司法事務は、原則として総督府の定める法律による予定であるが、朝鮮人と文明の程度が異なる外国人に対して、なるべく日本の法律を適用する。
対外貿易は、開港場に限られるのを通例とする。日本と韓国と外国との条約は、開港場以外の沿海貿易を許しているので、政府は列国の既得権を尊重し、向こう10年間はこれを認めることとする。
関税、租税は、当分従来の税率を継続する予定であるが、この当分の期間は、沿海貿易と同様10年間とする。
李王冊封式 31日京城特派員発
李王冊立の聖旨を奉持した稲葉侍従は、31日夜統監邸に入った。
1日正副統監、軍司令官等と参列、昌徳宮に於いて、李王の冊封式を挙行する予定である。
9月2日
李王冊封式 1日京城特派員発
李王殿下の冊封式を挙行する為、寺内統監は、1日午後10時40分、厳重な警護の下に参内した。
やがて稲葉勅使は、騎兵80騎に警護され、外波武官、高礼式課長、藤波通訳官と共に敦化門(とんかもん)より昌徳宮仁政殿に入った。ここには先着の寺内統監、尹(いん)元侍従院卿、閔(びん)元宮相、小宮参与菅が、李王殿下と共に出迎え、そして勅使は、在来の玉座に厳かに着席した。李王殿下は、統監に誘われて、対席され、詔勅の写しを先ず手渡された後、陛下よりの御贈品を賜り、合わせて有難き御伝言を賜り、ここに冊封式は目出度く終了した。11時25分勅使は統監邸に帰還した。
当日の挙式はこの様に簡単であったが、なんとなく威厳が備わっており、並み居る面々は思わず首をうなだれたと語った。
頑固派の断髪 同上
京城は俄かに断髪が盛んにおこなわれる。しかも平素頑固派と思われていた者が先鞭をつけたのは奇妙であった。
解説:当時の韓国では、結婚に際し、男子は、頭のてっぺんを約10㎝位円形に剃り、そこに髪を結いあげた。日本で独身者はチョンガ―と言われているが、これは朝鮮語からきており、結婚前の男子は、髪を後ろに束ねており、これを総角(チョンガー)と呼んだ。
9月3日
恩賜公債喜憂 1日京城特派員発
西北の民は(朝鮮の民は)、両班に公債を授与されるとの報道を聞き、憤慨している。いよいよ授与の場合には、これら不平の民と恩典に漏れた両班達が気脈を通じて、何事か図り事をするのではないかと危ぶまれている。要するに今の様な静謐は、大勢の推移は止むを得ないものと諦めているのが主因であるが、一つはこの恩賜金に目がくれ、あれこれ物議を起こすと折角の恩賜に漏れる恐れがあるとの感を抱いたのもまた大きな原因である。従って静穏は必ずしも安心できるとは限らないと消息通が語った。
朝鮮特別会計 2日京城特派員発
併合後の朝鮮を如何に経営すべきか議論の余地があるが、現状では、完全に本国の保護を離れて独立会計とすることができないのは無論である。来年度からは従来の補助額に3,4万円の削減を行い、同時に行政の統一、官制の改正等によって経費の節約を図り、又一方では生産の道を講じる。この様にして来年度より特別会計とする事に決定している。
9月4日
又憤死 2日京城特派員発
江原道通川郡主宋シュントは、又々憤慨の極で憤死した。平安北道定州にも学生3名憤死したとの説がるが真偽は尚不明である。
行政改革の結果 3日京城特派員発
既電の行政改革の結果は、中央の機関を縮小し、官吏の員数を4分の3乃至3分の2
を淘汰する必要がある。一方、地方の機関を大拡張し、従来より約2倍以上増員する必要があるので、ここに転用され、実際の減員はさしたる事は無い。但し地方官は多く判任以下が適当であるので、奏任以上で中央に居る者の内、無用と思われる者は内地に帰還する必要がある。
9月5日
今後の朝鮮鉄道 内国電報 4日発
朝鮮鉄道は、遠うからずして施設、経営の一切の監督権を鉄道院より新総督府に引渡すはずであるが(但し連絡上の必要より、行政権のみは鉄道院に保留して置くと言われている)、その暁には新線敷設の計画されているもののみ、本年度以降11か年計画の下に、現に着手中である湖南と京元鉄道両線も竣工期限を繰上げることになると思われる。
解説:湖南と京元鉄道の工事については、それぞれの地に進出した日本人が、日本の国会に働きかける激しい競争をしていた。明治42年10月の次の記事にその様子が見られるが結局、湖南,京元とも同時に着工することになった。
10月8日湖南京元鉄道競争、10月11日京元鉄道、10月25日韓国鉄道運動
朝鮮工業の将来 岡工務局長談
現在、朝鮮に於ける工業は、殆ど絶無と云うことができる。只一部に於いて煉瓦製造業に見るべきものがあるのみ。そして将来はどうかと言うと今俄かに断定しがたいが、同地は綿花栽培の成績が非常に良好なので、先ず第一に勃興するのは紡績会社と思われる。しかし先ず同地に於ける事業は、当分の間は土木の時代と思われる。即ち各都市に於ける鉄道又は都市を連結する軽便鉄道、その他道路改修、橋梁の架設修繕等、交通機関の整備を図らなければ、如何に工業が勃興してもこれら製品を各地に供給する途がないので、その発展を望むことはできない。
解説:朝鮮の交通インフラの全ては、この様にして何も無い所に、日本人の手によって整備されていった。
9月6日
排日韓人妄動 5日京城特派員発
ある筋に達した情報によれば、ウラジオ在住の朝鮮人は、露国式最新の銃器500丁を買い入れ、豆満江を渡り、京城に入ろうと企てたが、露国官憲の知る所となり、ことごとくこれを焼き捨て、その根拠地一帯は、2個中隊の歩兵を以って、警戒包囲し妄動を許さず。(一部抜粋)
9月7日
在韓清商の決議 5日京城特派員発
当地に在住する清国商人中の主なる者は、朝鮮が日本の統治を受けるに至った上は、最早日本人と競争して商業を営むべきではなく、何とか適当な措置を取らなければならない。ともかく、総領事にこれを訴える事を決議した。万一上手くいかなければ、潔く自ら引退すると付帯の決議をも行った。
解説:イザベラ・バードの「朝鮮紀行」によれば、「明らかに清国人は商売に於いては日本人に大きく水をあけている。」(47p)
矢張り静穏 同上
暴動、憤死が盛んに地方で発生している様に伝える者がいるが、全く根拠がない。3日までの各道からの報告では、依然として平穏であり、やや悪戯をしようとする者や一種の偏狭により自暴自棄となる者がいるがさしたる事は無い。
総督府官制案 6日京城特派員発
総督府官制案の発表は、意外に早いと思われるが
総督府は総督の下に行政長官が一般の行政を統括し、内政、財政、法制の三部を置くことは必然であるが、殖産の一部を独立させるかどうかは最も注目されている。寺内統監の論告文を見ても、産業政策には最も重きを置いている。故に多分殖産部は、他の三部と同じく併設されると思われる。(一部抜粋)
9月8日
同盟休校扇動 6日京城特派員発
何者の悪戯か、光化門局の消印で、各官公立学校生徒宛てに、不遜な檄文が送られた。大韓国は滅んだ。汝らは日本人の統治に甘んずるが如きは、男子の本分にあらず、潔く同盟休校をせよと扇動したので、官立師範学校の年少生徒に早くも動揺を来し、他校生徒にも及ぼそうとする形跡があり、その筋では、非常警戒を行うと共に、師範学校生徒20余名を検挙し、厳重に警戒中である。
地方官制案 7日京城特派員発
やがて発布されると思われる地方官制では、京城に府を置いて府尹と称し、現在の13道に道長官、その下に参与官を置き、各郡には以前と同名の郡守を置いて地方行政の責任者とさせる筈である。
解説:朝鮮は13道となっていたが、日本人居住地を中心とした市街地を府とした。1914年の府制では、朝鮮全土で12の府が設けられた。府の長官を府尹と称した。
総督以下の顔触 同上
統監は総督に、山縣副統監は行政長官に、石塚氏は法政長官に、木内氏は内部長官に、(もし勅参部を置けば兼任)宇佐美氏は京城府尹になると思われる。
9月9日
石塚参与官は、9日中山書記を従えて、総督府官制案及び行政議案を携えて東上する。東京着の上は、直ちに閣議に付され、次いで枢密院に諮詢(しじゅん)される予定
多少の議論は免れ難いが、統監が熱心に現状を参酌した案なので、その眼目を覆す様なことはあってはならず、予定の通り決定され、直ちに発表される事が期待されている。
統監とタイムス記者 同上
ロンドンタイムス記者ブラムス氏は、7日統監と午餐を共にし、関税等について質問した。
統監は、日本政府が関税率を10年変更しないのは、その間に朝鮮の状態を改良し、日本と同様の程度に進歩させる趣旨に出たもので、その後の事は現在、明言し難いが、既得権利は永久に尊重し、その他通商上の事も亦、日本同様に保護奨励するのは当然であり、それだけはここに断言を憚らないと答えた。(一部抜粋)
9月10日
李太王誕辰:8日京城特派員発
8日、李太王の誕生日に付き、李王は、朝から徳寿宮に行かれ、病中の父君と暫しお話をされ、正午、元各大臣、宮内府高等官等250余名と祝賀を受け、午餐の饗応があった。満足のご様子で昌徳宮にお帰りになった。
李太王妃も午後3時より李家1門、その他の夫人令嬢を集め、饗宴が行われた。
解説:李太王とは、先の皇帝であった高宗、李太王妃とは、その夫人厳妃で、住まいは徳寿宮である。
地方は矢張り平穏:同上
7日午後4時までに達した地方状況は、依然として平穏である。錦山郡守の憤死に対しては、嘲笑する者と賞揚する者とがいる。又沃川普通学校生徒45名は、同盟休校を企てたが、間もなく復校した。キリスト教徒の教唆によるものと思われる。尚某紙に書かれた7郡守の憤死は、跡形もない記事で、何れも生存しているとの通報があった。
9月11日
北韓に暴徒起こる 10日元山特派員発
平安北道陽徳郡(咸鏡南道に接する所)に暴徒約130名現れ、現在追撃中
一進会機関誌の希望 10日京城特派員発
一進会機関誌は、「新しき雨露を望む」と題して、甲午の変以来、国事に倒れた志士に対しては、先に韓国政府が贈位その他勲功の表彰が行われたが、遺族は全財産を没収されて、今は殆ど飢餓に泣きつつある。この財産返還の請願中に、遂に併合は成立した。願わくば陛下の御仁に依り、これら無辜の遺族の素志を全うさせられたいと論じ、人気を博している。
9月12日
一進会の内部 11日大連特派員発
10日一進会評議員白東秀、呉成龍外3名が突然その筋に捕らえられた。その理由は不明であるが、白は、予てより同会に徒党を作り、会長に対し脅迫がましい要求を行うことがあった。会員中には、合併は同会の主張に基づいたと自負している者が多いので、今後も、会内の悶着は絶えないと思われる。宋乗畯は、一進会の解散について煩悶中と思われる。
解説:宋乗畯は、一進会の会長で、併合後は日本政府から朝鮮貴族に列され、朝鮮総督府中枢院顧問になり、後に伯爵陞爵した。第2次大戦後、韓国は、宋秉畯親子の財産を、国家に還収する事を決めた。
山縣副統監東上 11日京城特派員発
山縣副統監は、急遽12日東上する事に決定し、昌徳宮、徳寿宮に告別を行った。用件は官制の説明及び諸般政務の打合せ等の為と思われる。
解説:昌徳宮は李王である純宗の住まい、徳寿宮はその父高宗の住まいである。
9月13日
山縣副統監 12日京城特派員発
山縣副統監は、12日朝出発し,東上した。この行動は、10日夜俄かに決定したのは事実であり、重要事項が発生したものと推測される。一説には官制案をあまりにも根本より覆したため、日本では、あれこれ議論多く、副統監が上京の必要を要するに至ったと言われている。しかし両班処分、皇室問題等官制以外の重大な案件もあるらしく、およそ1か月在京の予定の様である。
白東秀捕縛理由 同上
既電一進会評議員白東の捕縛事件は、やはり同会に金が入ったのを漏れ聞き、その配分を迫り、聞き入れない時は、会長李容九を刺殺すると脅迫した為であると判明した。
解説:前日の記事は一進会の内部の続報
9月14日
李王上京せず 12日京城特派員発
最近、又々李王が渡日する件についての声が高い。しかも王の希望であると言っているが、統監府側では、決してその様な事は無く、若し希望があるとしても、今の場合、なるべくこれを避けるつもりであると言っている。しかしながら、勅使に対し謝恩の使いさえ派遣しないのは不思議である。
政社解散 同上
2日、警務総監部は、一進会、朝鮮協会国民演説会、平和協会、国是遊説談、進歩党、政友会等10余種の代表者を呼び出し、政社の解散命令を明石総長より説示したため、何れも畏まって従い、退出した。
解説:明石総長とは、日露戦争当時対露謀略工作を行った明石元次郎大佐(後大将)である。
9月15日
解散した一進会 13日京城特派員発
一進会は解散と同時に、教育扶植を奨励し、今後朝鮮人が、日本人と同等のレベルに達したなら、参政権を与えられんこと陛下に懇願されたい旨の嘆願書を統監に提出した。
朝鮮憲兵隊の配置 内国電報(14日発)
朝鮮に於ける憲兵は、今回発表された憲兵条例に基づき、朝鮮の治安維持に関する警察及び軍事警察としての任務を果たすことになる。その配置は、従来の警察配備より拡張されたのは無論であるが、全国を13道として、これを13管区に分け、1管区毎に1憲兵隊を置き、そして分隊に分け、更に分遣所を設けている。大体において警察の配置と大差がないが、各隊の連絡上よりその配備を変更した場所もある。或いは警戒上、特に人員を増減した点もあると言われている。
9月16日
中枢院の内容 15日京城特派員発
総督の諮問機関である中枢院(名は未定)の官制は、総督府官制と同時に発表される予定であるが、その内容は、顧問、参議、復参議を合わせて6百余名である。顧問には、元中枢院の議長、顧問及び内閣員を任命する予定と聞いている。
宗教学術団体も解散 同上
政社と同じく宗教や学術等の名の下にある団体も、引続き解散させる為に、現在調査中であるが、24日頃終了すると思われる。
解説:9月14日の記事「政社解散」に政社の解散記事がある。
9月17日
平南鉄道開通式 16日鎮南浦特派員発
平南鉄道は、来月16日営業を開始し、翌17日開通式を挙行するので、当地市民は、韓人と連合して、大祝賀会を開く予定で、熱心に準備中である。
解説:平南鉄道は平壌と鎮南浦(港)を結んでいる。
宣教師大会 16日京城特派員発
16日より、開城で 開かれている宣教師大会では、信徒減少の善後策や今後の布教方針として、精神的教会が物質的教化を施すために、慈善病院の普及、付属学校の拡張、また排日の疑いのある者は断然排斥して日本政府の方針に悖らないようにする等の議案があり、彼らの苦心が察しられる。
9月18日
在外鮮人の妄動 17日京城特派員発
ハワイ在住の朝鮮人李徳と言う人物の主唱によって、滑稽にも米国政府に対し、合併が脅迫的に行われた事及び米政府が合併を承認しない事を哀願した書面を提出したと言われている。その概要に、内外同胞の福利の為に、あくまで独立を回復しなければならないこと及び日本の暴虐に対して4ヶ条の根も葉もない事を記した宣告書を付して、当地及び地方に配布した形跡がある。
耶蘇教信徒減少 同上
耶蘇教信徒は、併合後20万人の減少を見たが、これは非常に大きい数である。一家数名の信徒がいるものが、その家長が脱会すれば、当然、家族全員が脱会するので不思議な数ではない。これについて宣教師の間では、むしろ不健全分子の淘汰であるとして、将来を楽観している。
東拓移住規則 同上
東拓会社は、先月移住規則を設け、政府の許可を待っていたが、間もなく認可されそうである。その内容は、朝鮮経済の発展を図るため、人口の振り分けを行う目的で、単に内地人を移植するのみならず、朝鮮人をも稠密の地より希薄の地へ移住させ、農事の改良と土地の開発をしようとする為と言われている。
9月19日
同長官選擇難 18日京城特派員発
総督府の官制は、一両日中に枢議に上がると思われる。漏れ聞く所によれば、日本では多少の議論があった様であるが、寺内統監が、電報を以って固い決心を示した結果、一瀉千里の勢いを以って進捗したとの事で、内容は殆ど変更した所は無いとの事である。しかしその最も困難点は、例の道長官の選擇が困難な事である。副統監がわざわざ東上し、物色するが相変わらず適材を求め難いとの情報がある。
解説:当時朝鮮は13道に分かれていた。
朝鮮の農業 内国電報(18日発)
従来朝鮮との関係が最も深く、且現に同地の事業に従事している宗重望伯が、朝鮮の農業について、次の様に述べた。
日本と朝鮮との農業の相違は多々ある。例えば日本では、米作後、直ちに他の作物を植付し、施肥によって土壌が痩せる事を防ぎ、出来るだけ1年中、遊地としない様に努力する。しかし朝鮮では米作後、多くは降雨があり、氾濫を見るのが常である。その為、翌年までそのまま放置し、一田一作の法に依っている。日本の農民は、これらの事情に明らかでない為、米作後の氾濫を見て、到底農作に適しないものと考え、他に転業し、日本農民朝鮮不適の説が生まれるようになる。
解説:宋重望(そう しげもち)とは、元対馬藩主で伯爵 養子で迎えた宗 武志は元韓国皇帝高宗の王女徳恵姫と結婚したが精神病の為離婚している。対馬に「結婚奉祝記念碑」がある。
9月20日
李王家職制審議 19日京城特派員発
今後の李王家については、元宮内府の様な大袈裟な職制の必要性は無論ないが、さりとて150万円の歳費を自由にさせると、再び王家紊乱の弊害を生じると思われる。その為、適当な日本官吏にこれを監督させようと、現在、王家の職制について、審議中である。多分官制と同時に発表されると思われる。
朝鮮僧会議 同上
各道の主な寺僧130名が、去る13日から東大門外の某寺院に於いて会議中であったが、18日漸く大体の決議を行い、散会した。その主な目的は、布教者養成所を新設し、全道29カ所より1名宛ての生徒を選抜、養成することである。この経費を決め、役員を選定し、結局朝鮮仏教の衰退を回復して、元の様にしようとしている様である。
解説:朝鮮の階層は、上から順に両班、中人、常人、賤人があり、僧はキーセンと同じく賤人に属した。
9月21日
官吏淘汰と旧商工部 20日京城特派員発
予てから噂が高かった官吏の淘汰は、いよいよその期が熟した。旧商工部では、一部内地へ転任する者と罷免される者に対して、それぞれ準備を促した。同部は、現員の三分の一が就任することになっており、官報に発表するのはしばらく後になる様である。
暴徒等の檄文配布 同上
京畿道の加平を根拠地とする暴徒の首魁ゼウ起東は、併合反対の檄文を配布し、盛んに人心を惑わしている。
また安重根事件当時、何度か拘引された、頑固一篇の儒生、金東ヒツも激烈な檄文を配布している。昨今京城にまでも侵入した様で、昨日は、東大門付近に当該檄文を発見したので、現在その行方を捜索中である。
9月22日
道庁府庁新設地 21日京城特派員発
新官制では、観察府所在地に道庁を、各開港場及び枢要地には府庁が新設される予定である。府庁の新設地は、当分、京城、釜山、馬山、清津、城津、元山、仁川、鎮南浦、群山の十カ所である様である。
道府庁官吏と収税法 同上
新官制によれば、道庁には、長官、参与官、事務官を置き、府庁には、府尹、郡守、群書記を置く。道庁の事務官中の1名は司税主任とし、税金は、司税官の発した納税告知書により、面長に収税させ、金庫及び国税取扱所に収めさせることになっている。
9月23日
朝鮮総督府官制 内国電報(22日発)
朝鮮総督府の官制については、細部の点は未だ確定していないが、その動かさざる大綱は次の通りである。
▲内閣に隷属する 総督府を天皇陛下の直轄とし、内閣の指揮を受けない制度とする案は、寺内系よりの提議として、一時問題となった。しかし激しい議論の末、矢張り内閣の下に置くことに決定した。総督府と柘植局との関係は、恰も台湾総督と柘植局との関係の様に、直接に柘植局の指揮を受けないが、総理大臣は柘植局を通じて、朝鮮総督にその意向を伝える事ができる。
▲外務部廃止 外交の権限は、本国政府に収められるべきであり、其の為、現外務部は当然廃止される。
▲鉄道の管理 鉄道の管理を満鉄に委任するとの案は実施されず、総督府内に鉄道管理の官制を設け、大屋権平氏が長官に任じられる予定である。
▲会計補助費 会計補助費については、一方で新設備の増加があり、一方には節約すべき品目も少なからずあるが、今後独立する韓国の会計は、矢張り従来の千百万円を越さない金額の補助を受ける予定である。
解説:台湾総督府は、明治29年より10年間は日本政府の補助を受けたが、それ以降独立財政が日本の敗戦まで続いた。一方朝鮮総督府は、日本の敗戦まで補助を受け続けた。
9月24日
日韓併合講演 23日京城特派員発
その筋では、併合の詔勅、統監の論告等を一般に周知させる為に、大々的な講演会を設けているが、その結果が良好である為、更に漢文のものを漏れなく配布して、一層、講演に努力する意向である。
韓人結婚増加 同上
昨今、朝鮮人間に結婚が無暗に流行している。これは、間もなく日本の法律により、年齢その他の制限を受けるのではないかとの懸念からの様である。
9月27日
総督府官制可決 内国電報((26日発)
26日午前10時より、宮中東溜場に於いて、臨時枢密院会議を開き、山縣)、東久世正副議長以下各顧問官が登院、内閣より桂首相以下各大臣(小村外相欠席)並びに山縣副統監、若槻大蔵次官等が列席、聖上が臨御の上、朝鮮総督府の所官制並びに総督府職員特別任用令及び各付帯案件を付議し、各原案を可決して、12時2分に散会した。
9月28日
暴徒鎮圧の謝意 26日京城特派員発
暴徒放棄が最も多かった江原道は、昨今、全く沈静化し、何らの危険も感じられなくなった。その為、地方民は、統監及び憲兵司令官の恩徳であるとして、上京し、謝意を述べようとして計画しているが、同地官憲では、これは職責上当然の事として、現在取り止めている。
統監府要路顔触 27日京城特派員発
総督府の内容を漏れ聞くに、総督は寺内氏、行政長官は山縣氏、総務部長官は有吉氏であり、外事局、人事局、会計局の3局を担当する。内部部長官は宇佐美氏であり、地方局、外務局を担当し、度支部長官は荒井氏であり、司税局、主計局を担当し、司法長官は倉富氏であり、民事課、刑事局、庶務課の3局を担当することになるようである。
暴徒首魁改悛 同上
84名の部下を率いて、各地を荒らした暴徒の一首魁(元自衛隊)は、合併に関する統監の諭告を読んで感ずるところがあり、この程東大門外警察に自首した。その為、厚く将来を戒めて解放した。なお全羅南道で使用した特殊人夫(帰順した暴徒)2百名は、大赦令と共に解放したが、何れも聖恩の厚さに感泣して、各自得た金を持って、それぞれ帰郷した。
区裁判所減廃 同上
現在、統監府裁判所は、高等法院1、控訴審3、地方裁判所8、区裁判所103(内開庁しているもの82)であるが、新官制の発布と共に区裁判所は68に削減される予定である。これは交通機関の整備と共に隣接するものに委任しても不便でない為である。
9月29日
総督府特別会計布告 28日京城特派員発
総督府会計は、台湾、樺太と同様に特別会計とする事に決定した。1日、勅令で特別会計法及び規則を発布し、総督府官制と共に、即日施行の予定である。
新予算と官吏の手当 同上
新予算によれば、高等官は4割、判任間は6割の手当を支給される事になっている。
9月30日
東拓移住規則 29日京城特派員発
29日、統監府令によって東拓移住規則が公表された。要は、移住民とは、朝鮮外より朝鮮に、或いは朝鮮内の甲より乙地に移住し、会社と移住契約を締結する者である。団体もしくは単独で移住し、土地所有権の譲渡を受ける者を甲種、移民同様にて小作を行う者を乙種移民と言う(団体とは10戸以上)。移住民は家族を携帯する事が必要であり、会社は、毎年、移住民地及び収容できる戸数を示し、公告すると言っている。
この規則は、総則の他に、土地貸付、移住費貸付、移住契約雑則等5章44条に亘る膨大なものである。
元大韓協会の紛議 同上
元大韓協会にも紛争が起こった。交付金を幹部が誤魔化し、交付された事さえ秘していたので、同会員一同の激怒を招き、漢董準(かんこうじゅん)を総代に、44名が連署して、金夏鎮(きんかちん)外4名の幹部を相手取り、告訴を提起した。相当の処置を与えなければ、会員の今後の挙動は不穏の傾向がある。
釜山駅落成 29日釜山特派員発
釜山駅の落成式は、11月5日執行の予定であり、後藤総裁の臨場を申請中である。
10月1日
北西学会は平穏 29日北京特派員発
北西学会は、交付金1万5千円の全部を貯金し、その利子で学校を経営することにした。その為、会員の中で、苦情を言う者が全くいない。
退官者の哀訴 同上
劉ギホウ外退官者742名が連署をして、長年勤務したが、今は老衰し、役にたたず、しかも生活難の苦境にあるので、聖恩に浴したいとの嘆願書を統監府に提出した。
財務部長に対する訓諭 同上
統監は、29日、各道財務部長となるべき在京員を集め、「新官制が1日施行される。しかも今徴税期である。各員は速やかに赴任して、財務の措置に遺漏が無いようにせよ。新管制は地方の行政機関を統一した結果、道庁の下に属し、全ての地方財務に関するものを管轄することになった。良く地方の沿革と人情、風俗に適合する施政を行わなければならない」と訓諭した。
元留学生の陰謀 同上
在外朝鮮人に伝え、事を図る為に、元太皇帝の詔勅を得ようとする者が居ることは、既に報道した。その筋が、苦心の結果、平壌生まれの朴露天(日本留学生)、咸鏡道生まれの崔某を、その陰謀者と認め捕縛した。その真偽は不明であるが、危険の文字がある詔勅に、既に、伊藤統監時代に隠匿された御璽{勅語の印}の印字が押されたものを発見した。なおその他関係者を厳重に捜索中
10月2日
昨今の京城 1日京城特派員発
夜になり、各部の送別会が一斉に開かれた。料理屋は久し振りに活況を呈している。今日は、小春日和の天気が麗しく、南山の姿態は昔のままであるが、統監旗は撤去され、初めて総督府が形を現し、新領土に於ける主要な官庁は完全に整備された。郵便局は記念葉書を発行し、市中は真に泰平の姿である。
朝鮮官制と世評 内国電報(1日発)
武富時敏氏談 柘植行政の任に当たるべき総督は、一般文官中より任命するのが当然の事であるにも拘わらず、朝鮮総督の任用資格範囲を陸海軍武官に限定したのは不当である。朝鮮総督は、委任された範囲内に於ける陸海軍を統率する事になるので、武官総督が必要であると唱えている。しかしこれは実に事の本末軽重を誤れるものであり、今後の朝鮮は、これを開発する柘植行政を以って主とする。総督の任用方針の基礎をその主たる柘植行政の上に置かず、これを従たる軍備の上に置き、武断万能を謳歌させようとするが如きは武断政治の余弊である。これを要するに朝鮮総督は原則として文官を以って任用し、文武両道を統括させるのが至当の事である。(一部抜粋)
解説:武富時敏は佐賀県出身の政治家で、第2次大熊内閣で逓信大臣、大蔵大臣をしている。
10月3日
新政と今後の政治 内国電報(2日発)
加藤増雄談
△中枢院の職務 朝鮮の元老、大臣等を以って中枢院を組織し、諮問機関としたが、何らの権限も与えなくて,僅かに諮問機関の名を残して、その実が無ければ、中枢院
は、隠居所であることを免れないであろう。
△統治の精神 朝鮮に於ける政治は、元来、京城限りであり、京城の外に於いては、地方に政治なしと言っても全く過言でない観があった。その為、一般人民は、両班や酷吏等の虐政や横暴を免れる為に、如何にして己の生命財産を維持するかに苦心しており、向上進歩の精神が無い。これを律するには、人民の生命財産を安全、確実に維持し、更に進んでは利殖の途を図り、生産の発達に対しては、我が官憲は極力、保護、努力を加えることを教示すると共に、これを彼らの意思に徹底させるにある。その方法として地方産業の奨励を図ると同時に、成績優秀な者に対して、相当な褒賞を与えるのも一策である。元来が怜悧な人民であるので、このため生命財産の安全を会得し、更に競って各々の利殖の途を図り、生業に勉励する様になるであろう。
解説:一部抜粋 加藤増雄は、外交官であり、明治36年から41年の間韓国の顧問をしていた。
朝鮮人の道長官
道長官に任じられた朝鮮人は6名であり、慶尚北道、黄海道、全羅北道、忠清南道、江原道、咸鏡南道の各道長官に任命されている。
解説:一部抜粋
朝鮮には13道があり、その内6道に朝鮮人が任命されている。何れも改革派の人物で、江原道長官の李圭完は、27,8年頃李允用の下で警視総監であった頃、王妃と皇帝(李太王)を廃立させる陰謀を企て失敗し、朴泳孝と共に日本に亡命していた。
10月4日
昨今の徳寿宮 3日京城特派員発
昨今、朝鮮人の間で、徳寿宮に関する噂が立てられており、その中には、既に李太王が日本に連れていかれた等の噂をする者も居る。何故かは判然としないが、近ごろ、同宮へ朝鮮人の往来が頻繁であり、3日も永宣君が志功伺候していた。何事が隠れた事情があるらしく、或いは密勅問題に関係あるのではと思われる。
解説:永宣君とは、李太王の甥である。密勅問題とは、10月1日「元留学生の陰謀」の件と思われる。
国民党政務調査委員に対し、柘植局江木部長答弁は次のとおり
△朝鮮と東拓 朝鮮の移住は、東拓が専らこれに当っているが、これら移住民は、一戸に付き、田畑2町歩以内、資金2百円以内を貸付し、25か年月賦で償還するようにしている。そして農民が耕作する予定の土地は、元韓国政府より引き継いだ駅屯土及び会社が新たに買収したものであり、何れも作物は米麦である。
今回移住する予定の土地は、黄海道砂里院、忠清南道江景、全羅南道営山浦が主たる場所である。
解説:駅屯土とは、李朝時代に旅をする際に利用された宿駅が置かれた国有の土地である。
朝鮮貴族員数 4日京城特派員発
受爵者は、当初30名の予定であったが、再調査の結果、6名増えた。伯爵は李完用のみで、他は子爵、男爵のようである。
解説:李完用は、1907年、伊藤博文統監の時、内閣総理大臣となっている。
一進会残務落着 同上
一進会の財産処分は、3日、漸く解決し、地方代表者百余名は、満足して思い思いに帰郷した。
朝鮮官吏下賜金 同上
時局解決の前後に免官や廃官となる朝鮮人に対し、親任官に1万円、勅任官に3千円、奏任官にⅠ千円の御下賜金があったので、いずれも喜色があった。
10月6日
道長官会議 5日京城特派員発
愈々、本日5日、道長官会議が開かれた。政務総監以下各部長が参列し、総督は約2時間に亘り訓示を行い、次に大久保大将が暴徒討伐の報告を行い、午餐後、各部の打合せが行われた。
解説:朝鮮には13道があるが、その内6道の長官は朝鮮人である。
恩賜公債辞令交付 同上
既電の様に、朝鮮の文武官に対し、親任官1万円、勅任官3千円、奏任官1千円、判任官3百円の恩賜公債下賜の辞令を交付した。多年の勤労の功により、特に思し召しになったものであり、大切に保管し、紛失、汚損又は譲与、質入れ等を厳禁する旨の注意が行われた。公債証券は、証券の作成に2か月を要する為に、その後、本辞令と引き換えられる。
解説:明治憲法下の官吏の階級について
親任官:各省の大臣、軍の大将等で現行制度の認証官に類似
勅任官:各省の次官、軍の中将、少将等で現行制度の指定職に類似
奏任官:高等文官試験に合格した役人、軍の大佐から少尉
判任官:官吏 軍の下士官
10月7日
生活哀願 5日京城特派員発
乙未(おつぴ)28年の事変に関係した鄭炳朝(ていへいちょう)、鄭範朝(ていはんちょう)等40名は、当時の功により、何とか生活に便宜を与えられたき旨の請願書を提出する為、作成中である。
解説:乙未事変とは、当時の皇帝高宗の閔妃が、日ちんなん本軍によって殺害された事件で、朝鮮人も加わっていた。この日本軍に協力した人たちが嘆願書を書いている。この事変は、日本に於ける忠臣蔵と同様に、韓国国民の心を掴み、反日感情を煽る原因となっている。
農業視察団 5日木浦特派員発
東拓主任農業視察団は、林理事が引率し、5日来着した。視察団は、官民多数の歓迎を受け、府庁で茶菓の饗応を受けた後、市中を見学し、定めの旅館に入った。当地の各部署は調査書類を印刷し、一同に配布した。今夜民団が歓迎会を開く。
解説:民団とは、木浦に在住する日本人会
10月9日
受爵の反響(不平の声と自殺未遂) 7日京城特派員発
貴族の受爵は、事大根性の朝鮮人として、多大な不平があるようで、ここかしこに密議が行われている様である。今朝、趙南世(ちょうなんせい)(過日、拘引された)の父は,自殺を遂げようとしたが遂げられず、現在大韓病院に入院中である。原因は不明であるが、同人は太皇帝の妹婿である事を思えば、原因は想像がつく。
解説:太皇帝とは、現在の李王の父である。自殺未遂の父は、爵位が男爵と聞き、身分上不満を持っていたようだ。また以前から発狂気味でもあった。趙南世は、太皇帝の株券を騙取して拘引されている。
本年の朝鮮移民 内国電報8日発
△東拓会社の条件
東洋柘植会社は、移住民の選択に慎重に注意を払い、各府県知事並びに朝鮮内地の各道長官に対し、移住民の身元証明等に関して依頼手続き中であるが、一般に対する毎年の、募集期間等については、農業時期並びに渡航準備期間等を次の通り定めた。
一 募集公表期 毎年2月中
一 申込期日 6月末日迄
一 承認通知期日 8月末日迄
一 移住契約書提出期日 9月末日迄
一 移住地到着期日 翌年2月15日迄
(一部抜粋)
10月10日
授爵は意外 8日京城特派員発
李埈鎔(りしゅんよう)の授爵が無いのは、何人も疑いを持つところであるが、父李載冕(りさいべん)が既に思し召しにより、李熹公(りきこう)の尊称を賜っているので、その嗣子である李埈鎔は、当然何時の日か公殿下となるので、敢えて授爵は無いのであろう。李容九(りようきゅう)の事は、既電のとおり。その他は別に、当然あり得るべき者で漏れた者は居なくて、むしろ以外の辺に迄及んでいるのが不思議である。
解説:李載冕は大韓帝国皇帝高宗の兄である。
李容九は、両班の高位階級の家に生まれ、数度にわたる政治改革の失敗から、両班による下層階級への搾取虐待を朝鮮人自身の力で克服することを不可能と考えており、日本との合邦によって初めてこれが実現できると信じていた。日韓合邦については、内田良平とともに日本と韓国の対等な立場での合邦を希望し運動したが、実際には日本による韓国の一方的な併合となった。日韓併合によって、韓国皇族は日本の皇族、韓国の有力者らの一部は朝鮮貴族としての扱いを受けた。しかし日本政府に裏切られたと知ったとき、李容九は爵位を辞退した。(ウイキペデアより)
京城大懇親会 9日京城特派員発
京城府民大懇親会は、9日午後3時景福宮に於いて開催された。来賓は山縣総務総監をはじめ、各長官、李完用伯爵外、新華族等合計4千余名、府民代表として趙重應(ちょうじゅうおう)男爵が開会の辞を述べ、次いで山縣総監の演説があり、次に李完用伯爵の発声で、日本天皇陛下の万歳を三唱して式を終わった。各種の余興、模擬店があり,盛況を極めた。(一部抜粋)
解説:李完用は朝鮮併合時の内閣総理大臣であった。
10月11日
総督府特別会計 10日京城特派員発
10日総督府の特別会計の歳出、その他予算外支出を官報にて発表する。歳出経常部694万余円、臨時部491万余円である。
中枢院組織成る 同上
中枢院副議長以下顧問、賛議、副賛議64名は、10日朝、総監邸にて任命の辞令を受け、山縣議長は、総督の紹介にて、各員に簡単な挨拶を行った。金副議長その他数名は病気、事故で欠席し、代理人にて辞令を受けた。
総督の各部視察 同上
総督は、10日より各部の事務状態を巡視した。
10月12日
城津住人の不平 11日城津特派員発
城津府を郡として、朝鮮官吏の支配を受ける様になったのは、城津の実力を無視した措置であるとして、日本人の激昂が甚だしく、近く大会を開き、総督の反省を促す予定である。
解説:城津は日本海に面した都市で現在の北朝鮮、咸鏡北道にある。都市の名前が北朝鮮軍司令官の名前「金策」に変更となっている。
9月22日記事「道庁府庁新設地」では、府庁の新設地として、京城、釜山、馬山、清津、城津、元山、仁川、鎮南浦、群山の十カ所の一つに含まれていたが変更となっている。
水道会社買収交渉 11日京城特派員発
相当以前から問題であった英国シンジケート京城水道会社の買収は、最近東京に於いて、交渉が再開された。会社は280万円を要求し、政府は265万円を支出すると主張し、未だ解決していないが、間もなく解決する見込みである。
新聞撲滅成功 同上
国民新聞は、11日より、いよいよ廃刊になり、ハングル文字の民間新聞は全滅した。徳富猪一郎氏は、大韓毎日新聞の社長兼主筆をして、11日より経営すると思われる。
10月13日
寺内総督帰朝 12日京城特派員発
総督は、帰朝時期が近づいている為、各所の巡視に忙しく、12日も水原(すいげん)の模範場を視察した。なお12日は、前大臣宮内府尹及び日本側大官を、13日夜は、外交団を招き、留別の宴を設ける予定である。出発日は既電のとおり16日で、都合により、馬山を視察、釜山より軍艦で尾道に上陸する予定である。これは帰朝後に参内の為、悪疫の流行地を避ける為である。
李王家職制内容 同上
李王家職制は、間もなく発表される様であるが、その内容を聞くと、王家は宮内省の所管に属し、職員その他は委任によりこれを監督する予定で、経費や予算の編成は、宮内省が全て作成すると思われる。
10月14日
山縣政務総監の招宴 13日京城特派員発
山縣政務総監は、13日寺内総督を招待して、午餐会を開いた。
10月15日
金玉均以下の追暘 14日京城特派員発
故金玉均、洪英植、魚允中、金宏集、案ケイ壽に1万円、鄭秉加外9名に5千円を14日に各その嗣子に恩賞がある旨通知された。これは矢張り恩賞公債にて2か月内に證書を下暘されると総督より伝達した。
解説:金玉均は、改革派のリーダーで、清朝から独立し、日本の明治維新を模範として、朝鮮の近代化を目指した。1884年12月、日本の協力を得て、閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こした。一旦成功したが、清の介入でわずか3日間の政権で終了し、金玉均は日本に亡命した。1894年3月、閔氏の刺客により上海で暗殺され、四肢を八つ裂きにし、首は京畿道竹山、片手及び片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で晒された
福沢諭吉や宮崎滔天たちによって葬儀が営まれ、東京文京区の真浄寺にその墓所がある。さらに犬養毅、遠山満らの支援で東京の青山霊園の外人墓地に墓が建てられている。
10月16日
寺内総督暇乞 15日京城特派員発
寺内総督は、いよいよ16日午前7時の特別列車で釜山に向け出発し、同地より弘済号に乗船、帰朝の予定である。15日朝、昌徳宮、徳寿宮の両宮へ御暇乞いをする為に伺候した。
4月17日
王世子誕辰祝賀使 15日北京特派員発
20日は東京に居る王世子の誕生日に付き、祝賀の為、昌徳宮より厳柱益(げんちゅうえき)を徳寿宮より、趙民キ(ちょうみんき)をそれぞれ派遣する事になり、15日朝出発した。
解説:韓帝であった高宗は退位し、徳寿宮に住んでいる。その長男純宗は李王となって昌徳宮に住んでいる。二男であった李垠は、明治天皇の指示で、日本で教育されており、10月20日が誕生日である。
農事視察団 15日群山特派員発
東拓の農事視察団一行は、金州地方の視察を終わり、15日来群し、同夜、当地方の官民主催の歓迎会に臨み、16日夕、河を遡り、江景に向かい出発する予定である。
寺内総督 16日釜山特派員発
寺内総督一行が、16日午後4時来着し、官民の送迎を受け、厳重な警衛の下に弘済号に乗船し、直ちに下関に向かった。
平鎮間鉄道運転開始 16日平壌特派員発
平壌と鎮南浦間の鉄道は、いよいよ16日より開業し、当地よりの発車は午前7時半と午後5時との2回である。
解説:鎮南浦は平壌の外港として重要な貿易港である。
10月18日
寺内総督随行談(門司) 内国電報(17日発)
寺内総督は予定通り、17日到着、春帆楼に入った。記者に対し児玉書記官が総督に代わって次の談話を行った。
殖産興業発展の方針により、1千7百万円を朝鮮全道に交付したが、その結果、各郡に平均5万円位宛て分配された。今後は総督府に於いて、殖産用の資金を保管し、その利子千5百円を以って、将来有望な殖産事業を盛んにさせる方針であるので、好成績が得られると考えている。土地の発展に関しては、鉄道を敷設することが最も急務であるので、現在の11年計画を短縮する為に、現在政府と打ち合わせ中である。
併合の結果、続々と本国より移住しており、今後、年々3万人位は、確かに増加する傾向を示している。従って土地の調査は一大事業であるが、未だ完成は覚束ない。(一部抜粋)
解説:現在中国は新疆ウイグル自治区に於いて人道上許されない強引な統治を行っているが、約100年前の日本の異民族統治はこの様に穏やかなものであった。韓国国民は中国のウイグル族弾圧をどの様に見ているのだろうか。
10月19日
寺内総督優遇 内国電報(18日発)
寺内総督は、20日午前11時20分新橋着にて入京し、直ちに参内する為に、特に中隊長の指揮する近衛騎兵一小隊を儀仗として付せられる旨の御沙汰があった。参内し復命の上は、御陪食を仰せ付けられる筈である。東京市では、駅前にアーチを設け、音楽を奏で、日比谷公園に於いて花火を上げる計画である。
10月21日
巨魁李太王に謁す 19日京城特派員発
去る明治39年、全羅道光州城に兵を挙げ、我が土方警視以下多数を殺害し、自ら義兵の大将を以って任じ、南韓一帯を荒らした閔宗植(びんそうしょく)は、後に捕らえられ、珍島に配流の身となった。しかし特赦に接し、再び天日を仰ぐ身となったが、突如、18日、李完用氏を訪れ、何らか言葉を交わした後、相連れて昌徳宮に伺候し、両王に拝謁した。特に李大王とは5年振りの事であり、四方山の対談があった。当年順逆の途を誤った事をひたすら悔恨したことに、王は非常に満足なご様子であったそうである。
解説:李完用は、韓国併合当時の内閣総理大臣であり、明治43年(1910年)10月7日伯爵を与えられ、大正9年(1910年)には侯爵となっている。
昌徳宮は李太王の住まいである。
対馬と釜山間の海底電線60マイルは、いよいよ大北電信会社より15万円にて買収する事に決定した。
農業団到着 同上
東洋柘植会社主催の農事視察団が20日、来着した。21日より日程に従って行動する計画であり、総督府及び李王家は特に招待会を催すと思われる。
10月22日
日鮮電報料半額 21日京城特派員発
大北電信会社の対釜海底電線が買収済みとなり、来月より日鮮間の電報料金は約半減される予定である。
解説:昨日「海底電線買収価格」の続報
朝鮮僧侶の活動 同上
最近の朝鮮僧侶の活動には見るべきものがある。27日更に大集会を催し、布教の方針を定め、多年最も卑しい境遇にあった不遇を一挙に回復する事が目的であると言われている。
解説:日本では「士農江商」という身分制度があったが朝鮮では「両班、中人、常人、賤人」という身分制後があり、僧侶は娼妓、奴婢等と一緒に賤人に属していた。
日本人団漸次解散 同上
地方に於ける日本人会は、当局の意を体して、漸次解散し、民団の学校組合のみ旧態を保つ。
10月23日
貴族観光団 22日京城特派員発
貴族観光団は、総計45名(従者共)に決定、23日夫人連、24日男子連が出発し、25日下関にて合流、同夜は宮島に1泊、27日京都、29日名古屋、30日新橋着の予定である。
解説:10月5日「朝鮮貴族員数」にあるように38名の貴族が生まれたが、その中の貴族と夫人が主体の観光団である。
10月24日
朝鮮貴婦人団 23日京城特派員発
趙重應(ちょうちょうおう)、渡辺警部等が引率して、上京予定の朝鮮貴族夫人観光団24名は、23日、南大門駅発車の列車にて出発した。李完用氏以下、多くの見送りがあった。一行の中には和装の夫人も見かけた。
解説:趙重應は、改革派の一人で朝鮮併合時、李完用内閣で、法部大臣や農商工部大臣をしていた。朝鮮貴族として子爵に列せられている。
10月25日
観光団男子部出発 24日京城特派員発
男子部20名は、24日朝、盛んな見送りを受け出発した。一行の中には、往年暴徒の巨魁であった閔宗植、金宗漢等もおり、李太王殿下は、今回の挙をお喜びになり、金5千円を下賜された。
解説:明治39年5月23日「忠清道匪賊続報」から6月18日「前府班員捕縛」の記事にあるとおり、閔宗植は洪州城に於いて反乱を起こし、憲兵隊によって逮捕されている。閔宗植は漢城府班員(東京都の職員の様な存在)で、どうも李太王に近い人物であった様である。
忠清道匪賊続報
昨日、忠清道の公州憲兵隊からの報告によると、19日、賊は洪州城(こうしゅうじょう)に入った模様である。警部の一行は、20日到着し、賊と銃火を交えた。公州から出動した憲兵も到着し、賊を掃討中である。又同報告に洪州城(こうしゅうじょう)に入った賊の数は3百から45百に増加し、門外でこれを防いだ憲兵1名が負傷した。賊は遂に城内には入り、郵便局員は避難し、在留の本邦人は徳山郡に引き上げたとある。
この状態であり、当地と公州間の郵便は停止された。昨日水源から憲兵11名が公州に向け、出発した。
洪州派遣隊から軍司令部への公報によれば、31日午前3時、東門及び北門の門扉を破壊し、激烈な戦闘の後に、同7時30分に全部を占領した。我が死者1名、軽傷2名、敵の死者は60名、現在の捕虜は127名で続々と捕縛中である。首領は、未だ発見されず、西南方面に逃走した疑いがある。捕虜の言によれば、賊の兵数は1千であり、賊の為に捕らわれた日本人の斬殺が目撃されたとの事である。
6月18日 韓国皇帝の密使 17日京城特派員発
賊の首領である閔宗植(びんそうしょく)及び崔益鉉(さいえきげん)は、宮中の一派と通じているとの噂が高かったが、果たせるかな先日、順昌に於いて捕虜となった崔益鉉(さいえきげん)は、義兵を鼓舞し、称賛する韓皇の密勅を帯びていたとの説がある。
前府班員捕縛 同上
前の漢城府班員である閔宗植(びんそうしょく)及び李鳳来(りほうらい)等は、昨日憲兵によって拘引され、取り調べを受けた。同人達は、予て地方の暴徒と気脈を通じているとの風評が高かった者どもである。
10月27日
囚徒破獄 26日群山特派員発
26日午前6時、群山監獄の囚徒20ヨ余名(朝鮮人)は、脱獄を企て、看守等がこれを防ごうとして、看守2名、囚徒数名が重傷を負い、囚徒13名は、遂に脱走した。脱獄の張本人は、政治的臭味を帯び、全羅北道に於いて強暴をたくましくした大凶漢である。
10月28日
恩賜公債の使途 26日京城特派員発
各道の恩賜公債は、教育、道路改修、失業対策等の費用に充てられるべきで、内務部長は各道長官に使途の方法について調査を命じた。
天長節諭話 同上
宇佐美内務部長官は、各道長官に、その管轄下にある公立学校生徒に対し、天長節祝賀の式を挙行させる際、この式の由来を詳述し、帝国臣民として忠節を励むべき旨を説き聞かせた。
篤農団解散式 27日大邱特派員発
東拓農事使節団は、去る2日出発し、26日間に亙り南韓地方を踏破して、京城に到着し、次いで開城(かいじょう)、平壌(へいじょう)方面の視察を行い、転じて大邱(たいこう)に到着した。渡辺少将、その他官民の歓迎を受け、27日、当所にて解散式を挙げ、林理事の挨拶があった。一行の行程は、徒歩70里、水路220海里、鉄道650マイルに上った。一行は一人の病気や事故による落伍者もなく、視察は十分な成功を収め得ることが出来た。
解説:10月月4日「朝日鮮柘植現状」の記事にあるとおり、日本人の朝鮮への移住に際しては、一戸に付き、田畑2町歩以内が貸付られることになっており、この東拓農事使節団はそれらの土地の視察をしたものと思われる。
被告は内地人多し 内国電報(27日) 下関
京城控訴院長、釜山、光州両地方裁判所検事正等の一行は、27日朝、司法官会議に出席のため東上した。氏の談によれば、我が所轄内に於ける裁判事故は、民事、刑事共に、内地人に係るものが、総件数の4分の1を占め、特に刑事事件に関するものが多いのは、甚だ好ましからざる現象である。京城の朝鮮人20万人に対し内地人5万人の少数がこの様な逆比例を示すとは誠に遺憾で、ぞっとするような一大事である。(一部抜粋)
10月29日
閔妃忌辰 27日京城特派員発
27日徳寿宮に於いて、閔妃(びんひ)の忌辰(きしん)祭典が催された。李王妃殿下の代理が参拝し、荘厳な式が営まれた。
解説:閔妃は、李太王の父李朝第26代国王高宗の妃で、日清戦争後ロシアに接近し、守旧派を重用し、反日政策を進めた為に日本官憲や壮士によって、1895年10月8日殺害されている。徳寿宮は高宗の住まいである。
篤農団帰着(門司) 内国電報(28日発)
東拓主催の農業視察団は、各府県より1名、合計40名を便宜上4班に分け、去る1日渡韓した。その過半数は28日朝、釜山より下関に到着し、それぞれ帰途についた。尚朝鮮に居残った連中も、29日朝、帰着する予定である。輪島、石川、富山より参加した者は、良い機会であるとして、平安道の方面をも視察中の様である。
今回、帰来者に視察談はと聞くと、各自その所見を異にするが、一様に今回の渡韓を喜び、農業について、次の様に述べた。
「朝鮮の農業を改良するには、山林への植林を急いて行う必要がある。これをしなければ、唯単に農業を奨励しても駄目であろう。特に内地の農業者にして、3、5町位の土地を耕作しても勘定に合わないのみか、遂に失敗に終わる恐れがあると考える」云々
解説:平安道は、朝鮮半島の最北端、ロシアと国境を接する地域にある。
10月31日
水道通水式 30日仁川特派員発
5箇年を費やした水道工事が竣工し、30日盛大な通水式を行った。来賓一同は、鷺梁津(ろりょうしん)水源地を見物した上、午後2時、式場に参集し、宇佐美内務部長の識字、佐野技師の報告、来賓の祝辞等があった。
11月1日
排日首魁捕縛 31日ウラジオストック特派員発
過日行方を眩ませていた排日首魁季範允(きはんいん)は、ニコリスク付近に於いて露国官憲の為に捕縛され、30日当地に護送された。
朝鮮貴族御召 内国電報(31日発)
天長節当日、宮中に於いて饗宴を賜るに依り、今般来京の左記朝鮮貴族に対し、御召状を発せられた。勲1等侯爵及び勅任待遇の向きは豊明殿に於いて、又有爵無勲者は、内地の伯、子。男爵と同一の場所に於いて酒膳を賜る由(一部抜粋)
11月2日
海電受継実施 31日京城特派員発
長崎釜山間の海底電線は、1日より我が政府に受継ぐ事となり、1日以降、朝鮮と内地間電報料金が改定され、同時に朝鮮内で発受するもの、朝鮮と満州間で発受するものは全て本邦内地と同様に軽減された旨発表した。電報料金は内地との間15字が30銭である。
解説:10月22日「日鮮電報料半額」の続報
不正官吏検挙 同上
度支部宮内府の不正官吏が検挙された。
解説:度支部とは大蔵省
1月3日
長寿者へ恩賜 2日京城特派員発
警務総監部に於いて、恩賜金に該当すべき両班、儒生中で、60才以上の長寿者を調査中であったが、13道を通じて8,747人に上り、3日天長節の日付を以って,夫々恩賜金を下付する予定である。金額は80歳の15円より漸次高めて、107歳の200円に到る。
大挙伝道 同上
キリスト教の各派を通じ、外国宣教師の大挙伝道が、10月中、1か月に京城のみで1500名の信徒が増加し、更に他の主要都市に於いても努力をしようとしている。
11月4日
京城の天長節 3日京城特派員発
朝から総督官邸は、諸外国人、日韓官民の参賀が引きも切らず行われた。午前11時、李王殿下は、赤い制服に白帽の親衛騎兵20騎に護衛されて総督府に到着、御真影を拝し、その後、各長官と盃を挙げて、聖壽の無窮を祝した。午後2時より官邸の庭園に於いて内外人2,500余名を招き盛んな園遊会を開いた。
△居留民団は11時、倭城台公園に盛大な祝賀会式を挙げ、陛下の万歳を三唱した後、種々の余興が行われた。
△その他軍司令部、京畿道庁、各学校等に於いて、それぞれ祝賀式が行われた。正午よりは京城日報主催の国旗行列、夜は提灯行列が行われた。(一部抜粋)
解説:「聖壽の無窮」とは陛下の年令が永遠に続くという意味である。
日鮮連合の天長節 3日釜山特派員発
府庁、その他各学校、幼稚園等にて拝賀式があり、特に天長節の為に入港した第2艦隊は祝砲を発射し、市中は国旗その他装飾を行い、空前の賑わいである。11時より日鮮人連合の祝賀会があり、夜は提灯行列があり、府庁にては夜会を催した。(一部抜粋)
平壌の天長節 3日平壌特派員発
天気快晴、午前10時小学校に拝賀式を挙行し、正午より官民合同拝賀式あり。2時、松永長官は、300余名を招待し、祝宴を開き、各種の余興があり、盛会であった。日韓合併後の第1回の天長節であり、各戸は様々な装飾を行って祝意を表し、仮装行列等の余興が至る所で行われ、万歳の声が盛んに聞こえた。
11月5日
賜金交付 3日京城特派員発
3日、京城在住の両班、儒生に対し、総督の名を以って恩賜金を下付した。
11月6日
穀物市場新設出願 5日群山特派員発
当地の有力者間で、株式組織を以って、穀物市場を新設する計画がある。現在その筋に出願の手続き中である。
11月7日
学齢児童調査 6日京城特派員発
12月15日までに、京畿道に於ける児童の調査を行うこととなった。この事務は、京城府及び郡に於いて担当すべきであるが、未だ戸籍法を実施していないので、調査が非常に困難な為である。以前その筋に於いて民籍調査を行ったが、朝鮮人の誤解より人頭税でも課せられるのではと員数を隠蔽する者が多かった。しかしその後憲兵隊では、実地に戸籍調査を行い、又警察署でも同調査を終了した良い資料があるので、これらを根拠として学齢児童調査に着手すると思われる。
平南鉄道開通式 6日鎮南浦特派員発
6日正午、平南鉄道の開通式を挙行し、大屋哲道長官の式辞、岡村所長の工事報告、来賓有吉総務長官、その他の祝辞があり、終わって駅付近の小山に園遊会を開いた。来賓3百余名で非常に盛会であった。
解説:大都市である平壌とその外港である鎮南浦を結ぶ鉄道の開通式である。この様にして朝鮮の交通インフラは整備されていった。
11月9日
李範允幕僚就縛(芝罘に於いて捕えられる) 7日京城特派員発
李範允(りはんいん)が露国官憲に逮捕され、現在ウラジオで拘束されている。その幕僚である元西北学会の金基全(きんきぜん)等は、ウラジオから逃れ、ニコリスク付近に密行し、李範允等と相通じて、排日的陰謀を企て中であった。しかし露国官憲の厳重な捜査に堪えず、李は他に潜伏、金基全は身を置く所がなく、芝罘(チーフ)に高跳びした。このことを探知した露国官憲は、謀り事を設けて首尾よく、これを捕縛した。4日、京城憲兵隊の憲兵2名を引率する主任憲兵が、引取りの為に、仁川より同地に赴いた。この一行は、7日午後4時、仁川に入港、5時半南大門着の予定である。
解説:李範允は日韓併合条約反対の活動家で、1910年露国官憲によって逮捕され、7か月間獄中生活をしている。死後1962年建国勲章大統領章が贈られた。
11月10日
李範允流罪 9日浦潮特派員発
李範允は、イルクーツクへ流罪に処せられ、部下8人もそれぞれ捕縛され、現在入獄中である。
解説:昨日の記事「李範允幕僚就縛」の続報、イルクーツクは、シベリア地方南部でモンゴル国境に近い場所である。
総督府会計検査 8日京城特派員発
8日、会計検査院の一行が、総督府の会計検査の為に来京し、総督府及び同支部等を検査した。一両日中、一行は2組に別れ、各地方の会計検査をし、伊藤検査部長は、約2週間当地に滞在の上、諸般の会計事務を視察する予定である。
10月11日
英国大使 9日京城特派員発
英国大使夫妻は、9日高等女学校を視察し、午後昌徳宮に於いて、李王殿下の午餐会に臨み、夜は大久保司令官の招宴に列した。10日仁川視察、11日義州安東県に行き、平壌に引き返し、鎮南浦に向かう。帰路の予定は、多分同地より英国軍艦に乗り、日本に帰ると思われる。
排日党押送 同上
排日党李範允の子分柳、金の2名は、芝罘(チーフ)より仁川に護送され、警務総監部に引渡され、家宅捜索を行った。
解説:昨日の記事「李範允流罪」の続報
貴族観光団一部帰国 同上
朝鮮貴族観光団の内、趙子爵母堂、李完用伯爵夫人外数名は、10日夜、南大門に安着した。何れも日本に於ける厚い歓待に積年懐いていた恐怖の念も打ち解け、且生まれて初めての遠い旅行を遂げ、無事故郷に帰着した事を喜び会った
解説:次の記事に出発の様子が書かれている。10月24日「朝鮮貴婦人団」、10月25日「観光団男子部出発」
11月12日
朝鮮貴族団(小田原) 内国電報(11日発)
朝鮮観光団44名の一行は、10日、箱根に赴き、塔の澤温泉宿、環翠楼に一泊し、11日夜、7時39分湯本発、9時12分国府津発の列車にて西行した。
京義線改善(母国との交通大動脈)
朝鮮鉄道の京義線は、309マイル7分あるが、東海道及び山陽線の広軌道改修と同時に大々的に改修が行われる予定である。現在の軌道幅は、京釜線その他と同様4フィート8インチであり、その線は、以前、戦時多忙の際に設計された為に、曲線が非常に多く、完全な運転が難しい状態である。その為、既に両3年、この改築調査を行い、一部分の曲線は、改修工事に着手しているが、今回いよいよ大規模の工事を始め、完全に曲線を廃止しようとするものである。改修が完成後は、その輸送力が非常に増大すると同時に、新橋と下関間の広軌化と相まって、母国と朝鮮との交通動脈を完成させ、更に安奉線の改築が竣工することに依って、欧亜の連絡動脈に接合し得る事となる次第である。
解説:安奉線とは、朝鮮北部の安東と満州の奉天(現在の瀋陽)を結ぶ線である。京義線とは、京城と朝鮮北部の新義州を結ぶ線であり、1911年11月安東駅と新義州駅間の鴨緑江鉄道が完成することによって、安奉線と接続した。
11月14日
英大使の調査 13日京城特派員発
駐日英国大使館1等書記官が12日当地に来た。13日平壌に赴き、同地にて安東県より帰来するマクドナルド氏を待ち合わすものと思われる。英大使は、今回の旅行は併合後の朝鮮の状態及び総督府の施設について、外人側からいろいろ情報を得ており、これを実地に調査したものと思われる。通常の観光ではないと認められ、官民一般の注意を引いている。
11月15日
東拓募集第1回移民51名が群馬県より到着し、京城に向け出発した。
朝鮮貴族団(大阪) 内国電報(14日発)
男子部25名は、14日午前11時、下関に向け西下した。女子部24名と下関にて合流し、15日午前、関釜連絡船にて帰航、釜山に一泊の後、帰邸する予定である。
11月16日
桂首相の演説(15日大阪経済会に於いて) 内国電報(15日発)
△韓国の併合
明年度に一般会計より、朝鮮特別会計に補充金として繰入れる金額は1,200万円に止まる。韓国の併合は、実に東洋の平和に対する騒乱の淵源を一掃したものであり、茲に、最も平和的に政治上多年の難問題を解決する事が出来たにも拘わらず、財政上、我が国の負担が増える事は非常に少ない。むしろ経済上よりこれを見れば、内地事業発展の区域が拡大された事になるが故に、漸次その実績を挙げるようになれば、わが国の経済界に及ぼす影響は、誠に少なからざるものがある。(一部抜粋)
11月17日
李王上京繰上 15日京城特派員発
李王殿下の東京行きが来年陽春の候に内定しているが、これを繰上げ、本年中に出発し、我が陛下にご挨拶をするのが良いとの議が一部両班間に起こっており、近々、昌徳宮に言上するようである。
解説:昌徳宮は李王殿下の宮殿である。
京元線本年度工事 15日京城特派員発
京元線の本年度工事は、経費の都合により、龍山、議政府間の20マイルに止め、来年度予算が決定次第、漣川まで延長の予定である。
解説:京元線は、日本海側の元山と京城を結ぶ線で、1914年に完成している。
陸路貿易新協定説 同上
現在、鴨緑江及び豆満江流域に於ける陸路貿易に対しては、保護税又は貨物税を課そうとしている。しかしこれに弊害があるのであれば、日清両国間に、新たな陸路貿易協定を早急に締結する必要があると言われている。
11月18日
一覧拂手形交換 16日京城特派員発
第一銀行にて、150万円以上の発行額を示している一覧払手形は、今回、韓国銀行(他日名称は変更される)の名義にて発行の新手形と暫時併用し暫時交換する方針に決定し、第1回発行の1円券は12月21日より市場に出ると思われる。
解説:第一銀行とは渋沢栄一が創設した日本最古の銀行である。
私設鉄道許否未定 同上
総督府の交通機関に対する方針として、私設鉄道を許可する案件は未定である。
三南鉄道連絡線 同上
三南鉄道に連結する目的で、全羅南道及び慶尚南道に鉄道敷設を請願する浅野その他紳商20余名が署名した鉄道案件は、今なお審議中であるようである。
解説:神商とは、紳士で一流の商人の意味である。三南鉄道とは、朝鮮半島の南部地域である全羅南道、慶尚南道、忠清南道の鉄道と思われる。
11月19日
李王上京期 17日京城特派員発
16日夜,帰国した貴族観光団の代表者として、子爵朴斎純氏は、17日夜昌徳宮、徳寿宮の両宮に伺候し、我が皇室の御優遇及び朝野の親切な待遇を述べたが、両宮共いたく喜ばれる。しかし諸般の準備もあり、王殿下の東京行きは、矢張り来年3月頃となると思われる。
穀物税廃止請願 18日京城特派員発
商業会議所連合会は、明19日、閉会式を挙げる。今次連合会に於ける問題は多々あるが、特に穀物並びに輸出及び移出税穀物に対する母国移入税撤廃請願については、当路者の意見を聞き、審議したが総督府に於いては、種々の事情があり、到底希望を達する事はできない事を慮り、協議の末、3名の委員を東上させ、今期議会に提出すべく決議確定した。
解説:輸出とは他国へ送り出す事、移出とは、国内の他の場所へ送り出す事である。朝鮮の穀物は安いので、日本で移入税を課していると思われる。
11月20日
漁船遭難 19日群山特派員発
連日の暴風雨により、当地付近の竹島沖を中心として、全羅道、忠清道の両道の沿岸に亘って、転覆漁船凡そ50隻に上り、溺死漁夫は340名の多くに達した。(内日本人の所有船は6隻、溺死者30名であり、詳細の数は調査中)、当地警察及び水産支部に於いて救助船を出し、救助中
11月21日
過日、突然東拓移民を志願して、群馬県の農民50余名が来鮮したが、その目的を達せず、悲惨な境遇にある為、現在地方官と東拓会社との間に諸般の調査を行い、何らかの救助法を執るべく協議中である。
解説:東拓が日本で正式に募集した移民の第1回は、11月15日「第1回東拓移民」にある様に11月14日釜山に到着している。それ以前に、」何故か50余名が入植している。
11月23日
宋乗畯東上 22日釜山特派員発
宋乗畯は、今夜当地を通過し、下関へ向かった。
解説:宋乗畯は、朝鮮貴族で1920年子爵より伯爵となっている。
群馬移民問題 内国電報 22日発
群馬県の朝鮮移民50余名は、村長、郡長及び知事等より朝鮮移住の奨励を受け、知事の證明までも得て、11月11日朝鮮に出発した。同月14日午前10時30分、京城の柘植会社より群馬県知事宛てに」「出発見合わせよ」との電報が来たが既に出発した後であり、その儘になり、今日に至ったものである。
解説:21日の記事の続報
11月24日
朝鮮鉄道の調査 22日京城特派員発
朝鮮鉄道第2期線建設計画は、先ず元山と清津間の連絡を急務とするが、同線は海岸線を走らず山間部を通過する為に工事が困難である。稲垣技師の実地調査により大体は既に決定したと思われる。
木浦と釜山間を連結する新設線の出願承認、並びに清津と会寧間の軽便線を本線に改めたいとの同有志の請願に対し、現在当局で調査中
群馬移民雇入 同上
群馬県から来た50余名の東拓移民は、東拓の打合せ不完全であった為、直ちに東拓に依って引受難い事情があり、大庭府尹の斡旋にて鉄道測量部の人夫に雇い入れることに概ね決定した。
解説:府尹とは東京でいえば都知事いあたる行政の責任者である。
11月26日
総督帰任と王家職制 25日京城特派員発
寺内総督は議会解散前、一応帰任するのではとの説があったが、その時以降、都合が付かず、未だ発表の運びになっていない。李王家の職制を正し、李王家職制の一新とともに、来春早々李王殿下と共に東上するものと思われる。帰任中は、併合後の地方行政整理を遂行する為、現在各地方の郡守会議を開催し、各地方の改善に関し協議をしている。国分人事局長と共に帰鮮する予定であった趙子爵が今尚東京に留まっているのは、王家職制の問題解決に関し、種々の要務を終わらせる為と思われる。
移鮮希望者激増 同上
併合後、内地農民の朝鮮移住を希望する者が激増し、東拓会社に宛て、照会をしてくる者が非常に多く、現在団体移民16組あり、個人として81組ある。東北地方の申込が最も多い。
名古屋視察団 同上
名古屋実業家の朝鮮視察団一行は、25日午後8時着、例に依って26日より昌徳宮を見学、商業会議所等招待の歓迎会に臨み、山縣長官の招宴に列し、東拓農場、東亜煙草製造所を視察し、28日、仁川を始め平壌、鎮南浦を経て帰国の途に就く予定である。
11月28日
京城新報停止 27日京城特派員発
27日発行の京城新報は大帝国主義の論文を掲げて、発行を停止させられた。
朝鮮鉄道緩急計画 同上
案外トラブルなく進捗した安奉線及び鴨緑江架橋工事は、来年一杯で竣工の予定であるが、材料到着の都合で、或いは45年春となるかも知れない。京義線の改修は、この竣工の時までに全て終わる筈であり、それまで京義線改修の一部を湖南線に回し、現在太田より連山に至る20マイルの土木工事を終わり、来年中に興京(こうけい)まで開通させる予定である。
当局者は京元線と湖南線との工事費について、緩急、相互に融通し、若し工事計画を繰上げる場合には,何時でもこれに応じることが出来る様に準備をしている。
第2期線路として、元山と漢江間及び清津と会寧を計画しているが、尚京城より忠州を経て大こうに至る朝鮮中部縦断鉄道の必要を認めている。
木浦と釜山間の海岸線は寧ろ民間経営の軽便線にした方が寧ろ得策としている。
11月29日
守備組織厳重 28日京城特派員発
揚州付近に出没する賊魁きょう基東は未だ縛に就かず、且黄海道の一部、平壌を中心とする区域及び慶尚道の一部に盗賊が出没している。其の為守備隊を増派し、守備組織を従来よりも更に強化し、時機を得て再び賊徒の掃討を実施する計画である。
明年の東拓計画 内国電報 28日発
東洋柘植会社の明年度に於ける農事計画の大要は次のとおりである。
△明年度移民 東洋柘植会社の取扱いに係る本年度移民は約50戸であるが、明年度に於いては約200戸を収容する見込みで準備されつつある。場所は、京城付近及び馬山、栄山江、東津江の3方面を選び、適切に分配する予定である。その結果を検討し、且分配の事情を考査し、適宜に今後の方針を定めるものと思われる。
△植林計画 朝鮮の農業を改良し、移住民の生活を安全にさせる上に於いての必要上、会社は植林の計画を立て、既に種苗の選択を行っている。これが生育次第、一両年内には実際の移植に着手する事が出来る様に、先ず適当な場所より始めて、次第に全国に及ぼすことになると思われる。なおこれについては、年度及び移植の場所、町歩等具体的な計画はない。
北朝鮮に於いては柞蚕事業が有望なので、これを奨励する手段として、先ず柞蚕樹の植付を行う計画であり、既に適地の調査を終了したので、明年度より黄海、平安の2道に於いて、約45万町歩の植付に直種する予定である。
解説:柞蚕事業とは、養蚕の一種と言える事業である。錦糸を大きく分けると、桑の葉を食べる蚕が作った絹(家蚕糸)と桑以外のクヌギやカシワの葉を食べる蚕が作った絹(野蚕糸)がある。今回の柞蚕事業とは、この野蚕糸を作る事業と思われる。
11月30日
両道掃蕩 29日京城特派員発
黄海道は約2カ月、慶尚北道は約1カ月の予定で根本的に掃蕩を行う計画てあり、既に海州方面にては、先日来、多少の獲物があったそうである。
会議所会頭東上 同上
先日連合会で決議した穀物に対する朝鮮の輸出及び移出税撤廃の請願について、京城、仁川、釜山の各商業会議所会頭が東上する予定である。
民団存廃問題 同上
居留民団問題は、総督の方針として、当分存置する事に決している。内務部にては、現在、存廃問題に就き研究中であるが、これを廃止するにしても民団負債の処置は容易な事ではなく、又処置した後も、内務部の行政方針として、朝鮮人は日本人と同一法規の下に律し得る者と律し得ない者とある為に、結局ある時期を持たなければならない次第である。
12月1日
朝鮮立法準備 29日京城特派員発
先日来、法律取調委員会が、渡辺高等法院長等が出席して、当地高等法院に於いて開会中であり、民事、刑事に関する現行法及び朝鮮古来の習慣並びに命令法を調査し、朝鮮に於ける内外人一般に通用する特別法及び付随する法律案等を審議、立案中であった。現在東上中の倉富長官は、法制局とこれら調査に必要な意見の打合せを終了し、来月3日帰任すると思われる。
朝鮮の綿作 同上
朝鮮本年の綿作作柄は、その生育中、霧雨の為に非常に発育を妨げられ、特に米国種綿よりも在来綿が悪く、当地昨年の出来高に比し、5,6割即ち5,6萬斤減の有様である。
憲兵管区改廃 同上
朝鮮駐箚憲兵隊司令部では、間もなく、新憲兵部第1回の管区廃止、変更をすると思われる。要するに平穏の土地は、警察署の管轄とし、憲兵は、やや危険のある地に変更、移転するとの事であり、現在の分遣所535カ所は、改正後502カ所に減少する予定である。
12月2日
間島移住者増加 1日清津特派員発
咸鏡南北道及び江原道辺より間島に移住する朝鮮人が益々その数を増加し、10月1日より11月9日迄の40日間に於いて実に3万5千に上った。
解説:間島とは、現在の中国吉林省東部の朝鮮族自治州である。1909年日本と清国との間で日清協約を結び、清の間島領有を認めているが、多くの朝鮮人が、朝鮮北部から豆満江を渡って移住している。
12月3日
軽鉄敷設計画 2日釜山特派員発
釜山とハダン間1里余りの軽便鉄道を敷設する計画があり、現在調査中である。
玄米市場開業 2日群山特派員発
当地の玄米市場は、いよいよ1日より開業した。当地に於ける穀物売買は、今後全て,同所に於いて取引する事となった。開業早々より人気旺盛である。
12月4日
東拓移住方針 2日京城特派員発
東拓副総裁及び植民課長の談によると、東拓の事業が進捗しないと非難があるが、これはとんでもない話で、朝鮮の事情を知らないからである。例えば一寸した土地の買入れにも、台帳が無く、広さが不正確で、売買完了までに非常に手数を要する。先月募集したのは、甲種の団体移民のみであり、移住費の貸付をする他、会社は何らの世話も焼かない条件で、1千戸の申込中、約2百5十家族を採用する予定である。これらの移民は、本年の分に限らず、旅費は自弁で、家屋を建て、毎年、秋の収穫時までの食費を自ら準備する事が必要である。世人が唯、体を運べば、即ち移住できると考えるのは大きな誤解である。東拓はこの様な貧民を必要とせず、唯朝鮮人を誘導するに足る余裕がある者のみを歓迎する次第である。(一部抜粋)
解説:移住民は、自ら家と建て、旅費も自弁するので、蓄えがある程度ある人でないと移住は難しいようである。
地方民心平穏 同上
2日、管内24郡を巡視して、帰京した京畿道長官の談に、従来観察使が親しく各郡を視察した例がない為、長官巡視と言うのみで既に聖徳が広く及び、各地で行った訓諭は皆が傾聴し、民心は非常に平穏である。地方の両班、儒生の状態も非常に平穏である。
12月5日
民団監督問題 3日京城特派員発
総督府に於いては、各地の民団費が、収入に比して多額を要し、植民地移住者の負担としては、余りにも巨額過ぎるので、各開港場に於ける各民団居留地会の事務を我が行政機関に引継ぎを希望している。しかし外人に租税の負担をさせる場合の困難を予想し、又日鮮人を同一市民として市町村の自治を許すならば、ひいては道の自治をも許さなければならず、非常にその処置に困惑している。
12月6日
総督府の遷延 5日京城特派員発
△ 民団議員資格の有無
京城民団の議員は、既に改選期を迎えているが総督の指示で、そのまま継続して居る。総督府が何らの方針を示さない為に、やや混雑を招き、来年度事業の緊急事項に就き、調査会を開いており、一方民間では、現在の議員の無資格を非難する者がいる。総督府としては、これに関し、現在迄何らの決定をしていない。(一部抜粋)
12月7日
金鉱直営無根 6日京城特派員発
従来日本人の計画に係る鉱山採掘は、権利の売買を本とし、有効期間が過ぎれば、朝鮮人の名義に変更していたので、実地に着実な経営を妨げる事が多いので、朝鮮合併後、総督府に出願者多数であるが、未だ現在迄に一人も許可した者が居ない。旧宮内府所管の金鉱を直営するであろうとの説は事実でない。
総督府移転説無根 同上
景福宮を以って総督府に当て、又植民局を新設するとの説が総督府内でおこなわれているとの噂は事実無根である。南山にある総督府本館の増築は、本年中に終わる予定で、又内部、総務部を一カ所に集めて、その南隣に更に現在農商工部に充てる為に新築中である。現在の諸官庁は、何れも遠く離れている為、事務進行上、非常に不便である。
12月8日
日鮮会議所連合大会 6日京城特派員発
明年4月当地に於いて、開催する予定の日鮮商業会議所大連合会は、総経費1万円である。来会者は、東京、京都、大阪を始め50カ所に朝鮮の10カ所を加えて、百余名に達すると思われる。
12月9日
山縣長官談 7日京城特派員発
△米穀移入関税廃止の事は、畢竟議会が保護政策を決議した結果なので、総督府に於いて存廃について、かれこれ意見を有して居ない。寧ろ朝鮮農民にぞんざいな耕作法を改良させ、増収を図る様にさせるのが急務であると信じる。
△地方民心は各道長官に巡視させた結果、益々平穏であり、心服の情を確かめることが出来た。しかも至る所に草賊が絶えない為に、現今の憲兵警察制度は、何時廃止するとも何時まで存続するとも明言し難い。
民団存知 同上
総督府では、内地人の民団を当分、現在のまま存知する事に決し、議員の改選を命じ、監督官を京城府尹に命じた。
恩賜金と授産方法 8日京城特派員発
京城府に充てられた100万円の恩賜金は、内60万円及び利子3万円を以って授産資金に宛て、残余の40万円は教育及び罹災救済に費やす由であるが、京城在住の両班、儒生等に適当な産業を授けるのは、非常に困難であるので、府当局者は苦心中である。
主要鉱物調査 同上
朝鮮一般に亙る鉱物の調査は、現在迄、未だに着手されていなかったが、農商工部に於いて、明年早々に川﨑技師等をして、部署を分けて、主要鉱物の調査に従事させる様である。
12月10日
人膽奪取事件顛末 9日釜山特派員発
東本願寺別院役僧井上香憲が首謀となり、火葬依頼者の死体を、火葬前に引出し、巧妙な手段によりその膽を抉り取り、これを当地の薬店に密売して、少なからぬ金を儲けていた事が発覚し、4名共拘引となった。(一部抜粋)
12月11日
朝鮮移住(仙台) 内国電報 10日発
栗原郡若柳町に於いて100名、同郡澤部村に於いて50名が東洋柘植会社と朝鮮移住の交渉が纏まった。
解説:この人たちは、日本の敗戦により、約40年後に全てを失う事となる
12月12日
水道費計上 11日鎮南浦特派員発
当地水道費40万円、4カ年の計画事業として総督府予算に計上され、議会を通過すれば、明年より工事に着手する予計画である。総督府より技師を出発させ、水源地を観察させる予定である。
解説:鉄道、道路等の交通インフラと共に水道等の生活インフラも急ピッチで整備されていった。そして日本の敗戦と共に全てを日本は失っている。
12月13日
鉱業許可取消 12日京城特派員発
平安南北道の9カ所、全羅北道の2カ所、咸鏡北道、黄海道の各1カ所の鉱山出願者田坂外13名は、何れも期限内に着手しなかった為に、鉱業許可を取り消された。
両班儒生へ公債恩賜 12日馬山特派員発
12日午後1時、馬山府内の両班、儒生50名を警察署に招き、恩賜公債證書を授与し、警察署長及び府尹の訓示、演説が行われた。
12月14日
税関監視船行方 13日木浦特派員発
税関監視船桜井丸は、遭難漁船の捜索の為に南海岸に向け、仁川を出港した儘、行方不明である。現在弘済号がその捜索中である旨、12日夜、無線電信があった。警察では、天候回復次第、2隻の警備船を派遣する予定
12月15日
韓国銀行改称 14日京城特派員発
韓国銀行は、本年2月の総会で、朝鮮銀行と改称することになり、総督府では、今回、朝鮮銀行条例を制定、発布する予定であり、多分来年度の議会を待って提出されると思われる。又新聞取締り規則、保安法も現在起草中である。
貴族家族制度整理案 同上
朝鮮貴族は、1家族で、少なくとも50名、多いのは100名以上の人を養っている。何れも家族制度が非常に不明朗で、徒食するのみであるので、恩賜の特典に浴しながら何ら用をなさず、結局聖旨に背く訳である。其の為、李完用伯爵、趙重應子爵等が主となり、貴族の家族制度の整理を立案中であり、旧節季までに、これを決行し、各自に相応しい産業に就かせる計画である。
12月16日
条例発布 15日京城特派員発
15日の官報で、犯罪即決令、臨時訴訟調停に関する件及び弁護士規則が発表された。
12月18日
清公使と国境問題 16日京城特派員発
清国公使の朝鮮視察の目的は、前電の外、更に国境問題に対する基礎的材料得ようとする為であると伝えられている。
寺内総督の巡視 同上
寺内総督の巡視について、尚聞く所によれば、南韓方面はその後引続き平穏であるが北方は、尚草賊が出没し、その掃蕩の成績も思わしくない。その為総督は帰任するや直ちに平壌に出発し、実地に視察の上、人心の慰撫に努めると共に不平党の誤解を解き、同時に守備組織を更に厳重にすべく、警務総監部にてもこの際一段と活動をする予定である。
12月19日
新聞紙の取締り 17日京城特派員発
17日警務総監部にては、新聞紙取締法に就き、会議を開いて協議中であるが、総督は対馬海峡を越えた電報に対し、絶対の権力を有する規定を設ける様で、今後新聞や電報は、戦時と同様に、一々総監の検閲を受ける事となる様である。
朝鮮柘植方針 同上
総督府部内には、最近の東洋柘植会社に対する非難に鑑み、現在の移民事業を営利会社に託する事の不得策を悟り、移民事業を会社より分離し、これを総督府の直営とし、同会社は唯勧業銀行として、専ら資金の融通を図らせようとする議がようやく勢力を得つ々あるようである。(一部抜粋)
12月20日
韓銀好成績 18日京城特派員発
韓国銀行の本年下半期に於ける営業成績は良好であり、政府の補給利子を仰ぐ必要が無い程の様である。
不景気の歳末 同上
歳末の商況は、一般に不振を極めている。その原因は、官吏年末賞与の廃止や総督府開始以来の官吏俸給の減額に加えて、過日警務総監部より官吏に対するお歳暮の禁止令が出て、且商家連合大売出しの景品金額を節減する取締りが励行され、その上、総督の帰任も目前にあり、何れも思惑買いの手控えの為である。元来京城の商業は、官吏が主な相手であるので、その打撃は直ちに商家の不振を来したのである。
12月22日
国境問題現状維持 20日京城特派員発
清国と朝鮮との国境は、無論、鴨緑江と豆満江の2江が境界であるが、境界線を両岸の何れにすべきかは、現在の様に両岸に堤防が無く、河の深浅、幅員が常に移動する状態にては、完全にその規定をする事は出来ない。又鴨緑江には、双方共、開港場が対立する為、陸路貿易協定に依る自由地帯を規定しているが、その効果は少なく、結局非常に大きな問題が生じるまでは、とりあえず現状維持をせざるを得ない状況である。
教育方針 同上
朝鮮人の教育方針は、総督が帰任の上で決定される予定であるが、低いレベルの実業教育に、重点を置く事が最も急務としている。現今、各地方にある宣教師の経営する各宗教学校は、最近日本語科の時間を増加し日本人教師の招聘を東京に依頼してくることがある。如何に朝鮮人を実業的に教育すべきかについて、寺内総督の方針と一致させたいとの希望を発表して来るものが多いと言われている。
12月23日
偽造貨幣続々発見 22日仁川特派員発
昨今、全羅、忠清、平安の各地に元韓国政府が発行した10銭、20銭銀貨及び5円紙幣の偽造貨幣が頻々として発見される。これらは何れも巧妙な技巧を凝らしたものであり、地方官吏が偽造品である事を知らずに、公納金等で受け取ったが少なからず程である。多分日本内地より輸入されたものと思われる。
黄海道の賊徒 同上
全羅道方面の賊徒は殆ど平定したが、黄海道一円は未だ不穏のみならず、最近三々五々、徒党を組んだ賊徒の出没が甚だしく、頻々と被害が起きている。極力掃討中であるが、賊徒の行動が敏捷で効果が上がっていないと帰客は語った。
12月24日
日本人殺される 22日京城特派員発
忠清南道の木川郡に於いて、日本人1名が盗賊の為に殺害される。賊は猟銃、弾薬を奪い、逃走した。
松丸大隊長出張 22日馬山特派員発
松丸鎮海湾重砲兵大隊長は、23日寺内総督が浪三津を通過する為に、該地に出張した。
解説:軍港鎮海湾を守る為に鎮海湾要塞が置かれていた。
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12月25日
汪公使の会見用向 24日京城特派員発
24日開城の視察を行った汪清国公使は、25日寺内総督と会見する予定である。その用件は、国境問題である。鴨緑江沿岸には、以前から支那人、朝鮮人が入乱れて住み、往来して徴税、警察上の問題があるため、これらに対する日清の双方官憲の取るべき取締りと思われる。(一部抜粋)
総督の両宮参候 同上
総督は、25日両宮に参候して、帰任の挨拶をする予定で、お土産としてミカン15箱ずつ送った。
解説:両宮とは、昌徳宮の李王と徳寿宮の高宗である。
12月27日
竹島沖溺死者追悼会 26日群山特派員発
26日、当地本願寺支院に於いて、先般の暴風雨の為、竹島沖で溺死した遭難者数百名の大追悼会を催し、全羅北道の李長官及び警務部長を始め、官民有志数百名の参会があり、極めて盛会であった。
解説:10月3日「朝鮮人の道長官」によると、朝鮮の13道の内6道は朝鮮人が長官となっている。又道長官とは、日本では県知事に当たる。
年末の盛況 同上
本年は豊作、その他恩賜金の関係に依り、朝鮮向け雑貨の売行きが大いに振るい、例年にない盛況である。
輸出額盛況 26日鎮南浦特派員発
この半期の当港の輸出額は、近年稀に見る盛況であり、9月上旬よりこの26日に至るまで、当地韓国銀行の取扱いのみにても、輸出額130万余円であいr、これを昨年の当期間に比べ43万円の増額を示した。
解説:鎮南浦とは、平壌の外港である。
12月28日
朝鮮土地調査(下関) 内国電報27日
27日東上する朝鮮総督府臨時土地調査局の田原副総裁の談によると、1,590万円を以って、本年度より着手した土地調査事業は、7か年を期して完成するものである。幹部の外は朝鮮人を使用する方針を執り、現在既に6百から7百名を使用している。事業の進捗に従い4千余名を使用する見込みである。既に三角測量を終えた方面は京畿道の一部と大邱方面であるが釜山以北全体に亙って、同測量に着手している。調査を終えた地方は、土地台帳を作り、直ちに土地登記を始める予定である。(一部抜粋)
解説:朝鮮にとって初めての近代的測量で、三角測量の基準点を全国の高い山に設置した。これが後に「日帝が、朝鮮の地から人材の出るのを防ぐために、全国の名山にわざと鉄杭を打ち、風水侵略をした」という伝説を生み出し、鉄杭除去が行われるようになった。そして1995年2月には、金泳三政権が「鉄杭除去事業」を国策事業に格上げした。
朝鮮の軍港要港
△鎮海と永興
27日公布の勅令を以って、4海軍区を5海軍区に改め、対馬及び朝鮮の海岸、海面を以って第5海軍区とし、同区の軍港を朝鮮慶尚南道の鎮海と定められた。朝鮮咸鏡南道の永興を要港とする。
解説:軍港は横須賀、呉,佐世保、舞鶴、鎮海となった。
12月29日
総督府会議 27日京城特派員発
27日は、予定どおり、午前11時より、各長官が総督府に集合して、寺内総督の臨席の下、長時間に亘り会議を開いた。しかし種々の問題が出て、容易に決定に至らず、又その間の対議会策として、将来執るべき方針についての評議があった様である。
鎮南浦航路終航 28日仁川特派員発
大同江が氷結した為、鎮南浦航路は、27日門司出港、30日当地発の商船会社福州丸を終航として、航通が途絶する。その為に明年春の解氷期まで、貨客とも鉄道線による外はない。
解説:鎮南浦は平壌の外港である。
寺内総督来着 28日新義州特派員発
寺内総督は、北方視察の1日も等閑にふすべからざるを思い、長官会議が終わると28日、直ちに新義州に来着した。平壌、鎮南浦に立寄る筈
解説:新義州は朝鮮の北端で、鴨緑江の南側にある都市
12月30日
総督視察 29日京城特派員発
寺内総督は、本日午前10時、新義州発の臨時列車にて平壌に赴き、鎮南浦をも視察の上、明日帰京する旨総督府に電報があった。
本年の貿易総額 29日釜山特派員発
本年の当地貿易総額は、1,500万余円であり、前年に比して140万余円の増額であり、近年の最高額である。
12月31日
寺内総督 29日新義州特派員発
28日夜、到着した寺内総督は、駅国内の特別列車内に一泊したが、到着後、直ちに出迎えの平安北道長官、新義州府尹、営林庁長、守備隊長、警察署長等を集めて、種々の報告を聞き、訓示を与え、29日朝は7時半より市中を巡視し、監獄、守備隊、製材所等を始め、各官庁を視察し、更に鴨緑江架橋工事を視て、午前10時半、直ちに平壌に向けて出発した。(一部抜粋)
営林庁縮小 同上
林庁の今年の木材挽出は、16万尺〆であり、鴨緑江上流も、川に近い部分は全て伐り尽くされた結果、木材相場の現状にては、到底引き合わず、今後は損失を招かない程度に於いて、成るべく事業を縮小する方針である。