期日 |
政治 |
期日 |
軍事,司法,治安 |
期日 |
金融 財政 商業 |
期日 |
工業 農業 教育 通信 鉄道 その他 |
1月3日 |
韓太子御避寒(鎌倉) |
1月26日 |
出版法民籍法発布 |
2月17日 |
歳入不足補填税 |
1月11日 |
南巡と断髪者 |
1月5日 |
韓太子の金沢御転地 |
1月12日 |
伊藤統監と鎭海湾 |
3月31日 |
居留地家屋税 |
2月2日 |
東拓事務開始 |
1月7日 |
韓帝南巡の原因 |
1月13日 |
統監演説 |
4月1日 |
日本人課税の非難 |
2月5日 |
鉱業権許可 |
1月16日 |
牟田司令官の韓国談 |
1月18日 |
暴徒の大集団 |
4月1日 |
木浦水道公債成る |
2月7日 |
東拓総裁訓示 |
1月21日 |
北韓行幸と御日程 |
1月27日 |
賊魁逮捕 |
4月2日 |
馬山海面埋立 |
2月8日 |
敦清直通航路期成運動 |
2月1日 |
統監の訓示 |
1月30日 |
日本国旗を破棄す |
4月12日 |
酒税と煙草税 |
2月18日 |
咸鏡南道飢饉惨状 |
2月11日 |
伊藤統監出発 |
2月23日 |
宋内相に対する米国宣教師 |
4月20日 |
巨智部博士の帰朝 |
3月23日 |
副統監総裁謁見 |
3月7日 |
民籍法発布 |
3月1日 |
羅州の賊襲 |
4月20日 |
施療院の新設 |
3月29日 |
韓皇と医術 |
4月11日 |
京城の日本人 |
3月28日 |
暴徒横行 |
4月24日 |
東拓金融部景況 |
4月4日 |
船津開港式 |
4月11日 |
宋秉畯弾劾 |
4月7日 |
漁船千五百出漁 |
5月4日 |
東拓貸付規程認可 |
4月18日 |
築港期成市民大会 |
4月20日 |
平賀顧問の気炎 |
5月6日 |
十七時間の交戦 |
5月6日 |
旧白銅貨通用禁止 |
4月26日 |
木内次官渡日の主用 |
5月1日 |
中学校入学式 |
5月12日 |
賊魁死刑 |
5月16日 |
新税反対 |
5月2日 |
開港十周年祝賀式 |
5月3日 |
日韓人連合大会 |
5月31日 |
韓国派遣隊 |
8月9日 |
龍厳浦築港 |
6月7日 |
水産組合拡張 |
5月10日 |
曽禰副統監談 |
8月1日 |
軍部廃止跡始末 |
8月13日 |
水利灌漑起工 |
6月7日 |
水道設計官費 |
5月28日 |
海軍紀念祭 |
8月3日 |
武官学校解散 |
8月17日 |
統監府来年度予算 |
5月8日 |
仁川築港請願 |
6月1日 |
京城民会の自治保安決議 |
8月7日 |
司法権委任実施協議 |
8月18日 |
京元湖南鉄道予算 |
5月17日 |
京仁間視察試乗 |
8月2日 |
韓太子御出発 |
8月20日 |
韓国裁判制度 |
9月8日 |
度量衡器輸入取締 |
6月6日 |
大同江鉄橋落成式 |
8月6日 |
韓太子盛岡発 |
8月28日 |
裁判所監獄定員 |
9月10日 |
東拓の貸付内定 |
7月2日 |
道路設計準備 |
8月24日 |
韓太子御帰京 |
9月4日 |
除隊将校の運動 |
9月13日 |
比企博士の韓国鉱業談 |
8月5日 |
釜山港改良計画 |
9月12日 |
一進大韓連合可決 |
9月19日 |
司法権委任実施時期 |
9月26日 |
韓国保護経費 |
8月6日 |
安奉線と鴨緑江架橋工事 |
9月12日 |
三南鉄道期成会 |
10月2日 |
討伐略終了 |
10月16日 |
司法警察費削減 |
8月8日 |
鉄道問題と統監府 |
10月16日 |
官紀振粛の手始 |
10月17日 |
司法庁定員 |
10月16日 |
学校費是認 |
8月13日 |
漁業権問題決了 |
10月21日 |
伊藤公一行 |
10月21日 |
官紀振粛 |
10月17日 |
載寧殷栗鉱山買収 |
8月22日 |
統監府の中学設立案 |
10月25日 |
某大臣の韓国談 |
10月22日 |
裁判所廃合 |
11月26日 |
両班秩祿給与議 |
9月6日 |
虫害地の粟作 |
10月28日 |
凶変に対する決議 |
10月26日 |
南韓暴徒討伐成功 |
12月10日 |
貨物無税通過 |
9月15日 |
鎮南浦水道実測 |
10月28日 |
大韓毎日社の祝宴 |
11月1日 |
安應七の素性 |
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9月28日 |
湖南鉄道速成運動 |
10月30日 |
韓国正使其他 |
11月2日 |
凶行者の素顔 |
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9月30日 |
平壌理事庁管内の外国人 |
11月18日 |
韓太子輔育総裁 |
11月14日 |
暴徒捕虜の使用 |
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10月2日 |
京元鉄道運動 |
11月20日 |
韓国政府の現状 |
11月17日 |
安重根余審終結 |
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10月5日 |
湖南鉄道決議 |
11月27日 |
日韓合併論 |
12月23日 |
李氏遭難 |
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10月6日 |
日韓新航路内定 |
11月28日 |
合邦論と三党 |
12月25日 |
李総理容態後報 |
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10月8日 |
湖南京元鉄道競争 |
12月5日 |
日韓合邦 |
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10月11日 |
京元鉄道 |
12月9日 |
一進会の地位 |
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10月16日 |
土地調査模範 |
12月12日 |
閔の激厲 |
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10月20日 |
魚市場開業式 |
12月15日 |
一進会の同情者 |
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12月20日 |
韓国留学生総代 |
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12月26日 |
理事庁観察府合併 |
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12月31日 |
満韓移民奨励 |
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明治42年1月
1月3日
韓太子御避寒(鎌倉) 内国電報2日発
韓国皇太子殿下は、3日午後1時半、新橋発列車にて鎌倉へ御避寒あそばされ、三橋旅館に当分御滞在の予定
1月5日
韓太子の金沢御転地 内国電報(4日付)
鎌倉長谷の三橋に御滞在中の韓太子殿下は、近々金沢の伊藤統監別荘へ転地される予定である。3日三橋方へ御到着の際には、周布神奈川県知事が先着の上、門際で奉迎し、御機嫌をお伺いの際には、草花と動物を現わした見事な西洋菓子1台と米国産オレンジ1籠を献上した。
解説:韓国皇太子は、日本で韓国皇室としての敬意を払われている。伊藤統監の別荘は、横浜市金沢区の野島にあり、平成21年に復元工事が行われている。
1月26日
出版法民籍法発布 25日京城特派員発
内部は、近日中に出版法を発布する予定である。全編17カ条からなり、純然たる検閲主義で、如何なる出版物も、一応その筋の検閲を受けなければ、出版を許さない規定である。又民籍法も近日中に発布される予定である。内容は、台湾に於いて施行された実績を参照して、8カ条からなっている。尚警察官の傷痍、疾病及び給与規則、渡船営業取締、寄付、金品募集取締規則も同時に発布される予定
解説:内部とは内務省を意味する。
明治42年2月
2月5日
鉱業権許可 同上
江藤恒作は、慶尚南道昌原郡の銅鉱16万5千坪の鉱業許可を受けた。但し広島県人名川貢、熊本県人浜田敬吾と共同事業との事である。
2月7日
東拓総裁訓示 6日京城特派員発
宇佐川総裁以下社員36名が着任した。総裁は6日、閔泳綺以下韓国側重役を日本側役員に紹介し、訓示演説を行った。8日から旧軍令部跡に事務所を開き、役屯土の従事及び金融部を開始する予定である。総裁は、7日統監、副統監、各大臣その他の関係者を歴訪する。
解説:東拓とは、朝鮮に於ける土地開墾を目的とした半官半民の会社であった。
役屯土の従事とは、駅屯土の誤りではないかと思われるが、李朝時代に強引に農民から土地を取り上げ国有地とした為に紛争地を解決する事業が必要であった。
府尹廃官 6日京城特派員発
漢城府を除く外、仁川、城津以下11府尹は、近日中に排官され、府は全て郡に編入される予定である。
解説:重要な都市には、府が置かれ府尹(長官)が任命されていた。例えば京城には漢城府が置かれていた。
2月8日
敦清直通航路期成運動 6日清津特派員発
6日夜、公民大会があった。参会する者は5百名で、敦賀と清津の直通航路の促成を期する旨を決議し、同時に三浦代議士に電報を打ち、全権を委任し、浅岡外1名を上京委員に指名選挙した。
解説:清津は現在の北朝鮮にあり、日本海に面した港町である。
2月11日
伊藤統監出発 10日仁川特派員発
伊藤統監は、10日午前軍艦吾妻に乗込み、午後零時半に出発した。
2月17日
歳入不足補填税 15日京城特派員発
韓国政府の歳入不足を補てんする為に、家屋税、酒税、煙草税の合計85万円余り収入の見込みで本日公布された。
2月18日
咸鏡南道飢饉惨状 同上
洪水の為に農作物が取れなかった咸鏡南道文川部地方の飢饉は、最近いよいよ惨状を呈し、瀕死の者1549人、将来飢餓の恐れがある者2500人である。草の根じ少量の穀物を入れたもので僅かに露命をつないでいる由
2月23日
宋内相に対する米国宣教師 22日京城特派員発
宋内相が馬関に於いて、米国宣教師が統監政治の妨害を教唆し、その信徒は大韓協会という政治結社に加入し、政治運動を行う云々の談話を行ったのに対し、米国宣教師は非常に憤慨し、20日青年会館に会合し、満場の決議により内相に質問する事になった。
2月26日
米国宣教師会合 25日京城特派員発
米国宣教師一行の決議に依り、宋内相に電報で質問した排日思想教唆運動の談話に対し、宋はこの様な談話をした事は無いと回答して来た。その為に各宣教師は、更に各地の宣教師と当地に会合し、これに対する第二の方法を協議する由
2月28日
宋秉畯免官 27日京城党派員発
宋内相は、本日依願退職となり、朴齋純が本日内相となった。
解説:宋秉畯は、当時の韓国における改革派の政治家で一進会を組織していた。「韓日合邦を要求する声明書」を皇帝純宗に提出、併合後は朝鮮貴族の子爵、朝鮮総督府中枢院顧問となった。朴齋純も後朝鮮貴族の子爵、朝鮮総督府中枢院顧問となっている。
明治42年3月
3月4日
日本海横断航路 3日元山特派員発
横断航路の開始運動の為に、2日若松理事官等は、上京の途に就いた。
3月6日
韓国新税解釈問題 5日京城特派員発
酒、煙草及び家屋3税の新定について、在韓日本人は、その税法に従うべき義務があるかどうかに付いて、協議中との事である。服従の義務が無いとすれば、自然酒の製造、煙草の耕作は日本人の手に移り、支那人もまた、盛んにその製造、耕作を始め、韓人は勢い圧倒されるであろう。解釈の仕方によっては、早晩一問題が起こると思われる。
3月7日
民籍法発布 6日京城特派員発
本日の官報を以て、民籍法が発布された。戸籍上重要な案件は、10日以内に村長に申告させ、違反者は50以下の笞、又は5円以下の罰金に、虚偽の申告者は、6カ月以下の懲役,笞百以下の罰に処し、4月1日から施行する。
解説:これは韓国近代化に取って極めて重要な法律の施行であった。目的は国民の身分関係を法律上明確にする事と全国の戸数を正確に把握する事であった。その為に虚偽の申告に対して罰則を設けている。
3月19日
追加予算発布 18日京城特派員発
本日18日の官報において、漁業税法、皇室債務出訴規定及び隆キ2年度歳入追加予算470万円、同歳出393万余円を発布した。歳入の主なものは、酒、煙草、家屋の三税と公債繰入金等であり、歳出は農工債務引受金、塩田費等である。
3月20日
日本観光団 19日京城党派員発
京城日報主催の日本観光団は、非常な盛況であり、大勲位輔国金永昌、前宮相金宋漢氏等を始め、銀行、会社重役、各道の主要儒生及び豪農等の加入申し込みがあり、同社は定員百名を限り、申込を謝絶した。旅行期限は20日間の予定であったが30日に延長し、4月1日出発の予定
土地5700町歩を所有して、日本からの移民と開拓をその事業として掲げた。
日本観光団出発期 同上
京城日報が主催する日本観光団は、4月11日出発の予定と言われている。
石原釜山民団長上京 22日釜山特派員発
釜山の異人山の切り取り工事費及び支那人居留地から草梁に至る埋立工事費百万円を内地の銀行から借り入れる用務を帯び、21日上京した。
3月27日
裁判所開庁式 26日城津特派員発
城津区裁判所は、26日開庁式を挙げた。
解説:城津は、北朝鮮の最北咸鏡北道にあり、日本海に面している。
出版法実施 同上
出版法がいよいよ28日から実施される。
3月28日
帯同謁見 27日京城特派員発
29日曽禰副統監は、駐清米国公使館書記官リランドハリソン氏及び拓殖会社重役一同を帯同して、参内謁見する予定
暴徒横行 同上
暴徒の略奪が頻頻の模様である。本日内部に達した情報によれば、12日忠清道海美郡北面面長の宅を襲い、公金千円を略奪し、又23日京畿道江華郡某面長宅に突入、公金を略奪した。又七百の暴徒が楊州郡を横行して、民財を略奪し、人心は恐恐としている。
解説:面長は、日本に於ける村長に相当する。
賞勲院総裁内定 同上
賞勲院総裁は、前軍部大臣趙義淵に内定した。
3月29日
韓皇と医術(佐藤博士談) 内国電報(28日)
初めての温浴 太皇帝の脚部に腫れ物ができ、余は相当のお手当をしたが、間もなく局部の病気も快方に向かった為に、予は50年来入浴した事のない太皇帝に片足だけでも温浴を勧めた。浴後の快感は、遂に片足が両足となり、腰までが腹までとなり、胸までが遂に全身浴をすることになった。その為宮中では、新たに湯殿を新築する事になった。
3月31日
居留地家屋税 29日京城特派員発
日本その他外国人に家屋税を付加する問題は、京城、仁川、釜山、元山等開港場の居留地10韓里(日本の1里)以内は課税せず、大邱、新義州は、理事庁、民団所在地である為にこれに準ずる事に決し、統監府から各理事官に訓令を発した。
明治42年4月
4月1日
日本人課税の非難 31日京城特派員発
4月1日より実施の酒造、煙草、家屋課税について専管居留地、各国居留地は勿論、居留地外10韓里以内に於ける韓人は、納税の義務がないが、それ以外に於ける外人(日本人を含む)は、悉く納税の義務を有すると決定した事は、偏頗な政略の結果であるとして反対の声が高い。特に韓国に於ける日本人の健全な発達を害するものであるとの議論が有力である。
木浦水道公債成る 31日木浦特派員発
木浦水道公債は、韓国農工銀行との間に借款が成立し、近日起工式を挙げる予定である。
4月2日
馬山海面埋立 1日馬山特派員発
統監府鉄道管理局は、馬山停車場より旧馬山間の海面を埋め立て予定で、31日釜山から鶉尾所長が来訪した。
統監府吏員減俸 同上
統監府は、議会に於いて予算削減の結果、昨今多くの嘱託を解雇し、且つ内地官吏に比し殆ど倍額となる俸給規定を廃し、普通とする等、ようやく縮小の傾向がある。しかし未だ余剰官吏を淘汰する英断をしないのは遺憾である。
4月4日
船津開港式 3日馬山特派員発
晋州の貨物集散地である船津(せんしん)に於いて盛大な開港式が挙行された。馬山成年実業家運動会等があった。
水道式 2日木浦特派員発
3日水道式を挙行した。
4月7日
漁船千五百出漁 七日仁川特派員発
日韓漁船千5百隻が、近い内に延平島付近に出漁しようとして、警察の保護を願い出た。
解説:延平島は、北朝鮮との境界付近にあり、北朝鮮による砲撃事件で有名となった島で、保護を願い出たのは、多分当時は海賊の為と思われる。
4月11日
対外警察の監督 同上
在韓国外国人に対する警察事務に関して、韓国警察官は、将来日本国官憲の指揮監督を受けなければならないとの協定が、韓国政府と我が統監府との間で成立した旨告示した。
京城の日本人 同上
3月末の調査に依れば、京城の日本居留民は、戸数6、677、人口男1万2千7百69人、女1万3百50人である。
宋秉畯弾劾 同上
13道の儒生20余名が連署して、宋秉畯の太子、小師に対する弾劾的建白書を8日内閣に提出した。
解説:改革派の政治家で、一進会を組織し、李完用内閣で大臣を歴任、併合後朝鮮貴族となっている。
4月12日
観光団出発 11日京城特派員発
あらゆる階層を網羅した京城日報主催の日本観光団は、11日午前8時万歳の声の中、南大門発の旅程に就いた。総員94名で古式の礼楽、日本軍楽の吹奏があり、皇族、各大臣、その他の見送り1万余人、稀有の壮観であった。旅慣れぬためか服装まちまちで奇観であった。
酒税と煙草税 同上
酒と煙草は、韓国人の最嗜好品であるのに、新税施行の為に価格の騰貴を気遣い、日本は自国の製品を売ろうとして課税するものであるとの苦情が多い。
4月18日
築港期成市民大会 17日仁川特派員発
17日仁川港築港期成の趣意にて、市民大会を開いたが、市民の奮起は目覚ましいものがあった。
4月19日
曽禰副統監出発 18日京城特派員発
曽禰副統監は、18日北韓巡視の途に就いた。雨天にも拘わらず、李総理以下盛大な見送りがあった。
4月20日
曽我副統監 19日馬山特派員発
19日午後、大邱から当駅に到着し、多数の官民に出迎えられた。直ちに理事官官舎に入り、6時、日清韓三国人有志の歓迎会に臨んだ。
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巨智部博士の帰朝 同上
巨智部博士は、今回辞任し、夫人と共に帰朝した。
解説:巨智部(こちべ)博士は、鉱山技師として韓廷に招聘され明治38年6月に来韓し、韓廷から鉱山規則の制定、及び鉱山に属する全ての事務を一任されていた。
明治39年1月8日に次の記事がある。
巨智部(こちべ)博士の来韓以来、韓国鉱山の業務は大いに整理の緒についた。既に同博士の官邸内に、分析所、冶金炉並びに本陳列場を設備し又韓人の青年を募集して、地質、鉱物、化学その他の科目を講習させつつあるが、今回更にその規模を拡張し製造科学に関する科目も教授し、この教員として各科に付き6名づつを日本から招聘する事となり、子の諸般の設備のため同博士は近く帰朝の途に就く予定である。
施療院の新設 同上
今回統監府は、清州、金州、咸興の3カ所に取りあえず施療院を設け、追々各所に同院を置く事とした。
平賀顧問の気炎 同上
24日官立工業伝習所の第1回卒業式の席上、顧問平賀義美氏は、韓国の上流民が徒に政争を事とする外何事も弁ぜず、為に作業はますます衰退すると直言したので、李総理以下各大臣、並みいる韓人、貴族等は呆然としていた。
解説: 平賀博士は、日本で初めての工学博士であり、伊藤統監に招聘されている。
1878年東京帝国大学理学部卒業。福岡藩主黒田の給費でイギリスに留学させてもらい、オーエンス大学に入学、染色術を専攻した。また実際的工業を修めた。
1881帰国し、東京職工学校(東京工業大学)東京大学教授、農商務省技師となる。留学で得た染色術を繊維業界からの講習依頼が殺到したため、全国行脚を行った。
大阪商品陳列所所長、大阪織物会社を設立し社長になるなど歴任。 教育面でも関西商工学校創立に参加、明治専門学校創立以来の協議員などを歴任するなど尽力した。また『日本工業教育論』を著すなど、工業学の普及に努め、日本で初めて工学博士となった。
このように明治・大正期の商工業界に多大の貢献をなした人物である。
4月24日
東拓金融部景況 23日京城特派員発
予て統監府へ手続き中の東拓金融部貸付規定は、大蔵省の交渉も完了したので、両3日中に許可があると思われる。これと同時に現在調査中の申込に対し、一切の取引を開始する筈である。因みに金融申込は、日韓人共に多数であり、好景気である。同社が引き受けた駅屯土は、昨日帰任の鈴木融通局長と頻りに交渉中であるので、これも又間もなく完了すると思われる。
解説:駅屯土とは、李朝時代の宿駅に付属する土地である。この土地の所有権調査で、煩雑な申告作業に加えて地方有力者・地主などが同委員会の有力メンバーとなっていたので,土地所有権・占有権が否定される農民が少なくなかったので難しい調査となった。東拓がこの駅屯土の所有権調査を行っていたのではと思われる。
4月26日
木内次官渡日の主用 同上
23日渡日した木内次官の用務は、平壌鉱業所を拡張する件が主である。以前和田博士が精査した結果、この際百万円を投じて拡張しようとする炭脈は、三層で10尺(約3m)乃至15尺(約4.5m)の平均を保ち、大きいものは60尺(18.2m)もあり、非常に有望と思われる。この計画は、副統監も熱心に賛成しており、今後、資金の調達と販路のみは研究する必要があるとの事である。
明治42年5月
中学校入学式 同上
居留民団立中学校が新築落成し、30日入学式が挙行された。入学生徒数は159名
5月2日
開港十周年会 1日馬山特派員発
1日開港十周年の為に、園遊会、運動会等があった。
開港十周年祝賀式 1日群山特派員発
1日、公園に於いて、開港十周年祝賀式があり、来会者は、永濱関税総長、吉原東拓副総裁外五百余名であり、市内一般で昼夜余興が行われ、未曾有の盛況であった。
5月3日
日韓人連合大会 2日木浦党派員発
当商業会議所主催の下に、日韓人連合大会が開かれた。出席者は、日本人側は、全南各地の日本人会、韓人側は、金融組合、民議所等の代表者30余名であった。一同より2日に亙り、議案8件を決議し、2日正午閉会式を行った。決議の主なものは、暴徒横行の実情及び被害の真相を当局に訴え、この鎮静を要請し、尚被害者に対し、韓国政府に於いて、相当の損害を賠償させる為、日韓両政府に請願する事、その他南韓鉄道の敷設、新税法の一部施行延期、耕作者の請願等であった。
勧業品評会褒賞式 2日平壌特派員発
平安南道の勧業品評会褒賞授与式が行われた。出品総数2,769、受賞
一等25、二等29、三等95、賞状250件であった。
5月4日
東拓貸付規程認可 3日京城特派員発
東拓貸付規程が3日、統監府から認可された。この規程は11カ条からなっていたが、第9条為替の件が削除された事は、既電のとおりである。その他の要項は、貸付方法規程及び据置期間は、金額、使用目的事業の難易度、並びに収益の多寡によってこれを定める。不動産を担保として貸付ける金額は、公定価額の3分の2以内の範囲に於いて、担保物件の位置,種類、信用度により考慮する。担保の建物は、指定の火災保険を掛け、農産物又は獲得物は、既定の倉庫に保管し、確実に保険を掛ける事、移住民に対する移住費貸付規程は、別規定による等である。
解説:やがて東洋拓殖株式会社(東拓)は、土地の買収を進め、朝鮮に於ける最大の地主となり、日本の朝鮮経営の中心となって行った。
5月6日
十七時間の交戦 4日京城特派員発
全羅南道の暴徒討伐の為に、蛍江(れいこう)守備隊より増援を得て、金海山以下100名の賊魁と17時間に亘って交戦し、遂に彼等を撃退した。敵の死者12名、負傷者30名、捕虜1名であり、我の軽傷者は2名であった。
旧白銅貨通用禁止 同上
旧白銅貨は、5月限りで通用禁止に付、地方補助貨の逼迫を気遣い、各金融業者の出願に応じ、新補助貨2千5百円を無利息で貸し付けるとの事である。
解説:大阪造幣局で日本の1円銀貨と1銭銅貨に似た硬貨が発行され、1905年から白銅貨は交換されていた。白銅貨の中には不良貨もあり、品質の良いものは2.5銭、品質のあまり良くないものは1銭、極端に悪いものは没収された。
6月7日
種牛検疫費支出 同上
輸入種牛検疫費に1万2千4百円、検疫所建築費に2万1千円を予備金より支出する事とし、検疫所を釜山に設ける。
水産組合拡張 同上
従来の水産組合を拡張し、釜山に本部を置き、支部を9個所、出張所を11カ所とし、農商工部より補助を与え、日韓人の為に便宜を与える事になった。
水道設計官費 6日馬山特派員発
馬山民団より申請した水道設計は、官費にて測量、設計を行うと思われる。
鎭海湾の漁業 同上
鎭海湾の要塞地域内の漁業は、なるべくその筋より許可する方針の様である。
解説:日本海軍の韓国における基地は、鎭海湾に置かれていた。日本の鎮守府と同様に多くの桜が植えられ、現在でも韓国の桜の名所となっており、又海軍士官学校が置かれている。
5月8日
仁川築港請願 7日仁川特派員発
仁川築港請願に対する仁川居留民戸主3千余名の調印が終わった為、7日民団役所に於いて55名で委員会を開いた後、理事庁に赴き、仁川築港請願書を提出した。
5月9日
駅頓土引続 同上
東洋拓殖会社は、度支部より提供した駅頓土について、調査中であるが、いよいよ今回この4分の1の土地を選択し、引き継ぎを終わった。重なっている場所は京城、平壌、馬山付近である。
5月10日
曽禰副統監談 9日京城特派員発
大変感慨深かった事は、交通が極めて不便な欝陵島に700名の日本人を見たのを始めとして、至る所や意外な所に移住民がおり、何れも小学校、移住民会等を組織して着々と基礎を進めている事である。
地方官憲の思想も思ったより従順の風があり、一行の為に名所、古蹟、産業等の視察に多大な便宜を与え、日本国旗を掲げて歓迎の意を表する等、強ち反日に偏した様にも見えなかった。(一部抜粋)
暴徒討伐4時間 9日元山特派員発
去る6日、甲山方面に於いて77名の暴徒が現れたので、甲山憲兵分遣所より直ちに討伐に向かい、交戦4時間にわたり、賊は死体5名を遺棄して、北方に退却した。我が憲兵隊1名戦死した。
5月12日
賊魁死刑 11日京城特派員発
部下2千人を有し、京畿、忠清両道を騒がした大盗賊魁李允讃は、この程龍山に於いて捕縛され、死刑の宣告を受けた。
5月16日
新税反対 15日馬山特派員発
大邱在住の同胞は、韓国政府の賦課しようとしている煙草、酒等の新税に付いて、14日夜、反対運動の為の市民大会を開いた。
5月17日
京仁間視察試乗 16日仁川特派員発
京仁間の鉄道線の改修は、ほぼその工事を終わり、旧来の面目を改めたので、大屋長官は、主要な官民の視察、試乗を請い、16日京仁間の紳士、婦人千5百名を当地方の石洞に招待し、盛宴を張った。
解説:京仁線は、朝鮮半島で最初の鉄道である。
5月18日
統監権限縮小説 17日京城特派員発
曽禰副統監の帰朝は、無論昇任の為と思われるが、今後統監の権限は、従来よりも縮小され、全て母国の元老の拘束を受ける事になりそうである。そして副統監がこれを甘受するかどうかは疑問であるが、恐らく承知すると思われる。これと同時に韓廷の組織を改め、次官を置く事になるとの説がある。
解説:結局統監は伊藤博文が続投し、1910年韓国人テロリスト安重根に暗殺された。
5月19日
軍用銃の貸与 17日京城特派員発
各地方に居る日本人に対して、農場及び漁場等を自衛する為、その希望によって軍用銃を貸与する旨の内示が本日あった。
5月21日
仁川居留民団長とその後任 20日仁川特派員発
富田民長は、在職10年7カ月に亘り、清廉勤勉であり、私心なし。今回の退職、凶変に際しても、多少に負債はあるので、居留民は、これを気の毒に思い、民団から規程退職金の他に、慰労餞別を兼ねて、2千円内外を醵金し、贈呈する事に評議が決まった。民長は日増しに恢復しつつあるので、今月末までには、多分退院する事になると思われる。この評議会席上で、信夫理事官は、後任民長は、奉天郵便局長岩崎直英氏にほぼ決定した旨を明言し、30余名の出席者は、皆満足の意を表した。
解説:富田民長は、5月11日、割腹自殺をしようとしていた。
5月24日
元山開港30周年祭 23日元山特派員発
23日、開港30年紀念祭を行う。各種の余興があり、沸く様な群衆の歓声があった。特に両新聞社の仮装行列は、最も奇抜で衆目を集めた。夜は提灯行列の催しがある予定
5月26日
関税免除の法律 同上
北韓の咸鏡道清津江を経て、間島及びホン春(ホンチユン)地方に輸出入する貨物は、関税を免除するとの法律が本日、官報にて発布された。これはウラジオが閉鎖された結果、貿易を拡張する必要が認められたものである。
観光団の産物 同上
観光団の土産として、製紙会社を設立する議が熟し、費本金50万円で、日韓人協同の会社を龍山に設けようとし、現在奔走中である。大阪製紙会社が、この顧問の様である。
5月27日
商業学校 同上
当地の官立日語学校は、組織を変更し、甲種商業教育を施す実業学校となった。
三税施行の諭示 26日京城特派員発
江原道地方では、三税施行に関し、考え方を諭示している例の自称義兵が徘徊している。同税を強制するものは、民を苦しめるものであり、民に代わって銃殺する等の脅迫が行われ始めている。
5月28日
暴徒被害救恤金 27日京城特派員発
暴徒の為に生じた被害者に対し、韓皇帝より救恤金10万円が下賜される事になった。
海軍紀念祭 27日馬山特派員発
27日鎭海防備隊にて、海軍紀念祭があり、盛況であった。
解説:1904年5月27日、日本海軍は、対馬沖でロシア海軍を破り、日露戦争の勝利を確定した。日本海軍は、この日を海軍紀念日とした。現在横須賀の記念艦三笠では、毎年記念式典が行われている。
海軍紀念祝賀祭 27日木浦特派員発
海軍紀念祝賀祭を民団楼上に催す。参加した者は、官民約80名で盛会であった。
5月30日
大同江鉄橋竣工式 同上
大同江の鉄橋は、2個所とも竣工し、来る6日鉄道管理局で竣工式を挙行する予定
5月31日
韓国派遣隊 30日釜山特派員発
臨時韓国派遣隊司令部は29日対馬丸にて、同1個連隊は30日午前、仁川丸にて何れも到着した。31日出発の予定
解説:臨時韓国派遣隊は、大邱にいた歩兵十四連隊(小倉)が帰国後、新設された部隊であり、第三師団(名古屋)の部隊で編成されている。
明治42年6月
6月1日
京城民会の自治保安決議 31日京城特派員発
居留民団の42年度予算に対し、京城理事官が民長の俸給、交際費を増加したが、これは、民団の自治を尊重せず、そして民団法施行規則第52条に違反したものと認め、京城民会は、その処分の取消を統監に請願し、以て自治の保安を期する事を適当とするとの決議を行い、民長に直ちに請願手続きをさせる事にした。
西島将軍以下叙勲 同上
西島中将は大勲梨花大綬章に、明石少将は勲一等八卦章に、その他文武官に叙勲が行われた。
解説:明石少将とは、日露戦争中諜報活動で有名な明石元次郎であり、叙勲時は、憲兵隊司令官であった。
臨時派遣隊閲兵式 31日釜山特派員発
31日朝、臨時派遣隊小山少佐以下約1千7百余名が吉林丸で来釜し、午後渡辺旅団長の閲兵式が行われた。1日朝出発の予定 30日夜着の部隊は、31日朝北に急行した。
解説:5月31日「韓国派遣隊」の続報
6月2日
皇后模範農場行啓 1日京城特派員発
皇后陛下は、本日模範農場に行啓された。御到着後本田場長の御案内で便殿に赴き、御休憩中、観察使、場長、郡守、地方貴婦人9名に拝謁を仰せつけられた。午餐後、標本室、養蚕室等隈なく御順覧され、記念の為に杏樹(きょうじゅ)の御手植えをされ、3時30分御帰りになった。奉送迎者数千名であり、非常に盛大であった。
各道書記官会議 同上
書記官会議は、1日より内部に於いて開会した。本日は打合せ会、2日より内部の訓示及び試問事項の協議があり、後各部の専管事務に就いて内議を開く予定
日本観光団歓迎計画 同上
九州、大阪、神戸等の韓国観光団が間もなく来遊する為、日韓官民有志は歓迎を計画中である。
6月3日
政界堕気 2日京城特派員発
統監更迭の議が未定の際であるのに、参与官の大部分は帰朝して帰らず、政界は全く惰気を生じている。
李趾鎔入閣風説 同上
李趾鎔が入閣の運動中であると噂されている。
巨智部博士叙勲説 同上
巨智部博士の在職中の功労に対し、勲二等大極章及び金6千円を賜るであろうと聞いている。
解説:巨智部博士とは、理学博士巨智部忠承(こちべただつね)であり、当代一流の地質学者であり、38年以来統監府農商工部技監をしていた。
38年7月1日「巨智部博士の来韓」の記事があった。
39年1月8日には「 巨智部(こちべ)博士の来韓以来、韓国鉱山の業務は大いに整理の緒についた。既に同博士の官邸内に、分析所、冶金炉並びに本陳列場を設備し又韓人の青年を募集して、地質、鉱物、化学その他の科目を講習させつつあるが、今回更にその規模を拡張し製造科学に関する科目も教授し、」の記事がある。
韓国派遣隊上陸 2日木浦特派員発
韓国派遣隊の第二連隊の一部が、本日2日琴平丸で上陸した。当地の官民有志、学校生徒、愛国婦人会員等は、埠頭に出迎えた。なお民団商業会議所及び有志は、下士官以下に巻煙草を贈り、将校20余名を招待して、民団楼上に歓迎会を開いた。
解説:5月31日韓国派遣隊の記事の続報
軍隊消息 2日釜山特派員発
2日午前10時渡辺旅団長以下司令部は、汽車にて大沽(タークー)に向かう。官民の見送り多し。
恒吉旅団長は9日、生田目連隊長は10日、菊池連隊長は11日、守備隊を引き揚げ、当地に集合の予定
6月4日
漢城政界の雲雪 3日京城特派員発
正副統監が不在の為、長い間休止中であった閣議が、2日俄かに仁政殿で開かれた。何事か長時間、鳩首審議が行われた。風雲が何となく動きそうな模様である。
6月5日
チロル、モリソン両氏入京 4日京城特派員発
ロンドンタイムス外事課長チロル、同北京通信員モリソン両氏は、釜山まで出迎えた橋本副理事官と共に、本日入京し、直ちに旅館に宛てる統監邸に入った。当地滞在は、二日間で、英国総領事は、盛んな歓迎会を催した。
解説:義和団の乱で北京籠城が2カ月続いたが、その際モリソン氏も籠城していた。
韓国民心動揺 同上
曽禰氏の昇任の条件として、韓廷各部の統廃合、日本人大臣採用、その他二三を列挙した某紙の号外が発行されたので、そうでなくても不安の念を抱いている韓人は、一層危惧の念を高めた様である。この際、一日も早く確かな公報を発表する必要であろう。
6月6日
大同江鉄橋落成式 5日平壌特派員発
大同江鉄橋の改築工事が竣工し、5日盛大な開通式を挙行した。
韓帝恩賜と統監 5日京城特派員発
皇帝は、統監辞任の時は多年の功労を表彰する為、優渥な勅語と純金製の小箱(多額の費用で作成する精巧品)を贈る事に内定した。
解説:韓国では、伊藤統監が更迭されるという噂が信じられていた。
6月7日
チロル氏とモリソン氏 6日京城特派員発
経済協会は、モリソン氏を京城ホテルに招待し、午餐会を開いた。チロル氏は、5日夜来数回の下痢で静養中であるが、7日の出発は差し支えない模様
解説:6月5日の記事の続報である。
韓国視察団 6日釜山特派員発
宇佐川東拓総裁及び九州日々新聞が主催する韓国視察団50名は、6日午後2時半来着し、直ちに京城に向かった。
明治42年7月
明治42年8月
8月1日
軍部廃止 30日京城特派員発
31日勅令が出た。「朕は、将来官民の発達程度が増兵を要する時に至るまで、軍部及び武官学校を廃止し、現在の兵を宮中親衛兵に置き、これを管掌させる士官の養成は、日本国政府に委託して軍事を練達させる。なんじら国民は朕の意を体せよ」(一部抜粋)
軍部廃止跡始末 31日京城特派員発
前軍部大臣李乗武(りへいぶ)は、31日朝宮中に於いて、親衛府長官に親任された。親衛府は、元の軍部を以てこれに充て、本日それぞれ官制に基づき任命されるであろう。
近衛歩騎隊の将校、下士卒に対して、李乗武より官制改革の理由を懇示し、それぞれ勲章を賜り、不穏な状態はない。
将校38名は、予備に編入し、新恩給規定の恩給を与え、11名は休職とし、多額の一時賜金があった。
市内の警戒は、依然厳重であるが平穏である。
8月2日
韓太子御出発 内国電報31日
東北北海道御巡啓の韓国皇太子殿下は、昨朝午前8時御出発され、伊藤哺育総裁、趙武官長が陪乗する御馬車を召され、折柄の小雨を冒して上野駅に向かわれた。
解説:伊藤哺育総裁とは、前韓国統監であった伊藤博文である。韓国皇太子は、明治天皇の肝いりで、日本で教育されている。
8月3日
大阪大火救助計画 1日京城特派員発
大阪の大火が知れ渡るや、最も関係が深い当地居留民は、非常に驚いて、寄ると触るとこの話のみをしており、非常に大きな影響をあたえた。京城日報社は、罹災救助金の募集を始め、大阪人会は、又別の計画をしている。
韓銀創立委員 2日京城特派員発
松尾日本銀行総裁、李イン和、荒井次官、児玉伯、宋東拓殖理事長、韓湖農工相、李監国の7名に決定した。
武官学校解散 同上
2日、校長李キ斗より皇帝の意を伝えて解散した。生徒45名の内、40名は一緒に日本留学を望んでいる。
8月4日
間島形勢諸説 3日京城特派員発
間島の不穏な情勢については、当局は殊更に打ち消しているが、帰来者の言によれば、事情は、妙な様子であり、齊籐大佐の任地は、清兵に包囲されている姿で、清兵の歩哨は、一々通行者を誰何し、厳重に出入を取調べているとの事である。(一部抜粋)
解説:間島とは、現在中国領で朝鮮に接している地域である。
學度両相留任 同上
李學相、任度相(たくしょう)は、又もや辞意を翻して、李総理の切なる勧告に接したと称して留任に決し、昨2日閣議に列した。
解説:學相は文部大臣、度相とは大蔵大臣である。
大久保大将 3日馬山特派員発
3日午前、加特島より来着、午後6時望月楼に於ける官民有志の歓迎会に臨んだ。
陸上通関開始 同上
近日中に馬山駅にて陸上貨物の通関を開始するとの事である。
8月5日
釜山港改良計画 4日京城特派員発
度支部建築所の臨時工事部技師坂出鳴海氏は、先月下旬、急遽東上を命じられたが、用向きは、満韓日の鉄道連絡上、今の釜山港は設備が不完全であるので、これを改良する為である。今なお帰京しないが、建築所は旨を受けて、昼夜整備を急いでいる。
解説:度支部とは大蔵省にあたる。
永濱総長と北海拓殖 同上
辞職した永濱関税総長は、北海道拓殖銀行総裁となると言われている。
8月6日
安奉線と鴨緑江架橋工事 5日京城特派員発
某当局者によれば、安奉線の修築は、清国政府の回答があると否とに拘わらず、いよいよ来る9月より全線を14工区に分けて起工する予定である。同工事は、数か所の長いトンネルがあり、比較的に大工事であるので、竣工迄に約2年半を要するであろう。又鴨緑江の架橋工事は、8月より起工の予定であったが、洪水の為に延期し、来月上旬より起工する予定である。
解説:安奉線は、日露戦争時、日本が安東(朝鮮北部にある丹東)と奉天(現在の瀋陽)を結ぶ為に建設された鉄道である。鴨緑江鉄橋の完成によって新義州で、京義線と接続して釜山までつながる事になる。
大久保大将出発 5日馬山特派員発
大久保大将は、5日午前、鉄道により大邱に向かった。
韓太子盛岡発(盛岡) 内国電報5日発
韓太子殿下は、5日午前10時盛岡駅を発車された。知事、市長、県高等官、名誉職有志、その他各団体の奏送を受けられ、ご機嫌麗しく青森に向けご出発された。
解説:;韓国皇太子は、明治天皇の肝いりで日本で教育を受けているが、日本の皇室と同様な扱いを受けていた事が分かる。
8月7日
司法権委任実施協議 6日京城特派員発
連日、参与官会議を開いて、司法権委任に伴う実施案件を協議中である。この内警察制度の改定は、両3日中に決定するであろう。なお全ての予算は、その大体を編成し、5日、荒井次官が携帯し、上京した。
水上警備船竣工期 同上
水上警備船は、来月中旬までに10隻竣工する予定で、その上で暴徒の討伐は無論、各群島の行政監督、漁業者の便宜、郵便物の送達を行う予定で、急いて準備中である。
密電と清国領事館 同上
清国領事館にしばしば密電が来て、その都度ドイツ領事が参加して、鳩首協議中であり、一般の注意を引いている。
間島の風雲 同上
間島の風雲は、昨今、日清共に増兵し、間島と統監府及び日本政府との間で情報頻繁であり、風雲がいよいよ急となったようである。
電信開通 同上
不通となっていた当地と間島間の電信は、昨夜10時より開通した。
8月8日
敦賀清津直通航路 6日清津特派員発
敦賀清津直通航路の開通について、視察の為に若岡逓信書記官が来清し、3日間滞在の予定
宋秉畯の任官 7日京城特派員発
宋秉畯は、中枢顧問に任ぜられ、本日午前11時、宮中に於いて親任式があった。李総理大臣が代わりに拝受し、直ちに宋氏に電知した。
鉄道問題と統監府 同上
統監府の鉄道所属替え問題は、現在まで十分に検討されたとは言えないが、統監府は、今回経営上、且つ日本人の利益の為に、速成を希望する意志である。遠く北韓の僻地に至るまで将来敷設を要する為の鉄道費として、総額1億余円を計上し、毎年5百万円支出し、統監にある点まで、嘴を容れる権利を留保されるならば、所属の如何を問わないと提議した。
安奉線決行雑聞 同上
その筋に達した情報によれば、安奉線沿道の日清両国民は、互いに敵愾心を起こし、やや不穏な状態であるが、さしたる事はないと思われる。
ただ懸念があるのは、日本人の神経過敏や戦争であると即断し、軽率に引き揚げる等の事が起こるのではと云う事である。(一部抜粋)
暴徒駐在所を襲う 7日馬山特派員発
5日午後9時、暴徒2百4名が漆林巡査駐在所を襲い、巡査外6名に重軽傷を負わせたとの報に接し、馬山署より部長巡査数名が同地に急行した。
8月9日
鴨緑江の鉄橋 7日京城特派員発
工事着手の準備中である鴨緑江架橋は、船舶出入に便利な開閉式の橋であり、中央は鉄道、両側は歩道、水面からの高さは20尺とし、予算は3百万円であり、工程は2年半である。
解説:8月6日安奉線の記事の続報である。
龍厳浦築港 同上
龍厳浦は、満韓鉄道が連絡後の枢要な位置にあり、海陸の連絡が必要なので、5百万円を掛けて築港の計画がある。
解説:龍厳浦は、日露戦争の引金となった場所として有名である。ロシアは、朝鮮侵略の一環として、鴨緑江沿岸の森林伐採権を得た後、1903年鴨緑江河口の龍厳浦を占領し、森林経営を口実として、電信設備、兵舎、倉庫を設置し、その租借を要求した。
電車引継 同上
日韓ガスが買収した電気会社は、6日から引継ぎに着手した。
水雷艇入港 8日木浦特派員発
水雷艇第61号は、8日旅順から入港し、9日出港の予定
海水浴割引切符 7日馬山特派員発
当地海水浴場の設置の為に、7日から釜山、大邱両駅より当駅までの往復3割引きの切符を発売した。
8月10日
統監府予算 9日京城特派員発
統監府の来年度予算は、現在それぞれ調査中であり、児玉書記官は、34日内にこれを携えて東上すると思われる。又倉富法部次官、大屋鉄道長官、池田通信管理局長等もこれに前後して東上する予定である。そして来年度予算で著しく膨張をしているのは、司法権委任に関する善後策であり、その他は行政整理の為高等官1割、判任官2割減の大緊縮を断行する方針と聞いている。
間島在住者 同上
間島に於ける日清韓人の在住者は、日本人戸数50余戸、人口2百余、韓人戸数1万6千百1戸、人口8万2千予、清国人戸数3千9百戸、人口2万7千である。
解説:間島は現在中国領となっている地域で、当時は韓国人の居住者の方が多かった様で、其の統治を巡って清国と紛争となっている。
大久保大将帰京 同上
大久保大将は、南韓各地方の巡視を終わり、8日帰京した。その談によれば、全南の強盗、沿海の海賊等も頗る平穏であり、何ら心配となる様な形跡もなく、軍隊の衛生状態も良好である。
九十七八度 同上
当地、昨今の暑気が例年に比べて甚だ高く、連日97,98度である。
解説:華氏98度は、摂氏37度位である。
8月11日
司法権委任方針 10日京城特派員発
司法権委任に伴うその筋の方針を聞くと、初めその事務を統監府の一課とする説と特設官制を発布して、統監が直接これを管理するとの2説あったが、結局後者とする事に決し、
統監府司法局という管制として調査を進めているので、45日中には具体的な原案を見る事になるであろう。
安奉線改修一風説 同上
先日日清協約を締結する際、我が政府は、清国政府に対し安奉線改修の場合には、同線の軌道及び車両は無償で清国政府に交付する内約があった。然るに今回、安奉線に関する協約に基づき、同線を改修するに就いては、我が政府は、前内約を取消して、同線の軌道、車両は全て清津より間島に通じる鉄道敷設に使用する事に決定したとの噂がある。
馬山線復旧 10日馬山特派員発
水害後の馬山線は9日より復旧した。
8月12日
免税施行無効 11日京城特派員発
韓国政府は、去る5日、間島及び琿春(ほんちぇん)地方へ輸出する清津港経由の荷物に対する免税施行規則を規定したが、その後3か月を経過するも何の効力なく、殆ど立消えの姿である。その為折角発達の見込みがある清津及び間島在留の我が商民は、昨今非常な不況に陥り始めている。これは、当時発布した法律が間島は支那領と認定しも同然であるとして外務省から抗議が起こったためである。
解説:8月10日に関連記事がある。
8月13日
漁業権問題決了 12日京城特派員発
東拓と農商工部と交渉中であった漁業権問題は、今回いよいよ双方の協議が纏まった。場所は鴨緑江より清川河口に亘る一帯の地方であり、その種類は、免許漁業に属し、漁業の経営は、東拓監督の下に、第三者にこれを行わせ、漁獲物の処理及び販売は、会社に於いて直轄する事になった。
未調査の反別 同上
度支部土地調査局の調査に係る韓国全道の総面積は、1万4千百74方里、この反別は、2千3百4万3千余町歩であり、未調査の反別2百75万5千町歩である。
解説:1万4千百74方里=21万8千8百16平方km
道路使用問題確執 同上
京城居留民団と日韓瓦斯会社との間に、以前から道路使用の件に付いて確執があったが、遂に円満な解決をみる事が出来なくなった。熊谷民長は、民団議会を招集し、その経過を報告し、善後策を講じる予定である。
水利灌漑起工 同上
水利灌漑計画は、農工銀行より出資する事に決まり、京北、忠南、全北3道より先ず起工することとなった。
商船会社の対抗 12日仁川特派員発
神戸より宇品、仁川を経て大連に直行する辰丸の連絡航路開始は、商船会社にとって大打撃となる為、同会社は、対抗上従来の信濃丸に代えて、次便より安東丸を使用することになった。
明石少将来馬 12日馬山特派員発
駐箚軍参謀長明石少将は、要塞巡視の為に12日来馬した。
解説:明石少将とは、日露戦争時対ロシア謀略工作を行った明石元次郎と思われる。前配置は韓国駐箚憲兵隊司令官であった。
8月15日
間島に警部派遣 14日京城特派員発
南韓を視察中の軍参謀長明石少将は、14日午後、釜山出港の琴平丸で佐野砲兵連隊長と共に、北韓をへて間島に赴く予定である。間島に居る支那官憲は、ますます傲慢な行為を行う為、14日、当地から警部以下30名を急派した。
裁判所監獄予算 同上
司法権実施に伴う裁判所及び監獄の予算は、3百万円を下らない様である。
8月16日
大同江の洪水(溺死291) 15日京城特派員発
今日までの調査によれば、大同江洪水の被害は非常に多く、溺死者291名、家畜流失697頭、家屋流出866個、浸水家屋1482戸、流失田畑968町歩、浸水田畑7456町歩であり、被害不明の所はなお調査中である。
清津鏡城間道路改修 15日清津特派員発
清津と鏡城間の道路を速成開削の為に、中桐技師以下13名が只今来着した。9月末完成の予定である。改修道路は、幅6間、延長13里である。
解説:清津、鏡城ともに日本海沿岸に位置する。
8月17日
大久保大将巡視 16日京城特派員発
大久保大将は、今度北韓及び間島方面を視察する予定である。
統監府来年度予算 同上
統監府費3百万円に、既に貸付中の3百万円と小中学教育費21万円及び法部監獄費等3百60万円で、総計約1千万円である。なお通信監理局、鉄道院予算は特別会計であり、これに含まれていない。
8月18日
京元湖南鉄道予算 17日京城特派員発
京元線は1500万円、湖南線は2000万円であり、6カ年の継続工事とする事に決定し、統監府予算と共に児玉書記官が携行し、東上した、
解説:京元線は、京城と日本海側の港町元山を結ぶ鉄道で、1910年着工し1914年竣工している。湖南線は、大田と朝鮮半島の最南西端の港町木浦を結ぶ鉄道である。統監府時代に完成しているが竣工時期は不明
8月19日
長距離電話開始 18日京城特派員発
9月1日より当地郵便局は、黄海道海州、江原道春川及び開城水原外3か所との長距離電話を開始した。1通話の料金は、春川で90銭、海州で50銭その他は80銭乃至70銭である。
伊藤公へ親電 18日京城特派員発
皇帝は、東北巡視の伊藤太師に向け、16日丁重な親電を発したが、直ちに答電があった。
解説:8月2日「韓太子御出発」の記事にあるように、現在東北各地の巡視中であり、前統監伊藤博文が随行している。各地で日本の皇太子と同様な丁重な送迎を受けている。
清津港解放決定 同上
先に勅令で発布された清津港の解放は、領土権問題について外務省と統監府との間で意志の疎通を欠くものがあったが、この程協定が成立し、本月末若しくは来月より実施すると思われる。
一進会紀念宴 同樹生
一進会は、18日5周年紀念宴を開いたが盛大であった。
記事:一進会は、改革派の両班が韓国近代化を目指して作った会であり、宋秉畯らが中心であった。
汽車不通 18日馬山特派員発
降雨による出水の為進水以北は、17日夕より汽車不通となり、乗客は、徒歩にて洛東に到着した。
8月20日
韓国裁判制度 19日京城特派員発
司法権委任の裁判制度は、連日統監府に於いて協議の結果、大要次の様に決定し、19日倉富次官が携行し東上した。
統監府直轄の下に司法庁を置き、司法、監獄の事務を司る。司法庁には長官1名、参事5名、理事5名、通訳録事若干名を置く。裁判所は、区裁判所、地方裁判所、控訴院、高等法院(大審院の代わり)の4種とし、区裁判は、判事1名の単独、地方裁判、控訴院は判事3名、高等法院は判事5名の合議体とする。区裁判の上告は、地方より控訴院を経由せず直ちに高等法院に至るものとする。又韓人の死刑執行は、韓国大祭祝日には行わない事を明示した。
清津鏡城間道路改修 同上
清津と鏡城間の道路は、軍事上のみならず行政、経済の点から言っても改修の急務を認め、7万5千円、2か年間の継続事業として一時既定費用中より支出、施工する事となった。
記事:清津、鏡城とも日本海に面しており、現在北朝鮮領である。
間島帰客談 同上
間島統監府派出所の事務官笹田氏は報告の為、帰来した。その談を聞くと、本年6月の調査では、同地の住民は、韓人8万2千9百71名である。そして日本人は、官吏及びその家族を除き2百40余人で、我が憲兵2百名が間島の東部各地に分派されている。しかし少しも危険な状態ではない。先日小さな衝突があったが深い原因はない。
8月21日
道路改修案決定 20日京城特派員発
内部は、いよいよ総計300里の道路を、5か年継続、400万円の予算にて修築する事に決めた。この中には東西両海岸を通じるもの、即ち(1字不明)州より迎日湾に至るものと平壌から元山に至るものを含んでいるとの事である。
東拓定款改正の議 同上
東洋拓殖会社は、定款を改正して金融部を拡張する議案があり、現在大株主の意向を徴しつつある。
8月22日
統監府の中学設立案 21日京城特派員発
統監府は、在韓邦人子弟の中学教育を疎かにしてはならないとして、来年度に190万円を計上し、中学校を設立する事とした。予算通過の上は、現行の民団立中学校を統監府に引き受け、民団の経費を軽減されると思われる。
日韓吏捕縛 同上
17日営林廠の杉野技手及び韓人主事は、清国官憲に拿捕され、安東県道台「衛門に拘置されたが、岡部領事は、直ちに交渉を開始し、釈放させた。しかしなお紛争中である。
財界悲況 同上
京城財界は、極度な不況となり、多くの第一商人が倒産している。清国商人も同様の打撃を受けつつある。
冗員淘汰の方針 同上
統監府は、昨年度、行政改革を行ったが、高等官1割、判任官2割の人員削減を行う方針の様である。
鴨緑江木把暴行 21日新義州特派員発
洪水後、沿岸一帯で流木の略奪が行われ、各地より樵による暴行の報が頻繁にあり、事態は重大である。
8月22日
間島問題と支那新聞 支那特電22日上海特派員発
今朝の新聞は、支那兵20余名が間島に於いて、日本兵の為に殺された旨、錫良総督より報告があった由の北京特電を掲載した。なお当地発信の二三支那新聞は、毎日間島問題に関し、民心を煽動する様な記事を掲載中である。
解説:間島に関する記事が8月4日、7日、10日、15日、20日とある。
8月24日
韓太子御帰京 内国電報
韓国皇太子殿下は、伊藤公同伴見学の為、本月1日東京御発車北海道及び東北地方各地を巡覧の途にあらせられたが、23日午前翁島駅を御発車、各駅に於ける歓迎を受けつつ、午後4時50分上野駅に御着、貴賓室に於いて小憩の後、御機嫌麗しく鳥居坂御用邸に帰館された。渡邉宮内次官、亀井総監、阿部府知事外数十名が駅で奉迎した。
解説:ここには、出発と帰着のみ記載したが、韓国皇太子殿下は、日本の皇室同様の待遇を受け、各地で知事、師団長を含む多くの国民から大歓迎を受け、その様子が連日大々的に新聞で報道されていた。
8月27日
平南線起工 26日平壌特派員発
平南鉄道工事は、いよいよ平壌と鎮南浦の両地より9月1日起工する予定
解説:鎮南浦は、平壌の貿易港にあたる。
韓民開発の訓示 同上
28日より平安南道の郡守会議が開かれ、観察使より地方人民に日韓の関係を知悉させる事及び教育産業の奨励、慈善事業の開始、民心の開発他数項の訓示が行われる事になっている。
英国領事更迭 26日仁川特派員発
英国領事ホームズ氏は、26日帰国の途に就き、後任として永らく日本に居たオーファイト氏が26日京城より着任する。
8月28日
韓皇即位紀念日 27日京城特派員発
27日皇帝即位紀念日に就き、各大臣が参内した。又民間有志も祝杯を揚げ、そして日本人側も敬意を表し、休業する者が相当居た。
裁判所監獄定員 同上
司法権委任実施後の監獄は、典獄9名、看守長80名、通訳9名の定員であり、控訴院検事長は統監の命を受け、これを監督する。又裁判所の職員は、判事449名、検事136名の定員である。
韓銀定款発布 同上
韓銀の定款は、本日官報号外で発布される。
韓皇即位紀念祝宴 27日平壌特派員発
李観察使は、正午日韓官民を招いて、韓皇即位紀念の祝宴を開いた。豪雨の為市中は極めて寂寥である。
8月31日
駐韓兵帰還 30日釜山特派員発
水原駐留第二十七連隊は、30日当地に来着した。31日朝琴平丸及び南越丸に乗船し、室蘭に向かう事になっている。
曽禰統監の病気 30日京城特派員発
いよいよ快方に向かい、来る1日は久し振りに大臣会議を開く事となった。
木把依然不穏 同上
鴨緑江の木把反抗事件は、現在も決着していない。2万の木把は、不穏な情勢であると昨日来電した。
解説:8月22日鴨緑江木把暴行の記事の続報である。木把とは樵ではないかと思われる。
警察権問題交渉面倒 同上
清国専管居留地の警察権、その他の問題に関して、統監府との交渉が断絶し、本国政府の直接交渉に移す事となった。
明治42年9月
9月1日
曽禰統監快癒 31日京城特派員発
曽禰統監の病状については、種々の噂があるが、記者は今朝親しく病床を訪れ、丁度郊外の散策を終えて帰館した統監に面接した。頗る元気旺盛であり、相変わらず談話に諧謔を交え少しも病体らしい模様はなかった。(一部抜粋)
9月2日
南韓暴徒討伐 1日京城特派員発
南韓の暴徒を討伐する為、駐屯隊は、機動演習として全羅道に出動し、別に海球よりも別隊を出したので、間もなく一生面を開くと思われる。
解説:全羅道は、韓国南西端の地域で、光州や木浦がある。
間島軽便鉄道 同上
間島駐在の清国邊務大臣、呉鹿廷氏は、間島の局子街より渾春(ホンチュン)に至る30余里の間に軽便鉄道を敷設したいと北京廷に申請した様である。
解説:間島は、北朝鮮に接する中国領にあり、当時8万余の韓国人が住んでいた。関連記事が8月4日、7日、10日、15日、20日にあり、清朝との紛争が度々起こった。
大久保大将 同上
来る6日頃より、北翰視察の途に上る事に決まり、統監に告別した。
9月3日
陸海両方面の発動(韓国暴徒討伐) 2日木浦特派員発
臨時韓国派遣隊の全部は、当地を中心として、ある意味の機動演習をする為に、既に行動を開始し、同時に第十一水雷艇隊も沿岸警備の為、近海を遊弋し、頻繁に出入している。
三鉄道と政府の支出 同上
京元、三南、平南の3鉄道に対し、日本政府は明年度350万円位しか支出する事が出来ないとの情報が達したが、これでは初期の目的を達する事が出来ないとして、統監府は苦慮している。
度法両相の処分 同上
度支部大臣は、一旦辞表を撤回しながら、尚病気と称して永らく登庁せず、李首相も持て余し、止むを得ず更迭しなければならないとして、昨今検討中であった。いよいよ実行の上は、学相も同一処分とするつもりで高法相が度相に代わり、法相は、欠員のまま、学相には承寧府総管趙民キ(ちょうみんき)が任じられるであろうと予期されるが、今明日中には決定すると思われる。
9月4日
鴨緑江木把平穏 3日京城特派員発
鴨緑江木把不穏事件は、交渉の結果、清国側より責任ある官吏を、鴨緑江上流に派遣し、営林庁職員の立ち合いの上、伐木を流下し、目的地点に到着の上は、営林庁で清国官吏と立ち合い、受領し、その員数に応じ、流下賃を支払う事となり、木把も満足に承知し、平穏となった旨統監府へ公電があった。
解説:木把の意味が不明で、当初樵ではないかと思ったが、どうも材木を川に流し、川下まで運搬する職人のようである。
除隊将校の運動 同上
一昨年、軍隊の解散によって除隊した韓国の将校連は、今回軍部の廃止に際し、それぞれ下賜金があったのを恨み、自分達も同様の待遇を受けたいと運動を始め、大韓興業という団体を組織し、5日訓練院において会合する予定
解説:8月1日「軍部廃止跡始末」に賜金を与える記事がある。
9月5日
大韓一進合同顛末 4日京城特派員発
大韓、一進両会の合同談の成立顛末を聞いたが、最近日本より帰来した留学生崔灼華と云う者が、李容九氏と懇意で、懇談した際、韓国の現在の状態は二三の政党が反目嫉視するべき時ではなく、国家の対局に就いて、国民的活動が必要であると説いた。これが李容九氏の心を動かし、一進会正副会長、西北学会、大韓協会副会長の精華亭での会議となった。(一部抜粋)
統監の訓令と大臣 同上
去る31日の大臣会議に於いて、統監の行った産業上の訓令は、一国産業の発達は、国民各自の奮励にある。韓国の様に何事も実業の名を冠して、且つ政府その他より補助を仰ごうとする事は、最も不健全な発達であり、非常に憂慮すべき事である。時節柄大臣等も、特に警戒を要すとの意味があるのではと痛く胸を打たれた様子であった。
繰替勘定禁止と人気 同上
統監は、韓銀株取扱銀行に対し、繰替勘定を禁止する旨の訓令を発したので、同株申込みに対する人気が一頓挫の傾向がある。
間島問題と統監 同上
間島問題の解決について、外務省より何等の譲歩があった趣であり、統監府は痛く悲観している。
解説:間島問題に関しての記事が9月2日「間島軽便鉄道」、東京朝日新聞9月3日「日清交渉内容」にある。
9月6日
虫害地の粟作 5日平壌特派員発
平安北道の虫害地を視察して帰った勧業模範技師の談によれば、被害地の粟作は、二分作位で、惨憺たるであるが、全道を通じれば二三割の減収と思われる。
解説:日露戦争当時、日本に於いても、多くの人が粟等の雑穀を主食としていた。その為その様な人にとって、陸軍に於いて白米を食べられ得る事は大きな喜びであったと思われる。またこのため陸軍では、脚気が発生し、多くの兵士を失う原因となった。
水害地実地調査 同上
水害地の実地調査の為、武藤内部事務官は、5日当地を経て成川(せいせん)地方に向かった。
梅ケ香丸入港 5日釜山特派員発
梅ケ香丸が4日正午に入港、5日一般公開を行い、6日長崎に向かう予定
解説:この船は、3千2百トンの連絡船であり、当時有名な船であった様で、一般公開を行い市民に開放している。
9月7日
韓人自治団組織 6日元山特派員発
当地韓人等は、前年自治制の施行を請願したが不認可となったので、今回任意的に自治団を組織し、5日準備大会を開き、規則の収集及び役員選挙を行ったが、来会者が非常に多く、千名となり、久水理事官も出席した。
韓銀株申込 6日仁川特派員発
当地の韓銀株申込みは、1万8千3百66株に達した。
船舶検疫 同上
ウラジオ港務局長は、チーフをコレラの入港地と認定した。その為同港を出発より7日以内に入港の船舶に対しては、検疫を施行する。
大久保大将視察 6日京城特派員発
6日午前9時、岡本参謀以下20余名を従え、北韓視察の途に上ったが、盛大な見送りであった。往復20日間の予定で、會寧を終点とする。
解説:會寧は、現在の北朝鮮咸鏡北道にあり、豆満江に隣接している。
三者合同議定 同上
大韓協会は、6日夜評議員会を開き、一進会、大韓協会、西北学会との合同の件を議定する予定
解説:9月5日「大韓一進合同顛末」の続報である。「
韓銀株応募高 同上
1日締め切り同応募数は、一銀京城支店8万株、天一銀行12万5千株、韓一銀行6万株、漢湖農工銀行14万株、漢城銀行5千5百株であり、内1口の大きいものは、漢湖農工の1万、天一の2万であり、天一の分は、一進会の申込みとの事である。
9月8日
韓銀申込の怪聞 7日京城特派員発
6日、韓国銀行株式を申込んだ中で、韓国農工銀行が第1位を占めている。これは、密接な関係がある度支部吏員が協議員等と同盟し、6万株を申込んだ為と伝えられている。官紀問題が起ころうとしている。
大韓興業会組織 同上
前の陸軍非職連は、いよいよ大韓興業会を組織し、趙義淵を総裁に推し、それぞれ会則を設け、工業の振作を図ると云うが、その真意は疑わしい。
解説:9月4日「除隊将校の運動」の続報であり、除隊した将校が下賜金を希望している。
韓銀株の端数 同上
統監は、韓銀株の端数について、なるべく韓国に譲るようにと創立事務所へ通知した。
度量衡器輸入取締 同上
今後度量衡器の輸入は、許可なきものは密輸入として禁止する旨、韓廷より我が外務省に交渉中である。
解説:度量衡の製造と販売については、日本でも明治8年許可制、明治26年免許制となっている。
三浦代議士来津 7日清津特派員発
第25議会に於いて、当港と敦賀間の航路問題に尽力した三浦代議士が7日来着し、官民の盛んな歓迎を受けた。氏は直ちに間島視察に向かった。
解説:当港とは日本海に面した清津港である。
9月9日
間島協約発表 8日京城特派員発
間島問題に関する協約が本日統監府で発布された。統監府では、実行準備の為、出張所長齊籐大佐を呼び寄せ、憲兵、巡査等を引き上げ、領事館開設の準備を行うと思われる。韓国大臣には、7日の会議で全文を示したが、何らの意見もなく、我関せずの態度である。
韓銀申込怪聞の有無 同上
度支部官吏が連合して、韓銀株6万の申込みをしたとの事は、全く根拠のない風説とも認められない。もっとも表面的には彼らが平素の貯金を以て2千株を申し込んだとの外、証拠もなく、取扱い銀行である漢湖農工銀行は、1万2千株お大口を始め、これに準じる若干の大口あるとの見方は一見如何に無根の様に見える。(一部抜粋)
韓太子陞進 同上
韓国皇太子は、従来歩兵参尉であったが、8日副尉に昇進された。
9月10日
東拓の貸付内定 9日京城特派員発
東洋拓殖会社の金融部拡張に関し、会社は貸付けに対し、まったく制限を付けない意見であるが、その筋では振込額3分の2の範囲で許可する事に決定したそうである。
萬壽節御祝電 同上
日本皇帝陛下は、8日太皇帝の萬壽節に就き「陛下の御誕辰を祝し、併せて安泰幸福を祈る」との電報を贈られ、太皇帝より直ちに御答電を発せられたとの事である。
観光団入京 同上
栃木県観光団が8日夜入京し、盛んな歓迎を受けた。
要塞移転祝賀 9日馬山特派員発
要塞の移転を祝する為、馬山の官民有志は、9日午後3時から要塞の将校一同を公園に招いて、園遊会を催した。市内は花のごとく飾られ、来る13日まで各種の余興が行われ、空前の賑わいを呈した。
9月12日
大久保司令官 11日清新特派員発
兵営視察の為に来訪し、盛大な歓迎を受けた。
一進大韓連合可決 同上
政党の連合問題に対し、一進会は10日総会を開き、異議無く可決し、大韓協会も同日総会を開き、多くの議論があったが遂に可決した。遠からず連合会を開く予定
三南鉄道期成会 同上
光州、鳥致院、青洲の三居留民の三南鉄道期成会が11日成立した。
解説:光州は慶尚南道、鳥致院は忠清南道、青洲は忠清北道にある。三南とは、朝鮮のうち南部地域に相当する慶尚道・ 全羅道・忠清道の三道のことを指した言葉である。
新任第六師団長 11日釜山特派員発
木越第六師団長は11日朝、壱岐丸で来釜し、直ちに龍山に向かった。
解説:龍山は、ソウル市を流れる漢江北岸に位置し、陸軍基地が置かれていた。現在も在韓米軍基地司令部がある。
下野観光団 11日仁川特派員発
下野観光団30人が、11日到着し、盛んな歓迎を受けた。
9月13日
比企博士の韓国鉱業談(京都) 内国電報12日発
韓国鉱山を視察して帰った比企博士を東三本木に訪ねたが、博士は次の様に述べた。
韓国の鉱山は、無尽蔵であると予てから聞いていたが、今回同地方を漫遊し、如何にもそれが事実である事に驚いた。平壌に於いて先ず石炭採掘の状況を見たが、山勢は80度の角度をなし、石炭は極めて豊富である。そして水平線以上の採掘は、現在の設計で十分であるが、これ以下の採掘については、今の設備より更に大規模な設備が必要である。炭質も良好である。(一部抜粋)
解説:比企博士とは比企忠(京都大学)である。
9月14日
江華島のコレラ 13日仁川特派員発
去る5日から仁川及び江華島に猛烈なコレラが発生し、13日朝までに患者総数71名、死者33名であり、その内日本人は2名、他は皆韓人である。今必死に防疫虫である。
9月15日
平壌の新新聞 14日平壌特派員発
日刊平壌新聞がまたまた産れ、15日その初号を発刊する事になっている。これで又二新聞となった。
下野満韓観光団 同上
13日平壌に到着し、日韓官民の盛大な歓迎を受けた。15日北行する予定
鎮南浦水道実測 14日鎮南浦特派員発
中島博士の視察の結果、14日から5カ月の予定で、当地の水道実測に従事する。
解説:中島博士とは、東京帝国大学名誉教授、工学博士中島鋭治であり、日本近代水道の父と呼ばれている。なお鎮南浦は、その後平壌の外港として重要な貿易港となる。
平南鉄道起工 同上
鎮南浦駅工事は、17日入札が行われ、平壌と鎮南浦と双方で同時に起工する事となったので、10月1日当地開港記念日を期して、起工祝賀会を開く事になっている。
9月18日
平南線工区 17日平壌特派員発
5区に分けられ、17日請負入札が行われ、いよいよ近々着手されると思われる。
解説:平南線は、平壌とその外港である鎮南浦を結ぶ鉄道である。
9月19日
貸付金の前途 18日京城特派員発
日本政府より韓国への貸付金は、43,44の両年度に各4百万円の割り当てで、全額終了する事になっていたが、最近更に明年度より若干の増額をする必要があると伝える者も居るが、全く無根である。
司法権委任実施時期 同上
司法権委任の実施は、明春とするとは当初の予定であったが、諸般の事情により、早期の委任が望ましいので、11月からと変更となった。裁判所制度は、緊急勅令として間もなく発布し、23審問題は、いろいろの説があるが、従来3審制であったものを委任直後に2審制とする事が出来ない事情があり、そのまま継続すると思われる。
間島解決祝宴 18日清津特派員発
呉鹿廷氏が統監府派出所を訪問した。三浦代議士も居合わせていた。齊籐大佐宅にて間島問題解決の祝宴を開いた。
電信守備兵殺される 18日馬山特派員発
16日霊山に於いて電信守備兵1名が暴民の為に殺された。
解説:霊山は、釜山と同じ慶尚南道にある。
9月22日
コレラ益猖嗽 21日京城特派員発
大野銀行頭取死亡
20日は、65名のコレラ新患者が発生し、皇帝は当分引見を中止した。又統監府職員の家族も3名発病したので大消毒の為21日は閉庁した。因みに愛媛観光団員の大野銀行頭取、大野熊太郎氏も同病に罹り、21日死去した。
韓人のコレラ 21日平壌特派員発
21日韓人2名コレラに罹り、1名死亡した。
愛媛視察団 同上
愛媛視察団が22日来着した。23日北行する予定
9月23日
仁川のコレラ 22日仁川特派員発
当地の防疫が功を奏し、21日は永宋島に3名のコレラ新患者を出したが、仁川付近には1名も新患者を出さなかった。
コレラ 22日京城特派員発
新義州、仁川のコレラは殆ど終息したが当地は、ますます猖嗽であり、21日にはなお55人の新患者が発生した。この上蔓延の見込みがあるので、漢城衛生会を中心に大防疫を行う事になった。統監府を始め、各官庁にもぼつぼつ新患者が発生するため、警戒厳重にして23日より半日休業する事にした。
解説:新義州は朝鮮半島の付け根付近にあり、鴨緑江を挟んで中国に面している。
9月24日
大久保大将行程 23日元山特派員発
大久保大将は、22日夜当地着、23日迦羅島要塞を検閲し、24日当地守備隊の検閲を行い、25日帰任の予定
巡邏船根拠地 23日郡山特派員発
西海岸一帯を警備する予定の武装巡視船の根拠地は、当港より南10里の地点に定められる予定である。
9月25日
両党懇親会 24日京城特派員発
昨日京城ホテルで催された政党連合懇親会は、50余名であり、金嘉鎭、李容九の両氏が連合会の趣旨を述べたが何らまとまった協議もなく、金は一進会の、李は大韓協会の万歳を唱え、皆これに和して散会した。今回は懇親の会である為、更に近日公に連合大会を開く筈である。
間島引揚 同上
齊籐大佐は、昨夜入京し、統監府と打ち合わせの上、至急東上し、永滝新領事と同行し、間島に引き返して引揚を完了する筈である。
9月26日
韓国保護経費 内国電報25日発
我が国が韓国保護の為に支出する金額は、次のとおり
統監府経費 120万1千8百86円
統監官舎新営費 9万9千37円
理事庁新営費 9万7千37円
軍事費 298万8千2百73円
派遣部隊予備費 363万円
海軍用地経営費 3万1千2百24円
立替金 465万3千5百44円
計 1千2百70万1千54円
この他韓国鉄道、韓国森林資金繰入高5百50万余円及び東洋拓殖会社、朝鮮水産組合、居留民教育等の補助費計約37万円を加えると韓国保護の為に要する我が国庫の支出額は、実に2千2百万円に上り、明43年度に於いては司法権実施費及び京元線新設費等に支出を必要とする経費が少なくないので或は2千5百万円以上に達すると言われている。
9月27日
韓国暴徒掃討実況 内国電報(26日付)
韓国全羅南道に於ける暴徒掃討のその後の実情を聞くと、陸海両軍、憲兵、警察隊の連合威圧が着々と功を奏し、既に首魁6名を逮捕し、その部下で自首した者2百余名に及び、なお続々と自首してきている。但し島嶼に潜伏する者は未だ縛に就かない者が多いが、予て建造中である警備小蒸気船16隻中、8隻は既に竹敷に回航し、同港に於いて武装中であるので、近々島嶼の暴徒討伐隊に参加する筈である。残り8隻も間もなく竹敷港に回航し、武装する筈である。この16隻の武装巡視船が回航するならば、木浦付近に集合して、射撃演習をする計画である。
解説:全羅南道は、韓国南西端に位置し、木浦がある。
9月28日
虎列拉益々猖嗽 27日京城特派員発
コレラの発生が益々盛んである。統監は、一挙撲滅の訓令を発し、新たに防疫本部を設置する等、大仕掛けな対策を講じつつあるが効果がない。市況は沈静となり、惨憺とした状況である。
大久保大将 27日釜山特派員発
大久保大将は、北韓の視察を終了し、27日海路で来釜した。一泊の上帰任の予定
湖南鉄道速成運動 27日木浦特派員発
商業会議所及び木浦経済界は、鉄道敷設に関し、京元線を先にする事は事情を知らない措置であるとし、27日民団が楼上に会合し、次の決議を行った。
湖南鉄道の敷設は、産業の促進、暴徒鎮圧上の最大の急務であり、京元鉄道を先にする理由を認めない。従って本会は来年度より本鉄道の着工を期す。
この目的を達する為、委員5名を選び、近日日韓連合大会を開く予定
解説:湖南鉄道は、忠清道の大田と全羅南道の木浦(韓国南西端の港町)を結ぶ鉄道で、京元線は、京城と元山を結ぶ鉄道である。京元線は1910年に着工され1914年に完成している。結局湖南鉄道はそれより遅れて、大正年頃と思われる。
9月30日
中村製鉄所長官 29日平壌特派員発
無煙炭鉱を視察し、30日京城特派員発に引き返す予定
夏目漱石氏 同上
28日夜到着した。
平壌理事庁管内の外国人 同上
米人宣教師28名、仏人宣教師2名、英人医師2名、仏商人1名であり、家族を含めて87名である。
明治42年10月
10月1日
度相後任内定 30日京城特派員発
任度相の辞任沙汰も余りに長い事であり、最早世上に忘れられているが、同人は執拗にも登庁せず、我を張っているので、さすがの李完用も最早堪忍の緒を断って、いよいよ司法権委任実施と同時に高法相を後任とし、度相の椅子を改める事を決意した様である。
10月2日
討伐略終了 1日木浦特派員発
渡邉司令官は、全羅南道大半の討伐を終了し、30日夜来着した。当分当地に旅団本部を置くものと思われる。
解説:全羅南道は、韓国最南西端に位置する。9月上旬から作戦が開始されていた。
木浦開港12年祝宴 同上
1日当地開港12年紀念を兼ね、赤十字社及び愛国婦人会第1回総会を開く。市中、本明日に亘って種々の余興があり、地方より来会者が多く、非常に賑やかである。
解説:全羅南道の重要な港湾都市である。
10月4日
京元鉄道運動 3日釜山特派員発
当地の京元鉄道期成会は、三南線と敷設の前後を争っている。現在大いに運動の必要があるとして、来る6日2名の運動委員を東京に急行させる事を決議した。
解説:三南とは忠清・全羅・慶尚と思われるが、今回布設を争っているのは湖南鉄道である。
木越師団長 2日元山特派員発
元山以北に於ける各部隊を検閲する為、2日到着した。当地守備大隊を検閲の上、来る5日清津に向け出発の予定
10月5日
湖南鉄道決議 4日木浦特派員発
3日夜、寿座に於いて全南日韓人大会を開き、湖南鉄道期成会を組織し、次の決議を行った。
一、 本会の目的を達する為、統監府及び貴衆両院に請願する事
一、 請願の為に上京委員を派遣する事
一、 日韓地方官憲及び公共団体の後援を依頼し、一致の歩調を取る事
その後今後の活動を期する為、委員40名を選挙し、10数名の演説があり、満員の聴衆で盛会であった。
10月6日
内閣又動揺 5日京城特派員発
又もや内閣が動揺し始めている。一旦皇帝及び統監の諭旨を受け、辞任を思い止まった李學相は、先週の定例閣議に於いて、法権委任問題について、各相と意見を異にし、再び辞表を内相に提出した為、去る金曜の閣議は、遂に開会に至らなかった。次いで4日の閣議で学相の辞任問題が協議されたが何故か決定されず、そのままになったが、今回こそは瓦解を見る事になると思われる様子である。そして任度相が辞任を思い止まったと称しながら、今なお登庁しないのは、李學相との間に離れる事のできない関係があるからである。後任について、早くも所説があるが容易に信じがたい。
10月7日
日韓新航路内定(舞鶴) 内国電報6日発
以前から北韓地方と日本海諸港との直航路を開始する件について、清津、元山、敦賀、舞鶴の4港間に於いて交渉運動に努めつつあったが、今回政府に於いては、これら4港の外に更に城津を加えた新航路を開始する為、逓信省の来年度予算に計上した旨当地のある筋に内報があった。
10月8日
湖南京元鉄道競争 7日京城特派員発
6日夜当地に於いて、京、龍、仁3商業会議所委員会が会合し、万一のもその筋にて三南線を先に布設する事になったなら由々しき大事件であるとし、これに反対する材料として、京元線の中間に於ける物資の産出、北韓沿岸に於ける輸出入の統計等を至急調査し、三南線との比較研究を行い、若し1線のみを敷設することになるなら是非京元線を先にして頂く旨運動する事に決定した。
解説:10月4日、5日の記事の続報
官紀振粛着手 同上
南韓一帯の官紀が退廃しているので、統監府は調査の結果、間もなく振粛を実施し、同時に北韓地方も引き続き振粛に着手する様である。
10月9日
米国観光団来着 8日釜山特派員発
15名が8日朝、會下山丸にて到着し、直ちに京城に向かった。
10月10日
内部の狼狽 9日京城特派員発
昨日の電報で、貸付金について大蔵省が認めない事になった為、道路改修費の資金に大頓挫を生じ、所管する内部当局は、狼狽している。
討伐継続 同上
渡邉少将の率いる討伐隊は、機動演習の名の下に全羅地方を大々的に掃討していたが、さしたる成果もなく10日一先ず引き上げる予定であった。しかし俄かに一変し、一部隊をこの討伐に従事させる事とした。沿岸監視船も完成し、回航したので、海陸共同して大掃討の見込みである。
解説:全羅南道は、韓国南西端に位置し、その北側が全羅北道である。
10月11日
京元鉄道 内国電報10日発
京元鉄道のマイル数は、約130マイル、その布設費は1マイル約13万円の見込みであり、総額1690万円とその筋で概算計上している。この鉄道と同時に湖南線、すなわち木浦、金州を経由して公州で京釜線と接続する全羅道の開発を目的とする鉄道も同時に布設するとは曽禰統監の意見である。京元鉄道は、日本海沿岸と北韓との新航路開始もその中にあるので、年来の敷設希望を現実にするのは、多分明年度と思われる。
解説:10月8日に関連記事「湖南京元鉄道競争」がある。
10月13日
渡邉司令官の招待会 13日木浦特派員発
渡邉司令官は11日夜、50余名の当地官民を民団楼上に招待し、茶話会を開き、盛会であった。同司令官は12日朝、霊光方面に出発した。
解説:10月10日「討伐継続」の続報であり、渡邉司令官は討伐隊を率いて当地に来ている。
10月16日
土木局の要求 15日京城特派員発
内部土木局は、新規軌道費として416万円余の5カ年度割、5大港調査費135万円の7カ年度割、その他土木費に多数を要求した。しかし日本政府の貸付金の沙汰止みとなった現在、到底認められないであろう。
官紀振粛の手始 同上
官紀振粛の手始めとして、漢城府各官庁の粛清を行った。次は内部に及ぶと思われる。
土地調査模範 同上
土地調査は、来年から着手する事に決定し、その為模範として11月末より京城付近に1班15人のもの200班を使用し、調査させると思われる。
防疫本部閉鎖 同上
防疫本部は15日閉鎖した。
司法警察費削減 同上
司法警察費として30万円を要求したが日本政府は2万5千円を削除した。
学校費是認 同上
統監府立中学校18万円及び小学校補助費は、大蔵省に於いて是認された様である。
10月17日
司法庁定員 16日京城特派員発
新設司法庁は、長官1名(勅任)参事官3名(中1名勅任2名奏任)書記官2名(奏任)監獄事務官1名(奏任)その他判任官30名の予定である。なお予算の範囲内において嘱託10名位採用の予定
解説:勅任官は局長級以上、奏任官は課長級以下で高等文官試験に受かった所謂キャリア組である。判任官はノンキャリ
載寧殷栗鉱山買収 同上
農商工部に於いて経営中の載寧(さいねい)、殷栗(いんりつ)両鉱山は、この程中村製鉄所長の視察の結果、日本政府が買収する事に決定した様である。
10月18日
伊藤公着発予定 17日大連特派員発
伊藤公は18日来着、遼東ホテルに入り、19日市内を巡覧し、午後6時官民の歓迎会を伏見台公会堂に開く。20日小野田セメント工場を視察し、同夜中村総裁が主催する晩餐会に出席し、21日旅順に向かう予定。
解説:伊藤公は、10月26日ロシア蔵相と会談する為に訪れたハルピンで暗殺される。
10月20日
魚市場開業式 19日清津特派員発
三浦、岩田氏等の経営に係る清津魚市場は、18日開業式を挙げ、来賓3百余名で盛会であった。
木越師団長 同上
19日朝、加賀丸で北青に出て、同地より陸路咸興に向かい予定
曽禰統監参内 19日京城特派員発
曽禰統監は、21日参内し、病気見舞いのお礼を申し上げ、その際石井少将、榊原憲兵隊長、小倉経理部長及び統監夫人を帯同する予定
10月21日
伊藤公一行 20日旅順特派員発
20日午前11時旅順着、大連まで迎えた大内事務官、相賀民政所長、文武高等官、市民有志、小学校生徒等多数の出迎えを受け、大内事務官が同乗して大和ホテルへ入られた。高等文武官は直ちに、ホテルへ伺候した。午餐後民生部、海軍工務部、工作場及び記念品陳列館等を観覧し、午後6時より偕行社に於いて開かれた官民合同歓迎会に臨む。公は21日滞在、22日午前7時40分発奉天に向かう予定
解説: 前日の大連では、満鉄の経営する大和ホテルでなく遼東ホテルに宿泊されているが、旅順では満鉄の迎賓館的な大和ホテルに宿泊している。偕行社とは、陸軍の将校クラブである。伊藤公が暗殺される6日前である。
官紀振粛 20日京城特派員発
南韓地方の官紀紊乱の調査が完了し、慶尚南道の田結書記官、壱岐警視の2名は会計の手続きを誤ったとの理由で依願免官となった。尚他に及ぼそうとする傾向があり、これは地方官紀を振粛する手始めである。
10月22日
学相法相辞任新任 21日京城特派員発
元老李容植氏が学部大臣に、法相高永キ氏は度支部大臣に、又法部廃止まで法部大臣を兼任する事になった。
間島公館の開閉期 同上
間島統監府派出所の閉鎖と領事館の閉鎖は27日に確定した。
裁判所廃合 同上
司法の実施に伴う裁判所の数について、区裁判所は、従来40か所であったが54か所とし、来年度中に103か所としこれで全て完成する。高等法院は1か所.控訴院は3か所、地方裁判所8か所は前と同じく、200余箇所あった郡守裁判所は全て撤廃する。
曽禰統監参内 同上
21日同夫人その他を帯同して参内、韓皇帝より統監へ大勲瑞星大綬章、夫人へ勲一等瑞宝章を下賜された。
キチナー元帥着発期 同上
29日入京し、各所を視察した上、31日出発の予定
解説:キッチナー元帥とは、英国陸軍元帥であり、インド軍司令官を退任したばかりであった。第1次世界大戦が始まると陸軍大臣と務めた。
10月23日
伊藤公旅程 満州特電22日奉天特派員発
伊藤公は、22日午後6時到着、直ちに満鉄公所に入り、23日滞在、24日撫順を視察し、25日発長春に向かう予定である。錫総督は、国賓として待遇し、23日夜盛大な晩餐会を催すと思われる。
李容植入閣評 21日京城特派員発
高法相の度相兼任は、予てからの予想であるが李容植(りようしょく)が学部に入ったのは、多くの人の予想しなかった事であり、皆驚いている。李容植は、趙乗世(ちょうへいせい)の女婿であり、第一流の両班として聞こえるのみか、保護条約締結当時は、上流階級を代表する反日派の首領として、飛ぶ鳥を落とす勢いであった。最近排日の非を悟り、謹慎の様子であったが李首相にとって目の上の瘤であった。今度学部の椅子を手に入れたのは、兎に角、李首相の腕前は物凄いとの評判である。(一部抜粋)
新學相好評 22日京城特派員発
新任李學相は、韓人一般に好評であり、彼の清廉な儒者風と強固な意志とは教育問題の為、一新機軸を出すのではと期待されている為である。
倉庫設置計画 同上
輸出を奨励する目的で米、麦、豆等の保管倉庫を設け、預入品に対する金融の便を与える計画であり、先ず仁川に設置すると思われる。
両相親任式 同上
李学部、高度支部両大臣の親任式が22日午後1時、仁政殿に於いて行われた。
両相の顧問 同上
李載崑(りさいこん)、任善準(にんぜんじゅん)の両氏は、中枢院に任命され、年俸2千円を支給されると言われている。
10月24日
キチナー元帥 23日京城特派員発
29日入京に就き、明石憲兵隊長、石井副官は26日安東県に出迎える予定
解説:23日記事の続報
南韓暴徒鎮定 同上
南韓に於ける暴徒は、厳重な討伐の為に、首魁の多くは自首又は捕縛され、今は殆ど鎮定した。
内閣更迭の反響 同上
儒生の一部は、李容植に対し、日本化したと誹謗した。又自ら辞任を申し出た李載崑、任善ジュン等を中心とする一部の野心家が会合して、流言飛語を放ち始めているが、さしたる反響を与えないであろう。
10月25日
韓国鉄道運動 24日京城特派員発
京元、湖南線の設置運動の為、関係地方商業会議所並びに有志は、23日夜当地会議所に於いて会合を開き、その日の夜、萩原仁川書記長を東上させ、各政党領袖その他に交渉させる事とした。
某大臣の韓国談 内国電報(23日)
某大臣の韓国談によれば、韓国の政治もいよいよ実行の時代に進み、司法権は来月より実施し、京元、湖南鉄道は明年度から竣工の予定である。道路建設、土地測量も同時頃より着手する予定 更に海上には武装した16隻の蒸気船を浮かべ、暴徒に備えると共に密漁船の進入を防止する。その他京義鉄道の改良、平壌、鎮南浦間の鉄道敷設も近い将来に実現するであろう。
又農業方面では、水原に模範農場を設置後韓人の卒業生を各道に分配し、農事の改良に努めている。植林も既に37か所に苗床を設けている。(一部抜粋)
10月26日
南韓暴徒討伐成功 25日京城特派員発
渡邉少将の率いる南韓討伐隊は、捕虜1,055人、死者334人、捕獲した銃95丁、刀33本の大成功をして、引き揚げた。今や12の首魁を残すのみで殆ど暴徒の残骸を見る事はない。
韓銀総裁任命期 同上
25日朝の定例閣議に於いて、市原韓銀総裁以下の任命を決議し、即刻上奏したので、今明日中に官報で発表されるであろう。
大久保司令官 同上
来月1日東上し、南韓討伐の現状を陛下に伏奏すると思われる。
10月28日
京城の動揺 26日京城特派員発
侍従院徳政閔が宮内大臣特使として統監邸を見舞い、李総理以下各大臣が統監邸に参集し、今後の策を協議した。各大臣は殊更に憂色があった。
当地に於いて差し当たり起こる問題は、犯人が当地に於ける政治的系統に関係するや否やであり、これを極めて後統監が意志を決定する筈であり、倉富次官に会見したのは湖の為であった。
韓帝の電報 27日京城特派員発
伊藤公薨去の公報がない為、26日夜皇帝は、我が陛下を初め奉り、在ハルピン公爵宛てに、大磯の公爵夫人宛てに丁重な見舞い電報を発送した。
凶変に対する決議 同上
当地新聞記者団は、26日夜京城ホテルに会合し、次の決議を行った。
1 伊藤公が韓人の凶手に倒れたのは、排日思想の表現であると認め、将来の禍根を断つ為に、この際当局者は、対韓政策の上に最後の解決を与える事を期待する。
2 我々は韓国皇帝が藤公の遭難に対し、直ちに日本に渡航して、我が上下に対し謝罪する様希望する。
朝鮮人の喜憂 27日京城特派員発
韓人側の意向を観測すると、心ある者は、ひたすら哀悼の意を表しているが、その反面は、何事かが起こるのではと恐怖している。雑輩等はいずれも壮挙であると喜色がある。
大韓毎日社の祝宴 同上
大韓毎日新聞社の主筆梁起鐸以下26名は、夜韓国国旗を掲げ、酒宴を開いて万歳を唱えた。
10月29日
犯人連累捕縛 28日ハルピン特派員発
犯人の連累者10名が捕縛され、なお調査中である。犯人は平然自若としており、伊藤を殺したのは韓国の為、東洋平和の為、又先帝の為であると言っている。
韓廷の宴会中止 27日京城特派員発
宮中では、30日の乾元節を停止する旨発表した。又同日閔宮相より、秘苑一部の解放祝賀会を行う予定であったがこれも又停止した。
韓国団体の態度 同上
一進会は、全く誠意をもって痛惜している。大韓協会は、殊更沈黙を守っている。
韓帝弔問 28日京城特派員発
皇帝は取りあえず弔問の為、28日午後3時統監邸に行幸された。
10月30日
藤公遺族弔慰料 29日京城特派員発
韓廷より伊藤公の遺族に対し、10万円を送ると思われるが、これは親王の待遇をしたものである。
韓国正使其他 同上
30日統監府を代表して国分秘書官が東上し、伊藤公の葬儀に列席する。又義親王、趙農相は、31日朝出発、葬儀に参列する正使は皇太子に決定した。
捜索の端緒 同上
犯人の雲知安は、アンホーシキの訛りがある事が判明した。他の8名の関係者の逮捕についても情報が来ている。その筋では、俄かに活動を始めているので、何らかの捜索の端緒を得たと思われるが厳重に秘密にしている。
10月31日
韓国暴徒停車場を襲い、人家を焼く 30日京城特派員発
昨夜3百余名の暴徒が京釜線の伊院駅を襲撃し、駅及び人家を焼き払った。鳥到院の守備隊が直ちに追撃したとの急報があった。
義和宮中止(皇族にては不可) 30日京城特派員発
30日朝出発の予定であった特派大使義和宮は直ちに出発を中止し、閔宮内大臣が代わって出発した。これは日本から29日深夜、皇族などの渡航は必要なしと抗議があったと伝えられており、韓廷は非常に狼狽している。
義和宮中止事情 30日京城特派員発
29日夜半、日本天皇陛下の聖旨であるとして、臣下である伊藤が薨去したのに、特に最上位の親王を特派するには及ばないとの電報が統監府に達し、これが伝達された為、急に変更したものであり、全く他動的であると言う事が出来る。
明治42年11月
11月1日
英国元帥出発 31日京城特派員発
キチナー元帥は31日午前ソンタクホテルを出て、南大門駅に向かった。プラットフォームに於いて、統監、軍司令官と慇懃な挨拶を交換し、我が接伴員の吉田中佐、荘田少佐、川西少佐並びに明石参謀長、石井少将以下の釜山までの見送り将校を従え、貴賓車に同乗、9時出発した。この日高等女学校生徒が沿道で見送り、市中は国旗を掲げて敬意を表した。
解説:10月22日の記事の続報 第1次大戦時英国陸軍大臣となる。なお海軍大臣はチャーチルであった。
安應七の素性 同上
凶漢安應七(あんおうひち)は、平安道安州に生まれ、一昨年ウラジオに入り、李範晋(りはんしん)等と相通じ、ハルピンと鳥港(うこう)間を往来し、その地方の韓人労働者に重視され、今は頭領株として認められている。頻りに露清韓会を設立しようとして、各地に遊説を行い、生来の激しい政治狂である。
予定の通入港(本日午前9時) 内国電報(31日発)
31日横須賀鎮守府着の公電によれば、伊藤公の霊柩を搭載している秋津洲は、31日正午潮岬(紀州の南端で横須賀から約250マイル)を通過したそうであり、予定の午前9時より早く入港すると思われる。
11月2日
司法庁開始 1日京城特派員発
司法庁が開始され、裁判所、監獄署の名義が変わり、理事庁の裁判は撤去された。特に何らの儀式も行われなかった。
暴徒巨魁捕縛 同上
全羅南北道を暴れ回っていた有名な暴徒巨魁金海山は、31日羅山の北方約4里の所で、五十嵐少佐の率いる討伐隊の手に捕縛された。
捕虜千五百 同上
先月、渡邉少将の率いた南韓第討伐隊自首又は捕虜となった者千五百の多きに達したが、これらは一々法に依り処罰する事ができず、その罪の如何により民長の立会の上、帰順を誓わせる筈である。
1年間の討伐成績 同上
昨年11月から先月までの暴徒討伐成績は、賊数3万千4百5名、衝突9千76件、賊死3千98名、賊負傷3百67名、捕縛3千55名に達した。
凶行者の素顔 同上
犯人安應七は仮名であり、父は安大根(あんたいこん)と言い、ローマカトリック教徒であり、以前は慶尚南道鎮海郡郡守であった。罷免後黄海道信川に教会を設立した。6年前ある暴挙の為に牢獄に入れられたが、後許され、4年前病死している。自称安應七は、父の死後、前議政府参賛利李相窩(りそうか)の配下となり、新たに排日を唱導した者である。李相窩(りそうか)は、ヘーグ事件の張本人であった。
解説:ヘーグ事件とは、1907年(明治40年)に韓国皇帝高宗がオランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に密使を送り、自国の外交権回復を訴えようとした事件であり、列強から会議への参加を拒絶され、目的を達成することができなかった。
11月3日
安應七の素顔 2日京城特派員発
凶漢安應七の戸籍上の本名は、安重根である事が判明した。間島に於いては、露国に帰化し、露国の公職にさえも就いていた。同人は崔歳享(さいさいきょう)を崇拝し、その指揮を受けつつあった。昨春これら一味の徒党(4人とも10人とも言われている)が伊藤公を殺害しようと謀り、その決心を誓う為に、左手の薬指を切り落とした事があった。今回の犯人安重根も矢張り左手薬指を切り落としていた。弟の安定根も先頃、私立養正学校に通学していたが、何時の間にか姿を消している。
ある。安重根は資産家である両班の生まれであったがロシアに帰化していた。
11月4日
京城の天長節 3日京城特派員発
例年寒気が厳しいにも拘らず、本年は珍しく天気晴朗で且つ暖かく、流石に天長の佳節であるとして、居留民一同は喜悦溢れるばかりである。統監邸、理事庁の祝賀会が中止され、市中は国旗が翩々と意味ありげに翻り、到って厳粛であった。
又一人捕縛 3日平壌特派員発
大韓協会平壌支部会員1名が亦捕縛された。安正稿との関係と思われる。
警察刷新 同上
当日向田警察部長以下警部全員が更迭された。警察機関を刷新する為である。
11月5日
曽禰統監の意見 4日京城特派員発
曽禰統監は次の様に述べた。
日本の新聞では、義親王訪日の中止は、我が陛下の聖慮に出た事を知らず、予が韓皇帝に対し、直ちに渡日を中止させたと言う者が居る。若し韓皇帝が渡日をお考えになったとしても、陛下はこれを御辞退されるであろうと推察する理由がある。
今回の凶変を機として、対韓政策を一変するような事は、真に書生の空論に過ぎず、一時の感情に駆られて妄りに大義を忘れてはならない。(一部抜粋)
太皇帝統監訪問 同上
太皇帝は、4日午前10時、統監邸を訪問され、曽禰統監を慰藉された。会見は20分で、極めて打ち解けたものであった。(一部抜粋)
加特力大僧正の辯明 同上
カトリック枢機卿ミウテル氏は、日本の新聞によれば今回の犯人がカトリック信者であるとあったが、我が教徒には、その様な者は居なくて、排日的結社等ではないとの意味の抗議文をソウルプレスに発表した。
解説:安重根は17歳で洗礼を受けている。
藤公追悼会 同上
4日午後1時40分、曽禰統監が祭主として伊藤公追悼会が開かれた。一天朗らかに晴れ、南山降ろしの風が、今日は身に染みて寒かった。入口には接待委員一同が入場者を監視し、裏山には兵士を配置する等警戒が非常に厳重であった。(一部抜粋)
11月6日
漢京政界動静 6日京城特派員発
倉知政務局長
新たに渡満した司法官と警察は、旅順に於ける狂徒の自白と結び付けて、更に一歩を進めようと努力している。特に参謀長明石少将の渡満は最も目立っているが、これは参謀長としての任務ではなく、以前憲兵隊長であったので暴徒の系統に精通している為、最近日本から渡満した倉知政務局長の介添えとしての用務を帯びているものと推測される。
統監参内
統監は5日朝昌徳宮に参内し、4日の勅使に関し答礼し、帰途徳壽宮に太皇帝を訪問し、御礼を申し上げた。
11月7日
熊谷民団長辞任 6日京城特派員発
熊谷当居留民団長は、間もなく任期が満了するにも拘らず、突然辞表を提出し、5日夜の民会に於いてこれを承認した。多分民会との不調和を察知したと思われるが居留民一般は、これを惜しんでいる。
銅像拠金不評 同上
韓人仲間で、伊藤公の銅像と頌徳碑とを建設しようとして趣意書を配布し、拠金を募集している者が居るが。無名の人の運動であり、あまり評判が良くない。
11月9日
徳壽宮の密儀 8日京城特派員発
6日夜太皇帝は、閔家一族を徳壽宮に集め、長時間にわたって何事が密儀した。元宮相李載克氏も遅れて参加した。伊藤公凶変の当日、一韓国人が太皇帝に何事かを慌てて伏奏したが、太皇帝は非常に満足げであったそうで、神経過敏の官憲は、この真相の調査に余念がない。この様に奇怪な噂は一二に留まらない。(一部抜粋)
解説:太皇帝高宗は閔氏一族である。
鍋島外務部長栄転 同上
鍋島外務部長は、いよいよ某国公使に転任する事が決定し、10日当地を引き上げる予定である。公表されるのは来月と思われ、赴任は来年2月の様である。
統監又微恙 同上
統監は、風邪気味の為に引き籠り中であるが、8日は微熱があり、近侍の者は憂慮している。
11月10日
西北学会の運動 9日京城特派員発
西北学会は、会長李甲を一日も早く放免してもらいたいとの意見書を統監府に提出した。尚同会は、皇帝の渡日に対し強力に反対すると宣言している。
大臣会議延期 同上
曽禰統監並びに李総理が病気の為、9日の大臣会議は延期された。
11月11日
勅使一行帰着 10日京城特派員発
勅使一行は9日夜帰京した。同夜は両陛下がお待ちかねとあって、閔勅使は尹侍従院郷と共に直ちに昌徳宮に参内し、先ず古谷秘書官の作成した地図で、伊藤公遭難の顛末を言上し、その後祭典親書捧呈、国葬参列と順を追って約2時間伏奏した。この間仔細な質問があり、時々嘆声をさえ漏らされた。
伊藤公遺族弔慰金 同上
伊藤公遺族に対する弔意金10万円は、8日の閣議で予算外支出として決議された。香料3万円も既に公爵家に収めているので、弔慰金10万円も拒絶されないものと考えられる。
11月12日
韓国官民の意嚮 11日京城特派員発
閔勅使と趙農相の恐怖は、一方でなかったが5日趙農相が桂候と会見して以来、打って変わった動きがあった。多分桂候の口より、対韓政策の一貫不変の言明を聞いた為と思われる。情報によると京畿に於いて微弱な暴徒集団が日本人のみを狙撃するなど従来の匪賊と同一視できない点がある。或は釜山付近の汽車投石事件といい、これらを総合すれば確かに彼らは日本の強圧手段を予期している様に見える。泰平を夢見ている閣員はどの様にして、この民情を沈静化されるのか注目する必要がある。(一部抜粋)
趙農相の奏上 同上
趙農相は、10日夜徳壽宮に伺候し、太皇帝に渡日中の状況を言上した。なお11日各大臣は登閣し、重要会議を開いた。
守備兵帰釜 11日馬山特派員発
暴徒掃討の為、晋州方面に向かった釜山の守備兵61名は、10日夜当地に一泊、11日帰釜の途に就いた。
11月13日
趙農相面目を失う 12日京城特派員発
韓国政府を代表し、伊藤公の葬儀に参列した趙農相が帰国後、葬儀の盛況、桂首相の談話を手柄顔に同僚等に報告したが、その内桂首相の談話を誤解して報告した事が判明し、反って面目を失った。
解説:どの様に誤解したのか不明である。
駐韓兵帰還 j2日清津通信員発
帰還の歩騎砲兵1千名が辰丸にて、12日門司に向かった。隣接する羅南に陸軍の大9師団が置かれた。
11月14日
暴徒捕虜の使用 13日京城特派員発
南韓討伐の際に収容した暴徒捕虜の現在数6百余名は、全羅南道沿岸線の道路工事(約30万円)の土工に使用し、相当労賃を支給し、情状を酌量すべき者は、そのまま放免する事とした。
馬山民長の任期 13日馬山特派員発
馬山民長の任期は、来る16日満了の予定であるが、多分現民長前田氏が再選されると思われる。
11月15日
大久保司令官 15日京城特派員発
15日出発し、東上する予定
解説:東上とは東京へ向かう事
火事 同上
13日統監府の警鐘が鳴り、出火を知らせたが、時節柄一騒動が来たのではと思われた。しかしこれは緑泉亭の南側に新設した煙突の不完全燃焼により生じた失火と判明し、間もなく鎮火した。
11月17日
安重根余審終結 16日旅順特派員発
地方法院に於ける安重根の予審が集結し、重罪公判に移された。公判は多分傍聴を禁止されると思われる。彼は、伊藤公暗殺の理由15箇条を申し立てた。
(1)王妃の殺害、(2)韓国保護条約の締結、(3)日韓新条約の締結。(4)韓皇帝の廃立、(5)陸軍の解散、(6)良民殺害、(7)利権略奪、(8)教科書廃棄、(9)新聞購読禁止、(10)銀行券の発行、(11)三百万円国債の募集、(12)東洋平和の攪乱、(13)保護政策の名実が伴わない事、(14)日本先帝孝明天皇の殺害、(15)日本及び世界の瞞着
記事:安重根は、伊藤博文を暗殺した犯人である。明治天皇の父である孝明天皇は岩倉具視によって暗殺されたとする説がある。
定例閣議と大臣会議 16日京城特派員発
15日に定例会議、16日は統監府に大臣会議を開いたが、何ら重要問題がなかった。なお韓廷も統監府も情勢を観察中の様である。
11月18日
韓人の藤公追悼会 17日京城特派員発
来る26日、各道の総代が集合して伊藤公の追悼会を開く予定である。その前後には多少注意するべき現象があると思われる。
韓太子輔育総裁 内国電報(17日発)
岩倉宮相に決す 16日午前10時、天皇陛下には岩倉宮相を親しく御座所に召され、韓太子の御教育に関し、御懸念のお沙汰があった。今後同太子の哺育総裁として、十分の効果を期し、公は伊藤地下の霊を安んぜよとのお沙汰があった。宮相は謹んでお受けし、午後1時、鳥居坂の御用邸に至り、御沙汰の趣を申し上げたが、殿下にはいたくお慶びであった様である。
解説:韓国皇太子の教育は、明治天皇の意志により日本で行われており、今までは伊藤公がその任にあった。日本の皇室に順じて大切に教育されており、住まいは鳥居坂にあったようである。
11月19日
韓国警視大連行 18日仁川特派員発
内部警務局讃岐警視は、重要な用務を帯び、18日大連に赴いた。
沖縄県人漂着 同上
沖縄県仲里間切の船頭5名は、先月3日仲里より那覇へ薪を積みに行く途中、難破し台湾沖で漂流中、英船に救われた。16日仁川に到着したので、理事官は、21日安東丸にてこの一同を長崎に送還した。
解説:仲里間切は沖縄本島西方にある久米島にある。
11月20日
韓国政府の現状 19日京城特派員発
趙農相が渡日した際、桂首相と会見し、韓国内閣の意志として、最近連合が成立した3派のものは、行政諸般の運営上、大きな障害となるので、日本の力に依って解散させるよう申し込んだ。桂首相は、とんでもない事であり、その様な事は統監に申し込むのが順序である。強いて我が意見を求めるのであれば、予は解散させる必要はないと思うと激しく叱責した。
11月21日
李総理喚問 20日京城特派員発
李総理は、19日朝10万円の民事訴訟事件に関し、証人として約2時間控訴院の喚問を受けた。これは非常に複雑な事件であり、李総理の体面を傷つけた。
韓皇の謝電 同上
皇帝は、19日日本の天皇陛下に輔育総裁更迭に関し、丁重な謝電を送り、韓太子、岩倉公へもそれぞれ親電を発した。
解説:11月18日「韓太子輔育総裁」の続報である。
中川検事正の報告 同上
旅順に出張した中川啓二正が19日夜帰京し、20日朝統監邸に当局者を集め、報告を行った。漏れ聞いたところでは、予審は、現在まだ終結せず、ある理由により若干の日時を要すると思われる。又犯人の自白はとかく虚偽が多く、当地との関係もあるようであり、何事も全く不明であると思われる。
曽禰統監の健康 同上
曽禰統監に対し、この程東京より諸般の打合せがあり、一時帰朝しては如何との来状があったが、統監は未だ俄かに帰朝する事は難しい、いずれ機会を見て上京する旨返事を行った。統監は以前程の元気は無く、よほど疲労しているのは疑いが無い。果たして統監の任に堪えるかどうか疑わしい。
11月22日
第一銀行事務引継 21日馬山特派員発
20日大邱財務監督局事務官石川氏立会の上、第一銀行事務を韓銀支店に引継いだ。営業は24日より開始する予定
11月26日
予算査定困難 25日京城特派員発
来年度に於ける各部の予定経費要求は、現在審査中であるが、前年に比べ、5百余万円の増額である、歳入は僅かに百万円の増収見込みに過ぎないので、査定は非常に困難と言える。これは、結局各部に於ける日本の官吏が、事業の競争をする弊害であると伝えるものがいる。
両班秩祿給与議 同上
時世の進歩に連れて、次第に両班の存在が認められなくなって来た事から、現在仕事が無く酒食に耽る者が非常に多く、その家族を含めて数千人に達し、今後なお地方行政の整理と共にますます増大する傾向にある。その為寧ろ今の内に、ある程度の家祿を給付するか、若しくは仕事を与えて救助しようとの議がその筋に起こっている。
韓銀支店開始 25日郡山特派員発
韓国銀行支店は、25日より営業を開始した。米穀の出回りがようやく多くなり、市況が活発となった。
11月27日
日韓合併論 26日京城特派員発
3党連合の内閣乗っ取り策が思うように進まないので、それではと一進会は、この際寧ろ日韓合併の請願書を日本政府に出す事を提案した。大韓と西北の両党員は、以ての外の事であるとして、審議した後でなければ同意する事は出来ないと拒否した。遂に27日協定委員会を開く事になった。その結果如何によっては、直ちに分裂に終わるかもしれないと噂されている。
統監毎日登庁 同上
統監は健康維持の為に、26日から毎日登庁し政務を執る事とした。統監府開始以来初めての事であるが、その為に政務は進捗し、且つ如何わしい訪問客も避ける事ができ、多大の効果があると思われ、評判が非常に良い。
11月28日
度相俄かの渡日 27日京城特派員発
度支部大臣高永熹(こうはいき)氏は、急に思い立って、27日夜出発し渡日した。その要件は、東京に直行し、桂首相と会見、直ちに大阪に随伴して、造幣局を視察するとの事である。しかしその裏面には、何事か内閣の使命を帯びたものではないかと考えられる。これについて27日参内し、暇乞いを行い、且つ韓太子に対する伝言を聞いた。
解説:度支部は大蔵省を意味する。韓太子とは、日本に留学している韓国皇太子である。
合邦論と三党 同上
各地より集合した謝罪使派遣運動員48名は、この程の会議の結果、各道に若干の委員を置き、更に12月1日までに代表者は遅滞なく集合して再議する事とし、それぞれ金1円を拠出して創立費に充てた。又既に報道のとおり一進会の合邦論は、在京の宋秉畯(そうへいしゅん)氏の指金であり、日本の国情は既にそれに決しており、寧ろ我国は、これに先立って国民の決断を促す必要があるとしている。李容九(りようきゅう)氏に諮ったが、李はこれを大韓、西北の2党に通知する事を憚り、崔錫夏(さいしゃっか)氏に交渉させた。愈々27日夜の三党協定會に於いて、喧しい議論となり、何事かを決定するであろうが今の所分裂は疑いが無い様である。
解説:宋秉畯(そうへいしゅん)は、李完用内閣の下で、農商工部大臣・内相を務めながら、李容九等一進会員との連名で「韓日合邦を要求する声明書」を純宗、曾禰統監、李完用首相に提出した。併合後は、日本政府から朝鮮貴族として子爵に列せられ、朝鮮総督府中枢院顧問になり、後に陞爵して伯爵となった。
李容九(りようきゅう)は、数度にわたる政治改革の失敗から、両班による下層階級への搾取虐待を朝鮮人自身の力で克服することを不可能と考えており、日本との合邦によって初めてこれが実現できると信じていた。宋秉畯と共に一進会を設立してその会長となる。そして今回「韓日合邦を要求する声明書」を提出している。日韓併合によって、韓国皇族は朝鮮貴族として華族に準ずる扱いを受けたが、しかし李容九は日本政府に裏切られたと知ったとき、爵位を辞退した。(ウイキペデアより)
会議所会頭選挙 同上
新設の当商業会議所は、27日選挙を行い、柴崎長次郎氏が会頭に、青木敏郎氏が副会頭に当選した。
明治42年12月
12月1日
大韓協会の宣言と一進会 29日京城特派員発
3党の政見協定会は、一進会長李容九(りようきゅう)の病気の為に無期延期となった。しかし大韓協会は、先に3党連合の成立の為に、宣言を発表するよう主張し、他の党もこれに傾き始めていたが、藤公の暗殺事件が発生し、今日に至っている。昨今大韓協会は、別項のような宣言を行おうとしたが一進会より1週間の延期を申し出ており、そのままとなっている。
解説:11月20日「韓国政府の現状」にある3派連合である。
大韓協会の宣言書 同上
大韓協会の宣言と言われるものは非常に長文であるが、その大意は、伊藤公に加えた凶行者の行為は、一狂人の行為でではなく政治団体の共謀行為であるので、その責任は当然現閣員が負わねばならない。然るにその後一人の閣員すら何等の責任を負っていない。その為に日本国民の憤怒を招いたのを見て、皇帝の渡日を図っている。皇帝が渡日するならば、民心動揺、国情険悪となるのは必然である。
一進大韓両派暗闘 30日京城特派員発
昨今大韓協会は頻りに前約を主張し、一進会はこれを取り消そうと努め、暗闘が激しいと言われている。その声明書は、従来の感情を一掃し、国事に就いて一致協力する事を誓い、国利民福の実を挙げなければ、日韓協約はその名のみで、日本の一部の強硬論者に機会を与え,終に国が亡びる惨状を呈するとの意味である。
韓帝御安泰 同上
29日統監が捧呈した御親書は、伊藤公について韓皇室の友誼に答えられたものであり、且つ日韓親善の現状を示されたものである。皇帝は統監の前でこれを披露され、非常に満足なご様子であったそうである。
12月3日
軽便鉄道試運転 2日釜山特派員発
東萊(とうらい)と釜山鎮(ふざんちん)間の軽便鉄道5マイル半の試運転式が挙行され、往路30分、帰路20分を要した。
解説:東萊と釜山鎮とも釜山広域市にあり、江戸時代には東萊府に倭館が置かれ、対馬藩との交渉が行われた。
12月5日
日韓合邦 4日京城特派員発
一進会は、4日朝李総理に宛てて、日韓合邦の上奏文を、又統監宛てに日本政府に請願書を出し、不穏な兆しがある。
一進会の合邦論発表 同上
3日夜の3党協議会、予想通り分裂した。これは李完用氏があらゆる策を廻らして、一進会を孤立させた為である。一進会はこの報を受け、4日朝声明を発表した。
合邦を望む要旨は、年々日本政府より多額の資金を得て、保護政治が行われているが、今なお我らは幸福であるとは言えない。故に寧ろこの際我々は日本国民となって、全ての政治機関は日本の直接機関に従い、漸次多額の資金を全て殖産興業の為に投じるならば、単に我々の福利のみならず、我々は一等国民となって世界に誇る事が出来るようになるであろう。そして5百年来の皇臣情誼は、これを保持し、我が皇室の尊厳はあくまで尊重しなければならないが、日本政府は必ずこれを許すであろう.因って我らは合邦が一日も早い事を望むのである。(長文の為一部抜粋)
解説:李完用は内閣総理大臣である。先月から報道されてきた一進会の合邦論が明らかになっている。
内閣の態度と運動 同上
内閣では、3日一進会の合邦論に対する最後の秘密会を開き、元老連を狩り集め、飽く迄現状維持に努める事とした。運動の手始めとして、5日各元老の名名前で、国民大演説会を開き、日韓親善の現状、一進会の軽挙、国民の心得等の題目で民心を鎮撫する策を執る様である。
一報大韓協会の合邦に対する意見は、時期尚早であり、今の保護政治で何ら差支えが無い。数年の後、国民の一致した希望であれば、その際に方針を決めても遅くはないである。
西北学会は、明らかに一進会の意見に頷く様子が見られる。(長文の為に一部抜粋)
解説:一進会の声明文に対し、内閣が国民大演説会を開いているが、これは一進会の声明に共鳴する人が多くいる為でないかと考えられる。
韓国銀行 同上
韓国銀行は4日、元第一銀行建築地に、盛大な建築疲労宴を開いた。
1月6日
韓国政界の動揺(警戒厳重) 5日京城特派員発
一進会活動に関するその後の模様を総合すると、万一の事に備えて、極めて厳重な警戒がされている。一進会は、極めて沈静である。大韓協会は議論が分かれ、結局現状打破に傾く情勢である。西北学会は、固より政党でないので会を代表する意見は無いが、個人としての意思は一進会と大同小異であると言っている。そして李総理は、上奏文を伝送する時は、飽く迄現状維持が良いと上奏すると言われている。(一部抜粋)
同上後報 同上
一般の最も注意した内閣員側の国民大演説会は正午開会したが、御前11時には千5百名が入り、門外に3百余名の群衆が居た。傍聴者の多くは学生であり、両班はあまり多くなかった。やがて数名の演説があったが、元老は一人も居なくて、その趣旨は下劣で、一進会は国を亡ぼすものである、宋秉畯は売国奴である等を怒鳴り、排日思想を鼓吹した。警察は全力を挙げて警戒したので、無事午後2時半閉会した。(一部抜粋)
解説:宋秉畯は、李容九と共に一進会を作り、その会長には李容九がなっている。又宋秉畯は李総理の下で閣僚であったが今回の一進会の合邦論に賛成している。
12月7日
一進会の決心 6日京城特派員発
一進会の今後の決意を聞く為に李容九(りようきゅう)氏を訪ねたが、氏は次の様に語った。
今回我が党が主張した合邦論に就いて、頻りに日本政府の意を受けたものであると伝えるものが居るが、これはあまりにも穿った見方である。我が党は、会員の誠意、誠心を掲げて単独にこの処置に出たのである。
我が韓国の状態を見てもらいたい。暴徒は四方に蜂起して今尚終わっていない。人民はこれに苦しめられ、飢餓に泣いている。どうして現状を維持するのか。早く全土を挙げて日本に合邦し、文明の恩恵を受けて、国民の福祉を図らなければならない。これが、我が党が絶叫する根本的理由である。
然るに李総理は、何を狼狽してかあらゆる阻止運動をしている。小党を買収して味方とし、職を官に奉じている者はことごとく説得し、我が党に当たろうとしている。宮内府の趙民キ氏によって、一進会に属する者は辞職若しくは免職させると脅迫さえしている。多数の壮丁を集め、我が本部に押し寄せさせる計画もある。血気に逸る我が党員との争になれば、忽ち治安妨害の嫌疑で、我が党に解散を命じる下心と思われる。今後彼らの猛烈な圧迫があろうとも、決して抵抗せず、目的を遂げる為にはある程度の屈辱は甘受する精神である。(一部抜粋)
12月8日
韓国政界動揺 7日京城特派員発
情勢は、次第に険悪となっている。内閣派の運動が激烈となるに従って、政治狂の韓人は、一にも二にもなく首肯し、雷同し、一進会を憎む念が転じて日本の意向を誤解し、一進会は日本政府のそそのかしを受け入れたとして、寄ると触ると排日呼ばわりをする様になった。
一進会は、目立った運動をせず謹慎の体であるが、西北学会を手に入れたのみではなお不安で、極力大韓協会を自派のものにしようと、画策に余念がない。元々大韓派は、内閣を破壊し、己がこれに代わる野心がある者のみであり、破壊の目的を達し得ると読めば、或はこれに応じるのではと思われる。各派を通じて真面目な運動がないのは言うまでもない。又時局に対し韓人部落で不穏な言を交えるものがある。その筋の警戒もますます厳重となり、李容九、鄭雲復はそれぞれ日本旅館に身を潜めた。
12月9日
一進会の地位 8日京城特派員発
韓国民心の動向を概観すると二派に分かれる。即ち多少学のある両班連は、合邦論の趣意は兎も角、宋秉畯を憎む事は、李完用に対するよりも甚だしいものがある。一進会の主張が首尾よく貫徹し、李完用が倒れたならば宋秉畯が必ずこれに代わるとして強い反対を唱えている。
中流階級の者は、一進会の事と言えば、是非の別なく反対する者が多く、今回も訳も分からず憤慨している。しかもこの輩に向かって内閣派の運動が非常に巧妙に行われているので、これを纏めることは最も至難の事である。
この為、統監府の態度がこのままで不明瞭であるならば、彼らは終に何をするか解らないと心ある韓国人は危惧している。又一進会派の策士は、内地新聞の多くに冷笑的な態度が見られ、又当地新聞も筆を極めて痛罵しているので、その狼狽は一方ならず、その善後策に憂慮している。(一部抜粋)
一進会副会長脱会 同上
一進会が声明文を発表した後、同会の代表、元国民新聞社長が先ず脱会し、高副会長も続いて脱会したので、7日夜急に臨時総会を開き、選挙の結果金稷ゲンが多数で副会長に当選した。
合邦上奏文返却 同上
李総理は、7日夜金秘書官を一進会本部に遣わし、上奏文を返却した。そしてその理由として、7日統監府で開いた大臣会議の結果という外、何事も語らなかった。上奏文の却下後、一進会は非常に憤激し、遂に再び上奏文を提出すると言っているが尚不明である。そして当局者は、政界の現状に鑑み、治安警察の必要を感じているが、その制度がない為、委任法律の下に、検事の職権によって日本のものを準用しようとの考えがある。
一進会排斥運動 同上
国民演説会長閔泳セン外50名は、7日協議の結果国民大会を開く事とし、百名の委員を選んだ。内閣派運動の火の手が益々上がり、又韓人商業会議所に一進会反対の事務所を設け、反対者は、住所、氏名、職業を記入して申し込むよう看板を出した。
12月10日
京城の風雲 9日京城特派員発
内閣派の運動は、ますます過激となり、殆ど政務をも忘れているような状態である。即ち8日朝から閣員一同が首相邸で密会し、午後首相、農相が打ち連れて統監を訪問し、再び首相邸にて、他の閣員と共に薄暮に至るまで密儀を行った。
李完用は、天道教を説き伏せて、一進会に当たらせようと画策中で、地方の無頼の徒を糾合中であると言われている。
国民演説会の面々も一進会糾弾書を統監府及び内閣中枢院に送った。
在京キリスト教徒は、9日孤児院に於いて大集会を行ったが、同教の青年部会のみは、突然態度を豹変し、政府に反対する行動を行うであろうと言われている。
大韓協会は又も一変し、飽く迄現政府に反対する事となった。これは大垣の一進会派と会見した結果と思われる。
国民演説会の幹事連は、8日会合の上、一進会機関紙である国民新報の購読を中止する事、逆賊宋秉畯の罪を鳴らす決議を行った。
一進会は、多数の声明書を地方に配布しようとしたが、政府は民心動揺の恐れがあるとして禁止させた。
貨物無税通過 同上
清津港経由の貨物無税通過は、いよいよ1月より実施すると9日の官報で発表した。
警視庁厳重 同上
警視庁は時局に鑑み、取締を厳重にする事となった。取敢えず李容九、閔泳紹、陳嘉鎭等を召喚し、この際妄りに声明書等を配布し、又演説会等を開いてはならない旨厳重に通告した。各派の運動は一頓挫の姿である。
12月11日
戒飭の結果(三派首領召喚) 内国電報(10日発)
京城に於いては、9日一進会長李容九(りようきゅう)、大韓協会長金嘉鎭(きんかちん)、西北学会長閔泳紹(びんえいしょう)等を警視庁に召喚し、若林警視総監より厳重な警告を与えた。これは曽禰統監が李総理大臣を注意した後行われており、李総理大臣自らも謹慎し、秘密裏に指示していた者にも運動を停止させると同時に各政派にも、演説会の開催や趣意書の様な物を配布する事を一切厳禁する事とした。すなわち警視総監を経て三派の首領にも厳達した次第である。しかし由来韓人は秘密工作が得意である上に、策士連が三派の背後に潜伏しているので、如何なる手段を採って人心を動揺させるか知れず、統監府はこれらの輩に対し、厳重な取り調べを行うと同時に内閣員の行動にも厳重な注意をする事になったと思われる。
解説:戒飭(かいしょく)とは注意を与えて慎ませること
12月12日
閔の激厲 11日京城特派員発
閔泳紹(びんえいしょう)は、別項幹部会の席上、事既にここに至る。飽くまでも兇族と戦い、若し事が成らないならば、先賢の義烈に倣い国家の為に憤死しようと叫び、会員を激励した。
解説:閔泳紹は、昨日の記事にある様に反政府派の三派、一進会、大韓協会及び西北学会の内西北学会の会長である。
一進会解散勧告 同上
国民演説会は、一進会の解散を迫る書を統監府に書を送った。その末文に「伏して願わくは、閣下が尊王の心を以て、我が国家を護り、公明正大な処分が行われ、我が国民に一進会を糾弾する大義を与えて、一進会に解散を命じ、巨魁宋秉畯(そうへいしゅん)、李容九(りようきゅう)に重刑を科されんことを」と結論した。
解説:国民演説会は、政府側の団体である。
大会禁止 同上
12日大韓協会の大会は不穏と認め、禁止された。
太皇帝に関する流言 同上
太皇帝は、英米両国に使いを派遣し、独立運動を行う野心があるとか、或は現閣臣を殺戮しようとし、兇徒の結集に多額の金銭を費やしたとかの流言が盛んに行われている。
大韓協会の宣言 同上
大韓協会は、10日の総会の結果、遂に声明書を発表した。その要旨は、政治の目的は、国民多数の幸福を図る事である。故に国民の幸福に基づき、多数の希望に適う場合には、或は日韓の関係を更改する事も本会は固より異議はない。しかし一進会の軽挙を非難し、更に本会は、既定の日韓協約に基づき、現状を以て進む事の有利な事を認めると称している。最後に現政府は、その職責を忘却して、自ら威厳を失墜させている事を知らない。「奇貨居くべし」として徒党を使って陋劣な反対運動を行わせ、以て民心の動揺を来したばかりか、その上排日思想を鼓吹し、両国の親交を害する事になった。その責任は決して免れる事は出来ないと強く内閣を攻撃した。その意図が何処にあるかは察する事が出来る。
解説:「奇貨居くべし」とは史記の呂不韋伝の故事から「珍しい品物は買っておけば、あとで大きな利益をあげる材料になるだろう」と言う言葉である。
一進会三たび迫る 同上
一進会の上奏文は又もや厳封のまま却下したが、10日三度、李総理に伝送し執奏を依頼した。
元老の建白 同上
元老金宗漢は、統監府及び内閣に向け、合邦反対の建白書を提出した。
形勢依然険悪 12日京城特派員発
京城政界の活劇は、警察側の検束によって一見沈静化したように見えるが、実はそうでなく例の合邦問題は、なお消滅せず、内閣派は固より各派も亦盲動し、統監の李総理への注意も少しの効果もなく、各派の行動は、今なお激しさを増している。
一進会会員の行動を見ると、昨日来、非常に意気消沈し、天眞楼上の事務所さえ撤去し、深く韓人部落内の自邸に隠れたが、李会長の鼻息は非常に荒く、たとえ何回却下されても、飽く迄上奏を継続すると公言している。一方反対派及び韓人の多数は、合邦の何物であるかを論じる事無く、又保護政治を悦ばず唯、権勢の挿抜した時代の昔を懐かしんで、徒に合邦論者に対して、乱臣、賊子とし、これを重刑に処すよう叫ぶのみである。
更に太皇帝の行動が疑わしく、某外人を介して米仏両国のシンジケートより50万円を借り出し、独立を企てているとの風説さえある。要するに情勢は何時意外な方向へ展開するかも知れず、警戒が必要である。
合邦運動差止 12日木浦特派員発
全羅南道の一進会支部は、京城本部の日韓合邦運動に声援を与える為に、宣明書を印刷し、街頭演説をする計画であったが、当警察署の注意により中止した。
12月14日
福島丸遭難 13日鎮南浦特派員発
9日当地に入港予定の大阪商船福島丸は、9日朝白レイ岩石に触れ、1番船倉が破損し、荷物に損害があるが船員、船客は無事である。
安重根の二弟 13日鎮南浦特派員発
凶漢安重根の実弟である安共根、安定根の2名は13日朝出発、仁川を経て大連に向かった。兄に面会する為である。
朝鮮問題同志会 内国電報(13日発)
13日午後、神田錦輝館に於いて大会を開いた。
満場一致で河野廣中氏を委員長に選出、終わって数十通の祝電を披露し、特に一進会会長の電文を朗読したときは、満場割れんばかりの喝采であった。
李容九氏より河野氏に宛てた電文は次の通り
弊会が日韓合邦の議を提出したのは、決して独断的に行ったのではない。各階級と連絡を通じ、一般人民の不同意が少ない事を確かめ、然る後に決行したものであるので、その事実は次第に明らかになってくるであろう。そして弊会の目的は、政界に野心があるのではなく、眞に我国の現状に鑑み、合邦の急務である事を認めた事に因る。又合邦の条件を付けて提出するのは穏当でないと考え、唯貴国が5百万臣民の情を酌まれる事と将来の民福を増進させられん事を希望するのみである。然るに弊会の精神が今だ徹底せず、又貴国人も誤解されて、この大事を採用されないのは、弊会の徳望が今だ至らない結果であり、深く慚愧に堪えない。願わくば、閣下が韓国問題大会に於いて、弊会の精神を参集の諸賢に伝え賜らんことを切望する。
解説:河野廣中は、衆議院議長もしたことがある政治家で、明治42年当時、アジア主義団体「亜細亜義会」に犬養毅、頭山満と共に設立発起人として参加していた。
12月15日
一進会の同情者 13日京城特派員発
四面楚歌の状態にある一進会に、突如として有力な同情者が現れた。それは京城に本部を置き、各道の村落にまで若干の会員を有し、5百年来堅固な組織を維持してきた負褓商団の変態商務組合である。同組合は、この程、各支部長会議を開くために90余名が滞京中であったが、端無くも時局問題を検討した結果、皇室の尊厳、民力の発揚を図ろうとする一進会主張の合邦論は、我が意を得たものであると、組合長李學宰(りがくさい)(儒者)は、12日夜書を李容九に送り、同意の旨を声明し、一方各道支部には訓示を発した。又普伸社(ふしんしゃ)と言う一派も社長崔昌卿より会員3千を挙げて、同意を表する旨誓約したと言っている。
解説:負褓商とは行商であり、物流のインフラが未整備の李朝に於いては、唯一の物流の手段として貴重な存在であった。若し悪い郡代が手を出したなら、その郡の村々から負褓商が一斉に姿を消してしまうので、李朝500年の間、郡代も一目置かざるを得ない集団であった。又全国の津々浦々を回る負褓商は、国民の実情を一番良く理解していたとも考えられる。
対清舊債償還 14日京城特派員発
清国が韓国に勢力を占めていた当時、護岸工事経営費として、北洋大臣及び招商局より数千万円の資金を借り入れていた。その後何回かの償還残高に就いて、しばしば交渉していたが、漸くこの程元利計算の煩わしさを避け、3千5百万円に打ち切り、解決した。今後剰余金より支出の旨、14日の官報で公布した。
日韓官吏共通 同上
日韓官吏の一部を共通にする制度は、両政府間の交渉が終わり、近々施行される予定であるが、現行の韓国官吏の等級及び俸給制度は、共通にする上で不便であるので母国と同様に改正されると思われる。
12月16日
謝罪使派遣決議 15日京城特派員発
謝罪使派遣団は、一旦瓦解したと伝えられたが、また再起している。間もなく13名の代表者が渡日し、日本陛下に上奏し、伊藤公墓前に祭文を捧ぐことを決議した。
時局運動者に厳戒 同上
一進会に同情した大韓商務組合、普伸舎の両幹事は、中部警察署に召喚され、政治結社でないのに政治に関与する不心得を厳重に注意されたが、国家の大事に対してどうして看過する事ができようかと息巻いたが、再度の訓戒に已むを得ず手続き書を提出して、退出した。
解説:大韓商務組合とは、昨日の記事にある負褓商の組合と思われる。
李完用の秘策 15京城特派員発
李完用は、執拗に一進会に内乱を起こさせ、自滅させようとしている。その為以前、脱会した高副会長に趙農相を経て一万円を与え、その部下を脱会させよとしている。
解説:李完用は内閣総理大臣である。
留学生帰校 同上
入京中の留学生代表者は、官憲の取締が厳重であり何事もできず、帰校する事になった。
統監大将密議 同上
大久保大将は、本日再び統監を訪れ、何事か3時間に亘って密議をした。
本年の起工支出額 同上
本年1月より11月に亘る起工支出額は、地道費68万8千円、仁川水道費75万2千円、」営林署10万円、韓銀百98万円等、主要な既定償還残高は、6百37万円である。
12月17日
謝罪団出発延期 16日京城特派員発
16日に出発予定であった謝罪団は、又もや18日に出発を延期した。天皇陛下に奉る予定の上奏文は、警視庁を憚り、渡日後に起草するなど唱えているが、その顔ぶれ及び成立の動機や経過から推察すると全て疑わしく、或は沙汰止みに終わるのではと思われる。
兪𠮷シュンの行動 同上
兪𠮷シュンが李完用の手先となって、一進会の撲滅に尽力するのは柄にないことであるが、この程、普伸舎長に対し、辞去すべきなど干渉した結果、活劇が起こり意を果たさなかった。今回の兪𠮷シュンの行動には、非難が非常に多く、李完用の為に大韓協会を操縦する事が出来ると約束し、意のごとくならず、その結果あらゆる団体に干渉を加えるのではと伝えられている。
李人桓渡日 同上
李完用の命を受けて、一進会の攻撃の急先鋒であった李人桓は、16日朝、名目を孔子廟の拡張として渡日した。15日李総理や趙農相等と密談に耽っていたのを見れば、渡日の用向きは概ね察しられる。
清国人捕縛 同上
清国人の密計で、露国式軍用銃、火薬、弾丸を地方暴徒に売り渡そうとしたが、機敏な我が警察官に探知され、首謀者5名が捕縛され、支那官憲に引き渡された。捕縛に関する苦心は一方ならず、その筋の手配りは非常に大がかりで、一時大変な騒動となった。
12月18日
其後の形勢 17日京城特派員発
一進会の上奏文が再び却下された。しかしながら16日、時を移さず、再び提出した。政界の豹変が甚だしく、閣員等は日英博覧会の出品を見学する為17日統監府を訪れる等殊更に無為を装っているが、或る向きの暗流は尚止まず、やがて何れの時か破裂が起きそうである。
解説:連日報道されている日韓合邦問題の記事である。
清国専管居留地 同上
懸案中であった清国専管居留地の設置問題は、17日第3回の協議の結果、遂に協定が成立し、清国政府へ1件の書類を配布した。実施は明年2月の様である。
12月19日
農民東拓を襲う 18日京城特派員発
東拓会社の東大門付近の小作米取立に関し、会社の不当を訴え、農民170余名が大挙して会社を取り囲み、抗議しようとした。会社の通報により憲兵隊が駆けつけ、首謀者100余名を取り押さえ、解散させた。
解説:東拓会社とは東洋拓殖株式会社であり、韓国の土地を買収し、最終的に韓国最大の大地主となった。
謝罪使団愈出発 同上
謝罪使節団一行13名は、いよいよ19日出発に決定した。若林警視総監は、日本皇帝陛下に奉る上奏文を中止させ、唯伊藤公の墓前に謝罪する様に注意した。
解説:12月17日の記事の続報である。
時局問題雑聞 同上
一進会金洙源(きんしゅげん)は、以前から渡日中であったが16日帰韓した。彼は、開城の素封家である某の天一銀行当座預金から1万5千円及び外に3万円を宋秉畯に引き渡す用務を帯びていたと言われている。
李完用は、今後の事態に備えて、京畿道の儒生をそそのかし決死隊を募り、数日来、続々と入京させていると言われているが疑わしい。
一進会員金一洙(きんいっしゅ)外10名が、国是遊説団の高儀駿(たかぎしゅん)を訪れた。高儀駿は、彼らに時局問題に対する後背を質し、政府党となるならば費用は幾らでも供給すると甘言を述べた。たまたま李允用(りいんよう)と会う事があり、李允用が金5千円を与えた所、金一派は、そのまま一進会に走り、事の次第を復命し、まんまと彼らに一杯喰わしたと噂されており、この種の流言が非常に盛んである。
策士の盲動 同上
合邦問題に携わる策士は、なお何とかして盛り返そうと策を施しており、18日貴族院、衆議院両院に向け、日韓合邦提議の真相と題する長文を送付した。その要旨は、既に報道された一進会の主張する主義と3政党の情勢を勝手に論評し、最後に口を極めて当地新聞記者の態度を罵倒している。そうでなくても嫌悪の情で迎えられる新聞記者等は、一斉に奮起し、この上如何なる大事を上奏するとしても予測し難い情勢となっている。
12月20日
韓国留学生総代 内国電報(19日発)
韓国人の明治大学4年生高元勲(こうげんくん)と李方載(りほうさい)の両名は、在留5百余名の留学生を代表して、去る9日東京を出発し、帰国した。韓国の現状が嘆かわしい状態である事を知り、日本政府の意向が決して合邦を許すものでない事、一進会の意向は日韓の融和を阻害する事を韓国各道の同志に告げたいと考え、その印刷物5百部を懐に、帰国した。しかし警視庁に探知され、印刷物は押収され、又演説会を開いて訴える事も許可されなかった。(一部抜粋)
12月22日
李容九暗殺陰謀 21日京城特派員発
東京留学中の学生の中で、不穏な挙動がある事は既に報道されており、その筋でも警戒中であった。高等商業学校在学中の金益三(27才)と金翼宜(21才)の両名は、李容九を暗殺しようとして帰国したが、警察は、その情報を得て、20日夜京釜鉄道の永登浦駅にて列車の到着を待ち受け、両名を捕縛した。
兪𠮷濬に対する非難 同上
兪𠮷濬(ゆきちしゅん)氏は、漢城府民会長、帝国実業会長、韓国農民会長等の職を帯びながら、政争渦中に身を投じたとの多くの非難があった。20日、前記各界の幹部連よりその不都合を詰問され、もし改めないならば、辞職せよと詰問された。
合邦問題と学生 同上
定州公立普通学校、私立維新学校生徒は教員より合邦反対の演説を聞き、激高の余り不穏な挙に及ぼうとしており、現在警戒中である。
国民演説会長辞任 同上
内閣の働きで成立した国民演説會は、以前一進会を弾劾する上奏文を総理の手元まで提出した。しかし総理がその後何等の処置も取らなかった事を憤り、閔会長は辞任を申し出たと言われている。
12月23日
李氏遭難 22日京城特派員発
李総理は22日午前11時、沸国教会で行われたベルギー皇帝の追悼式に参列後、通常通り警衛巡査2名に守られて、人力車で永楽町に差し掛かった。その際1名の屈強な凶漢が現れ、車夫に切り付け、これを殺し、更に車上の総理を抱き降ろし、腰部を刺し貫き、逃げるところを追って、左右肩甲部に骨膜に達する重傷を負わせた。その後莞爾として警衛巡査の手に捕縛された。
犯人は、李在明(21才)で長く米国サンフランシスコに滞在し、キリスト教に帰依し、頻りに排日運動に狂奔していた者である。(一部抜粋)
其後の容態 同上
李完用の傷は、腰部のものは深く腎臓に達し、右肩のものも少し肺に達し、出血が多量の為に、一時は殆ど絶望的であった。しかし縫合が完全に終わり出血が止まったので、容態は漸く回復の兆しがある。只今の見込みでは一命をとり止めたものと思われる。
犯人の素性 同上
凶漢李在明は、平壌錬光洞の者であり、この程2名の同行者と共に入京した跡があるが、同行者は巧みに姿を隠した。
彼が唱える凶行の原因は、李完用は再度の日韓協約を結び、国を売ったものである。今又一進会より合邦問題が発生し、我国の運命が窮まろうとしているので、先ず李完用を刺し、後李容九を刺すつもりであった。(一部抜粋)
12月24日
李完用氏容態 23日京城特派員発
23日朝は、前日より経過良好であり、大韓医院に入院した。今後の事はなお不明である。
連累者捕縛 同上
22日夜8時、中部警察に於いて連累嫌疑者2名を捕縛した。共に平壌生まれであり、しかも両人共に大韓医院の医学生であり、その名は金龍文(22才)、金定益(22才)と云う。
時局問題研究会 同上
25日夜成立し、先ず25日政談演説會を開く事になった。彼是人心の沸騰が激しく、その筋の警戒も厳重で、いわば鼎の湧くがごとしである。
解説:「鼎の湧くがごとし」とは鼎の中の湯が沸き返るように物事が混乱して騒がしいさま
総理大臣後任 同上
総理大臣は、朴齋純に決定し,今明日中に任命されると思われる。
曽禰統監に対する非難 同上
民心が険悪になっているので、統監府として今一層断固として処置を当然執るべきであるが、又日本政府にもこの実情を急報する必要がある。しかし却ってその反対に、合邦問題が発生後も、何ほどの事もないと放言している。これは統監としてあまりにも不親切であるとの攻撃が有力な方面から起こっている。(一部抜粋)
事変後の韓国内閣 同上
韓内閣は23日夜、予算会議を開いた。事実上朴齋純が総理大臣代理として、立ち回っている。席上善後策の協議も行われた様であるが、閣員ともに多大の恐怖に打ちひしがれている様で、気の毒である。
12月25日
李総理容態後報 24日京城特派員発
李総理は、23日午後4時、菊池院長の大手術を受けた。不純物を撤去し、傷の内部を仔細に検査した結果、意外にも心臓の方は懸念すべきものは無く、肺臓の方が重傷である事が解った。尚多少化膿した部分があったので、これを切除し、根本の治療を行った。今明日が最も注意を要する。
解説:李総理は大韓医院に入院している。1907年陸軍軍医総監医学博士佐藤進が院長となっている。菊池院長は2代目か
連累者の自白(李容九亦危うし) 同上
昨電の連累者金定益(医学生としたのは誤り)は、意外にも李容九を刺そうと目論んでいたもので、容易に事実を吐かなかったが、遂に隠し切れず懐中より鋭利な短刀を出して、今は何を隠そう、奸臣李容九こそ私が付け狙った敵である。同志李在明の入京を聞き、互いにその意を語りあったが、李は総理こそ国を誤るものであると言って、我が意に従わなかったので、遂に分かれて、決行しようと決意したのである。もう一人の金龍文及び医学生金景鎮(25才)は、安重根に与える書と題する排日檄文を各道に飛ばした者で、今回の凶行前夜、凶漢と酒を飲み交わした事を確かめた。凶漢李在明は安重根と親友である事を自白した。この様な危険人物を今日まで中央の都市に横行させたその筋の手抜かりこと遺憾であると当局を非難する声が次第に高くなった。(一部抜粋)
凶漢取調終了 24日京城特派員発
凶漢李在明の取調べは一応終了し、23日午後京城監獄に収容した。今後の取り調べは、地方裁判所予審室で行う。
曽禰統監帰朝期 同上
統監は年内に出発帰朝する予定であったが、李完用の事件が発生し、今任地を離れがたい状態となった。その為3日出発する事に決定した。家族同伴の予定
大同江終航 24日鎮南浦特派員発
大同江の流氷が多くなり、内地との交通は27日入港の安東丸を以て終航となった。昨年に比べ15日早い。
12月26日
理事庁観察府合併 25日京城特派員発
韓国の地方行政機関、即ち理事庁と観察府の合併問題は、以前から言われていたがℚ、この程の地方調査委員会で、遂に提出され、合併の必要性が認められた。その手始めとして京城、仁川、釜山、大邱の大都市より実行するのが順序であるとの説が多く、且つ合併の形式は、理事庁に併合するのが当然であると略内定した様である。
李氏経過良好 同上
李総理の経過は、非常に良好であり、25日第2回の包帯の交換を行ったが、化膿の傾向を認めず、且つさしたる痛みも感ぜず、元気も旺盛であり、侍者と朗らかに言葉を交わす事が出来る状態であるので、主治医も一先ず安心している。ちなみに李氏遭難以来、各国から李総理の逝去を悼むとの懇切な弔電が続々と統監府の来る等の滑稽な事があった。
清国償還金授受 同上
既電清国へ償還すべき35万円は、24日統監府が翰政府の委任を受け、清国領事館にて無事に授受した。
解説:12月15日の記事の続報である。
12月27日
李完用容態後報 26日京城特派員発
李完用のその後の容態は、先ず良好であるが、今は第3期に属するので、続発症状を惹起するか否か不明である。
兇漢連累捜索 同上
兇漢李在明は、1月ウラジオに赴き、6月一先ず帰韓、更に7月引き返した事があるまでは判然としている。且つ安應七とも密接な関係がある事を確かめたので、その筋では、在ウラジオの韓人取締について計画中である。特に人を派遣して、同地に於いて何事かを活発に行おうとする様である。
12月28日
各国植民地視察 27日京城特派員発
井上宮内府書記官は、今般辞職し、農工商部より嘱託を受けて、各国植民地視察の途に上るものと思われる。
12月29日
李完用氏の容態 27日京城特派員発
李総理は26日以来、時々血を交えた痰を吐いている。これは錆びた刀を以て刺された為に予期された容態であるが、或は肺炎を引き起こしたのではないかとの憂慮もある。熱は38度内外を上下し、脈拍は100で、呼吸は24、25である。食欲は鶏卵及び重湯少々を取った。27日朝包帯の交換を行ったが、傷口は化膿の兆しがないものの、3,4日間は危険を予測し難い。
沸学会組織 同上
当地の儒生である金世済というものが同志90余名を糾合し、沸学会を起こし、これによってキリスト教の一派が、偽愛国を唱える事に対抗して運動を起こそうとしている。これは人心の乱れの現れであろう。
三南線の分岐点 同上
大屋長官が、分岐点は大田とする方が、鳥致院よりも便利であり、必要であると言明した。又も地方の運動が始まると思われる。
解説:三南地方とは、韓国南部の慶尚道、全羅道及び忠清道の三道であり、この地方の鉄道の分岐点と思われる。
統監帰朝予告 同上
曽禰統監は、27日朝朴齋純(ぼくさいじゅん)、趙重應(ちょうじゅうおう)を召喚し、李総理の容態が危険でなければ、来年早々帰朝するので、留守中は万事注意すべきと懇諭した。
解説:朴齋純は、この内閣の内部大臣、趙重應は法部大臣である。
李完用氏容態後報 28日京城特派員発
李完用氏は、尚時々血痰を吐き、その他症状に変化がない。経過良好とは言い難い。
李範允捕縛説 同上
排日派首領の李範允(りはんいん)がウラジオで捕縛され、関東州都督府へ護送されたとの説がある。真偽不明である。
李在明の素性 28日平壌特派員発
兇漢李在明は、平安北道完州の生まれで、同人の妻は平壌の生まれである。上京前、暫く当地に滞在したことがある。連累者を捜索する為に京城から警官が来着し、厳重に捜査中である。
解説:李在明は、総理大臣李完用の襲撃犯である。
12月30日
李完用氏衰弱 29日京城特派員発
李完用の容態は、薬物によって血痰がようやく治ったものの、貧血の状態となっている。従って衰弱が甚だしく、なお安心するに至っていない。
12月31日
満韓移民奨励 内国電報(30日発)
政府は、各地に於ける本邦移民の状態を調査した結果、一部の地域を除いて、その他は概して、将来の発展が覚束ない事を認めた。海外移民調査は、新移民渡航地であるシベリア、ペルーの一部に於ける移民状態を調査する位に止め、来年度予算にもこれら調査費用を減じた。
小村外相の意見としては、将来海外移民の渡航は、完全にこれを禁止すると共に、次第に満韓地方に向かって移民の扶植を画策するにある。
来春になれば、安奉線工事が盛況となり、また鎮海湾防備事業が着々と進捗するので、工事用労働者の需要が増加するのは当然で、その暁には土着奨励法を講じるのではと言われている。