期日 |
政治 |
期日 |
軍事 司法 治安 宗教 |
期日 |
金融 財政 商業 |
期日 |
工業 農業 教育 通信 鉄道 その他 |
1月7日 |
李大使復命詳報 |
1月3日 |
判検事俸給令 |
1月20日 |
韓国財政一端 |
1月25日 |
大韓医院長任命 |
1月23日 |
皇太子御成(大磯) |
2月13日 |
前侍従武官逮捕 |
1月23日 |
韓国歳入現計 |
1月25日 |
森林法発布 |
2月16日 |
前亡命志士の消息 |
2月18日 |
日本巡査戒飾 |
3月2日 |
旧白銅貨禁止 |
2月7日 |
森林法内容 |
2月23日 |
政務統一の一端 |
3月4日 |
不埒なる典膳司長 |
3月6日 |
群山の貿易 |
2月9日 |
韓国公文書用字 |
2月23日 |
遭難地方及び遺族救恤 |
3月6日 |
米国布教費増額 |
3月17日 |
穀物市場開始 |
2月22日 |
灯台霧笛設置 |
3月20日 |
大韓殖産奨励会 |
3月17日 |
韓国軍人の警察事故 |
4月28日 |
木浦塩業会社の配当 |
2月28日 |
電気鉄道敷設認可 |
4月22日 |
拓殖法制定 |
3月28日 |
岡崎師団長の韓国談 |
5月5日 |
各道書記官会議 |
3月7日 |
乾元節提灯行列 |
6月2日 |
統監の訓示演説 |
3月31日 |
韓国の法典 |
5月19日 |
市場取締規則 |
3月16日 |
砂金採掘権 |
6月2日 |
徴税と警察問題 |
4月2日 |
駐韓交代兵帰還 |
5月25日 |
鉄道職員服制 |
4月1日 |
皇族会議の決議 |
6月13日 |
各道観察使 |
5月1日 |
新聞紙条例発布 |
6月4日 |
暴動と歳入不足 |
4月2日 |
草梁釜山間鉄道開業式 |
6月16日 |
李尹用免官 |
5月11日 |
暴徒大討伐と統監帰朝 |
6月6日 |
群山税関落成式 |
4月2日 |
木鎭航路補助 |
6月23日 |
郡守任用令発布 |
5月14日 |
増遣隊着韓 |
6月8日 |
第一銀行券引換 |
4月14日 |
東洋協会学校卒業式 |
7月3日 |
清津居留民の惨状 |
5月16日 |
増遣隊部署 |
6月18日 |
帝室財産調査局廃止 |
4月27日 |
鉄工所開放 |
7月26日 |
民団長官選問題 |
5月19日 |
排日機関紙の態度 |
7月2日 |
人参専売局設置 |
5月29日 |
大韓女子興學会設立 |
8月4日 |
民会議員協議会 |
5月21日 |
新法と裁判所 |
7月16日 |
仁川通関規則 |
5月31日 |
宗親学校設立協議 |
8月6日 |
韓太子呉行啓 |
6月4日 |
判検事新任 |
7月20日 |
人参財政 |
5月31日 |
京城水道通水式 |
8月15日 |
韓太子宮島出発 |
6月12日 |
裁判事務打合会 |
8月10日 |
特許局開庁期 |
6月10日 |
東洋拓殖会社と移民 |
8月16日 |
韓太子と満州丸 |
6月25日 |
各区裁判所判事任命 |
8月20日 |
商業条例施行規則 |
6月25日 |
甲山鉄鉱採掘認可 |
8月17日 |
伊藤統監談話(舞子) |
7月2日 |
警視庁管轄区域 |
9月4日 |
小作権保障 |
7月16日 |
馬山病院建築 |
8月18日 |
大阪に於ける韓太子 |
7月2日 |
各道庁に警部長を置く |
9月4日 |
度量衡改正 |
7月22日 |
統監の韓国殖産談 |
8月28日 |
民籍法制定 |
7月20日 |
憲兵補助員費 |
9月12日 |
国有樹木売却 |
8月12日 |
土石採取規則 |
9月14日 |
断髪励行 |
7月30日 |
義損金費消事件 |
9月15日 |
宇佐川中将曰く |
9月14日 |
第三種及び約束郵便 |
12月24日 |
官紀振粛問題 |
8月2日 |
大審院以下開庁 |
9月23日 |
東拓韓国引受受領 |
10月9日 |
鎮南浦築港 |
12月29日 |
莞島事件魂胆 |
8月14日 |
梁起澤逃亡顛末 |
10月1日 |
人参業者褒賞規定 |
10月17日 |
釜山の大桟橋 |
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8月31日 |
国債報償調査会組織 |
10月2日 |
城津航路汽船 |
11月3日 |
平壌無煙炭有望 |
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12月12日 |
排日思想宣伝 |
10月20日 |
織物製造所の発展 |
11月4日 |
大蔵技師妻木博士 |
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10月25日 |
大韓医院開院式 |
11月29日 |
善隣商業学校開校式 |
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11月23日 |
農工債券発行 |
12月8日 |
技師技手増置 |
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12月27日 |
韓国の明年度予算 |
12月24日 |
釜山陸海工事費 |
韓国近代化記事 明治41年
1月3日
判検事俸給令 同上
判検事官等の俸給令が発布された。官等は日本と大差なく、等級は親任官2千2百円、勅任官一等2千円、奏任官一等1千2百円である。
解説:公文書館アジア歴史資料センター、日露戦争特別展、将兵の給料によると陸軍大将の月給250円、海軍大将の月給500円(明治34年)とある。
1月7日
李大使復命 6日京城特派員発
報聘(ほうへい)大使李載冕(りさいべん)氏一行は昨5日午後、帰京し参内した。詳しく復命し、太皇帝にも言上したが、太皇帝は非常に詳細に、我が官民の待遇、皇太子の動静その他について質問があり、満足された。
1月20日
韓国財政一端 内国電報(19日発)
荒井度支部次官は下関から東上の途中、記者に次の様に語った。
Δ 今回は例の経常費及び臨時費を借り入れる要件で帰朝した。
Δ 臨時費4百万円は40年度及び41年度の2カ年に亙る借入額であり、裁判所や税務所
の庁舎新築費用その他に使用予定である。
Δ 裁判所については、各地に区裁判所、13カ所に控訴院、京城には平理院即ち大審院を
設置する予定である。又税務署は230余個所に設け、京城、平壌、大邱、金州及び元山
の5ヶ所に税務監督局を置くつもりである。
Δ これら官庁の建築事務は全て度支部所管として、現在レンガ製造所に於いて日々盛んに
レンガを製造中である。
Δ レンガ製造所の設置について、韓国に於いては材木が少なく非常に困難である。因って
14万円の経費を投じ水原に立派な農林学校を建てた。
Δ 又植林事業と共に大いに奨励すべきは農業である。韓国の土地は肥沃であるが耕作法が
予想外に幼稚であり、これ又各州に一人宛ての技手を派遣して講習会を開き、耕作法を人
民に教育する事に決定した。
Δ 従前は宮中と府中との区別があいまいであった為に、当然国庫の収入となるべきものが
皇帝の収入となっていたものが少なからずあった。例の人頭税及び鉱山に関する収入は、
今般全部を国庫の収入に移し、皇室費として国庫から毎年150万円宛て支出することに
なった云々
解説:長文であるが韓国の内政改革について具体的に知る事ができるので記載した。これらは韓国の近代化の為に必須であったが当時の両班(貴族)が既得権益を失う事になった為に最も嫌ったものであり、そして現在の韓国民が無視し、触れられたくない事項である。
なお度支部とは大蔵省を意味する。
1月23日
韓国歳入現計 同上
韓国の昨年度歳入経常部予算額は、956万5000円であったが、地方の暴動の為に多額の欠損を来したのではと予想された。しかし11月までの国庫収入金は819万8000円に達し、僅かに136万円の収入不足に過ぎず、内関税は33万円の収入超過を示している。
皇太子御成(大磯) 内国電報(22日発)
韓太子殿下は、本日22日午前11時25分、特別仕立ての汽車にてご来着された。これより10分前から伊藤統監、同夫人、村田少将、古谷秘書官等の統監府職員が停車場で待ち受ける中、やがて到着されると伊藤統監は、直ちに貴賓車に進み、殿下の御手を取って静かに下車された。殿下は中川大磯町長その他多くの官民の歓迎を受け、伊藤統監及び東京から来た10数名の隋従者と共に人力車を列ね、直ちに伊藤邸に入られた。
解説:韓国皇太子李根は、明治天皇の御声もあり、日本で大切に養育される事となった。韓国では、当初、母である厳妃のように人質として冷遇されるのでは心配する声もあったが、日本の皇太子同様に大切に説遇されていた。特に伊藤統監は誠心誠意尽くされていた様子が伺える記事である。後この伊藤統監は韓国のテロリストに暗殺された。
1月25日
大韓医院長任命 同上
佐藤進男爵は大韓医院長(勅任一等)を命じられた。
解説:明治7年アジア人として初の医学博士(ベルリン大学医学部)となり、日清戦争の講和会議で来日していた李鴻章が狙撃された際に、その治療を行っている。日露戦争では3度目の陸軍軍医総監となり、1907年男爵となっている。伊藤統監は、韓国の発展の為に各分野の第一人者を韓国に招いているが佐藤男爵もその一人と思われる。
森林法発布 同上
森林法は去る21日付で発布され、昨日から施行する。全文22カ条から成っている。
2月7日
森林法内容 6日京城特派員発
間もなく発布される予定の森林法は、借地期限の最長限度を百年とし、分収割合の最低限は収益の1割を政府に収め、9割を造林者の所得とする継続貸与の規程であるので、造林者は殆ど所有権を得たに等しい。出願は、未墾地利用法と同様に洗願順によらなくて、政府の認可とする。
解説:分収林とは政府と造林者で分収林契約を結び、その収益を分け合う森林であり、分収割合とはその収益の割合である。当時ソウル付近の山は全て禿山であり、植林が緊急課題となっていた。
2月9日
韓国公文書用字 8日京城特派員発
日本官吏を韓国政府に任用して以来、公文書に日韓両国の文字を併用しているが、これは正式でなく、違反である。外国人で韓国官吏であるものが、自国の文字を用いると解釈上に錯誤の恐れがあるので、漢文のみを用いて、外国文字、捨て仮名及び純漢文を混用してはならないと内閣会議に於いて規定した。
解説:捨て仮名とは、日本語のあの表記にたいして小文字で「ぁ」のように小文字で表わされる仮名である。
2月13日
前侍従武官逮捕 同上
閔源種及び厳俊源の二人が逮捕され、審問の結果、昨年の政変の際、太皇帝から時局を改善する為に数万円の運動費を支出した事が発覚し、その行き先について曖昧で摩訶不思議なことがあった。糾弾するならば大疑獄となると思われ、当時侍従武官の要職にあって大皇帝の信任が厚かった厳軍務教育局長、中佐尹致聖(いんちせい)(日本士官学校出身)も明石憲兵隊長の手に捕縛され、取り調べ中である。
2月16日
前亡命志士の消息 15日京城特派員発
趙博(ちょうはく)、愈吉シュン(ようきちしゅん)以下の志士は、現在も政治的野心を有する事は明らかである。趙博氏は政治上の目的を達する為には、手段の善悪を選ばず邁進すると公言し、日本の事情に精通しているだけに、統監政治に深く注意を払う模様であり、諸般の制度が韓国民の程度より、著しく進んで複雑であるのは、時勢に適していないと評している。金嘉鎮(きんかちん)も韓国民の裁判には、拷問が必要であり、諸般の施設は簡単でやり易い制度から漸進すべきであるのに、韓国の事情に通じない日本の司法官が通訳により直ちに文明の法律を運用する事は、非常に困難であると杞憂している。愈吉シュンも学部の教育方針がややもすると日本流であり、韓国民の学問と遠ざかる傾向があるのは、学問上も道徳上も却って効果少なく、教科書の如きも韓国文学を本位としなければならないとして、現在自ら出費して学校教科書の編纂に従事中である。
解説:韓国で李王朝の淀んだ政治から脱皮できたのは統監政治の結果であるが、現在の韓国でもここにある意見と同様な見解で日本統治が悪であるとする主張が行われている。
2月18日
日本巡査戒飾 17日京城特派員発
丸山警視総監は、各警察署長に対して、日本巡査は、韓国警吏の模範であれば、職務上の失敗に就いては、韓国警吏に比べて厳罰に処すべしと訓令した。
2月22日
灯台霧笛設置 21日城津特派員発
当港に灯台及び霧笛を設置する事が確定した。
2月23日
政務統一の一端 22日京城特派員発
従来、各道の観察使は、職権で勝手に道令を発令したが、往々にして中央政府の諸法令に抵触する事があった。政務統一の為に、以後観察使は道令を発布する前に、その理由を付して内務大臣の承認を受けることとした。
遭難地方及び遺族救恤 同上
内閣会議に於いて、暴徒の為に殺害された各地郡守等の遺族に救済金を付与する事に決定した。その金額は郡守2千円、主事総巡8百円である。
2月28日
電気鉄道敷設認可 27日仁川特派員発
仁川電気株式会社は、先の株主総会で15万円に増資し、仁川市内の電気鉄道を敷設する権限をその筋に認可を申請中であった、24日統監府の認可を得ることが出来た。社長は秋田氏である。
明治41年3月
3月2日
旧白銅貨禁止 1日京城特派員発
乱造の白銅貨は38年以来回収に従事しているが、その効果が少なく回収したものは僅かに4分の1に過ぎす、整理困難であるので、旧白銅貨は来る11月末限りで通用及び交換を禁止する事になった。
3月4日
不埒なる典膳司長 同上
最近皇帝陛下の食膳が粗悪となっている様子が見られた。調査の結果、典膳司長金玉鉉(きんぎょくげん)が皇帝の食糧費1カ月5百円の中から一部を着服している事が発覚し、皇帝から叱責された。金は李宮相の配下の者であるので、その責任が宮相に及ぶのではないかとの噂がある。
3月6日
米国布教費増額 同上
米国の各派伝道会社が行う韓国布教は、前途ますます有望である。在韓宣教師の、この際有能な宣教師を増派する必要があるとの建議を容れ、従来の布教費が年額50万ドルであったところ、長老派へ20万ドル、アメジスト派へ15万ドル、その他の教会へ5万ドルを増額する事になった。
3月7日
乾元節提灯行列 6日京城特派員発
来る10日漢城府民団の行う提灯行列は、漢城府尹が自ら引率する予定であり、宮内府の妓生は、全員午後5時に商業会議所に集合せよと達せられた。
解説:漢城府とはソウルの別名で尹はその長官と思われる。
3月16日
砂金採掘権 同上
浅野総一郎氏は、順安の砂金鉱山44万4千7百82坪の採掘権を獲得した。
3月17日
穀物市場開始 16日仁川特派員発
改築中であった仁川穀物協会市場は、本日16日落成し、明日17日から取引を開始する。
韓国軍人の警察事故 同上
軍部大臣は、以後韓国軍人軍属の警察事件は、日本の憲兵隊で取り扱う旨を発布した。
3月20日
大韓殖産奨励会 19日京城特派員発
大韓殖産奨励会は、業務の発展を図る為に、農林、商工、水産、測量、設計、園芸、学務、編集、庶務、財務の各科を設け、評議員15名及び幹事20名を置き、閔泳綺(びんえいき)を会長に李圭桓(りけいかん)を副会長に選任した。
3月28日
岡崎師団長の韓国談 内国電報27日発
韓国から帰国中の岡崎師団長は次の様に語った。
韓国の暴徒は一時非常に激しい勢力で、各地で蜂起する状況であったが、我が配備の油断が無い事に恐れ、総勢3万と称せられた彼らの89分を撃退した。その為現在各地で騒いでいるが憂慮する必要はない。特に頭目であった閔某も既に打ち殺し、第2の頭目である車道善も4百の団体を率いて帰順した。(抜粋)
3月31日
韓国の法典
韓国の法典編纂に就いては、梅博士が嘱託されているが、刑法及び刑事訴訟法は倉富氏が渡韓するので同氏に委託し、博士の手許に於いては、民法、商法(両者を合わせて一つの法典とする)及び民事訴訟法だけを起草する事となり、民事訴訟法の分は大体草案が出来上がったそうである。登記について現在は、土地証明規則によって権利の保障をしているが、土地家屋の売買、抵当に就いては別に地券家券法を起草し、統監の手許へ差し出している。これはすなわち我が国の登記法に近いものである。又土地家屋の台帳を設け、その台帳よって所有権の移転を認めることになるであろう。
解説:梅博士は日本民法の父と呼ばれている人で、明治39年7月17日の記事にあるとおり、韓国の法典の調査を嘱託されている。この記事は解説記事として掲載されていた。
明治41年4月
4月1日
皇族会議の決議 同上
昨30日、皇族会議を開き、宋親倶楽部と宋親学校(華族の子弟を教育するもの学校)の設立の件を可決した。倶楽部の総裁は咸興君(かんきょうくん)李載冕(りさいべん)氏と決定した。
解説:李載冕は、大院君の長男であり、韓皇には弟の高宗が選ばれている。
4月2日
駐韓交代兵帰還 1日仁川特派員発
駐韓歩兵第50、51,52及び騎兵第17、砲兵第19、工兵大13の各連隊の帰還兵
1096名は、本日1日当地着、2日吉林丸にて宇品に向かう。
木鎭航路補助 1日木浦特派員発
当地商業会議所は、木浦と鎮南浦間の航路に対し、これまで一航海に30円を補助し、年間3千円を支出して来たが、3月限りでこの契約が満期となるので、更に5か年間、一航海に35円補助する事に決定した。
解説:鎮南浦は平壌の外港で木浦は韓国の最南西部にある全羅南道の港である。
4月14日
東洋協会学校卒業式 12日京城特派員発
本日12日、東洋協会学校分校第1回卒業式が行われ、卒業生38名であった。鶴原監督の祝辞、曾根副統監の訓示及び祝辞があり、優等生児島繁樹に賞品を授与した。同校の卒業生で韓国の官吏となり、或いは実業に従事する者は、これまで63名であったが、今回の卒業生を加えて101名となった。
解説:この東京協会学校分校とは、東洋協会専門学校(拓殖大学の前身)の京城分校であり、1907年(明治40年)に設立されている。後に京城高商と呼ばれた。
4月22日
拓殖法制定 同上
韓国政府は、東洋拓殖会社の創立が確定した為、後日韓国拓殖法を制定し、発表する筈である。
解説:東洋拓殖会社とは、1908年朝鮮の農業開拓を目的とする国策会社で、土地を買収し地主経営を行い、朝鮮最大の地主となった。
4月27日
鉄工所開放 25日京城特派員発
韓国には、未だ完全な鉄工所が無い為、鉄道管理局は、業務の許す限り、龍山、仁川、草梁、兼二浦の4鉄工所を公開して一般の注文に応じる事とした。
4月28日
木浦塩業会社の配当 27日木浦特派員発
木浦塩業株式会社は、本日27日株主総会を開き、1割2分の配当案を可決した。
明治41年5月
5月1日
新聞紙条例発布 30日京城特派員発
統監府令により新聞紙規則が発布された。発行人が納めなければならない保証金は、京城、仁川、釜山で1千円、理事庁所在地で5百円、その他では2百円である。理事官は韓国に輸入する新聞紙で、治安、風俗を害するものの発売、頒布を禁止し、差し押さえる権利を有する。
5月5日
各道書記官会議 同上
荒井、俵二人の次官は、各道書記官会議に出席し、訓示の演説を行った。又同会議に於いては、先に公布してその実施を中止した地方税規則は韓国の実情に適さないものとして、更に税目税率、徴税方法に関して、韓国従来の慣習を調査し、新たに地方税規則を制定、公布する事を決めた。
5月11日
暴徒大討伐と統監帰朝 10日京城特派員発
暴徒に対する方針が4回変更されたが、増派旅団の到着次第、今月下旬一斉に討伐の予定である。統監は帰朝期を速めて、下旬若しくは来月初めに俄かに帰朝する様子である。
5月14日
増遣隊着韓 13日仁川特派員発
熊本歩兵第二十三連隊第一大隊、第三大隊の千7名が本日13日午前7時、樺太丸で入港し、午後3時半から上陸、又同連隊第二大隊5百11名は本日13日夕刻、基降丸で入港
5月16日
増遣隊部署 同上
新着の第二十三連隊は、本部を水原に置いた。第二十七連隊は京城に本部を置き、京城以北の黄海道海州付近の討伐に従事する予定
5月19日
排日機関紙の態度 18日京城特派員発
ベッセル監理の新聞に対する日本人一般の憤慨は次第にその度を高めている。大韓毎日の如きは、現在1万8千部を発行し、その害毒は極めて大きい為に、早速何とか断固たる処置を下す必要がある。同社では極端な排日思想を鼓吹し、我が保護政治を妨害しているのはベッセルよりむしろ韓人リウキタクなる人物であり、先頃発行禁止を命じた際にも門前に「日本人入るべからず」と掲げ、仮令日本の官吏であっても新聞社の事については一言も語らない。
市場取締規則 同上
地方商業の振興を図る為、現行各地市場制度を取り締まる必要があるとして、農商工部は市場取締規則の草案を起草中である。本件は非常な大問題で、各道書記官会議でも種々議論が行われた。
5月21日
新法と裁判所 同上
倉富委員長等が起草した民刑事訴訟手続は、審議が終了し、間もなく内閣会議に回し、統監の承認を経て発布される予定である。但し大審院以下の新設裁判所は、準備の都合上6月1日から開庁する事は難しく、7月に延期されるであろう。
5月25日
鉄道職員服制 24日京城特派員発
統監府令により、鉄道管理局職員の服制を公布した。
5月29日
大韓女子興學会設立 28日京城特派員発
完興君(かんこうくん)李載冕(りさいめん)、永宣君(えいせんくん)李埈鎔及び李完用氏以下7夫人は、皇后陛下のお考えを体し、夫人の智徳を増進させる為、大韓女子興學会を組織した。完興君夫人を総裁として、各大臣、中枢院顧問を顧問に推薦し、皇后陛下より金1千円と令旨を賜った。
解説:完興君李載冕は、大院君の長男で、次男である高宗が韓皇となった。高宗は引退し長男純宗が韓皇となっている。永宣君李埈鎔は、李載冕の長男 李完用は1907年、伊藤統監の推薦で内閣総理大臣を務めた。朝鮮貴族の侯爵
5月31日
宗親学校設立協議 30日京城特派員発
宋親学校を設立する件について、各皇族は宗親府に協議会を開いた。又学部は、私立学校に関する規則17カ条を制定し、今後閣議を経て発表の由であるが、教科書は全て学部大臣の認可を得たものを用い、又安寧秩序を妨害するようなときには廃校を命じる事も規定しているとの事である。
解説:宗親学校は貴族の子弟を教育する学校である。
京城水道通水式 同上
コールブラン氏が経営する京城水道工事は、ほぼ竣工し、来月初旬に通水式を行う事になっている様である。
明治41年6月
6月2日
統監の訓示演説 1日京城特派員発
伊藤統監は、本日1日、各観察使、漢城府尹を官邸に招集し、地方行政の改善に関する意見を徴し、訓示演説を行った。
解説:当時韓国には13道が置かれていたが、その中で漢城、光州等の都会には特別府が置かれ、そして漢城府尹とは漢城府の長官を意味する。
徴税と警察問題 同上
韓国政府が度支部所管の下に各税務署に地方徴税事務を取り扱わせた成績は、概して不良であり、依然郡守観察使の手を煩わさなければ、徴税が円滑に行われない状況である。又内部が地方警察を警視局の直轄とした成績も不良であり、徴税と警察の二つの権力は、矢張り各観察使の所管の下に置いた方が望ましいことは実験上、当局者も認めている模様である。今回の観察使会議に於いてもこの問題は熱心に討議され、かくして観察使は日本官吏を任用すべきとの議論が漸く勢力を得ようとしているようである。
6月4日
判検事新任 3日京城特派員発
平山勅任判事以下82名が新たに裁判所検事に任命された。
暴動と歳入不足 同上
度支部の計算によれば、4月末までに徴集を終わった租税は、382万2412万円であり、総予算の3割3分である。昨年は同月までに6割以上の徴集を終わり、年度末となって結局24万円の歳入超過となったが、本年はこの調子で年度末となるならば約250万円以上の歳入不足となるであろう。これは言うまでもなく各地暴動の結果である。
6月6日
群山税関落成式 31日群山特派員発
本日31日当地税関の落成式が行われる。
6月8日
第一銀行券引換 7日京城特派員発
我が印刷局に依頼された第一銀行1円券は、既に80万円出来上がり、7月末までに更に70万円印刷の計画であり、8月1日から同行の韓国支店出張所に於いて旧券との引き換えに着手する予定である。尚5円、10円の両新券は10月発行の予定である。旧券との引き換えはおよそ7カ月間で大部分を終了するであろう。
6月10日
東洋拓殖会社と移民 同上
東洋拓殖会社に対する韓国上下の意向も相分かったが、移民を主たる業務の一つとする同社の当初の方針は、本多農学博士の具体的意見によって、急速に見込みがないものと認められ、やや持て余しの体であるのでこれを設立したが、数年間は極めて小規模なものと察しられる。
解説:東洋拓殖会社は、この後土地買収を行い、敗戦時は韓国最大の地主となった。
6月12日
裁判事務打合会 11日京城特派員発
本日11日から1週間、新設裁判事務に関して、大審院、各控訴院、各地方裁判所長、検事長の打ち合わせ会を開く。大審院、控訴院の部長は日本判事、その他の官憲は日韓人半数づつの合議体であり、平理院、漢城裁判所の検事は新裁判官を任用する事になっている。
6月13日
各道観察使
各道観察使の大更迭が本日発表され、次の様に新任された。前観察使は何れも諭旨免職となった。
平安南道 李珍孝 、忠清北道 權本洙 、全羅南道 中雅喜 、黄海道?義文
忠清南道 杙定徳 、江原道 李圭煥 、咸鏡南道 李植策
上記の他任地を変更した者も多かった。
解説:観察使とは道の行政のトップ
6月16日
李尹用免官 同上
一族郎党70余名を宮中に入れ、横暴を極めた李尹用(りいんよう)は宮内大臣を免ぜられ、侍従院卿の閔丙奭(びんへいせき)が後任となった。統監がこの更迭を断行したのは痛快である。
6月18日
帝室財産調査局廃止 17日京城特派員発
帝室財産は国有に移される為に、帝室財産調査局及び整理局は、勅令で廃止される。
6月23日
郡守任用令発布 同上
勅礼によって郡守任用令が発布された。郡守は文官任用令の規定によらず、観察使がその管轄区域内に居住し、地方の状況に通達し、品行端正で適任と認める者を推薦し、その中から任用する。
6月25日
各区裁判所判事任命 24日京城特派員発
各観察使は本日24日、各区裁判所判事に任ぜられる。
甲山鉄鉱採掘認可 同上
甲山鉄鉱は、コール、ブラン氏に採掘を認可された。同氏は30万円の資本で採掘する由
明治41年7月
7月2日
警視庁管轄区域 1日京城特派員発
警視庁管轄は、昨日30日大臣会議に於いて漢城府のみとする事に決定した。
人参専売局設置 同上
人参事業を国家の収入とする事に決定し、他日勅令で人参専売局を設置される予定である。
各道庁に警部長を置く 同上
各道警察権を観察使に管轄させる事となった為に、各道庁に警部長1名を新設する件が昨日30日大臣会議に於いて決定された。経費の都合上当分、観察使所在地の警察署長がその職務を執るであとう。
7月3日
清津居留民の惨状 2日元山特派員発
清津の羅南が有望であるとの説があり、その後同地に行く者が毎船百名乃至2百名であった。しかし実地に行くと、望みが無い事に落胆したが帰る旅費も無く、100人中、89人は飢餓に瀕している状況であり、一般に注意を促す。
7月16日
仁川通関規則 同上
仁川税関は、通関業者の弊害を防ぐため、23日中に通関規則を発布し、保証金千円、免許料2円を納入させる予定である。これは8月15日から施行の予定
7月20日
憲兵補助員費(70万円借入) 19日京城特派員発
韓国政府は、憲兵補助員費70万3千円を臨時部歳出追加予算に計上したが、これに充てるべき財源が無い為に、我が政府から来年度の借入金の中で、70万円を繰り上げて借り入れるとの協定を行った。即ち本年度日本政府からの貸出額は596万円となる。
人参財政 同上
人参税法及び人参売買法が20日発布される予定である。これに要する本年度経費は、人参賠償費、事業費、製造所新築費等経常及び臨時費を合わせて20万6千6百69円、人参業収入は26万6千95円である。
解説:人参とは朝鮮人参の事であり、李王朝時代にも大きな収入源として厳重に管理されており、イザベラ・バードの「朝鮮紀行」25章で松都に於ける製造工程が詳しく述べられている。
7月22日
統監の韓国殖産談(名古屋) 内国電報21日発
伊藤統監は、21日朝、岐阜万松館において、来訪した各新聞記者を引見して韓国の殖産事業に関し次の談話を行った。
△ 元来韓国は冬季の寒気が激しいのと国民の植林思想が欠乏しているので、樹木は殆ど伐採してこれを暖房用に使用する為に山林は荒廃し、一旦出水したならば、流域の形状が変化するので、治水上植林事業の経営に努めなければならない。
△ 田畑の多くは荒廃してしまっているが、米及び綿、タバコの栽培には適した土であるので将来耕地を改良するならばその収益は多くなるであろう。特に日本の籾種はその土に最適である。
△ 韓国の農業は、主に牛で耕しているのみで、牛の使用が多いので牧畜事業の経営は将来最も有望である。
△ 韓国の小作人は極めて正直であるので地主との間も円滑であり、年貢も収穫を折半して両者分配している状況である。
△ 鉱業の有望なのは言うまだも無い。有力な本邦人が来てその事業を経営するならば利益は莫大なものとなるであろう。
△ 山林水産事業は、現在本邦人の経営に係るものが少なからずあり、特に水産事業に至っては1カ年の収益は3百万円以上に達している。
△ 製塩事業も大いに有望であり、現在天日乾製造の試験中である。
要するに韓国における殖産事業に就いては農事試験場の様な機関を設けて事業の開発中である云々
7月26日
民団長官選問題 24日京城特派員発
統監府が居留民団法施行規則を改正し民長を官選とする件に就いて、各居留民地とも自治体を蹂躙する不法、不当な行為であるとして、各地新聞は一斉に攻撃を始め大問題となっている。
韓国の我が居留民は、官憲の保護を受けず、自ら守り自ら進んで現在の居留地を開拓したものである。政治上より見る時には、最も尊重すべき歴史を有するものであれば、当局者が少し感情に走り、多少の弊害を除かんとして直ちにこの改正を断行するのは、やや思慮に欠けた策と思われる。
7月30日
義損金費消事件 29日京城特派員発
大韓毎日新報主幹リウキタクが国災義援金を横領した事件を平理院に於いて取り調べた結果、リュが6万円をベッセルと共謀し費消した事は殆ど明瞭であるが、しかしリュはベッセルが行ったもので自分は関係が無いと主張している。その為韓国政府は、英国領事に本件に関しベッセルの取調について照会したが、英国領事は言を左右して容易にその依頼に応じていない。現在頻りに交渉中であるが領事が曖昧な態度を取る理由は何か怪しいものがあると思われる。
明治41年8月
8月2日
大審院以下開庁 1日京城特派員発
大審院以下の新裁判所が1日開庁した。
解説:韓国で初めて近代的な司法制度が始まった。
関連記事が明治40年9月8日「韓国司法制度」、明治40年12月7日「新裁判機関」明治41年3月31日「韓国の法典」、明治41年6月12日「裁判事務打ち合わせ会」にある。
8月10日
特許局開庁期 9日京城特派員発
日米新条約に基づく統監府特許局は、来る16日より開庁する予定
8月12日
土石採取規則 11日京城特派員発
国有地の土石(宝石、燐鉱、石材、粘土)を採取する許可權は、今後農工商部に於いて取扱う事になり、同部の指定する採取料を徴収する為、間もなく採取規則を発布する予定である。この採取権は、相続、譲渡、抵当の目的物とする事が出来る。
8月14日
梁起澤逃亡顛末 13日京城特派員発
大韓新報記者梁起澤(りゅうきたく)の国債報償義援金横領事件は、ベッセルに最後の宣告をする為に多くの取調が進行し、15日公判が開かれる事が決定していた。ところが京城監獄の失態に依り梁起澤(りゅうきたく)を逃走させてしまい、証拠隠滅の恐れがあるのみか面倒な一種の国際問題となる失態を引き起こしており、梁起澤(りゅうきたく)は、大韓毎日新報社に逃げ込んだが、社長トーマスは、一旦英国人の住居内に立ち入った上は、英国総領事の手を経るのでなければ引き渡す事は出来ないと答えている。
8月15日
韓太子宮島出発(厳島) 14日内国電報
韓太子は、14日午前9時、伊藤公に導かれ白雲祠に向かい、鳩の豆まき、鹿呼び等をご覧になった。更に神社の回廊に入り、水中楼閣の美を賞しつつ、海岸伝いに桟橋に出て、筑波の艦載水雷艇で満州に移り、11時讃岐の粟島に向かい、明15日午前10時御上陸の予定
解説:関連記事が8月6日「韓太子呉行啓」にあるが、伊藤統監が直接案内をする等日本の皇太子と同様な敬意が払われている様子が分かる。
8月16日
韓太子と満州丸(舞子) 内国電報 15日付
韓太子及び伊藤統監を載せた満州丸は、厳島より讃岐の粟島を経て午後11時40分舞子に入り、萬鵬楼(ばんきろう)前に仮泊した。満艦飾、登舷礼式を行うと同時に韓国国家を吹奏する中、太子は喜色満面で伊藤統監、趙武官長以下を従え、カッターで御上陸になり、萬鵬楼の表玄関から楼上の御居間にお入りになった。一行は当地に2泊されると思われるが、大阪、奈良、京都を御見学する日時は未だ決定していない。
解説:昨日の続き
8月17日
伊藤統監談話(舞子) 内国電報16日発
15日夜、舞子の萬鵬楼(ばんきろう)に於いて次の様に語った。
余には未完成の大事業があり、これは言うまでもなく韓国の経営である。韓国が発展するようになるのは遠い将来であり、この間決して挫折しないようにする為にできる限りの注意を払わなければならない。
元来韓国は統御するのに困難な国である。しかし国民は決して内地人が想像するような愚物ではなく、却って内地人が彼らの為に翻弄されている様な例はしばしば見られている。
しかし5百年来沁みついて来た悪習と、野心家秀吉の思慮に欠ける暴虐的侵略の結果、日本に対する怨恨と猜疑の悪感情は3百年来知らず知らず間に民心に伝承し、一朝一夕で洗い流す事が出来ない。(一部抜粋)
8月18日
大阪に於ける韓太子(大阪) 内国電報17日付
17日午前大阪に御到着の韓太子は、午後大阪城に赴かれる事になり、井上師団長に伴われて天守閣に上られた。大小様々な煙突が林立し、黒煙が天に充ちている工業の大都を見下ろしつつ、何故この様に煙が多いのかと御下問された。伊藤太師は静かに商工業の大阪を説明し、一国の盛衰は商工業の発達如何にあり、英明な太子は、学を磨き、将来位に就く時には、大韓民国を導いて商工業を発達させ、国を富ませる事に依り社稷の隆盛を図らなければならないと教えた。(一部抜粋)
解説:15日から引き続き韓太子の報道である。伊藤太師とは伊藤統監のことであり、当時の日本は誠心誠意皇太子の教育に当っていた事が分かる。
8月20日
商業条例施行規則 同上
19日統監府令にて韓国商業条例施行規則、特許代理業者登録規則を発布した。
8月28日
民籍法制定 同上
韓国には戸籍簿が無く、国民の現在数を知る手段が無い為に、間もなく民籍法を制定発布する予定である。
8月31日
国債報償調査会組織 30日京城特派員発
梁起鐸(りょうきたく)は、詐欺取財の被告人となった。報償会はペゼル派と衝突し、国際報償醵金の行方が曖昧である為、今回金嘉鎮(きんかちん)氏が会長となり、各方面の代表者を網羅し、報償金調査会を組織し、30日総会を開いた。
解説:国債報償醵金とは、当時韓国は日本から1300万円を借款し近代化を図っていたが、これを国民の募金で返済し、経済的独立を図ろうとする運動が起こった。所が銀行に預けていた醵金が横領されている事が判明し、大事件となり、今回梁起鐸が被告人となっている。横領したのは英国人の新聞記者ベセルで排日を主張する新聞を発行しており、5月19日「排日機関紙の態度」にベセルについての記事がある。関連記事が6月3日、7月17日、27日、30日、8月14日にある。
金嘉鎮は開化派の政治家で、金弘集内閣で農商工部大臣となった。日韓併合に反対し、1919年の3・1独立運動に参加し、上海に亡命した。
明治41年9月
9月4日
度量衡改正 3日京城特派員発
当地に於いて、度量衡の改正を実行する計画であり、農商工部から事務官が来て準備する予定である。成績が良好であれば順次地方でも実施する事になっている。
小作権保障 同上
度支部は、管理規定を発布し、5カ年以内の小作権を認め、濫りに小作人を変更させない保証を与えた。
9月12日
国有樹木売却 同上
農商工部は、新造林費用に充てる為に国有林中の数万本の大木を売却する予定である。
9月14日
第三種及び約束郵便 13日京城特派員発
統監府令によって、第三種郵便物の認可規則及び約束郵便物の取扱規則を制定した。
解説:約束郵便とは、新聞や雑誌等の定期刊行物を送る際に、郵便局と一定の料金を支払う契約をし、切手を張らずに送付するもの。
断髪励行 同上
京畿道は郡守会議の結果、地方政治を刷新する一つの項目として、詔勅の趣旨をたいして、陰暦9月1日を以て、各郡の人民に断髪をさせ、各道の模範とする事に決定した。
解説:朝鮮人にとって「まげ」は朝鮮人たるしるしであり、大昔からの慣習であり、歴史があるが故に神聖なものであり(イザベラ、バードの朝鮮紀行)
9月15日
宇佐川中将曰く(朝鮮のいろいろ)
東洋拓殖会社の事業は創立後30年位を過ぎなければ、容易にその成果を云々することはできない。何分未だに土地の台帳さえできていない状況であるので、耕地の整理だけでも相当な手間が掛かると思われる。又朝鮮の田畑は案外開墾されており、荒れ地として残っているのは、河川の氾濫の恐れがある場所のみで、且つ地価が安いので海岸を埋め立てする開拓事業に着手するよりも田畑を買う方が2倍以上安く付く。朝鮮人はあまり耕作に手を掛けないので、拓殖の目的は、荒れ地の開拓よりも先ず田畑の耕作法の改良を第一とすべきである。
支那朝鮮には、日本人が理想と考える様に一本調子で行われない場合がある。例えば租税の徴収では、従来郡守が一旦徴集し、群衆はその金でその地方の物産を求め、これを京城に送り売買し、既定の税額を中央政府に収め、自分はその剰余と販売の利益を着服する訳であり、税金の一部は、これによって支払った人間に落ちるので、貨幣の欠乏する事はなかった。
しかし最近、財務官と称する日本人の役人が、郡守の収賄を矯正する目的で、徴収した金は一旦京城に輸送する為、その地方は、たちまち葉銭が欠乏し、愚民共は自分たちの財産を皆日本人に取られてしまうと誤解し、この為に匪賊の気勢を高める情勢にある。(一部抜粋)
9月23日
東拓韓国引受受領 21日京城特派員発
21日統監府に於ける臨時閣議に於いて、韓国政府が東洋拓殖資本を引き受ける予定額は、額面3百万円となった。これに対する駅屯土の提供5千7百2町8反8畝と決定した。この駅屯土は、水田1町歩20円11銭、火土1町歩9円95銭と純益を見積り、純収入の17倍半と評価したものである。
解説:駅屯土とは、李王朝時代から宿泊所に付属する田地である。
5千7百2町とは約5600ヘクタールである。
明治41年10月
10月1日
人参業者褒賞規定 同上
度支部は人参製造業者の褒賞規定を制定した。
10月2日
城津航路汽船 1日仁川特派員発
大韓共同汽船会社は、2隻の汽船を以て、仁川から群山、木浦、釜山、元山を経て城津に至る航路を開始し、1隻は本月15日仁川に帰港すると思われる。
解説:仁川から朝鮮半島南部を回って、現在の北朝鮮北部で日本海に面した城津までの航路である。
10月9日
鎮南浦築港 8日京城特派員発
韓国唯一の良好である鎮南浦は、明年度から百万円の予算で築港の予定である。
解説:平壌の外港となっており、現在も重要な貿易港
10月17日
釜山の大桟橋 16日釜山特派員発
税関工事部に於いて設計中であった釜山港大桟橋は、今回神戸川﨑造船所と契約が成立した。全て鋼鉄製であり、工期1年、工事費21万円である。
10月20日
織物製造所の発展 19日京城特派員発
宋秉畯(そうへいしゅん)が設立した織物製造所を基礎として、金ジ鉉(きんじげん)外2名が設立する染織、縫、木工、金属工の工場に対し、宮内府は御用品調製を奨励する為6万円余を無利子で貸し下げ、且つ元営繕司の建築物及び敷地を貸与する事を内定した。
10月25日
大韓医院開院式 同上
大韓医院の開院式は、秋日和に恵まれ、周到な準備の下で極めて盛況であった。
解説:西洋式の赤レンガの建物で、朝鮮総督府病院、京城帝国大学付属病院として使用されたが、戦後ソウル大病院本館として使用され、現在博物館となっている。
ソウル大学病院が準備している大韓医院100周年記念事業を延世大学病院が批判し、歴史論争が行われている。次の「韓国発コリアフリークなBlog」のホームページを参照した。
http://blog.goo.ne.jp/yoshi1963jp/e/a1f1816d4b3d300b01ab3d9aac4de2da
明治41年11月
11月3日
平壌無煙炭有望 同上
平壌の無煙炭は、練炭所長成田機関大佐が調査した結果、有望であると判明した。
11月4日
大蔵技師妻木博士 同上
5日仁川に来て、港湾の調査を行う事になっている。
解説:10月25日の記事「十三師団将校謁見」に関連記事があるが、妻木博士は当時の建築界を代表する技師であった。
11月23日
農工債券発行 22日京城特派員発
韓国農工銀行債券を発行する議を可決し、各農工銀行は、共に債券を発行する予定であるが、発行総額は70万円で、7分利付、3年据え置き、10年間に抽選償還の予定である。
解説:農工銀行は、拓殖事業に対する長期融資を目的とする銀行で1906年の創立されている。
11月29日
善隣商業学校開校式 28日京城特派員発
大倉喜八郎氏が20万円を寄付して成立した善隣商業学校は、28日伊藤統監、曽禰副統監、各大臣以下百官、紳士が陪席し、開校式を挙行した。
解説:現在善隣インターネット高校と言う公立高校となっている。
明治41年12月
12月12日
排日思想宣伝 同上
キリスト教徒が学校の生徒に排日思想を注入しようとする傾向は、蓋う事のできない事実である。最近京城の学校にまで波及し、現に三四日前、工業伝習所1年生3名が酒を煽り、門衛及び舎監に対し抵抗を試みた事を動機として、1年生全員が同盟休校を企てた。そして当局者のこれに対する処置が当を得ていないとして、2年生以下が同盟休校をする等不穏の挙動があり、伝習所長は、漸くこれをなだめて鎮静化させたが、この動機が排日思想に原因する兆候があるとして当局者は厳重に注意をしている。
12月24日
官紀振粛問題 23日京城特派員発
莞島森林問題は、幸いに統監の公正な態度に依り不認可に終わったが、この問題を契機として起こった官紀振粛問題と属僚の暗闘に起因する醜状は、意外に広い範囲に影響して持ち上がりつつある。聞く所に依れば、江藤に莞島払下げの許可を約束したのは、木内氏であり、岡氏は充分に尽力すると約束しただけとも言っている。とにかく国家に関する問題が往々にして、諸種の運動によって決められようとし、属僚の暗闘が我が威信を非常に損なっているのは嘆かわしい事である。
解説:昨日の記事の続報
釜山陸海工事費 23日釜山特派員発
税関山及び元領事館山等の開削費並びに海面埋め立て工事費105万円は、韓国政府の保証にて、当民団が借入、3カ年の継続事業として着手する件が21日閣議で決定した旨の情報があった。
12月27日
韓国の明年度予算 26日京城特派員発
明年度の韓国予算は、歳入2,143万4,723円であり、内臨時部758万6,280円、歳出2,226万8,655円で内臨時部628万6,221円と確定した。
解説:数年前の統監府の人口調査によれば、韓国の人口は約1千万人であり、日本の人口は約4千5百万人であった。また日露戦争前、日本の平時の国家予算は約2億5千万円であり、大胆な見方をすれば、韓国の人口は日本の5分の1、予算は10分の1程度と思われる。
12月29日
莞島事件魂胆 28日京城特派員発
江藤対官憲と往復した数通の書簡を発見したが、その書簡及びその他の材料から考察すると、当該官吏の軽挙、不謹慎な事は想像以上である。許可すべき性質でないものを許可すると約束し、極めて多くの手数と月日を費やし、漸く許可を与える間際になって、根底から約束を破棄し、更にその損失の一部を弁償する意味に取られる態度で他の利権を約束する。そして又これを破棄する。実力のある真の実業家は、韓国の事業から撤退の止む無きに至らしめている。断固たる粛清がこの機会に特に必要である。(一部抜粋)
解説:12月23日、24日に関連記事がある。
韓太子の使者(門司) 内国電報(28日付)
厳柱益(げんちゅうえき)氏の談によれば、先月厳妃の誕生日を祝う為に、英親王よりの贈り物(洋服、帽子、靴等)を持参したが、妃はこれを喜んで直ちに洋装に着替え、親王の厚意を喜んだ。又太皇帝も親王の留学以来、一時は憂慮されたが最早その様な事も無く、親王の成績が優れ、健康な事に満足し、特に今回新調した被服類は、身長、幅とも3寸ばかり大きく仕立てたとの奏上を聞かれ格別に喜ばれた。
解説:英親王とは、高宗と厳妃の子で、日本に留学中の韓国皇太子である。