期日 |
政治 |
期日 |
軍事,司法,治安 |
期日 |
金融、財政、商業 |
期日 |
工業、農業 教育、通信、鉄道、その他 |
1月8日 |
李内部の勢力 |
1月9日 |
慶尚道匪賊討伐 |
1月7日 |
保税倉庫開始 |
1月5日 |
白石工学博士 |
1月16日 |
光州理事支庁 |
2月2日 |
土地抵当権と日本人 |
1月10日 |
農工債権引受契約 |
1月9日 |
大同江流氷 |
2月24日 |
官庁事務見習 |
2月9日 |
両警察の協力 |
1月12日 |
韓吏同盟辞職 |
1月13日 |
鴨緑江航路標識引渡 |
2月25日 |
土地家屋証明規則 |
2月15日 |
警察協商成立 |
1月15日 |
税務監督局新設 |
1月15日 |
仁川水道工事 |
3月3日 |
登記法制定の議 |
2月24日 |
偽造貨幣取締 |
1月29日 |
葉銭担保貸付禁止 |
2月8日 |
水道工事着手 |
3月6日 |
官庁事務視察委員 |
4月26日 |
排日運動趨勢 |
2月26日 |
農工銀行と地方税 |
2月11日 |
水道工事 |
4月8日 |
日本視察員 |
6月2日 |
日本人の巡査 |
3月2日 |
愈出でし愈拙 |
3月30日 |
普通学校増設 |
4月10日 |
衛生会議 |
6月5日 |
日本弁護士公認請願 |
3月15日 |
葉銭買上 |
4月18日 |
鴨緑江森林経営準備 |
5月31日 |
統監訓示 |
6月8日 |
慶尚道暴動 |
4月14日 |
郡守の不法徴税 |
5月16日 |
水原勧業模範場 |
6月5日 |
統監邸の定例会議 |
6月30日 |
新裁判制度内容 |
5月3日 |
第一銀行券改造 |
5月20日 |
京城平壌間の電話 |
6月6日 |
大臣謁見制限 |
7月3日 |
韓国募兵令発布 |
5月10日 |
韓民誘掖の新手段 |
5月26日 |
韓国戸籍調査 |
6月12日 |
朴泳孝挙動 |
7月6日 |
怪事 |
5月17日 |
地方委員会と金融組合 |
6月5日 |
平壌鎮南浦間鉄道 |
6月16日 |
内閣新官制裁可 |
7月9日 |
ハーグ事件責任者 |
6月25日 |
塩税不納者の反抗 |
6月20日 |
群山全州間の車道 |
6月17日 |
特赦後の朴泳孝 |
7月28日 |
日韓時局 |
6月28日 |
保税貨物取扱所新設 |
6月28日 |
瓦斯会社許可 |
6月20日 |
漢城政局近情 |
7月30日 |
暴動巨魁捕縛 |
7月6日 |
商業会議所新設 |
7月2日 |
国有地開墾 |
6月21日 |
美以教会の統監招待 |
8月2日 |
陸軍解散始末記 |
8月11日 |
韓国新政府内容 |
7月7日 |
国有未開墾地利用法案 |
7月11日 |
村田水産翁韓国談 |
8月4日 |
各地鎮衛隊解散処分 |
8月19日 |
貨幣条例改正 |
7月12日 |
宮内府鉱山事務 |
7月20日 |
韓皇譲位 |
8月4日 |
警視総監以下 |
9月8日 |
韓国土地制度 |
8月19日 |
韓国鉱山割取 |
7月23日 |
上皇の腹の中 |
9月1日 |
将校解職式 |
9月11日 |
韓国補助金問題 |
8月19日 |
新帝断髪 |
7月26日 |
新協約全文 |
9月2日 |
間島の軍政 |
9月26日 |
天日製塩開場式 |
8月21日 |
日韓協共同牧場設置 |
7月27日 |
新協約に反対する論点 |
9月8日 |
韓国司法制度 |
11月20日 |
新貨幣通用厳達 |
9月16日 |
綿花栽培成績 |
8月1日 |
伊藤統監演説 |
9月10日 |
韓国司法現状 |
11月27日 |
韓国会計法改正 |
9月20日 |
平壌の載炭事業 |
8月11日 |
日本人任用後報 |
9月27日 |
韓国警務刷新 |
12月15日 |
韓国明年度予算 |
10月2日 |
木補開港紀念会 |
8月28日 |
新帝即位式 |
10月4日 |
韓帝の大廟参拝 |
12月16日 |
韓国来年度予算 |
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10月11日 |
統監府事務規定発布 |
12月7日 |
新裁判機関 |
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10月13日 |
新帝再度の遷宮 |
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10月25日 |
宮中粛清難 |
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11月14日 |
皇帝遷宮 |
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11月29日 |
韓国政界の暗流 |
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11月30日 |
新宮内官制 |
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12月1日 |
韓国新官制難 |
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12月10日 |
厳妃の密偵 |
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12月11日 |
韓皇太子殿下御学友 |
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12月17日 |
韓国各部官制 |
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1月5日
製塩場見合せ 4日木浦特派員発
政府は、木浦付近に天日による製塩試験場を設置する予定であったがこの程見合わせることになった。
白石工学博士 同上
工学博士白石直次氏は、一昨日の2日、弘済丸で来着した。鉄道視察の為に本日4日、光州に赴いた。
解説:工学博士白石直次は、白石直冶の誤り。 白石直冶は、東京大学を卒業後、アメリカの大学、ペンシルベニア鉄道で土木工学の実務を学び、1987年帰国後帝国大学の教授となり、1990年に辞職し関西鉄道の社長となった。その後衆議院議員、土木学会会長になっている。
1月7日
新年宴会 6日京城特派員発
昨日5日、新年宴会につき軍司令部では、正午盛宴を開いた。又統監邸では、長谷川統監代理の主催に係る夜会があり、招待された者は、鶴原長官、木内総長、古市長官、東條少将以下文武高等官、目賀田、加藤、丸山、野津の各顧問及び各新聞社代表者等約百名であり、宴半ばに長谷川統監代理の発声にて天皇陛下万歳を三唱し、次に鶴原長官が来賓を代表して挨拶を行い、併せて大将の叙勲を祝して午後10時に散会した。
保税倉庫開始 同上
昨日5日午後、南大門倉庫の新築が完成し、盛大な開庫式があった。
1月8日
李内部の勢力 7日京城特派員発
内部大臣李址鎔(りしよう)の帰韓復命の結果、韓皇は一層我が国を信頼され、李址鎔(りしよう)氏は、改革派の重鎮となった。その不在中、内部枢要の官吏をしたとして帰韓後,朴齋純(ぼくさいじゅん)氏と不仲となっていたがこの程完全に和解するに至った。
解説:李址鎔は、1905年に農商工部大臣・内部大臣、内部大臣として第二次日韓協約に調印、日韓併合条約締結後の1910年朝鮮貴族として伯爵に列せられた
朴齋純は、1905年には全権大臣として第二次日韓協約を締結し、11月には、議政府参政大臣(首相)となった。1910年10月、朝鮮貴族として子爵に列せられた。
古市目賀田両市上京 同上
古市鉄道管理局長官は来る15日頃、目賀田顧問は、中旬頃帰京する予定である。
1月9日
慶尚道匪賊討伐 7日京城特派員発
慶尚(けいしょう)北部の匪賊討伐隊は、岩井警視の指揮の下に、日韓警官74名を4班に分け、武器を携行し、一班は慶尚北道エイシン郡から海岸線を江原道の三踄(さんせん)に、二班は忠清北道の丹陽ホウカ街道を北進し、三班は、一、二班の中間の山道を北進し、共に三踄(さんせん)に達し、二班は賊の北走を遮断し、匪賊を包囲する予定で、その運動は、先月30日から開始し、明日8日に終了する予定である。
解説:慶尚道は、韓国の南東部にあり、慶尚北道には、現在の大邱市が含まれる。
大同江流氷 7日鎮南浦特派員発
流氷の為に、鎮南浦(ちんなんほ)と兼二浦(けんじほ)間の郵便船航路が本日7日以後、途絶した。その為鎮南浦と平壌間の陸路での輸送を開始した。
1月10日
農工債権引受契約 同上
漢城及び平壌の農工銀行は各10万円、その他は各5万円、計55万円の農工債券引き受け契約は、農工銀行支店との間に、一切の手続きを終わり、現金は、来る15日東京に於いて受領する予定である。
鉄道起点競争 9日平壌特派員発
元山商業会議所その他の運動に対して、京城に於いても昨日8日夜、民団議員、商業会議所議員連合会を開き、横断鉄道の起点を京城にする事及び促進を請願する事を協議した。
1月12日
韓吏同盟辞職 11日京城特派員発
全羅南道一帯は、今回の徴税規則の実施に対し、再び不穏な情勢である。各郡衙(ぐんが)は、全ての官吏が総辞職を行い、又辞職しない者は、税務官と結託して官金をごまかす為の密某を行いつつあり、辞職の同盟は、ますますその範囲を広げつつある。
解説:全羅南道は、韓国の南西端に位置する。郡衙は、郡の役所である。李王朝時代は、郡の役人が恣意的に税金を取り立てていたが、新しい徴税規則では、当然その特権が無くなるので反発している。
1月13日
鴨緑江航路標識引渡 12日京城特派員発
従来、我が陸軍省に於いて設置した鴨緑江の航路標識を今回韓国政府に引き渡すことになり、その引継事務の打合せの為、龍厳浦(りゅうがんほ)出張所長が明後14日、当地に来る予定である。
解説:龍厳浦は、日露戦争史に登場する地名で、ロシアによる鴨緑江沿岸の木材伐採や龍厳浦の土地契約調印によって、韓国での日本の利益が脅かされ、日露開戦の一つの契機となった。
1月15日
税務監督局新設 14日京城特派員発
漢城、平壌、大邱、全州に税務監督局を新設する予定であり、監督官は、内地税務監督局から選抜し、その内3名は、既に京城に到着している。事務開始は、2月1日のよていである。
解説:イザベラバードの「朝鮮紀行」に、釜山に初めて肥後丸で到着した1894年当時の税関について、次の記述があるが朝鮮における税務の改革は必須であったと思われる。
「乗船税務官はイギリス人で、朝鮮にとって大いにありがたいことに、清国海関が雇い、朝鮮の関税収入を管理するために貸し出されたイギリス人官吏の一人である。」
仁川水道工事 同上
仁川水道の水路や新貯水池の測量が終わり、工事が進んだので、来る3月、仁川までの鉄管を敷設することに着手する為、25日数十万円の鉄管の入札が行われる予定である。
1月16日
光州理事支庁 15日木浦特派員発
本日15日、木浦理事庁広州支局開庁式を行い、当地から参列の為に出張した人々は、福田会議所会頭、高根民長、小池理事外4名である。
1月29日
葉銭担保貸付禁止 同上
韓国の貨幣制度上で困難な葉銭問題について、統監府及び韓国政府は、しばしば訓示をしているが、従来夏期には、その需要が少なくなり、相場が低落するので、これを担保にして銀行から資金を得て、買い占めを行う者がいる。これも相場の変動を助長する一因であるので、今年はこの貸し出しを中止するよう各銀行に通告した。但し海外輸出荷為替はこれを引き受ける予定である。
解説:葉銭とは、1633年以降発行されていた「常平通宝」で、当時最も使用されていた通貨である。イザベラ・バードの朝鮮紀行によれば、公称3200枚で1ドル(1円)に相当するため、100ドルを運搬する為には馬1頭が必要となった。
明治40年2月
2月2日
土地抵当権と日本人 1日京城特派員発
土地建物証明規則により証明又は査証を受けた抵当の執行は、韓国勅令の土地家屋抵当執行規則及び同法部令の土地家屋抵当執行施行細則の規定に従い、日本人、外国人にも2月1日から適用することになった。
2月8日
水道工事着手 6日京城特派員発
韓国政府と居留民団との共同経営による釜山水道は、去る3日測量を終了し、度支部水道技師の手に依り、4月に起工する。計画上は55万5千人の需要を満たすとしている。
2月9日
両警察の協力 同上
日本理事庁警察と韓国顧問警察とが互いに協力して、従来よりも一層警察の完全を期する為、先頃から協議中であったがこの程ほぼ内定したとの説が高い。
解説:当時の韓国における警察は、韓国に派遣された日本人顧問によって指導された韓国顧問警察(韓国人の警察)、治外法権を持つ日本人居留民を取り締まる日本理事庁警察、陸軍憲兵隊の3種類があった。
2月11日
水道工事 10日京城特派員発
米国人が経営する当地の水道は、来春までに着工し、夏頃から一般に給水する予定で、工事を急いでいる。
2月15日
警察協商成立 12日京城特派員発
警察協商が成立した結果、各理事庁の警察事務は、顧問警察の兼務となり、顧問警察の従来の分署は、理事庁警察からの兼務業務とその他互いに多少の兼務を行いながら、近く業務を実施する予定である。
解説:2月9日、10日に成立に至る関連記事がある。
2月24日
官庁事務見習 22日京城特派員発
韓国政府は今回我が官庁の事務見習いとして、奏任官の中から15名を選び、今月末又は来月上旬に出発し、約30日間滞在させる予定である。
偽造貨幣取締 23日京城特派員発
第一銀行券並びに新旧白銅貨を鋳造又は密輸入し、真贋を混合して流通を図ろうとする者がいる。これは韓国財政の整理を阻害し貨幣制度の基礎をかく乱するものであり、容易ならざる事態であるので、内部(内務省にあたる)は昨日22日、13道の観察使が所管する警察署へ厳重に訓令し、犯人の逮捕と事後の取締りを行うよう命じた。
2月25日
土地家屋証明規則 24日京城特派員発
韓国政府は先に土地家屋証明規則を制定し、韓国人や外国人の財産権を確認する法律を施行したが、実際はその規則は一般に普及せず、その為金融に大きな障害をもたらしつつある。その結果当地の銀行業者の協議案件となっており、当局に交渉してその実施の普及を図るか、止むを得なければ従来の地券や家券を発行して手続きを進める事を要求する事となった。
2月26日
農工銀行と地方税 同上
地方税の取り扱いは、今後各地の農工銀行に委託するとの事である。
解説:以前は、地方行政府による税の取り立てが、閔氏一族にとってうま味のある権益であった。
明治40年3月
3月2日
愈出でし愈拙 1日京城特派員発
韓人の中で国債償還期成会なるものを作り、日本に対する韓国の借入金千参百万円を義援金により返済し、立国の基礎を堅くしようする趣意書を発表したがその大要は次のとおり。
一、英人ベッセル氏が発行する大韓毎日及びその他5,6カ所に取扱所を設けた。
一、本会は日本に対する国債を返済する目的で組織する。
一、返済は一般国民から義援金を募って実行する。寄付した者は新聞に広告すること
一、本会の目的と同一の団体とは連合に努める。
その他喫煙を廃止し義援金とすべしなどの規定もある様であるが、これは疑いもなく日本排斥運動を前提としている。
3月3日
登記法制定の議 2日京城特派員発
韓国政府は内外外国人の土地建物所有権を保証する為、昨年土地家屋証明規則を制定したがなお進んで我が国と同じく登記法を制定するための議案が出され、現在検討中との事である。
3月6日
官庁事務視察委員 4日京城特派員発
韓皇は去る2日、日本を視察する委員の分担をそれぞれ定められた。閔泳リン(みんえいりん)氏他4名は宮内事務、趙東潤(ちょうとうじゅん)他1名は陸軍省、宗子縣(そうしけん)氏他1名は内務省、趙址學(ちょうしがく)氏他1名は大蔵省、權宗煥(けんそうかん)氏他1名は内閣、李輿和(りよわ)氏他2名は文部省の事務を視察する事に決定した。
3月15日
葉銭買上 同上
南韓及び北韓に流通する葉銭の整理を急ぐ為に、国庫の事務を取り扱っている第一銀行は、各支店に対し18割5分の高値を以て、葉銭の買い上げを命令した。
解説:2月27日の「葉銭整理近況」に関連記事がある。
3月30日
普通学校増設 29日京城特派員発
韓国政府は来4月から27の普通学校を地方に増設し、これに日本人教師を1名宛て配置する事となった。教師の選任は既に終わっているので、来月10日に当地に集めて訓示を行い、直ちに地方に赴任させるとの事である。
明治40年4月
4月8日
日本視察員 7日釜山特派員発
韓廷の日本視察員一行22名は国分通訳官と共に7日夕、下関に向かう。
4月10日
衛生会議 同上
本日9日統監府に於いて、衛生会議があり、後日京城に大清潔法が施行される予定である。
邦人生命の不安 9日木浦特派員発
2,3年前から永山浦において農業に従事している岐阜県人真淵次郎氏は、去る7日夜、同人の宅で韓人の侵入を受け、手斧を以て上下頭部を粉砕され重傷を負った。昨8日夜、当地病院に入院して治療中であるが生命危うく、その筋によれば現在犯人を厳重に捜査中である。
4月14日
郡守の不法徴税 同上
慶尚南道の固城郡守が不法に租税を徴収したため、人心が激昂し、数百名の土民が結集し同郡守襲撃しようとする情勢である。郡守は密かに晋州に逃走しようとする途中に固城から3里の場所で捕えられ、現在我が警官が出動し調査中である。
解説:慶尚南道とは、釜山が含まれる韓国南西部にある。
4月18日
鴨緑江森林経営準備 17日京城特派員発
日韓両国政府の経営による鴨緑江沿岸森林事業は、統監府に営林庁を設けたように韓国政府でも営林庁を設置する勅令が出される筈である。
この営林庁には、事務官3名の外に2,3人の判任官を置き、度支部、農商工部両大臣の監督の下に我が技師に嘱託する事になる予定である。又韓廷の今年の出資額は30万円である。
4月26日
排日運動趨勢 同上
京城を中心とする排日運動は少しづつ地方に蔓延する形跡がある。例の国債償還運動も多少人心を動揺させた点から言えば、先ずその目的を達したに違いない。現在の暴動は純粋な火賊と地方官の不正、特に不法徴税に反抗するものと排日の意味を含むものと三つに分かれるであろう。第二は特に排日の意味を含むものの多くは、韓国官吏が威厳を失った結果である。最近続出する南韓の暴動はますます政治的性質を帯びるようになり、日本官吏の襲撃を目的とする様子が見られ、注意を要する。守備隊の引揚も多少関係があるであろうと考えられる。概して言えば各地とも排日運動は日を追って激しくなるように思える。又最近は地方の韓人でキリスト教に入る人が多いのは事実である。これら多数の韓人が教会に集まり、悲憤慷慨するのは珍しい事ではないが宣教師が故意に扇動するとの報道は確固たる根拠がない。
要するに排日の形勢は日を追って国内に充満しつつあるけれどその後の展開はなお不明であり、当局も最近の情勢に対して注意深く見守っている様である。
明治40年5月
5月3日
第一銀行券改造 2日京城特派員発
従来の第一銀行券は全て日本人向きに作られていたが、今回韓国人にも分かりやすい様に改造する事になり、差し当たり5円券から改造するとの事である。
5月10日
韓民誘掖の新手段 9日京城特派員発
今回地方の官民の意思を疎通させ、且つ法律の精神を広く人民に理解させる方法として、各税務官の管轄する委員会を組織して、この委員にはなるべくその地方の富豪又は名望家から選出する事とし、特に税務に関して、全ての方面に誤解が無い事を期した。尚一方では少数の為に産業組合を50カ所設け、貧民に金融の便を与え直接その恩恵を受けさせる事に決定した。
解説:誘掖とは力を貸して導くこと
5月16日
水原勧業模範場 同上
水原の勧業模範場は本日15日、伊藤統監、長谷川大将以下各高等官、外国領事及び韓国各大臣を始め民間有志及び新聞記者等約8百名を招待し、水原に於いて開庁式を挙行した。
解説:勧業模範場は、朝鮮半島に適する作物の品種改良や農業技術の開発をする農業の研究機関として設けられた。
5月17日
地方委員会と金融組合 16日京城特派員発
既に報道されている様に地方委員会、地方金融組合規則は、近々発表される筈であるが、両者共に税務官所在地50個所に設置されるであろう。地方委員会は財政に関して官民の意思を疎通し、法令の周知を図り、諮問上申の機関として資産、名望のある人民を推薦し、その数は5名乃至10名とする。金融社会は一種の産業組合であり、小農の秀才を目的とし農業資金の貸付、抵当貸付、共同販売等を営み、農工銀行その他既設機関と相諮って農工の発達を期するにあり、2件とも法令発布後、直ちに設立に着手する由
5月20日
京城平壌間の電話 19日京城特派員発
本日19日、統監府告示で、平壌は6月1日から市内の電話を開始し、京城との長距離電話は6月19日から開始する旨発表した。
解説:日本に於いては1890年東京と横浜で電話が初めて使用され、長距離通話は1899年東京と大阪間で1905年東京と佐世保間で開始された。その2年後の1907年京城と平壌間の長距離通話が開始されている。
5月26日
韓国戸籍調査 同上
最近警務顧問部の正確な調査によれば、全韓国の韓人戸数は232万2457戸で、人口は963万8578人である。
解説:韓国の人口はその後、1920年に1691万人、1940年には2295万人と急激に増加しているが、これは日本による韓国近代化の証である。
5月31日
統監訓示 30日京城特派員発
李参政を始め新任各大臣は本日30日午前11時、統監邸に集合し三総長、古市、池田、目賀田、香坂、丸山の諸氏も特に列席した。統監は先ず一同を新内閣員に紹介の後、1時間余りの訓示演説を行ったが、その概要は次のとおりであった。
大臣の任務が重大である事より説き起こし、日本政府の方針は誠心誠意、表裏なく日韓の親睦と韓国の富強を図ることにある。その為新内閣一同も又熱心、誠実に協力せよと述べ、韓国の急務は施政の改善と教育の改革により官民を文明の恩恵を受けさせ、同時に国力を増進させるにあるとし、更に過去30年間に於ける東洋の情勢、特に日韓の関係を詳しく述べ、日本は明治6年以来韓国扶養論があったが、日露戦争後外交権を収めた事は過去の歴史に鑑み止むを得ない事であった。これを放任するならば列国は競争し韓国を獲物とするに外ならない。最近一部の韓国人は頻りに独立論を唱えるが自ら立たなければ他から独立させる事は出来ない。無謀軽挙は韓国自ら滅亡を招く所以である。余は韓国万全の策は日本と誠実に親睦し、存亡を共にするにあると信じる。異議があるなら議論せよ。同意ならば誠実に努めよ。余は他人を欺かず、又他人の虚偽を容赦せずと痛論し、今日の要務は悲観を避け資本を投入し資源を開発する事、官吏任用の公平を保つにある。宜しく閣員の意志疎通に努めよと諭した。参政は統監の訓諭に従い如何なる困難をも排して指導を守るであろうと答え、午餐を共にして散会した。
明治40年6月
6月5日
統監邸の定例会議 同上
韓国宮中では、従来毎週水曜日に各大臣が参加する御前会議が開かれているが、今回統監邸でも毎週火曜日に大臣会議を開く事にし、本日4日その第1回が開会される。
平壌鎮南浦間鉄道 同上
浅野総一郎氏が来韓し、視察の結果平壌と鎮南浦間に渋沢、浅野2氏で鉄道を敷設する事に決定し、現在その筋に申請中である。若し許可を得たならば韓国政府はその事業を支援する為に、利子補給を行う事になっている。
なお浅野氏は平壌にセメント工場の支社を置く計画のようである。
解説:鎮南浦は平壌の外港として重要な貿易港であった。現在は南浦特別市と呼ばれ、この鉄道は1910年に完成している。
6月6日
大臣謁見制限 同上
今後大臣の拝謁は、一般の政務に関する際は、各大臣が共に参内し、又一部の政務は参政大臣が関係大臣を伴い、参内し奏上する事とし、従来の様に各大臣が一人で随時謁見する事は、見合わせられる事となった。
6月8日
慶尚道暴動 8日京城特派員発
慶尚南道の居昌の千余名の郡民が郡庁を襲撃し、相互に死傷者が発生した。不穏な情勢である為に馬山から日韓の警察官30名が鎮圧のために急行した。原因は徴税にあるらしい。
6月12日
朴泳孝挙動 10日京城特派員発
朴泳孝は一昨8日夜、外国船で釜山に上陸し、今尚外国宣教師宅に潜んでいる。李根澤一派の宮中の小役人と気息を合わせ、彼らの為に計画されたものと思われるが、しかし宮中は無関係であると弁解している。又法部大臣趙壽應氏は昨9日朝、朴に会う為釜山に急行した。
解説:朴泳孝は、金玉均らと共に開化党を結成した開明派の政治家であり、実業家であった。1884年閔妃一派からの政権を奪うクーデター(甲申政変)に失敗し日本に亡命 1894年日本軍が景福宮を占領し、政治の近代化を図る甲午改革が始まると帰国し、内務大臣として改革の中心的な役割を果たすが閔妃一派により再び改革に失敗し、日本に亡命した。そして今回1907年再度韓国に帰国した所と思われる。
韓国併合後、侯爵、朝鮮銀行理事等実業家として活躍した。
6月17日
特赦後の朴泳孝 15日釜山特派員発
草梁の米国宣教師アーヴァインダ氏宅に奇遇中である朴泳孝氏は私(特派員)に次の様に語った。
韓国内政の改革は日本の指導により漸くその実を挙げよとしている。特に新内閣員とは少なからざる交友がある為に、私の帰来は政治に関係がある、或いは新内閣員某等に迎えられたと伝えられたり、又は李根澤氏の援助勧誘に応じたものであると言われたり、その多種々の風説があるが、私が当港に帰来したのは、単に望郷の念に駆られた為である。十数年間親戚や故郷を見ることなく、さまよい歩いた孤独な身上を理解して頂きたい。
当港に数日居る間に、我が皇帝陛下の思召しを受け、旧罪を特に赦免され、恐悦に堪えない次第である。
解説:6月12日の記事に詳しい解説があるが、日本軍が王宮である景福宮を占領し、高宗に改革を強要した際、朴泳孝は内務大臣として改革に努めるが、高宗が露国大使館への脱出に成功すると反逆者とされ、再び日本に亡命していた。旧罪とはこのことを意味する。
6月20日
漢城政局近情 19日京城特派員発
内閣新官制を定めて国務大臣の地位を高くする事が、前回の統監邸での大臣会議で決定され、昨18日、再び新施設の協議が行われた。
官邸会議は非常に重要視される様になり、水曜日午前の大臣会議は、唯韓皇の裁可を得て発布すべき法律、勅令、その他の手続きを議論するだけである。韓皇、統監及び国務大臣間に意見の違いはなく、政務は昨今円満に進行中である。又昨日の統監邸での会議には、道路改修、水道敷設、溝渠浚渫等の事業に関して近々設置される予定の特別機関に関する協議が行われた。
昨今18日も午後3時から統監邸に定例の大臣会議があり、鶴原長官及び目賀田顧問の列席の上、種々の施政を改善する協議が行われた結果、次の案件を可決し、同6時半散会した。
一 京城の道路を修繕し、小川、溝等を浚渫し、衛生上の注意を払う事
一 道路を修繕する必要上、城壁を取り壊す事
一 協辦を次官、参事官を書記官と官制を改める事
解説:この「小川、溝等を浚渫し、衛生上の注意を払う事」とは、悪臭の酷いソウルの街を改修することであり、この悪臭についてはイザベラ・バードの「朝鮮紀行」の次の記述から伺える。「北京を見るまでわたしはソウルこそこの世で一番不潔な町だと思っていたし、紹興(しゃおしん)へ行くまではソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどいにおいだと考えていたのであるから!都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。路地の多くは荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た個体及び液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。(59p)
群山全州間の車道 19日群山特派員発
群山と全州間の車道は遂に当方面から起工した。
解説:当時の韓国の道路事情についてイザベラ・バードの朝鮮紀行に次の記述があり、このインフラ整備は韓国近代化にとって必須の物であった。
「道はとにかく悪い。人口の道は少なく、あっても夏には土ぼこりが厚くて冬にはぬかるみ、均していない場合には、でこぼこの地面と突きでた岩の上をわだちが通っている。たいがいの場合、道といってもけものや人間の通行でどうやら識別可能な程度についた道路にすぎない。」(169p)
6月21日
美以(メソジスト)教会の統監招待 20日京城特派員発
19日午後メソジスト教会の宣教師一同は監督クラウンストン氏邸で園遊会を開き、統監も招待を受けて出席した。宣教師の代表は、来韓中である監督クラウンストン氏以下を来賓に紹介し、終わって統監は以下の演説を行った。
私の当国に於ける任務は、日本を代表して専ら韓国を指導保護する事であり、私は韓人に対して多大の同情を有する。現在の哀れむべき境遇にある彼等を救い出そうと尽力中である。この点に関しては諸君も又韓人を援ける目的を以て韓国に働いておられるが、それは宗教道徳上の方面であり、私は政治行政の方面で尽くすが故に、手段は異なるが目的は同じであるので、私は諸君に対して十分な同情と出来得る限りの援助を与えるのに躊躇しない。また諸君も同様に援助を与えられる事を疑わない云々。
これに対しクレウンストン監督等は統監の人格、経歴、見識、技能を称賛した後、韓人を誘導進歩させる事についてはあくまでも侯爵と共同したいと挨拶した。
6月25日
塩税不納者の反抗 24日京城特派員発
財務官の依頼により、北韓の咸興警務顧問支部に依って塩税の不納者を連行する為に警官3名を現地に派遣した。しかし村民がこれに抵抗し、不穏な情勢となり、23日には多数を頼んで我が警官等を捕えた為に、続々と増援部隊を派遣した。尚憲兵、騎兵等が咸興から派遣された。
解説:咸興は現在の北朝鮮の咸鏡南道の道都
6月28日
瓦斯会社許可 同上
予て渋沢栄一男爵他東京及び当地の有志達から出願中であった当京城内のガス供給業は、昨27日韓国政府から認可の指令があった。その条件は、最も有利な25ヵ年間の独占権を有し、50年の後必要に依り韓国政府の買収に応じるとの契約である。
保税貨物取扱所新設 同上
今月1日から釜山、仁川、大邱の3カ所に保税貨物取扱所を新設する事になった。
6月30日
新裁判制度内容 29日京城特派員発
新しい裁判制度が間もなく発布される予定であるが、その内容は、警察官に検事の事務を取り扱わせ、全ての取調も又警察官が行い、拷問を廃止し、拘禁を制限し、第一審、第二審、終審の制度を立て、地方官の暴挙を禁止すると共に人民の生命、財産を保護する方策を講ずるにある。
解説:韓国近代化の一つに司法制度の改革があり、これまでは法律はあって無い様な状況であった。
イザベラ・バードの朝鮮紀行「東洋ではあたりまえだとしても朝鮮における司法はおしなべてひどいものである。「ソウル」裁判所は不当に裁き賄賂を受け取るくらいのことしかしていない。(552p)」
明治40年7月
7月2日
国有地開墾 同上
先般来、当局者間で協議中であった未開墾の国有地を流用する案はこの程纏まり、本日1日議政府会議を開いて協議中であるが多分ここ数日中に発表されると思われる。その内容はやはり鉱業法と同様に或る区画を定めて、内外人の適当な者に耕作をさせ、生産力を増やそうとするにある。多分宮内府に属するものもこれに準じて、来る9月施行される予定である。
7月3日
韓国募兵令発布 2日京城特派員発
本日、官報第3号で募兵令が公布された。従来、韓国の軍隊は傭兵制度を取ってきたのみならず、その採用年齢等について事実上何らの制限も無く、不統一の極みであったので、これを改正する為にこの法律を作るに至ったものである。この際、現役、予備役及び国民兵の3種類に分け、現役は18歳から25歳までの志願者から採用し、品行方正であるものと限られている。その他諸般の入営、退営規定等があり、全文で22条から成る。
7月6日
商業会議所新設 4日京城特派員発
昨4日、商業会議所の設置が認可された。議員総選挙は今月の末と思われる。
怪事 4日京城特派員発
先般、米人ハーバートが当地を去る頃から、ハーグ平和会議云々の風説はあったけれど、韓国の派遣人がハーグに現れ、独立庇護を哀訴したとの報道が3日当地に伝わり、一般に今さらの如く驚愕の色がある。事件そのものは一つの喜劇に過ぎないがその動機と関係については無論注意する価値がある。本件の報道は無論韓皇室にも聞こえた模様であるが、如何に感動を与えたかは未だ明らかでない。統監府は、既にこの米人の行動に注意しており、我がハーグ委員にも既に内報していたとの事である。ハーグで奔走したのは3名の韓人で、伊藤統監は本件について抗議若しくは注意を与える等の事をしていないが、事態が重大な事を認めている。欧州の某対国はこの程韓国の小陰謀に対し、更に考慮するつもりはないとその筋に明言して来たと伝えられている。
7月7日
国有未開墾地利用法案 6日京城特派員発
国有開墾地利用法案は、終に韓皇の裁可を得た。全文は17条から成り、次の様な規定がある。
一、国有未開墾地とは、民有以外の原野、荒無地、草生地、沼澤及び塩浜を言う。
一、この利用法及び細則の規定による処分は統監の同意を経る事を要する。
一、従来未開墾地の利用許可を受けている者はこれを有効と認めるが、一応本法に依り3カ月以内に所管大臣の承諾を受け、その経営が成功するならばその土地を付与する。
7月11日
村田水産翁韓国談 内国電報 10日付
統監府の依頼に依り、韓国沿岸の漁業視察を行い8日早朝入洛した村田水産翁は記者に向かい次の様な消息を漏らした(在京都一記者)
韓国滞在中皇帝を始め要路の人々及び統監にもしばしば面会した。
新内閣は責任内閣じゃそうだが、皇帝にはその責任の二文字がとんと解らない。官制改革の際宮中で大評判だった時、新内閣員が皇帝に向かい、大韓国の為には一個の皇帝くらいは犠牲に供すると言い放ったので、皇帝はブルブル震えながら遂に官制改革書に調印されたのだ。内閣員はとにかく統監に対しては十二分の感謝を表しておる。しかしこれが長続きするかどうかは疑問だ。朴泳孝が自分と同行して釜山に着いた時、一寸松山理事官にこれを耳打ちすると大いに驚いて、一睡もせず2日間調整に奔走した。この間彼は統監に向かって何事か希望を述べ、若し聞き届けられない時は上海に行くとかいう事であった。
韓国は今のままでは到底発達の見込みは無い。不要領な皇帝、御しがたき民衆、統監の頭脳はこれに依って悩まされ続けている。統監もよほどもてあましたものと見えて、韓国はだめだ、早く誰か来て私に代わってくれる人はいないか等と言っていた。韓国はどしどし日本人が移住して大勢力を作って、早く日本の物としなければならない。半殺しは両国の為にならぬから。
解説:7月1日村田水産翁についての記事がある。今回の所見は韓国政界の状況を率直に表現したものと思われる。イザベラ、バードの朝鮮紀行によれば「朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きと共に、全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ,改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。(342p)」
7月12日
宮内府鉱山事務 同上
宮内府所属の鉱山に関して、秘密の契約などが行われた為に時々紛争が生起する為に、今回全ての鉱山が農商工部の管理に移される。
7月20日
韓皇譲位 19日午前4時京城発(至急報)
韓国皇帝は本朝、譲位の勅命に親署された。委細は後便(号外再録)
排日派の集会 19日午前1時京城特派員発
数千名の排日派韓人が大漢門付近に集合し、夜の更けるに従い次第に不穏な状況となっている。午後10時前後からキリスト教青年会員は大漢門前の広場で激烈な大道演説を行い、群衆は次第にその数を増加しつつある。
7月23日
上皇の腹の中 22日午前10時50分発
太上(だじょう)皇帝は初めから胸中に密計を抱いており、いよいよ譲位を決する時に臨んで、大臣等の副署した詔勅案に自ら筆を加えて、先例により代理の文字を入れ、実権を渡さないようにした。我が陛下から新帝即位の御親電があったにも拘らず、宮内官にすら新帝を陛下と呼ばせず、且つ即位当日も黄衣を着させず赤衣を着せて伊藤統監その他を引見させるような小細工を弄し、次いで侍衛兵を使ってクーデターを決行しようと企てた。これに加担した軍務局長李○斗(りきと)は、日本の陸軍士官学校出身の現軍部大臣を倒し、指揮権を握ろうとした狡猾で敏捷な人物である。
7月26日
譲位後報 京城特派員発
協約成立 25日午前2時5分
再度の謁見は約1時間に渡り、今午前零時20分各大臣は退出し、直ちに統監邸を訪れ、1時過ぎに諸大臣は打ち揃って帰宅した。我が要求通り新協約が成立した。
新協約全文 25日午前10時30分発
日本国政府及び韓国政府は速やかに韓国の富強を図り、韓国民の幸福を増進しようとする目的で次の条款を約定した。
第1条 韓国政府は施政改善に関し統監の指導を受ける事
第2条 韓国政府の法令の制定及び重要な行政上の処分は予め統監の承認を経る事
第3条 韓国の司法事務は、普通行政事務とこれを区別する事
第4条 韓国高等官吏の任免は統監の同意を得てこれを行う事
第5条 韓国政府は統監の推薦する日本人を韓国官吏に任命する事
第6条 韓国政府は統監の同意なくして外国人を招聘せざる事
第7条 明治37年8月22日調印の韓国協約第1項はこれを廃止する事
上皇と新協約
上皇は朴泳孝等の大捕縛以来意気消沈し、24日の如きも協約調印の全権を総理に与える事を妨げず、涙を流しつつ、これまでは誠に悪かった、なにとぞ許してくれ、新皇帝の事をよろしく頼む
と李氏に言われた由伝え聞いたが慎吾の程は解らない。
7月27日
日韓時局 京城特派員発
新協約に反対する論点 25日午後3時35分発
新協約中、日本人を官吏とする条項が最も韓民の反対があり、現内閣派である一進会でさえも今朝から会議を開いて反対の決議を行った。閣員を訪問して条約破棄を叫ぶ者が居る事からその全貌を知る事が出来る。この一進会の決議については同憂会員もこれに賛同し大反対を行う兆候がある。地方も又多少騒乱すると思われる。
列国の領事と新協約 25日午後6時5分発
各国の領事を訪問し、協約に対する所見を求めた。
佛国領事テジン氏は次のように述べた。
韓国政府は陰謀の府であり、我々外交官は事務が遅々として進まず、相手を信用する事が出来なくて閉口したが、この協約により愈々統監が政権を握る様になれば万事テキパキと片付き,且つ公平で穏当に解決できるので非常に好都合である。
独逸領事 フルーベン氏は次の様に述べた。
これは当然の順序で少しも意外と思う所は無い。伊藤統監は公平で親切な人である。我々は今後全ての交渉に於いてますます便利に感じると思うであろう。しかし皇帝は摂政を置いたつもりであるのに日本政府が無理に譲位させたのは少し酷いのではないか。外交は何でも、巧妙な奥さんが亭主を扱う様に、相手を喜ばせながら自分の望みとおりにしなければならない。
米国領事サムモンス氏は次の様に述べて。
米国は3百万円の輸入と5百万円の鉱山を持っており、我々はこれらの増加と発展を図るつもりであり、伊藤統監は公平で極めて好都合である。統監は一直線に前進せず、次第に歩を進め、終に思い通りにする人である。
英国領事コウバーン氏は次の様に述べた。
今回の事件について、日本人は良く自らを抑制し、飽くまでも温和な手段をとったのは大国民としての
心の広さという事が出来、感服している。伊藤統監はこの事により、いよいよ思慮に富み、且つ平和を求める政治家である事を発揮した。韓国民はこの態度と日本人の挙動とを見て多分大いに安心したと思われ、今後暴動等は起こらないと思われる。
7月28日
日韓時局 京城特派員発
日韓人衝突 27日午前10時20分
慶尚南道の鎮南(ちんなん)に於いて一昨25日夜 韓兵と日本人との間に衝突が発生した。80名の 韓兵が警務顧問部の分遣所を襲い、やがて数百名の民衆がこれに加わり、日本人の邸宅に投石し、家屋7戸を破壊し、負傷者5名を出し、午後12時に鎮圧したが情勢は尚不穏である。婦女子は海上に避難する。巡査10名、日本兵15名が急派されたとの報道がある。
同胞処々に襲われる 27日午後1次55分発
忠清道の林川(りんせん)の韓人数百名が昨26日夜、日本人部落を包囲し、同胞は避難する事が出来ず、軍隊の派遣を要求した為に本日27日朝当地から騎兵1個小隊を救助の為に急派した。
7月30日
暴動巨魁捕縛 同上
警務庁は今回の暴徒の巨魁を捜索中であったが28日同憂会長で元平理院裁判長であった允利炳(いんりへい)及び副会長金在鵬(きんざいほう)以下34名の貴族に令状を発した。允(いん)は数日来、急性腸胃カタルを患って病床にある為に拘引を猶予されたが金以下は全て逮捕された。允及び金は去る20日首相邸を焼討した際に、暴徒を指揮、引率した明らかな証拠がある。
明治40年8月
8月1日
伊藤統監演説(韓国の独立について) 30日京城特派員発
伊藤統監は意思疎通の為昨29日日本人倶楽部に新聞記者を招いて晩餐会を催し、大要次の演説を行った。
日本の政策からすれば、韓国を独立させる事が利益であり、若し他国に委託するならば一衣帯水の我が国にとって禍根を残す事になる。それ故に日本の政策は韓国の富強を図り、独立自衛の途を講じ、そして日韓が仲良く提携する事が得策である。それにも拘らず先の大戦中(注:日露戦争)韓国は何を行ったか。陰謀詭計を事として時局をますます困難とさせたばかりであった。この為に国交が面倒となり、迷惑至極である為に38年の日韓協約に於いて外交権を我が国の手に収めた。
余は韓国皇帝に、外交権を日本に譲渡しながら、陰謀を企てハーグの様な失態を起こすとは何事かと述べた。天子に7人の争臣(そうしん)なければ国が亡ぶという事がある。陛下果たして7人の争臣をお持ちか。不肖博文は日本皇帝にお仕えする心を以て陛下にお仕えしようとしていると述べたが糠に釘であったかも知れない。
韓国を指導して国力を養成し、財政、経済、教育を普及し、遂には連邦政治ができるよう導くのが我が利益と信じる。
解説:長文の為一部を抜粋 ハーグの様な失態とは、7月6日「怪事」と報道されて以降報道されたハーグ密使事件を指す。争臣とは君主の非行を諌める臣
8月2日
陸軍解散始末記 同上
京城に居る侍衛隊(じえいたい)6個大隊及び騎兵、砲兵、輜重兵等の大隊長以上の将校を本日1日午後7時、長谷川司令官邸に招集し、軍部大臣、野津軍部顧問が列席する中、長谷川軍司令官から7月31日午後10時発令された軍隊解散の詔勅を伝えた。その詔勅の要点は、「韓国は今や国費が増大しており、現在の軍隊編成を維持する事は困難である。よって一旦1個大隊を除く他全部解散し、他日新徴兵令を作り、完全な兵制を定めて改めて編成する予定である」である。1日午前8時各将校は悄然として退出し、各自の部隊に帰り将校を集めてその旨を伝え、更に同10時教練院の練兵場に於いて解散する部隊を集めて解散式を行った。
8月4日
各地鎮衛隊解散処分 2日京城特派員発
各地の鎮衛隊大隊長8名は軍部大臣の招集により上京、本日2日朝から軍部に集合、沈鐘(ちんしょう)は解隊の詔勅を伝達した。軍部大臣は本日2日朝10時から長谷川司令官を訪問し、地方隊の解散について協議し、又軍司令部は各鎮衛隊に居る日本教官を招集し、解隊方法を協議した。軍部に集合した各隊長は、午後軍司令部に於いて長谷川司令官から訓諭を受け、日本教官と打ち合わせた上、なるべく急いで帰隊し、直ちに解散を行う予定である。地方によっては昨今の様な惨劇が起こるかも知れず、鎮衛隊所在の我が居留民の婦女子で避難する者が続出した。
警視総監以下 3日京城特派員発
警務使の官制改正の結果、丸山警務顧問は警視総監に(勅任1等),現警務使虞善審(ぐぜんとう?)は副警視総監(勅任2等)に任命された。顧問府の我が補佐官は全て警視に任命された。
8月11日
韓国新政府内容 10日京城特派員発
各道監察使及び郡守の手から司法権と徴税権を分離し、監察使所在地に地方裁判所を郡守所在地に区裁判所を置き、現在京城ある平理院の外に元山か平壌に控訴院を増設する予定である。又徴税も度支部管轄の下に各道に税務署が置かれるであろう。
その他学部では国民教育に全力を挙げ、明年度に小学校(現在50校)を30校増設し、現在の京城師範学校を拡張し、日語学校(現在3校)を大邱に1校増設し、女学校も新設する予定である。
この様に施政を改善する結果、財政は大膨張を来すと思われるが、この財源として徴税法の改善が図られる予定である。現在韓国には監察使が国民から徴収する税額は5千万円であるが政府に入る税額は僅かに3千万円に過ぎない。2千万円の税金は皆地方官の懐に入っている有様である。その為これら官吏の手から徴税権を奪う事により、増税をしなくて優に2千万円を増収を期待する事が出来ると某大官は語った。(長文の為一部抜粋)
日本人任用後報 同上
9日夜上奏し裁可を得たものは、鶴原長官の内務次官、岡警務総長の農商工部次官、田原書記官の学部次官、松井釜山領事官の警保局長であり、各道の監察使の下に居る顧問補佐官である我が警視20余名は10日各監察府警務署の警視に任命される。度支部、法部の2省の次官は未だ決まっていない。
8月19日
韓国鉱山割取 17日京城党派員発
韓国の鉱山の多くは従来宮内府の所属であったが、昨年鉱業法を制定した際、咸鏡南北道、黄海道、忠清道、平安南北道の6道を除く外全ての鉱山を政府の所管に移したが、今回その全部20余カ所を更に農商工部に引継、そして皇室が所有する全部の鉱山も政府に移した。
同時に政府は鉱業法の一部を改正して、皇室から移された鉱山の採掘権は出願の順序に関係なく全て農相の独裁で許可すると規定し、既に出願しているものをいささか狼狽させている。
(一部抜粋)
新帝断髪 同上
本日17日詔勅があったが、その概要は朕は即位当日断髪したので臣民も悉くこれに倣えとの事である。
記事:当時の朝鮮人は、江戸時代の日本人がちょんまげをしていた様に独特の「まげ」を結っており、この断髪は大問題であった。
貨幣条例改正 同上
貨幣条例を改正し、日本の制度による事になった。
8月21日
日韓協共同牧場設置 同上
平壌付近の平原が牧場に適する事は既に知られている事であるが、今回我が皇室と韓国皇室と共同で共同牧場を設置する交渉が纏まり、この経営費に充てる為に、平壌の無煙炭坑を牧場付属とする事に決定した。
8月28日
新帝即位式 27日京城特派員発
本日27日午前9時30分、新帝即位の大典が淳徳殿にて挙行される。我が天皇陛下の特使長谷川陸軍大将は同9時過ぎ参内した。
皇帝は9時40分から内官、巡撫を従えて淳徳殿の東門から黄色の輿で式場に臨御され、先ず便殿に於いて王者の衣冠をお着けになられた。陛下は李総理大臣、皇族侍従武官長を従えられて玉座に着かせられた。
明治40年9月
9月1日
将校解職式 同上
8月30日「軍制改正に就き武官中、皇族を除く外現職にある将校は悉く官職を免じる」との詔勅があった。よって将校580名を解職する事となり、軍部に招集したが98名は出頭しなかった。解散式を行い、参列者に対し、参将(さんしょう)に千五百円、正陵(せいりょう)に千円、副陵(ふくりょう)に八百円、参陵(さんりょう)に六百円、正尉(せいい)に五百円、副尉(ふくい)に三百円を下賜し、無事解散式を終了した。
解説:明治40年頃の陸軍中佐の年俸 1750円、大尉840円、少尉360円
9月2日
間島の軍政 1日京城特派員発
間島(かんとう)に於ける韓国の施設は、従来放任主義であった為に次々と清国によって侵略され、清国は招商局高等官の軍人を長官とする役所を置き、各所にその支部を設け、多数の役人を派遣し、完全に自国領土の様に振舞っていた。
元来同地は古くから歴史上韓国の領土である歴然とした証拠があるのみならず、住民の多くは韓国人であり、支那人はごく少数である。今回統監府は齋藤中佐一行に軍司令部から60余名の憲兵を同行させ、先月同地に向け出発させた。
解説:豆満江以北の満州にある朝鮮民族居住地である。
9月8日
韓国司法制度 内国電報抜粋
▲ 裁判所の数 区裁判所は113カ所であるが地方裁判所は旧各道に1カ所づつの8個所に減らし、控訴院は3カ所(京城の外未定であるが平壌、大邱との説もある)大審院は無論京城の1か所である。
解説:控訴院とは高等裁判所に相当する。
▲ 合議人員及び権限 区裁判所は一人であり、地方裁判所は3名の合議制であるが控訴院は5人、大審院は7人である。
▲ 日本人の任官数 判事、検事及び書記を合わせて4百人の見込みと言われている。各裁判所に要する総人員は1千人以上であるので、大多数は韓国人を使用する事になると思われる。例えば3人の合議制である地方裁判所に於いては日本人一人(裁判長)韓国人2名(陪席)とする方針の様である。
韓国土地制度 同上
韓国の土地制度は我が明治初年の例に倣って、地券を発行して人民の所有権を確認する証拠とする。そしてその質入れ抵当、即ち韓人の所謂典当に付いては我が登記法の様なものを設ける予定であり、先ほど梅博士がその作成の任に当っている。
解説:梅博士とは我が国の民法の父と言われた梅謙次郎博士である。
9月10日
韓国司法現状 内国電報抜粋
大審院
我が国の大審院に当る平理院の判決があっても、尚訴訟は確定せず、即ちその上に法部大臣が居り、平理院の判決を動かし、更に皇帝にまで上訴する途もあり、そして皇帝の裁断といえども敗訴者の贈賄如何によっては再度審理が行われる。
郡守と賄賂
先般田中遜氏(宮相の跡取り)が3人の韓国人から土地を買い取り、郡守の立ち合いでその手続きを終了したところ、郡守は3人の得た金を巻き上げる為に、何らの罪の無い3人を拘禁した。元来韓国の獄舎は不完全極まる所で如何に健康な者でも長く此処に入れられると必ず死亡する。その為に彼ら3人の家族は驚いて、その状況を田中氏に訴え、氏は直ちに郡守に面会したが郡守は平然として放免すると言いながら、その中の裕福な某一人は放免せず、暗に贈賄を要求した。しかし田中氏の力で漸くことなきを得た。
9月11日
韓国補助金問題 内国電報抜粋
韓国財政の補助問題について、統監府からこれに関する予算を我が政府に提出したが、大蔵省は、さらに調査をし、この予算を更生する必要があるとして今尚決定を引き延ばしている。しかし大蔵省は、統監府が要求する初年度補助費300万円中、どうしても来年4月(41年度始め)まで待つ事の出来ないものがあるとの事で、差当りその半額150万円を緊急支出(事後承諾が必要)の名の下に支出することになるであろうとの事である。
9月16日
綿花栽培成績 15日京城特派員発
農商工部は昨年来、10万円の奨励金を綿花栽培協会に与えて、全羅南道に米国綿の栽培を奨励中である。昨年は10カ所50町歩であったが今年は監督の便宜上7カ所とし、面積を70町歩とした。今年は昨年よりも生育が良好で、本日から第1回の採収を行う予定である。昨年に比較すると品質も非常に良好のみならず収穫も約3割8歩位増収の見込みである。
9月20日
平壌の載炭事業 19日平壌特派員発
当地の無煙炭は来月上旬、採掘に着手し、1カ月約1万トンを採掘する予定である。
9月26日
天日製塩開場式 同上
財政顧問部は塩増税の目的で、塩税法を改善すると同時に清国からの密輸入を防止し、且つ製塩改良の目的で、京仁線富平駅付近の新安に台湾の天日製塩法に倣って、模範製塩場を新設し、23日開場式を兼ねて李総理、宋農相、外日韓の実業家を招待し、天日製塩場を視察させた。成績は非常に良好であったと言われている。
9月27日
韓国警務刷新 25日京城特派員発
松井警保局長の談によると元来韓国の巡検は給与は少なく、知力が足らなくて国民に軽蔑されて完全に職務を執行する事が出来ないのみか、収賄や賭博を行う者が多い。その為に今後は適材を選び俸給を増して、国民に尊敬の念を生じさせるように努力しなければならない。
従来の警務機関は、韓国の警務署、憲兵隊、顧問部警察、理事庁警察の四種の首脳に支配されていたが、今後は全て韓国警察に移し、日本の警察官も韓国警察官となるので、理事庁警察は全廃される。
明治40年10月
10月2日
木浦開港紀念会 1日木浦特派員発
本日午前11時、開港10周年紀念会を挙行した。手踊り、相撲等の余興が行われ、盛会であった。
10月4日
韓帝の大廟参拝 3日京城特派員発
度々延期されていた皇帝の大廟参拝が本日3日に決行される。行列は午前10時30分大漢門を出門されるが、同門前には侍衛隊第一大隊が整列し捧げ銃の礼を行い、我が警部2騎が先導し、儀仗兵(我が騎兵)一個小隊に続き、2代の馬車がいる。礼式官長李宮相の馬車の次に我が騎兵軍曹が黄色の天皇旗を捧げ、陪従武官が騎馬にて玉車の前後に従う。
陛下は大廟門前で下車され、輿を召されて便殿に入御され、11時40分18の霊廟に一々礼拝去れ、即位の奉告をされる。続いて南門を出て王者の廟も参拝され、12時滞りなく儀式は終了する。(抜粋)
10月9日
皇帝轉宮 同上
本日8日皇帝陛下は、昌徳宮へ御移転の詔勅が出された。同宮は多年にわたって荒廃したままで、大規模な修繕が必要であるので、実際の転居は明年となるであろう。この転居はいよいよ太皇帝と別居の実を上げられる事になり、全く皇帝陛下の意志から出たものである。
10月11日
統監府事務規定発布 10日京城特派員発
統監府に統監官房、外務部、監査部、地方部を置く。
官房に文書課、人事課、会計課を置き、人事課に於いて韓国高等官吏の任免に関する事務を
外務部に於いて鉱山、外国人に関する件、条約その他取り決め書に関する事、儀式叙勲に関する事等
監査部に於いて法令処分の審査
地方部に於いて地方行政、殖産、金融、宗教、教育、司法警察の事を担当させる。
10月13日
新帝再度の遷宮 同上
新帝は慶運宮に移ったが、宮中粛清に何らの効果も無く、政権は依然として太皇帝の掌中にあって、李首相、宋農相等であっても重大な問題は先ず太皇帝の承認を受けた後に新帝の裁可を仰ぐ有様である。統監は帰任後早々に首相及び宮相に対し、宮中粛清について厳しく追及した。韓廷は非常に狼狽し、閣議の結果遂に皇帝の再度の遷宮に決した次第である。
10月25日
宮中粛清難 24日京城特派員発
現在の急務は東宮の行啓によって著しい印象を与えた機会を逃さずに、宮中粛清の実を揚げる事であるとして、李首相、宋農務相等は非常に苦心している。しかし李宮内相は好人物であるが不能の声が高く、宮中の雑輩は軽蔑して恐れず、李首相が度々、訓戒するけれども効果が無い。到底粛清と言う大任に当らせると云うべき器ではないので果断英邁の士を以てこれに代わらせる事に決定し、現在人選中である。但し宮中の官吏は4千5百人も居り、これを5百人以内に削減しようとする大改革であるのでよほどの人物でなければ実行する事は困難な様である。
明治40年11月
11月14日
皇帝遷宮 13日京城特派員発
本日13日午後末の刻が最上の吉であるとの祭官の申告により、午後1時半皇帝は大漢門を出て、騎馬警官、警視総官、我が騎兵小隊の次に皇后大夫、宮内次官が馬車を進め、我が騎兵の捧持する御旗の次に近衛将校が騎馬で進み、次に皇帝、皇后が馬車に同乗、侍従院卿に女官1名陪乗し、侍従武官長、侍従武官等が騎馬で従い、各皇族、同妃も馬車にてこれに続き、最後に李首相が馬車に乗り、騎兵小隊の殿となり、行列は粛々と順路を昌徳宮に向かい、統監以下文武百官は教化門に奉迎し、目出度く遷宮は終わった。
解説:末の刻とは13時から14時59分の間である。
11月20日
新貨幣通用厳達 同上
貨幣条例が発布されて以来、次第に旧貨幣は回収され、新貨幣の流通が漸く地方に普及し、釜山、木浦は8月1日から、元山は11月1日から新貨幣が通用しているがその他はなお旧貨幣の名称を使用して、少なからざる売買取引上の混雑がある。自然の成り行きでは容易に整理の實を期す事が出来ないので海州税務官は、公用会計、市場取引、物品売買は必ず新貨幣の呼称を用いなければならないと厳達し、尚各学校生徒に新貨幣の名称及び算定方法を教えなければならないと達した。これにより各地方はこの例に倣うと思われる。
11月27日
韓国会計法改正 同上
韓国会計法は不備の点があり、非常に不便であるので8月末限りの金庫出納締切期限を3月とする等幾多の改正を加える事になった。尚新官制を施行の暁には、各部の出納官吏全員を日本人とし、正式の会計法を実行する予定である。
11月29日
韓国政界の暗流 28日京城特派員発
李宮相は宮中を粛清できる器ではないとして排斥しようとする動きが、閣員及び尹澤榮(いんたくえい、皇后の父)兄弟にあり、これは宮中に勢力を伸ばそうと熱中している尹澤榮(いんたくえい、皇后の父)兄弟の宿願である。これと共に現内閣の一部を改造しようとする暗流もあり、最近これが少し火の手を上げ始め、金允植(きんいんしょく)等も同意している様である。一味の者は23日來、精華亭に集まり密議を凝らし、兪吉濬(ゆきちしゅん)も列席していた。彼等は宋農相を中心としている事は隠れもない事実の様であり、この会合には伊藤統監も少し注意していると思われる。彼らの表面上の意見は、暴徒が猖嗽を極めているのは長谷川司令官の責任では無く、全て皇帝の責任である。結局李総理の無能に帰すべきであり、金允植と交代する事が急務であるとしている。
解説:兪吉濬は、日本に留学し福沢愈吉の元で学び、甲申事変では開化派と見なされ逮捕されている。日清戦争時の金弘集内閣では閣員となっている。日韓併合後男爵を授けられたが、返上している。
尹澤榮は、娘が皇后となり、純宗皇帝の舅で日韓併合後侯爵となったが、後破産宣告を受け、北京で客死している。
金允植は、日清戦争時の金弘集内閣では外務大臣を務めた。日韓併合後一時朝鮮貴族として子爵を授けられたが、その後韓国独立運動を行い子爵を剥奪された。
李総理とは李完用であり、1907年伊藤総監に請われて総理大臣となっている。
11月30日
新宮内官制 29日京城特派員発
宮内府官制が発表された。大臣官房に次官、書記官3、事務官4、秘書官2を置いて宮内府の全ての事務を総覧する。侍従院昌寧府(太皇帝事務官)、皇后東宮職圭章閣(図書寮)、内藏院、典膳司、主殿院、帝室会計監査院、宋親家職(緒家別当)を置き、制度局、弘文館「、内大臣、内廷司を廃止した。皇宮警衛は主殿院卿に属していたが、新官制に於いては皇宮警察を設け、丸山警視総監の管轄とした。
解説:宮中には皇室財産に群がる多くの人間が居り、これを粛清するのは難事業のようであった。次の関連記事がある。
10月7日「宮中粛清と津軽英麿氏」 津軽英麿(伯爵嗣子)及び菱田氏の2氏を統監府嘱託として同行したのは、近日韓廷式部官に任用して、漸次根本的に宮中の粛清を図る。
10月25日「宮中粛清難」宮中の官吏は4千5百人も居り、これを5百人以内に削減しようとする大改革である。
明治40年12月
12月1日
韓国新官制難 同上
昨29日の大臣会議に於ける新官制は、非常に激しい議論を巻き起こした様である。統監は形勢が良くないと見て、官制は行政組織の基礎であるので、参与官会議にて草案を決しているが、これを韓国政府に強いる物ではなく、各大臣は責任ある地位であるので、上手く慎重にその意見を披露し、次官は国情の異なる為に風俗、習慣の違いを理解し、慎重に考慮の上に大臣と協力して十分に意思の疎通を図り、将来紛争が起こらない様に注意すべきであり、行政組織の革新は何れの国に於いても困難なものである。種々の事情がある場合には実行を急がず、慎重に協議し決定すべきであると訓示した。一時目くじらを立てていた大臣、次官もこれで満足の意を表して一先ず退散した次第である。
12月7日
新裁判機関 同上
新官制による裁判機関は、大審院1(平理院を改称)、控訴院3(京城、平壌、大邱)、地方裁判所8、区裁判所113であり、経常費120万円、新設費100万円の予定である。
12月10日
厳妃の密偵 9日京城特派員発
太子の留学に対して、厳妃は種々の杞憂を抱いて悲嘆に暮れるばかりであった。太子が出発する前日(即ち6日)厳妃の股肱の腹臣である厳俊源(げんしゅんげん)の女婿閔源植(みんげんしょく)が、その妻と共に姿を消した。これは何か事情があるのではと注意していた所、彼は厳妃の命を受けて、太子に対する日本の処遇、その他一般の行動を密偵するために渡日している事が明らかになった。そして李宮内相もこの事情を知っていたと思われる。
解説:厳妃は太皇帝となった高宗の側室で、その子李垠が皇太子となっている。12月6日の記事にあるように、李垠は日本に留学し、その後日本陸軍中将となった。また日本の皇族である梨本宮方子を妻に迎えている。
12月11日
韓皇太子殿下御学友 内国電報(10日付)
今回殿下が御留学になる端緒となったのは、聖上陛下の御仁心から出たもので、如何に英明な者でも教育制度が不完全な韓国に置くと駄目だから、若し皇太子が留学するならば必ず我が皇太子の様に教育して見せると仰せられたからである。
伊藤統監は殿下が御留学する様になると終始御側に居る者も必要であるとして、厳俊源、趙法部大臣、徐某の令息が皆学問好きの韓国少年であるので御学友に推挙した。そして日本の少年も必要として、京城の有力者の曽我某の令息勉は怜悧で、挙動も極めて快活で、学問も常に首席を占めているので御学友に推挙された。
12月15日
韓国明年度予算 14日京城特派員発
明年度歳出入総予算が裁可され公布された。歳入は2千2百80万6千7百32円で、歳出は2千2百29万六千73円である。
12月16日
韓国来年度予算 14日京城特派員発
来年度の歳出内訳は、経常千3百59万9千31円、臨時費6百69万7千42円であり、その内訳は次のとおり。
皇室費 百50万円
内部 3百52万8千6百75円
軍部 31万4千6百82円
法部 百16万8千2百52円
農商部 53万5千46円
その他 略
歳入臨時費中には、日本からの無利子借入金5百25万9千5百80円、起業資金からの借入金3百60万3千百44円を計上している。
韓太子静岡発 内国電報
韓太子殿下には予定の通り、本日15日午前10時に御旅館大東館を出発、伊藤統監を始め諸随員と共に徒歩にて駅に行かれ、直ちに特別列車にお乗りになられた。
奉送の次第は、奉迎の時と同じで、殿下は諸員に対し挙手の答礼をされた。同10分、折しも打ち上げられた花火と各学校生徒の一斉に唱える万歳の声に満面の笑顔を讃え、お手を挙げられつつ、発車となった。
12月17日
新官制は来年1月1日から実施の旨定められたが各部の所管事務及び官職等は次のとおり(一部抜粋)
l 内部は地方、警務、土木、衛生の4局に分かれ、地方行政警察、土木、陸上、運輸、電気、郵政、地理、宗教、出版、戸籍、移民、技術に関する事務を管理する。
l 地方官官制 観察使は13名、書記官各12名、警視27名とする。各部に府尹(ふいん)、郡守を置く。警視庁総長官1名、副官1名、警視1名、警察医5名、警部58名
l 度支部 司税、主計、理財の3局
l 法部 民事、刑事の2局
l 農商工部 農務、商工、山林、鉱務、水産、土木を置く
裁判制度 未定である。