2 韓国近代化の足跡

東京朝日新聞明治三十四年十月

1023

貴族観光団 22日京城特派員発

貴族観光団は、総計45(従者共)に決定、23日夫人連、24日男子連が出発し、25日下関にて合流、同夜は宮島に1泊、27日京都、29日名古屋、30日新橋着の予定である。

 

解説105日「朝鮮貴族員数」にあるように38名の貴族が生まれたが、その中の貴族と夫人が主体の観光団である。

1022

日鮮電報料半額 21日京城特派員発

大北電信会社の対釜海底電線が買収済みとなり、来月より日鮮間の電報料金は約半減される予定である。

解説:昨日「海底電線買収価格」の続報

朝鮮僧侶の活動 同上

最近の朝鮮僧侶の活動には見るべきものがある。27日更に大集会を催し、布教の方針を定め、多年最も卑しい境遇にあった不遇を一挙に回復する事が目的であると言われている。

解説:日本では「士農江商」という身分制度があったが朝鮮では「両班、中人、常人、賤人」という身分制後があり、僧侶は娼妓、奴婢等と一緒に賤人に属していた。

日本人団漸次解散 同上

 

地方に於ける日本人会は、当局の意を体して、漸次解散し、民団の学校組合のみ旧態を保つ。

1021

巨魁李太王に謁す 19日京城特派員発

去る明治39年、全羅道光州城に兵を挙げ、我が土方警視以下多数を殺害し、自ら義兵の大将を以って任じ、南韓一帯を荒らした閔宗植(びんそうしょく)は、後に捕らえられ、珍島に配流の身となった。しかし特赦に接し、再び天日を仰ぐ身となったが、突如、18日、李完用氏を訪れ、何らか言葉を交わした後、相連れて昌徳宮に伺候し、両王に拝謁した。特に李大王とは5年振りの事であり、四方山の対談があった。当年順逆の途を誤った事をひたすら悔恨したことに、王は非常に満足なご様子であったそうである。

解説李完用は、韓国併合当時の内閣総理大臣であり、明治43年(1910年)10月、伯爵を与えられ、大正9年(1920年)には侯爵となっている。昌徳宮は李太王の住まいである。

海底電線買収価格 20日京城特派員発

対馬と釜山間の海底電線60マイルは、いよいよ大北電信会社より15万円にて買収する事に決定した。

農業団到着 同上

 

東洋柘植会社主催の農事視察団が20日、来着した。21日より日程に従って行動する計画であり、総督府及び李王家は特に招待会を催すと思われる。

1019

寺内総督優遇 内国電報(18日発)

 

寺内総督は、20日午前1120分新橋着にて入京し、直ちに参内する為に、特に中隊長の指揮する近衛騎兵一小隊を儀仗として付せられる旨の御沙汰があった。参内し復命の上は、御陪食を仰せ付けられる筈である。東京市では、駅前にアーチを設け、音楽を奏で、日比谷公園に於いて花火を上げる計画である。

1018

寺内総督随行談(門司) 内国電報(17日発)

寺内総督は予定通り、17日到着、春帆楼に入った。記者に対し児玉書記官が総督に代わって次の談話を行った。

殖産興業発展の方針により、17百万円を朝鮮全道に交付したが、その結果、各郡に平均5万円位宛て分配された。今後は総督府に於いて、殖産用の資金を保管し、その利子千5百円を以って、将来有望な殖産事業を盛んにさせる方針であるので、好成績が得られると考えている。土地の発展に関しては、鉄道を敷設することが最も急務であるので、現在の11年計画を短縮する為に、現在政府と打ち合わせ中である。

併合の結果、続々と本国より移住しており、今後、年々3万人位は、確かに増加する傾向を示している。従って土地の調査は一大事業であるが、未だ完成は覚束ない。(一部抜粋)

 

解説:現在中国は新疆ウイグル自治区に於いて人道上許されない強引な統治を行っているが、約100年前の日本の異民族統治はこの様に穏やかなものであった。韓国国民は中国のウイグル族弾圧をどの様に見ているのだろうか。

417

王世子誕辰祝賀使 15日北京特派員発

20日は東京に居る王世子の誕生日に付き、祝賀の為、昌徳宮より厳柱益(げんちゅうえき)を徳寿宮より、趙民キ(ちょうみんき)をそれぞれ派遣する事になり、15日朝出発した。

解説:韓帝であった高宗は退位し、徳寿宮に住んでいる。その長男純宗は李王となって昌徳宮に住んでいる。二男であった李垠は、明治天皇の指示で、日本で教育されており、1020日が誕生日である。

農事視察団 15日群山特派員発

東拓の農事視察団一行は、金州地方の視察を終わり、15日来群し、同夜、当地方の官民主催の歓迎会に臨み、16日夕、河を遡り、江景に向かい出発する予定である。

寺内総督 16日釜山特派員発

寺内総督一行が、16日午後4時来着し、官民の送迎を受け、厳重な警衛の下に弘済号に乗船し、直ちに下関に向かった。

平鎮間鉄道運転開始 16日平壌特派員発

 

平壌と鎮南浦間の鉄道は、いよいよ16日より開業し、当地よりの発車は午前7時半と午後5時との2回である。

1016

寺内総督暇乞 15日京城特派員発

 

寺内総督は、いよいよ16日午前7時の特別列車で釜山に向け出発し、同地より弘済号に乗船、帰朝の予定である。15日朝、昌徳宮、徳寿宮の両宮へ御暇乞いをする為に伺候した。

1015

金玉均以下の追暘 14日京城特派員発

故金玉均、洪英植、魚允中、金宏集、案ケイ壽に1万円、鄭秉加外9名に5千円を14日に各その嗣子に恩賞がある旨通知された。これは矢張り恩賞公債にて2か月内に證書を下暘されると総督より伝達した。 

 解説金玉均は、改革派のリーダーで、清朝から独立し、日本の明治維新を模範として、朝鮮の近代化を目指した。188412月、日本の協力を得て、閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こした。一旦成功したが、清の介入でわずか3日間の政権で終了し、金玉均は日本に亡命した。18943月、閔氏の刺客により上海で暗殺され、四肢を八つ裂きにし、首は京畿道、片手及び片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で晒された。 福沢諭吉等によって葬儀が営まれ、東京文京区の真浄寺にその墓所がある。さらに犬養毅、遠山満らの支援で東京の青山霊園の外人墓地に墓が建てられている。

 

 

10月14日

山縣政務総監の招宴 13日京城特派員発 

山縣政務総監は、13日寺内総督を招待して、午餐会を開いた。

1013

寺内総督帰朝 12日京城特派員発

総督は、帰朝時期が近づいている為、各所の巡視に忙しく、12日も水原(すいげん)の模範場を視察した。なお12日は、前大臣宮内府尹及び日本側大官を、13日夜は、外交団を招き、留別の宴を設ける予定である。出発日は既電のとおり16日で、都合により、馬山を視察、釜山より軍艦で尾道に上陸する予定である。これは帰朝後に参内の為、悪疫の流行地を避ける為である。

李王家職制内容 同上

 

李王家職制は、間もなく発表される様であるが、その内容を聞くと、王家は宮内省の所管に属し、職員その他は委任によりこれを監督する予定で、経費や予算の編成は、宮内省が全て作成すると思われる。

 

1012

城津住人の不平 11日城津特派員発

城津府を郡として、朝鮮官吏の支配を受ける様になったのは、城津の実力を無視した措置であるとして、日本人の激昂が甚だしく、近く大会を開き、総督の反省を促す予定である。

解説:城津は日本海に面した都市で現在の北朝鮮、咸鏡北道にある。都市の名前が北朝鮮軍司令官の名前「金策」に変更となっている。

922日記事「道庁府庁新設地」では、府庁の新設地として、京城、釜山、馬山、清津、城津、元山、仁川、鎮南浦、群山の十カ所の一つに含まれていたが変更となっている。

水道会社買収交渉 11日京城特派員発

相当以前から問題であった英国シンジケート京城水道会社の買収は、最近東京に於いて、交渉が再開された。会社は280万円を要求し、政府は265万円を支出すると主張し、未だ解決していないが、間もなく解決する見込みである。

新聞撲滅成功 同上 

国民新聞は、11日より、いよいよ廃刊になり、ハングル文字の民間新聞は全滅した。徳富猪一郎氏は、大韓毎日新聞の社長兼主筆をして、11日より経営すると思われる。

韓国近代化の足跡について

東京朝日新聞の記事から、韓国近代化に関する記事を紹介しており、主要記事については「政治」、「軍事治安」、「金融財政」、「商工業、農業、教育、通信、その他」に分けて期日、見出しを纏めています。

 

英国夫人イザべラ・バードは、李町末期の18941月から18973月にかけ、モンゴロイドの特性調査の一環として4度にわたる朝鮮旅行を行っている。その朝鮮紀行によれば

 改革

日本人が「改革」と呼ぶ新しい秩序は1894723日日本兵が景福宮を武力で占拠した時点から始まった。(474p

朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きと共に、全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ,改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。

このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。(342p

 

沿海州の朝鮮人

朝鮮半島の不潔で荒れた貧しい村々とは異なり、この定住地の家々は同じ朝鮮家屋でも立派である。住居の多くは部屋数が4間か5間、ときには6間ある。朝鮮本国では高級官僚の家ですらめったに見られないような家具がふんだんにある。男たちの態度はわずかながらも確実に変わってきており、本国朝鮮人の特徴である猜疑心、怠情と慢心、目上への盲従は、きわめて全般的に、アジア的というよりイギリス的な自主性と男らしさに変わってきている。きびきびした動きも変化の一つで、両班の尊大な歩き方や農夫の覇気のないのらりくらりぶりに取ってかわっている。金を儲けるチャンスはいっぱいあり、儲けてもそれを搾り取る官僚や両班はいない。

朝鮮にいたとき、わたしは朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望みなしと考えていた。ところが沿海州でその考えを大いに修正しなければならなくなった。彼らは大半が飢饉から逃げだしてきた飢えた人々だった。そういった彼らの裕福さや品行の良さは、朝鮮本国においても真摯な行政と収入の保護さえあれば、人々は徐々にまっとうな人間となりうるのではないかという望みをわたしに抱かせる。(306p~307p)

ソウル

城内ソウルを描写するのは勘弁していただきたいところである。

北京を見るまでわたしはソウルこそこの世で一番不潔な町だと思っていたし、紹興(しゃおしん)へ行くまではソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどい臭いだと考えていたのであるから!都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。路地の多くは荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た個体及び液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。(59p)

写真は「きままに歴史資料集」から

1900年の京城
1900年の京城
南大門通り
南大門通り