期日 | 日本関係 | 期日 | 露国関係 | 期日 | 英米関係 | 期日 | その他 |
8月1日 | 旅順口漏信 | 8月2日 | トルストイ伯戦争論 | 8月9日 | 英人の非自殺論 | 8月11日 | 敵帥確執続報 |
8月1日 | 露艦退去と船舶の出入 | 8月12日 | 旅順大海戦別報 | 8月11日 | 米国の貨物輻輳と臨時船 | 8月16日 | ドイツ政府の命令 |
8月3日 | 黒木軍の前進と占領 | 8月14日 | 敵艦の大損傷 | 8月17日 | 我が同盟国民の祝辞 | 8月23日 | 伊国新聞と最近海戦 |
8月4日 | 塩専売反対 | 8月15日 | ウラジオ艦隊撃沈 | 8月21日 | 知己の評論 | 8月27日 | 大山元帥臨戦の理由 |
8月5日 | 軍隊の食料 | 8月16日 | ウラジオ敵艦撃沈詳報 | 8月21日 | 同上 米国新聞の場合 | ||
8月8日 | 戦時の軍艦生活 | 8月20日 | 縁故ある捕虜 | 8月26日 | 日露戦争と清国保全 | ||
8月9日 | 職工募集広告 | 8月24日 | 捕虜現在数 | 8月27日 | 喜望峰給炭の禁止 | ||
8月16日 | 博恭王御軽傷 | ||||||
8月19日 | 東京朝日新聞定価(前金) | ||||||
8月25日 | 艦隊の健康 |
明治37年8月
東京朝日新聞明治三十七年八月一日(月)
営口軍政と北清商人 以前ここで働いていたことのある者以外は一切入れない
旅順口漏信 27日にも引き続き猛烈な砲声を聞いた
露艦退去と船舶の出入 横浜に停泊中の内外汽船23隻は昨31日正午までに出港した
営口軍政と北清商人 30日北京特派員発
営口軍政委員である高山少佐より天津領事館に宛てて、本邦人で営口に入ろうとする者が居るが、以前ここで働いていたことのある者以外は一切入れない事としているのでこの方針で取締りを行ってもらいたい旨打電してきている。
営口占領を待ち、商機を失わない内に素早く入り込みたいと思っていた者が空しく追い返されており、当地の識者間では、当局者のこの措置を非難する者が多い。
解説:7月29日の記事に第2軍(奥大将)による営口占領の記事があり、今日の記事はその後の占領行政に関してと思われる。
旅順口漏信 30日チーフ特派員発電
29日当地に到着した露人の話では、25日より陸上の各方面に於いて従来にない激烈な砲撃が始まり、26日には一層猛烈となり27日にも引き続き猛烈な砲声を聞いた。これは全て日本軍の背面攻撃である。従来日本軍の作戦行動につき確実な情報を知らせていた支那人が26日に総攻撃が始まると言っていたが果たして本当であった。
解説:第三軍(乃木大将)は25日から総攻撃を始めたが日本では、報道陣が陸軍省内にテントを張って陥落の知らせが今来るか今来るかと待ち受けていたそうである。実際には37年中は陥落せず、大変な激戦となったが、この楽観説の根拠は第1に日清戦争時僅か1日で旅順を攻め落としている。第2に情報の不足で近代的要塞に生まれ変わっていた要塞について情報を持っていなかった。第3に日本軍は正規の要塞戦を戦ったことがなかった事による。(参考文献:近代の戦争 人物往来社)
露艦退去と船舶の出入
露艦が出没の為、横浜に停泊中の内外汽船41隻の内23隻、帆船17隻の内6隻は昨31日正午までに出港した。このため横浜港内は急に停泊隻数が少なくなり寂しさを感じるようになった。
東京朝日新聞明治三十七年八月二日(火)
本願寺差押えられる 美濃国大橋銀行より借り出した金の利子4千円を滞納した
プレヴェの後任 フォン、ワール将軍が選ばれるであろうと予想されている
ベーリング海漁業問題 英国が同漁業地を保護する事と決まったようである
トルストイ伯 日露戦争論 誰も希望しない、誰も求めないことが起こってしまった
先月下旬の貿易 輸出に於いて生糸の売れ行きが著しく伸びた
本願寺差押えられる(京都)
大谷派本願寺は美濃国大橋銀行より借り出した金の利子4千円を滞納したため、昨31日執達吏が光栄法主の財産を差し押さえようとした。しかしこの屋敷は大谷伯爵家の所有であり、負債は本願寺に属するものとの理由で差押さえを拒絶した。その為篠原事務総長方等で差押さえを行った。
プレヴェの後任
露国内務大臣の後任に、フォン、ワール将軍が選ばれるであろうと予想されている。将軍は内務次官の1人で全露国憲兵団の司令官を兼ね警察行政上素晴らしい権限を有する人である。フォン、ワール将軍の子息は、一士官として目下松山において捕虜の身であり、気の毒な事である。
ベーリング海漁業問題
ベーリング海の海豹漁業問題について、英露両国間の交渉がまとまり英国が同漁業地を保護する事と決まったようである。それまで厳重に取締りを行っていた露国軍艦が、日露戦争の為にこの地にいない事を幸いにして、米国や日本の密漁船が欲しいままに密漁を行い、従来露国皇室の御用品として買い上げられていたラッコ皮さえ続々市場に現れていた。
トルストイ伯 日露戦争論
トルストイ伯の日露戦争論は6月16日のロンドンタイムス紙上の約10欄を埋めた大長編で、伯が心血を注いだ最近の大作といわれるものである。
第1章より
戦争はまたもや始まった。誰も希望しない、誰も求めない困ったことが起こってしまった。
東西を隔てる事幾千里、一方は殺生を禁じている仏教の国、片方は博愛を標榜しているキリスト教徒であるにも拘らず両者互いに野獣の如く海に陸に他を虐殺している。
解説:トルストイ伯とは「戦争と平和」、「アンア、カレーニナ」で知られる世界的文豪で、この論文は、日露戦争の勃発に際して発表した反戦論文で、ロシアでは発禁処分となりロンドンタイムスに掲載された。
先月下旬の貿易
先月下旬の海外貿易は、輸出に於いて生糸の売れ行きが著しく伸び、製茶、銅、樟脳等の重要品も又増加したがそれに対して輸入綿花が特に減退した結果84万円余りの輸出超過となっている。また金銀は引き続き銀の輸入が多い為48万円の輸入超過である。
東京朝日新聞明治三十七年八月三日(水)
黒木軍の前進と占領 楡樹林子及び様子嶺付近を守っている敵に対し攻撃運動を開始した
進歩党の戦時財政調査 概略明年度における戦費を5億円と仮定し
政友会の集会 韓国の荒地開墾に対しては反対意見が最も激しく
黒木軍の前進と占領 8月2日午前大本営着電黒木大将報告
軍は楡樹林子(ゆじゅりんし)及び様子嶺付近を堅く守っている敵に対し31日未明から攻撃運動を開始した。
楡樹林子方面に対する攻撃は、同日夕刻前までに予定の如く進捗し、敵の両翼を撃破したが敵の兵力が強大で、またその陣地が堅固であるため夜になっても撃破することが出来ず、そのため翌1日の未明に再び攻撃を開始し正午になってようやくこれを撃退した。
様子嶺方面の攻撃もようやく成功し、31日午後1時過ぎより搭湾及びマークメンザ方向より共に歩兵の攻撃前進に移り、黄昏前にその陣地の大部分を奪取した。しかし敵の一部はなお頑強に抵抗し、夜に入っても退却せず、攻撃部隊は戦闘隊形のまま夜を徹し1日未明に再び攻撃を開始し午前8時様子嶺付近一帯は我のものとなった。
解説:露軍は日本の第一軍(司令官は黒木大将で朝鮮半島から北上、鴨緑河を渡河した)の急進撃を恐れ、これに対する反撃を企図した。7月17日には魔天嶺で反撃したが撃退され、さらに3個軍団を集めて大反撃を準備していた。これを予期した第一軍は果敢な先制攻撃に出て露軍を撃破し、8月1日までに楡樹林子及び様子嶺を占領し露軍の東翼に大きな脅威を与えた。(参考文献 日本の戦争 原書房)
進歩党の戦時財政調査
進歩党の政務調査委員会において、明年度もなお戦局は終結しないものと考え、概略明年度における戦費を5億円と仮定し、その内増税によるもの6千万円余り及び歳計剰余繰入等で合計1億円の他、新税及び事業繰延べ等で3千万円を、その他は公債及び借り入れによる計画である。どの様な種類の新税にするかは尚慎重に調査し決定すると言っている。
政友会の集会
政友会の議題の主なものは、韓国の荒地開墾及び百三十銀行問題で前者に対しては反対意見が最も激しく、このような大問題を個人より提出させることの間違い、また時期早尚である事、韓人の感情をこの様に害してまで強行するのは得策ではない事等であり、当局に今後の計画を十分に質し、しかる後再協議する事とした。
解説:韓国の荒地開墾について七月二十三日の記事に関連ニュースがある。
東京朝日新聞明治三十七年八月四日(木)
クロパトキン報告 東方軍司令官ケルレル将軍は8月1日重傷を受け間もなく死亡した
所得税法 農工商に属する者はほとんど其の所得額を隠蔽している状況である
塩専売反対 塩田所有者の2、3を除き絶対反対の意を表している
クロパトキン報告 外務省着電
クロパトキン大将は8月1日付け電報で、日本軍が各方面共に活発に攻撃をしていることを述べ、且つ様子嶺の戦いにおいて、東方軍司令官であるケルレル将軍は8月1日、砲台において非常に激しい砲火の下に立ち戦闘を視察中、同日午後3時重傷を受け間もなく死亡したと述べた。
所得税法
所得税は理論的には大変公平な税制であるが、官吏その他一定の所得を有する者は比較的正直に税金を納めているが、農工商(地主や自営業)に属する者はほとんど其の所得額を隠蔽している状況である。
今やわが国の人口は4千数百万人で、世帯数八百万であり、一世帯あたり平均5人である。一家の所帯主が5人の家族を養い、中流の生活をする為には少なくとも1年に300円以上の所得が必要である。しかるに第三種所得税を納める者は僅か50万人に過ぎない。
塩専売反対
政府は戦費を得る新税として次の21議会に塩専売法案を提出しようとし、前期議会に提出した案に多少の修正を加えたものを経営者に示し予め覚悟を求めたが、塩田所有者の2、3を除き絶対反対の意を表している。
東京朝日新聞明治三十七年八月五日(金)
旅順封鎖の昨今 敵の駆逐艦12隻、水雷艇4隻、砲艦と共に老鉄山沖に現れた
軍隊の食料 陸軍糧秣廠においては数十万の出征軍人に食糧を供給している
旅順封鎖の昨今
敵の最も苦しむところは、裏側より猛烈な圧迫を受けると同時に表側より濃密な封鎖を受ける事である。去る1日午後7時頃敵の駆逐艦12隻、水雷艇4隻が砲艦と共に老鉄山沖に現れ、我が駆逐艦が直ちに接近し約20分間砲火を交え、遂にこれを撃退したが敵は陸上の圧迫が刻一刻と迫るため、けなげにも駆逐艦と砲艦を出し、我が艦隊の行動を妨害すると同時に我が陸軍に対して側面攻撃を計画したと思われる。
解説:第三軍(乃木大将)が7月25日から旅順の裏側から総攻撃を開始しており、また前面の旅順口は東郷連合艦隊が封鎖している。
軍隊の食料
我が陸軍糧秣廠においては数十万の出征軍人に食糧を供給している。そのために採用する食料品には(1)大量に作ることが出来る物(2)普通通り食べられる物(3)運搬に便利な物(4)腐敗しない物という4条件に限る方針であり、採用を願い出た物のうち採用許可となったのは十のうち一つである。
今軍用として盛んに製造されているものはビスケット、乾燥野菜が主な物で次に缶詰牛肉,醤油エキス、福神漬けがある。
東京朝日新聞明治三十七年八月六日(土)
旅順を逃出した露人談 日本軍の砲弾は旅順市内に達し
敵の海城退去公報 露軍は無事鞍山站(あんざんたん)街道を経て海城より撤退した
戦時禁制品の積出と米国 米国政府は日本及び満州行き戦時禁制品一切の積出を禁止した
紡績界の燭光 綿布の需要が増加したため紡績界に復興の兆しが見えている
旅順を逃出した露人談
旅順を2日に出発した一行の談話によれば、日本軍の砲弾は旅順市内に達し、露艦は港内の泊地より日本軍の陣地を砲撃している。また日本軍が旅順に非常に近いところまで来ていると信じられている。
敵の海城退去公報 5日ロンドン ルータ社発電
クロパトキン将軍の報告によれば露軍は無事鞍山站(あんざんたん)街道を経て海城より撤退した。但し酷暑のため日射病に罹った者が非常に多い。
解説:露軍は8月3日海城から遼陽まで撤退した。遼陽は、南満州の政治的中心地奉天を守るための戦略上の重要拠点である。また鞍山站(あんざんたん)は、遼陽と遼東半島を隔てる低い山脈の主峰である。(参考文献 近代の戦争 人物往来社)
戦時禁制品の積出と米国
一昨日の4日、横浜サミエル商会への入電によれば、米国政府は日本及び満州行き戦時禁制品一切の積出を禁止した。また昨5日同商会への入電によれば太平洋各汽船会社もまた連合して当分戦時禁制品を搭載しないことに決定した。この電報の影響で横浜に於けるメリケン粉は急に一袋7、8銭高騰した。
紡績界の燭光
綿糸紡績界は、昨冬より今春にかけて米国綿花の高騰と内地の需要が大幅に減退した為大きな打撃を受け暗黒状態であったが、最近に至って清国に於ける需要が非常に増大したためと軍需品としての綿布の需要が増加したため紡績界に復興の兆しが見えている。
東京朝日新聞明治三十七年八月七日(日)
旅順別報 27日より30日まで猛烈な砲声を聞いた
外国保険の日本船拒絶 ウラジオ艦隊の影響で、外国保険会社は、保険を受け付けない
広告 臨時雇募集 明治37年8月7日 陸軍糧秣廠
旅順別報 5日チーフ特派員発電
旅順より到着したジャンクの話では、27日より30日まで猛烈な砲声を聞いた。これは旅順の東北リウメンテンの戦争の砲声で、露軍に多数の死傷者が出た。
日本軍は27日旅順の東7,8満里の郭家溝(かくかこう)を占領した。
解説:30日になって第三軍は、双島湾、鳳凰山、郭家溝(かくかこう)の線に達し、旅順の包囲網は完成した。26日から始まったこの戦闘で第三軍は5万7,000の内死傷2,800余、露軍は1万8,000の内1,400程の死傷者をだした。 (参考文献 近代の戦争 人物往来社)
外国保険の日本船拒絶
日本郵船会社の神奈川丸は予定通り昨日6日午後2時シャトルに向け横浜を出帆した。積荷は、既に報度されているようにウラジオ艦隊の影響を受け極めて少なく殊に同船の積荷に対して外国保険会社は、保険を拒絶し絶対に受け付けない。日本海上保険会社は100円に付き50銭の割合で保険を受け付けた。
広告 臨時雇募集
当廠において臨時職員15名を募集しており、希望者は左記事項を了承の上今月15日までに自筆の履歴書を持って出頭せよ。
1 年齢20歳以上40歳以下、但し徴兵に応じなければならない者は採用しない。
2 採用者には、日給30銭以上50銭までを支払う。
3 採用者は東京市内に本籍がある身元保証人が必要である。
明治37年8月7日 陸軍糧秣廠
解説:日給は現在の金額にすると大体3000円以上5000円まで
東京朝日新聞明治三十七年八月八日(月)
旅順港外の海戦 敵の駆逐艦14隻が我を包囲する
戦時の軍艦生活 時に新鮮な刺身や洗いが食卓を飾っている
旅順港外の海戦 東郷連合艦隊司令長官報告8月6日午後10時10分大本営着電
昨5日午後4時ごろ、我が駆逐艦は敵情偵察のため旅順口港外に行った時、敵の駆逐艦14隻が急に我に向かって突っ込んで来て、着弾距離に入る頃我を包囲するように北側から3隻、7隻、4隻のグループに分かれた。我が2艦は、午後4時40分5,000メートルの距離にて敵と猛烈な砲火を交換しつつ針路を北に取り敵の3隻の針路を遮る様にしたところ、敵は直ちに艦首を転じて湾口に逃走する。午後5時ごろ味方の駆逐艦1隻加わり3隻でこれを追撃しつつ、南方に向い、残り11隻に近づいたが、これも又湾口に向かったため戦闘を中止した。
戦時の軍艦生活 軍艦に乗組み中の軍医長が報告した文書より
日清戦争時と違って日常の供給は満足のいく状態であり、軍艦においても酒保(売店)の設備がある。食料でもおおよそ2/3は生糧品(生の野菜や魚肉類)を食べることが出来、牛肉に至っては生牛のまま輸送して、日々の必要な量を屠殺するシステムとなっている。又70~80名の戦地漁船団が当地において艦船に魚を供給し、時に新鮮な刺身や洗いが食卓を飾っている。其の他にも洋服屋や洗濯屋がおり実に結構な世界である。
解説:陸軍は、港と戦場との間の道路事情が悪く交通機関も無い為現地の車馬をできるだけ多く集めて輸送したが補給問題には常に悩まされていた。其の点海軍は違っていたようである。
東京朝日新聞明治三十七年八月九日(火)
英人の非自殺論 高度な近代文明に反し西洋人として驚くべきことがある
東京電車の祝勝電車 旅順陥落祝勝会の当日にイルミネーション電車を走らす予定
職工募集広告 日給の最高額は2円で、但し戦地に派遣の場合賃金は2倍半で食事を支給
英人の非自殺論 英国王立外科大学の同級生から海軍医務局長実吉安純氏に送られた
手紙より
貴国民の間に行われる事で、私にとって奇異であり、高度な近代文明に反し西洋人として驚くべきことがある。即ち貴国の士官及び下士官兵が捕虜にならざるを得ない状況になると決然として自殺をする事である。貴国の輸送艦が沈没した時に起きたことがこれである。
今私は君を英国王立外科大学の一評議員としてまた優れた頭脳を持つ教養ある一個人として本当の勇気とはいかなるものか君に問いたい。
これに対し実吉男爵は
外人にとって当然のことであるが日本の武士道は、古来降伏をもって絶対の屈辱と考え勝にあらざれば即ち死をという格言を常に実行するもので他の自殺と同じように考えることは出来ないと語った。
東京電車の祝勝電車
東京電車鉄道会社では旅順陥落祝勝会の当日に祝意を表すため、イルミネーション電車を走らす予定で一昨日試験をしている。当日は5両の花電車に楽隊も同乗し、又一般乗客を乗せて終夜運転する予定である。
解説:官民とも旅順は明日にも陥落すると考えていたが、初めて経験する大量の機関銃を装備した近代的要塞に対する攻撃は困難を極め、実際は年を越す大変な戦いとなった。
職工募集広告
旋盤工60名、仕上工40名、組立工70名、焚火工20名、製缶工50名、銅工20名
試験の上雇い入れるので志願者は本年8月30日までに当廠の職工募集掛けへ出頭せよ。
明治37年8月横須賀海軍工廠
年齢18歳以上45歳未満で賃金は経験による。
日給の最高額は2円で但し戦地に派遣の場合賃金は2倍半で食事を支給する。
解説:当時、横須賀海軍工廠は超一流企業であり、日給2円は、現在の価値で2万円に相当する。発明王豊田佐吉も見学に訪れたという。
東京朝日新聞明治三十七年八月十日(水)
避難者所見 市街の燃えるような黒煙が見え、又山上の砲台より発砲する煙をみた
韓廷廃兵問題 韓朝廷の行政改革の一環として,先ず常備兵力の員数を大幅に減少させる
避難者所見 9日チーフ特派員発電
昨朝当地に到着した日本人の談で、昨日(8日)は砲声が激しく午前11時ごろ旅順より15、6海里の沖から旅順方面の山と山との間に市街の燃えるような黒煙が見え、又山上の砲台より発砲する煙をみた。港の前には軍艦を見なかった。
解説:陸軍の攻城砲不足に対して海軍から申し出て、12サンチ砲及び15サンチ砲、計33門を揚陸した。そして8月7日(日)に旅順市内及び港内に撃ち込んでみた。日曜日の昼近くのことで、教会でお祈りを済ませて帰ろうとする鼻先へ砲撃をくったので、非常に驚いた。港内に対しても最初は盲撃ちであったが、その内軍艦3隻に砲弾を集中させた。大損害を受けたロシア海軍は恐慌をきたし、港内に居れぬと判断し、8月10日出港し黄海の海戦となった。(参考文献:近代の戦争2 人物往来社)
韓廷廃兵問題
韓人の間の風説を取り上げた我が国の京城特電の記事によれば、林公使(駐韓大使)は荒地開墾問題を見送る代わりに、韓朝廷の行政改革の一環として,先ず常備兵力の員数を大幅に減少させる事、内外人の顧問を淘汰する事、及び地方政治の監督として日本人を入れることになったという。元より韓人の風説であるので本当かどうかは不明である。
解説:荒地開墾問題とは韓国朝廷が所有する荒地を無償で日本人に払下げるよう要求している問題であり、7月30日に関連記事(特許拒絶の公文)がある。
東京朝日新聞明治三十七年八月十一日(木)
敵帥確執続報 アレキセーエフ総督の存在は露軍にとって非常に危険である
韓国学制大綱 日本と同様な学校制度を導入する
米国の貨物輻輳と臨時船 米国の飛脚船は日本及び満州行きの一切の貨物を船積みしない
敵帥確執続報 7月11日付ドイツローカル アンツアイゲル紙
クロパトキン大将とアレキセーエフ総督との間にある著しい軋轢が今尚続いており、アレキセーエフ総督は自ら王者の如く威厳を持ってのさばって、軍隊の事務を阻害し常にクロパトキンの命令を退けて、自ら皇帝の代理者たる名の下に己の権力を誇示している。
今の状態にてはアレキセーエフ総督の存在は露軍にとって必要が無いのみならず非常に危険である。
解説:アレキセーエフ総督は10月頃解任されることになる。
韓国学制大綱
帝国教育会の韓国教育調査委員が作成した学制大綱は次の様である。
年齢 校名
6歳~8歳 初等小学
9歳~10歳 高等小学(女子高等小学)
11歳~14歳 中学校、初等実業学校、女子中学校
15歳~17歳 高等学校、外国語学校、実業学校、高等師範学校
18歳~21歳 大学校
尚この経費は学田の収入と設置区又は国庫の負担で行い中学以上は諸学科を教える必要上日本語を採用する方針のようである。
米国の貨物輻輳と臨時船
米国の飛脚船は日本及び満州行きの一切の貨物を船積みしない様であるがポートランド、タコマ、シャトルの諸港では定期貨物船は引き続き船積みをし、運賃も変わらない旨横浜に入電した。又別報によれば小麦並びに小麦粉が同国沿岸の諸港に溜まっており1トン5ドルの運賃であれば臨時便を出す旨申し入れがあった。
東京朝日新聞明治三十七年八月十二日(金)
一昨日の大海戦 我が連合艦隊は日没まで敵艦隊を攻撃した模様である
敵艦隊1隻チーフに入る 露国駆逐艦が今朝旅順よりチーフに入港して停泊中である
旅順大海戦別報 旅順艦隊はウラジオ艦隊に合流するため港外に出て行った
日露戦争論 汝の敵を愛するとは、何か
一昨日の大海戦 11日午前6時までの戦報
大連湾方面から伝わった諸情報を総合すると旅順口の敵艦隊は昨日10日早朝脱出を試み、我が連合艦隊と衝突し、我が連合艦隊は日没まで敵艦隊を攻撃した模様である。今朝届いた某見張り所からの電報によれば「レトウイザン」と「ポピエタ」型1隻は本日11日未明旅順口に逃げ帰りつつあるようである。
敵艦隊1隻チーフに入る 11日チーフ特派員発電
露国駆逐艦「レシテリヌィ」今朝旅順よりチーフに入港して停泊中である。(チーフに於いては誰も旅順港外の大海戦を知らない様である。)
旅順大海戦別報 11日上海特派員発電
露国駆逐艦「レシテリヌィ」は機関に損害を受け、今朝チーフに到着した。旅順港外において毎日激しい戦闘があり、昨日午前7時、旅順艦隊は水雷艦隊を率いて日本の封鎖を破り、ウラジオ艦隊に合流するため港外に出て行ったが昨夜までには帰っていない。ただ巡洋艦「バヤーン」のみは敷設機雷に触れて旅順に帰りドックに入った。
解説:旅順艦隊の度々の消極戦法に業を煮やした海軍上層部は、8月7日勅命によりウラジオストックへの回航を命じた。そして8月10日全旅順艦隊は出港し、午後零時30分東郷艦隊に発見され、黄海海戦の火蓋が切って落とされた。東郷艦隊は、一旦離れた旅順艦隊を追撃し、午後5時30分頃砲撃を開始し日没に到って攻撃を終了したが、旅順艦隊の20隻中11隻は中立国の港で武装解除されたり、自沈し、旅順に引き返せたのは9隻で、以後もはや戦力としては役に立たなかった。これにより日本は制海権を確立することが出来た。
(参考文献:近代の戦争2 人物往来社)
トルストイ伯爵 日露戦争論
「汝の敵を愛せよ。しからば汝には一人の敵も無くなるであろう」キリストが12使途に対して教えた言葉である。
汝の敵を愛するとは、何か。かの日本人、支那人及び全ての黄色人種を愛するとは、かって英国人がしたように阿片をもって彼らを毒殺する権利を得るがために彼らを殺戮しない事を云う。露独仏の国民が常にしたように、東洋の国土を搾取しない事を云う。
解説:東京朝日新聞8月2日「トルストイ伯日露戦争論」を始めとして、毎日1章づつ以後10日間にわたって掲載された最後の10章である。長大な反戦論文であり、日本でも幸徳秋水等に大きな影響を与えたことで知られている。
東京朝日新聞明治三十七年八月十三日(土)
旅順海戦詳報 午後1時より日没過ぎまで激戦し敵に多大の損害を与えた
旅順海戦詳報 東郷連合艦隊司令長官報告 8月12日午前9時10分着電
連合艦隊は一昨日10日敵艦隊が旅順口を脱出して南下しようとするのを、遇岩付近にて激撃し、次いでこれを東方に追撃し午後1時より日没過ぎまで激戦し敵に多大の損害を与えた。この戦闘の後期に於いて敵の砲火は大いに衰え陣形はまったく潰乱し、各艦は個々に分裂し「アスコリド」「ノーウイツク」、駆逐艦数隻は南方に遁航し、その他の諸艦は各自旅順口に向かい、我が駆逐隊や水雷艇隊に追尾襲撃され更に少なからざる損害を受けたと思われる。これらの襲撃結果については未だ詳細な報告は届いていない。
我が艦隊の諸艦には大きな損害も無く今後の戦闘に支障なし。死傷は全隊を通じて将校以下170名である。
解説:秋山真之が起案したと思われる黄海海戦の正式な報告である。長官報告の新聞報道は実際の海戦の3日後に報道されている。また現在の海上自衛隊の報告書では見られない、激撃(激しい攻撃)、潰乱(乱れてしまった状態)、遁航(遁走)が使われている。なお()内は推定である。
東京朝日新聞明治三十七年八月十四日(日)
敵艦の大損傷 戦艦6隻の内5隻は大きな損害を受けたものと認められる
敵艦隊の敗状 司令長官は足のみを残し身体の全部を失った
広告 北里柴三郎
敵艦の大損傷 東郷司令長官報告 12日午後第本営着電
1昨日10日の戦闘で敵の戦艦6隻の内5隻は大きな損害を受けたものと認められる。その内「ベーター」はマストが2本とも折れ、主砲は発射不能となっている。旗艦「レトウイザン」は3,500メートルの距離で我の命中弾を受け、其の被害は最も大きいと考えられる。敵巡洋艦の被害は比較的少ないと思われる。但し「バーヤン」は出てきていなかった。
我が方の損傷は既に応急修理を終わっている。
敵艦隊の敗状 ドイツ新聞が膠州湾(ドイツの租借地)より得た電報
8月11日午後5時30分頃、露国水雷駆逐艇が青島に入港し、間もなく「ノーウイック」も入港した。
「チェザレウイッチ」の士官の話では、艦隊はウラジオに行くよう命令を受け8月10日午前10時旅順を出港したが「バーヤン」は敷設された機雷が爆発し、損傷を受け港内に引き返した。他の諸艦は午前11時ごろ旅順から20海里沖で東郷艦隊と30分間激しく戦い、山東方面に逃れた。午後4時30分再び山東角付近において日本艦隊と約2時間交戦し、5時半頃日本の砲弾が旗艦の司令塔に命中し、司令長官ウイットケフト及び参謀が戦死した。司令長官は足のみを残し身体の全部を失った。士官の多くも負傷し、航海長が指揮し漸く青島に入港できた。
広告 北里柴三郎
本日米国へ向け出発の際は暑中お見送り下され有難く感謝申し上げます。
明治37年8月13日 北里柴三郎
解説:北里柴三郎とは破傷風の血清療法で日本における免疫学の礎を築いた北里博士で、当時の新聞には、このように広告を使った礼状が見られる。
東京朝日新聞明治三十七年八月十五日(月)
ウラジオ艦隊発見 午前5時10分「ウラジオ艦隊見ゆ」
ウラジオ艦隊撃沈 激戦5時間リューリックを撃沈し
博恭王御軽傷 三笠乗組みの少佐博恭王殿下は御負傷遊ばされた
十日海戦死傷将校 三笠艦戦死者 中尉2名、少尉2名
ウラジオ艦隊発見 角田竹敷要港部司令官報告
午前5時10分「ウラジオ艦隊見ゆ」との無線電信報告に次いで高千穂より「交戦中」との報告があった。
ウラジオ艦隊撃沈 上村第2艦隊司令長官報告
14日早朝、対馬の北方に於いてウラジオ艦隊3隻に遭遇し、激戦5時間リューリックを撃沈し、他の2隻は大損傷を受け北方に逃走した。我が損害は軽微であり委細は後刻報告する。
解説:ウラジオ艦隊は、日本に大きな影響を与えたがその一つは常陸丸事件で、この悲劇の様子は6月19日付の記事「常陸丸の最後」にある。また通商破壊(貨物船を撃沈し、物資の流れを止めること)があり、特に7月24日の記事では横浜に於ける米の欠乏の様子が伺える。このため上村艦隊は、濃霧の為敵艦を見失った事をもじって「むのう」艦隊と国民に非難されていた。このウラジオ艦隊を補足し撃沈したので国民の喜びは格別であった。
博恭王御軽傷
10日の大海戦に於いて三笠乗組みの少佐博恭王殿下は御負傷遊ばされた。但し至って御軽傷にて砲弾による傷ではなく木片によるもので呼吸器に異常はなく僅かに胸痛があるのみで御元気の御様子である。
解説:記念館三笠の後部主砲に、殿下が配置につき負傷した場所を表示している。又艦内中央展示室にも殿下に関する展示品がある。
十日海戦死傷将校
三笠艦戦死者 中尉2名、少尉2名
重傷者 少佐3名、大尉1名、少尉1名、候補生1名
軽傷者 大佐伊地知彦次郎、少佐博恭王殿下、候補生2名
日進戦死者 機関大監1名、少佐3名、大主計1名、少尉1名
負傷者 少尉1名、候補生1名
28号水雷艇重傷者 中尉1名
東京朝日新聞明治三十七年八月十六日(火)
ドイツ政府の命令 露国軍艦にして航海に耐えるものは速やかに出港させ
ウラジオ敵艦撃沈詳報 リューリックは沈没していた為、人員約600名を救助
ドイツ政府の命令 15日ベルリン特約通信員発
膠州湾(山東半島南側)総督は、ベルリンより「露国軍艦にして航海に耐えるものは速やかに出港させ、又損傷した艦船はなるべく速やかに修理をさせるべきである。その修理は戦闘力を回復させるためでなく単に航海に耐える程度に留めるべきである。そのため必要な監督を行え。」との命令を受領した。
解説:黄海海戦の結果逃れた露艦が、ドイツが租借中の膠州湾に数隻入港している。
ウラジオ敵艦撃沈詳報 上村第2艦隊司令長官報告
14日未明、出雲、吾妻、常盤、磐手は韓国の蔚山沖に於いて捜索行動中、ウラジオ艦隊の3隻が南下するのを発見した。敵は我が隊を見るや北に向かって逃走しようとしたため直ちにその前方を押さえ午前5時22分に至り戦闘を開始した。
敵の殿艦(一番後ろ)のリューリックは常に遅れ勝ちで絶えず猛烈な砲火を受け、前の2艦はしばしば勇敢にもこれを援護し遠ざかれば反転して近づき、又前進していた。
敵は数次の大火災を起こし多大の大損害を受けたが特にリューリックは速力も砲力も無くなり艦尾は著しく沈みかけていた。敵は遂にこれをあきらめ遁走を図ったため本隊はロシア、グロムイコを追撃し、激戦5時間に及んだが敵の2艦は全速力で逃げた。
午前10時19分我が戦隊は反転しリューリック捜索の為南下したがリューリックは沈没していた為直ちに全部隊の集合を命じ、沈没位置付近にいたり、泳いでいる人員約600名を救助することが出来た。
我が艦隊は多少の損害は受けたが何れも軽微で士気極めて旺盛である。
解説:旅順艦隊は黄海の海戦で壊滅、旅順艦隊を支援する為出撃したウラジオ艦隊は韓国の蔚山沖(蔚山沖海戦)で1隻沈没、残る2隻もそれぞれ士官の約半数が戦死、下士官兵の25%が死傷する大打撃を受け、以後戦力を失った。
上村艦隊がリューリックの乗組員約600名を救助したことは国際法を遵守する日本海軍として世界的に有名となり、その状況は絵画にも描かれた。
東京朝日新聞明治三十七年八月十七日(水)
我が同盟国民の祝辞 太平洋に於ける露国の海上権力は既に失なわれた
捕虜〔松山〕下士官兵共外出や散歩が許される事となった
膠州湾敵艦国旗撤去 本日(15日)午前中に軍旗を皆取り外し
我が同盟国民の祝辞 15日ロンドン特約通信員発
太平洋に於ける露国の海上権力は既に失なわれたものと認められる。
この度の海戦の結果としてバルチック艦隊が東航する計画は廃棄されるであろう。英国では日本が今回の勝利により海上の一大勢力としての地歩を占めたのは間違いない事実であると言われている。
捕虜〔松山〕 内国電報
36名新たに到着した。今後は下士官兵共外出や散歩が許される事となった。
膠州湾敵艦国旗撤去 15日チーフ特派員発電
青島外電によればドイツの同港知事は露艦の武装撤去について、本日(15日)午前中に軍旗を皆取り外し、「ツエザレウッチ」の巨砲の様に陸揚げできない物は、これを封鎖しその他の武器は皆陸に揚げた。乗組員は戦争終結まで当地に抑留するか又は本国に送還するかは本国政府の決定を待って手配する予定であると述べた。
東京朝日新聞明治三十七年八月十八日(木)
軍使勧降 陛下の聖旨と勧降書を敵の要塞参謀長に手渡した
新捕虜の状態 ウラジオ艦隊捕虜は601名であり
敵帥挙動について クロパトキン将軍の兵力数は、はるかに日本軍を超えるようになる
三笠艦上の死傷者 博恭王殿下は胸部打撲でご軽傷であるがしばらくご帰休となった
軍使勧降 8月17日午前大本営着攻囲軍司令官発
16日朝8時軍参謀山岡少佐を軍使として敵の前哨(最前列の敵陣)に派遣し、陛下の聖旨(民間人の安全な退去を保障)と勧降書(降伏を勧告)を敵の要塞参謀長に手渡した。
17日朝10時に敵が回答する事となっている。
解説:陛下の聖旨(民間人の安全な撤退を保障)とは、完全に包囲されている旅順市街に残っている婦人、子供、その他民間人の安全な脱出を保障するものであった。
軍使は陸戦法規32条の規定により不可侵権を持ち、白旗を掲げ、ラッパ手、旗手、通訳を伴い、ラッパを吹奏しつつ徒歩で敵陣まで進んだ。
新捕虜の状態 17日佐世保特派員発電
ウラジオ艦隊捕虜は601名であり、リューリック艦長は開戦後間もなく倒れ、副長次いで倒れ、その他の高級士官がことごとく倒れたので捕虜の中の将校は大尉以下23名に過ぎない。彼らには将校服を与え当海兵団(佐世保の新兵教育隊)で収用することとなった。佐世保海軍病院に収容した負傷兵は40余名であり、彼等は我々の治療、看護が親切と感じているようである。
敵帥挙動について
遼陽に於いては、遠からずして開戦以来最大の戦闘が起こり、この戦闘が今後の戦局を左右する決定的な戦争になるものと誰もが信じ疑わない。しかし欧州の軍事界ではこの戦闘は決定的なものではないと考える人も居る。日々到着する増援部隊により間もなく満州の露軍は優勢となり、クロパトキン将軍の兵力数は、はるかに日本軍を超えるようになる。この時を待って猛烈な攻勢に移ることが出来、これが露軍の取るべき最良の策であり、むしろ遼陽における決戦を避け徐々に退却し時期の到来を待つべきという。
三笠艦上の死傷者
鈴木連合艦隊軍医長よりの報告では、三笠に最も敵の砲火が集中し死傷者が110余名に達した。病院船で佐世保病院に後送した者は准士官以上9名、下士官兵35名であり博恭王殿下も含まれる。殿下は胸部打撲でご軽傷であるがしばらくご帰休となった。植田参謀は右肩胛部に拳大の失肉創と右頬部貫通創の重傷で、伊地知艦長は右腓腫筋盲管砲創(うはいしゅきんもうかんほうそう)で骨及び血管に損傷が無く極めて軽傷である。
東京朝日新聞明治三十七年八月十九日(金)
敵降参せず 今朝敵の軍使が来て昨日の回答を渡した
リューリックの捕虜 リューリック乗員の捕虜となった者の総計は613人
十日海戦死傷者 今日までに報告されたものの総数は、非常に多く227名
東京朝日新聞定価(前金)1ヶ月37銭
敵降参せず 8月17日午後第本営着電 包囲軍司令官報告
今朝敵の軍使が来て昨日の回答を渡した。
聖旨による非戦闘員を避難させる件は拒絶し、本職が送った降伏に対してもまた同じである。
解説:昨日8月18日の記事にあるとおり日本軍から軍使を送ったがこれに対する返答である。満州軍司令部では8月一杯で旅順は陥落する見積もりであったがこの見積もりは甘く年を越す激戦となった。
リューリックの捕虜
リューリック乗員の捕虜となった者の総計は613人であり、その内訳は士官16人内1名負傷、僧侶1人、准士官4人内3人負傷、下士官67人内16人負傷、兵525人内150人負傷
解説:8月16日の新聞にあるとおり上村艦隊はウラジオ艦隊のリューリックを撃沈し、約600名の敵兵を救助した。その捕虜の内訳である。
十日海戦死傷者
去る10日旅順沖の海戦(黄海の海戦)の死傷者で今日までに報告されたものの総数は、非常に多く227名であった。その内即死69名、負傷による死亡1名、重軽傷者で入院した者66名であった。他の91名は大抵が軽い傷で勤務に支障なく現在既に完治している者が多い。
東京朝日新聞定価(前金)
1ヶ月37銭、3ヶ月1円6銭、6ヶ月2円七銭
解説:現在の新聞代から推定すると当時の1銭は大体100円位である。
東京朝日新聞明治三十七年八月二十日(土)
縁故ある捕虜 同大尉の父はわが国にスクーナ型の船の建造法を教えた人々の一人
リューリックの牧師解放 牧師は捕虜としてはならないため長崎に送り解放する
常陸丸殉難者の葬儀 本日午前7時、田安門内の近衛兵営を出棺
縁故ある捕虜 19日佐世保特派員発電
現在当海兵団(新兵を教育する学校)に収容している将校捕虜は、2等大尉以下9名であるが、同大尉の父は露艦が初めて下田に来た時スクーナ型の船を作り、わが国にその建造法を教えた人々の一人であり、その後栄進して海軍中将となり伯爵を授けられ今尚健在との事である。大尉は容姿態度が気高く他の捕虜から尊敬されている。又捕虜の中に従軍牧師が一人居る。
解説: 本国へ戻る船をなくしたプチャーチン提督らロシア使節一行は、戸田の船大工や伊豆近在の大工たち多数の協力を得て、一隻の西洋型帆船を建造します。ことばの不自由さ、習慣や技術のギャップ、多くの困難を乗り越えて建造された約100トンのスクーナ船に、プチャーチン提督は、村人への感謝の意を込めて「ヘダ号」と命名したと伝えられています。(伊豆 戸田のホームページよりhttp://www.heda.jp/kanko/guide/history.htm)
リューリックの牧師解放
露艦リューリックから救助した同艦乗組みの牧師は1864年8月22日ジェノバ条約の原則を海戦に適用する条約により捕虜としてはならないため長崎に送り解放することとなった。
常陸丸殉難者の葬儀
常陸丸の殉難者635名の葬儀が本日午前7時、田安門内の近衛兵営を出棺し、青山練兵場に到着し式を行い、その後青山墓地に移動し埋葬された。
解説:8月15日に常陸丸の記事があるが毎年6月15日常陸丸の慰霊祭が関係者の手により東京で行われている。
東京朝日新聞明治三十七年八月二十一日(日)
世界環視の旅順 19日ロンドン特約通信員発電
蔚山沖海戦敵報 ウラジオ艦隊のアレキセイエフ大将の報告より
知己の評論 最近2回の会戦に関して、ロンドンタイムズより
同上 米国新聞の場合
世界環視の旅順 19日ロンドン特約通信員発電
旅順が今後どのように進展していくか誰しも気に掛かるところであるが、ハプスブルグでは一般的にひどく意気消沈している。但し旅順の攻囲軍も守備軍も双方同じように勇戦奮闘して屈しない点は賞賛に値するとは衆目の一致するところである。
蔚山沖海戦敵報 ウラジオ艦隊のアレキセイエフ大将の報告より
日本艦隊と会戦し、露艦隊は将に北方に回避しようとした時リューリックは舵をやられたと信号してきた。我が艦隊は極力これを救助しようとしたが見込みが無くなりゼッセンはウラジオに向かうよう艦隊に命じた。グロモホイ、ロシア2艦は北西に進路を取り戦闘を継続したが、2艦とも損害を被り特にグロモボイはエンジンと煙突に大損害を受けた。
ロシアは水線以下や水線付近に11箇所砲弾が命中、グロモホイは6箇所であった。両艦の死傷将校は全員の半数、下士官兵は四分の一に達した。下士官兵の数を正確に言えば戦死者130名、負傷者307名、両艦は応急修理をした上で本月16日ウラジオに帰った。
知己の評論 最近2回の会戦に関して、ロンドンタイムズより</b>
日本人が艦船を運用する技術に優れている事はいよいよ明瞭となってきた。また以前露艦は極めて冷酷に日本の輸送船を撃沈し、その上溺れている乗員を助ける為の救助艇を1隻も降ろさなかったにも関わらず、日本人は極めて義侠心に富み、露艦の乗員600名を救った。ここにそれを書くことが出来るのは極めて喜ばしい限りである。
同上 米国新聞の場合
米国新聞紙は我が海軍の最近2回の戦勝を以って戦争の最重要な出来事の一つとし、日本海軍の熟練を激賞し、極東において露国の海軍力は消滅したと信じられると述べている。さらに露艦が輸送船に乗り組んだ不幸な部隊に対し、何ら仮借なき攻撃を加えたにも拘わらず上村中将がその乗員を救った人道的行動について評論している。
解説:ウラジオ艦隊が日本の輸送船常陸丸を撃沈したケースに比べ、上村艦隊の場合リューリック乗組員を600名も救助したことを英国や米国の新聞が賞賛している。
東京朝日新聞明治三十七年八月二十二日(月)
ノーウイック撃沈 ノーウイックは浅瀬に乗り上げ半ば沈没するにいたる
戦場だより 4日目の今日,携行の糧食は食い尽くした
ノーウイック撃沈 高木千歳艦長報告 8月21日午後2時53分大本営着電
千歳、対馬は昨20日午後及び今21日午前に樺太コルサコフ港に於いて敵艦ノーウイックを砲撃し大損害を与え、ノーウイックは浅瀬に乗り上げ半ば沈没するにいたる。対馬は石炭庫を撃たれたが応急修理を加え戦闘航海に差し支えなくその他我に1名の死傷者無し。
解説:ノーウイック艦長は旅順艦隊の中で積極性に富む優れた艦長で、8月10日の黄海の海戦以後ノーウイックは、11日夕方膠州湾(中国山東半島)に入り12日早朝出港、我が監視を破って東支那海を横切り13日午前に大隈半島沖(鹿児島南端)に現れ、太平洋に廻って、18日択捉島で目撃され以後行方が解らなくなっていた。最後は浅瀬に乗り上げ乗員は退去した。
戦場だより ある兵士の便りより
夜半の進軍:午後8時、突然26日午前1時50分集合して攻撃を開始するとの命令に接し、てんでに米を磨ぎ、飯を炊く始末で、それが出来れば握り飯を作り、焼いて携帯食糧とする。その混雑振りは面白い位です。ひと寝入りしようとしても喧しくて眠れません。その内集合時間となる。
4日過ぎの食糧:集合地を出発してから4日目の今日,携行の糧食は食い尽くした。ロシア軍が残したメリケン粉を発見してこれをスイトンにして1個中隊で食し、飢えをしのいだ。
荒料理:その時非常に空腹を感じていたのでロシア騎兵が馬とともに戦死しているのを見つけロシアの赤なべを奪って馬の腿をナイフで切取り、畑でねぎを調達し荒料理をなべに一杯作り食い始めると空腹連中が来てたちまち食い尽くした。
東京朝日新聞明治三十七年八月二十三日(火)
伊国新聞と最近海戦 天は再びロシアに幸いを下さず、日本の制海権は確立された
ノーウイックを弔う ノーウイックのみは錨を上げ、連合艦隊に向かって抗戦し
伊国新聞と最近海戦
イタリーの新聞は殆ど皆その社説で我が海戦の勝利を祝している。トリビューナー紙より
天は再びロシアに幸いを下さずその海軍は又も大敗を重ね、日本の制海権は確立された。そしてバルチック艦隊が日本に到着する頃には,かって極東において威厳を示した要塞も既に陥落しているのみならず同艦隊は最早日本を威嚇する力を失っていると思われる。そのため同艦隊の派遣が果たして有効であるか疑問である。
ノーウイックを弔う 日本海軍の一将校
2月9日に於ける我が艦隊総攻撃の際、連合艦隊は「勝敗の決この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」との千載不朽の信号旗を掲げ、旗艦三笠の指揮の下に突進し、猛烈な砲撃を行った。旅順艦隊は、当時7隻の戦闘艦、13隻の巡洋艦等が港外の砲台の下に停泊していたが周到狼狽為す所を知らずといった状態であった。しかしただ1隻ノーウイックのみは落ち着いて錨を上げ、連合艦隊に向かって抗戦し、一度は水雷を発射する距離までに近づいて来た。これは艦長個人の精神力と技量以外の何ものでもない。この敬意を表すべき艦長の名前は海軍中佐フォンエッセンである。
解説:本紙8月22日の記事にノーウイックが連合艦隊の攻撃を受け浅瀬に乗り上げ、沈没した状況が記されている。
東京朝日新聞明治参七年八月二十四日(水)
旅順艦隊の最後は如何に 旅順にいるのは戦闘艦5隻、装甲巡洋艦1隻、巡洋艦1隻
捕虜現在数 リューリックの捕虜を加えると2千を越えている
旅順艦隊の最後は如何に
旅順艦隊最後の行動は出港か自爆のどちらになるのか国民の関心を集めているが最近ある筋に到着した情報によると敵は巧みに我が砲弾を、陸上砲台の射程内に避けつつも相変わらず時々刻々汽艇を使って港外の航路を掃海している。この事より推定するに矢張り出港するつもりがあるかとも思われる。しかし10日の海戦後旅順に残留しているのは戦闘艦5隻、装甲巡洋艦1隻、巡洋艦1隻であるが全て速力が出なくなっており出港したとしても結果は知れている。しかしチーフや青島方面に行くことは出来るので尚警戒は必要である。
捕虜現在数
本日15日現在、我が内地に収容している捕虜の数は
将校 53人、下士官 142人、兵 1,213人の総計1,408人である。但しこれにはリューリックの捕虜を加えていないのでこれを加えると2千を越えている。大佐が1名おり、第4シベリア狙撃兵連隊長で得利寺の戦いの捕虜である。
東京朝日新聞明治三十七年八月二十五日(木)
領事会議 事業の為渡来する日本人に対し便宜を与える為の施設や方法等を調査する
謁見随意 今後は随時謁見を許される
敵艦水雷に罹る 戦艦セバストポリは、機雷に接触し著しく右舷に傾き
旅順占領未完 市街には日本軍の砲弾がアラレの様に落下し家屋の完全なものは少なく
艦隊の健康 兵食の改良は当時の医務局長高木兼寛氏の進言で故川村純義伯により断行
領事会議 20日京城特派員発
来る9月3日韓国内に居るわが国の各領事を京城に招集し領事会議を開いて、韓国内の各地で事業の為渡来する日本人に対し便宜を与える為の施設や方法等を調査するものと思われる。
謁見随意 24日京城特派員発</b>
従来日本の大使の謁見は外務省に予め申請をした上で参内することとなっていたが今後は随時謁見を許されることとなった。
敵艦水雷に罹る 片岡第3艦隊司令長官報告</b> 23日午後3時45分着電
朝潮艦長松永少佐の報告によれば、今朝港外に出て我が軍を砲撃中であった敵の戦艦セバストポリは、午後1時に機雷に接触し著しく右舷に傾き、艦首を水中に没し、大型タグボートに曳かれ旅順港内に引き返した。
旅順占領未完 24日チーフ特派員発電
市街には日本軍の砲弾がアラレの様に落下し家屋の完全なものは少なく、港内には軍艦が5隻いるが4隻は使用不能のようで、大砲が備え付けられているのは2本煙突2本マストの1隻のみである。日本軍が猛進して来ないのは他砲台の側面射撃と埋没地雷に苦しめられているためであると言われている。
艦隊の健康(某海軍軍医談)
今から20年前、15年朝鮮事変の際に派遣された艦隊やその翌16年の遠洋航海における軍艦龍驤では、乗員の殆ど半数以上が脚気に悩まされ、戦闘どころか艦の運航さえも困難な情況であった。我が海軍の衛生が今日の様に進歩したのは明治17年に行われた兵食の改良の結果で、それは当時の医務局長高木兼寛(たかぎけんかん)氏の進言で海軍卿であった故川村純義伯により断行された。この時以来海軍では脚気が無くなるばかりか同時に他の諸病も大いに減少して今日開戦以来、脚気患者は僅かに7人のみである。
解説:脚気は陸海軍を問わず大問題であったが陸軍の森鴎外はウイルス説、海軍の高木兼寛は食事が原因と分かれたが、海軍ではこの新聞の様に兵食の改善で解決した。なお高木兼寛は現在の滋恵医大の創設者で、高岡町のホームページでは郷土の偉人として紹介されている。 http://www.town.takaoka.miyazaki.jp/
東京朝日新聞明治三十七年八月二十六日(金)
22日迄の旅順 教場溝の砲台は既に日本軍の為に破壊され火薬庫は21日焼かれた
遼陽の戦機 敵はますます多くの重砲を集め大決戦を試みようとしている
日露戦争と清国保全 米国国務長官ヘイ氏が列国に対して清国の独立は保護されるべき
22日迄の旅順 25日チーフ特派員発電
20日夜12時頃教場溝の砲台は既に日本軍の為に破壊され火薬庫は21日焼かれた。日本軍は今や教場溝付近の高地に居て、この高地と教場溝の間には別に防護工事は無いが東方4~5里には老母猪角の砲台が、また西方3~4里には白玉山の砲台があり、日本軍に向かって盛んに砲火を浴びせている。
解説:8月18日までに砲兵陣を展開し、翌19日早朝から攻城砲170門、野砲80門、海軍砲30門で砲撃し、翌20日も続行した後21日未明から突撃を開始した。山容が変わるほどの砲撃であったにもかかわらず要塞は堅固であり日本軍は各所で撃退され、第3軍は24日この攻撃を中止した。この6日間の強襲に参加した日本軍は総員5万765名。内死傷1万860名。実に凄惨な戦いで、ある連隊では数名を除き連隊長以下全員が戦死した。(参考文献:近代の戦争 人物往来社)
遼陽の戦機 24日営口特派員発電
遼陽の露兵退却説は営口に於いても頻りに伝えられているが事実ではない。信ずべき報道によれば敵はますます多くの重砲を集め大決戦を試みようとしている。わが軍も攻撃の準備は完全に終わっている様なので衝突の快報を聞くのは間もなくと思われる。
解説:ロシア軍はハルピン、奉天からの増援軍を得て兵力は13個師団20万人以上を集結した。これに対して日本軍は9個師団13万人であった。総攻撃は、旅順陥落を待つことなく、第1軍は8月28日より、第2軍、第4軍は26日より行う事とされ、ここに遼陽攻撃の火蓋が切って落とされた。(参考文献:近代の戦争 人物往来社)
日露戦争と清国保全 8月19日サンフランシスコ クロニクル掲載
米国国務長官ヘイ氏が列国に対して清国の独立は保護されるべきとの通達に答え、日本政府は、日露戦争の目的は満州における支那帝国の独立保全を図ることであると公然と答えたが、露国は現在占領している満州に関する条件を付けてこれを承認した。
しかし満州の大部分を日本軍が占領しつつある現在、同国が清国の領土を保全するという宣言に対し果たして忠実であるかどうかの疑いを惹起しつつある。
東京朝日新聞明治三十七年八月二十七日(土)
喜望峰給炭の禁止 英本国の許可を得なくて喜望峰植民地港湾に於いて給炭を禁止
敵の主力兵数 20万人まではいってないと思われる
大山元帥臨戦の理由 統率者として優れているためである
大隈伯と塩専売 今更塩の様な必需品に対して専売法を実施するのは言われ無き話
米船警戒を解く 太平洋汽船は25日、日本行き一切の荷物を積み込むことに改め
喜望峰給炭の禁止 26日ロンドンルーター社発
デーリーテレグラフのケープタウン通信によれば、英本国の許可を得なくて喜望峰植民地港湾に於いて給炭を禁止する命令が出された。
解説:バルチック艦隊の極東回航に際し喜望峰で給炭する事を英国が禁止した。
敵の主力兵数 25日北京特派員発電
各方面よりの情報を分析すると、正確と思われる露国の兵力は遼陽を中心とするもの15万人、奉天を中心とするもの3万人前後で多くても20万人まではいってないと思われる。列車で本国よりの援軍が若干到着しているのは事実である。
韓皇帝に進言 23日京城特派員発
林大使の臨時謁見許可と同時に萩原、国分両書記官と駐屯地軍参謀長は何時でも宮中に出入を許されることとなった。22日夜、上記4名は宮中に赴き各大臣と共に施政改革についての会議を行いその結果を宮内大臣が奏上したようである。
大山元帥臨戦の理由
ドイツのエン、リルテ紙は「得利寺の戦いの勝利に見られるように日本軍は完全に統一された作戦を行っていたが、在満州日本軍の司令官にわざわざ大山元帥が派遣された理由は、この戦いに見られるように、統率者として優れているためである」云々
解説:大山元帥は、出発を前にした山本海軍大臣との会話で「実は軍司令官がみな一方の雄ばかりで、他のものでは統制がとれません。総司令官はどうしてもこの大山でなければなりません。戦略や戦術については、児玉大将がおられるから大丈夫です。」と述べている。(参考文献:日露戦争 人物往来社)
大隈伯と塩専売
塩の専売は支那、インドや一部欧州で行われているが、たとえ戦時であるとはいえ、わが国において今更塩の様な必需品に対して専売法を実施するのは言われ無き話で英領インドの様な植民地における政策や支那の例を引き合いに出すのは根底より間違っている。
解説:本紙8月4日に関連記事
米船警戒を解く(太平洋航路)
日米航路に従事する二大汽船会社はウラジオ艦隊が東京湾付近に表れて以降、日本行きの貨物を拒否していたが、その内太平洋汽船は25日ニューヨーク発の満州号より日本行き一切の荷物を積み込むことに改め、また東西洋汽船も同様と思われる。
解説:本紙7月25日の記事に見られるようにウラジオ艦隊が日本近海に出現以来国際、国内貿易が停止状態となっていたが日米貿易がやっと本格的に再開された。
東京朝日新聞明治三十七年八月二十八日(日
日韓新協定 外国人等を招聘する場合には必ず日本の承認を得なければならない
ジアナの損傷 「ジアナ」は水線の上下に各1個所の損傷があり
露国世論の政府攻撃 政府が事の真相を知らしていない事を叱り
日韓新協定 25日京城特派員発
去る22日林大使が韓国朝廷当局者と協議したがこれは韓廷において将来第3国と条約を締結し、また外国人等を招聘する場合には必ず日本の承認を得なければならない旨の覚書を交換したと思われる。
ジアナの損傷 27日ロンドン特約通信員発電
サイゴンよりパリーへの電報によれば「ジアナ」は水線の上下に各1個所の損傷があり、また戦死者4名負傷者23名いる。
解説:8月10日黄海の海戦で敗れた旅順艦隊の巡洋艦で、はるばるサイゴンまで逃れてきたが国際法の中立港に関する規定により武装解除された。
露国世論の政府攻撃
6月11日のケルニッセ、ツアイラング新聞は日露戦争に関する露国の世論について、保守主義の新聞紙も近頃まで取っていた慎重冷静な態度を全く変え、政府が事の真相を知らしていない事を叱り、露国人民が全ての出来事に関与し、全ての事項に関し意見を述べる権利があり政府もそれを傾聴すべきであることを益々主張するようになっている。
東京朝日新聞明治三十七年八月二十九日(月)
東郷大将と某従僕 敵が撃ち出す巨弾は、着弾、三笠艦上の諸所に爆発した
軍楽隊員の奮闘 楽隊一組26人のうち残っていたのは僅かに10人であり
日進春日の射撃 我が2艦の放った巨弾はその砲台に達し石垣を砕き
東郷大将と某従僕
本月10日の開戦において、敵が旗艦三笠を目標として撃ち出す巨弾はいんいんごうごうと怒雷が空中に跋扈する(おおきな雷が方々に落雷している)ように着弾、三笠艦上の諸所に爆発した。この時我が長官は幕僚を従え収容として艦橋上に起立していたが一弾が直ぐ近くで爆発し、伊地知艦長、植田、小倉両参謀を傷つけた。長官の従僕(食事、着替え等身の回りの世話をする)某は同じく負傷し治療室に運ばれていたが、将軍を大切に思う熱心のあまり同僚である参謀長の従僕を招き、長官の司令塔内(厚い鋼鉄で囲まれた場所で艦橋同様指揮することが出来るようになっており、艦橋の下にある)に入る様伝言を依頼した。参謀長の従僕は快諾し、永田副官の前に言って再三再四切望し、副官遂にその熱誠に動かされ長官にお願いし、殆ど拉致するように司令塔内に移っていただいた。
解説:旅順艦隊を破った最後の戦いである黄海の海戦時の情況で、艦橋上の艦長伊地知大佐、参謀植田少佐等が負傷した。特に植田少佐は重傷であった。本紙8月15日(8月10日海戦死傷者)、8月18日(三笠艦上の死傷者)に関連記事がある。
軍楽隊員の奮闘
10日の海戦において旗艦三笠に乗組んでいる軍楽隊員の死傷者が多かったが、これは木村軍楽長が楽隊全員の希望を入れ司令長官に是非戦闘に従事したいと訴え、長官も遂にそれを受け入れ2月初旬以来信号助手として採用したことによる。10日の戦闘中も信号手の職務を果たし、戦い終わり演奏しようとした時、楽隊一組26人のうち残っていたのは僅かに10人でありその他は皆死傷していた。
日進春日の射撃 28日佐世保特派員発電
我が陸軍が除家村(じょかそん)に進軍するのを妨害している砲台があり、23日午前10時龍王塘(りゅうおうとう)西方の沖合いからこの砲台を攻撃した。今までは背面に向けていた砲身をこちらに向け盛んに発砲を始めたが照準が悪く一つも我が2艦に命中せず水柱を上げるだけであった。我が2艦の放った巨弾はその砲台に達し石垣を砕きまたその付近に落ちて爆発する様子が手に取るように見えた。約1時間の交戦で敵の砲台は沈黙し我が陸軍の行動に何らの支障がないことを認め2艦は引き揚げた。
解説:日進、春日はイタリー製の1等巡洋艦でアルゼンチンから購入したが主砲の仰角(上を向く角度)が大きく遠距離を射撃できる為陸上砲撃に威力を発揮した。
東京朝日新聞明治三十七年八月三十日(火)
艦隊出港又延期 バルチック艦隊の出港は再び延期され
主力増援に汲々 露国は新たに第2回の増派軍団を編成し之を奉天に集中
ジャンク談 17日より23日までは極めて激烈な戦闘があり
遼陽戦果未発表 わが軍の行動は既に着々と成功し右側部隊の如きは奉天に前進し
武装解除着手 上海に於ける露艦の2艦はいよいよ昨日をもって武装解除に着手
艦隊出港又延期 28日ベルリン特約通信員発電
バルチック艦隊の出港は再び延期され、そして今回は12月末までと限って延期したと云われる。海軍当局も今やいよいよ同艦隊が果たして極東に達し得るかどうか疑問に思うようになっている。
主力増援に汲々 同上
ベルリン ターゲ ブラット紙がパリーより入手した報道によれば露国は新たに第2回の増派軍団を編成し之を奉天に集中するといわれている。
ジャンク談 28日チーフ特派員発電
最近到着したジャンクの情報によれば、17日より23日までは極めて激烈な戦闘があり、19日には椅子山(いしざん 旅順港のすぐ北側の山)の北側で小口径の砲4門ある八号半台は破壊され露軍は退却した。18日、19日の両夜日本軍は大雨を冒して椅子山を攻撃したがこれを陥れるに到っていない。
25日の夜5~60発の砲弾が旅順市街に落ちた。日本軍は椅子山付近に居るが未だ椅子山を占領していない。
解説:本紙8月26日(22日までの旅順)に関連記事があるが、丁度この頃は第3軍(乃木大将)が多大な犠牲を払い第1回の旅順総攻撃に失敗した時期である。
遼陽戦果未発表
遼陽決戦に関する公報は発表されていないがわが軍の行動は既に着々と成功し右側部隊の如きは奉天に前進し遼陽の敵は退路を断たれる危機に陥りつつある。
解説:本紙8月26日(遼陽の戦機)に関連記事があるが遼陽総攻撃は、開始されたばかりで大本営発表等はまだ無い。
武装解除着手
上海に於ける露艦アスコルド及びグロブボイの2艦はいよいよ期限どおり昨日をもって武装解除に着手し、2日間を以って終了するはずとその筋へ電報があった。
解説:8月10日の黄海の海戦で敗れた旅順艦隊の2隻が中立港上海に逃げ込んでいたが国際法に従って、武装解除されることとなった。
東京朝日新聞明治三十七年八月三十一日(水)
敵帥の退却如何 クロパトキンは最後の大決戦をして雌雄を決するはずである
進歩党の京釜線官有論 その為京釜鉄道を買上げ全て国有とすることが望ましい
対韓意見 政府は先ず人心掌握するための方法を考え対韓政策を考えるべきである
敵帥の退却如何
有力な一将校の言によるとクロパトキンはなお遼陽に居り、我が軍が遼陽に肉薄してもハルピンや奉天にいわゆる予定の退却をすることなく、最後の大決戦をして雌雄を決するはずである。クロパトキンが皇帝に出した報告を見ると九連城(くれんじょう)の敗走を始め魔天嶺(まてんれ)、得利寺(とくりじ)、蓋平(がいへい)、大石橋(だいせききょう)等の敗走も皆決して敗走にあらず遼陽に日本軍を誘致して大決戦をする為である。
進歩党の京釜線官有論
進歩党の政務調査委員会は韓国鉄道の管理方法について大隈総理に次の報告した模様である。
現在韓国内には私鉄の京釜(けいふ)線と国有の京義(きょうぎ)鉄道があり、また義営(ぎえい)鉄道も建設する計画がある。日露戦争後東清(とうしん)鉄道(注:ロシアが満州に設けた鉄道)が手にはいると更にこれと接続する必要があり、その為京釜(けいふ)鉄道を買上げ全て国有とすることが望ましい。
解説:京釜(けいふ)線とは京城と釜山を結ぶ鉄道、京義(きょうぎ)線とは京城と北朝鮮北部の新義州を結ぶ鉄道、義営(ぎえい)線とは新義州と営口(遼東湾にある港)を結ぶ鉄道
対韓意見
今日まで我が国は韓国を知っているが未だ韓国国民を知らないようである。韓国は帝国の自衛上一日もこれを放っておけないと八方手を尽してきたが、未だ韓国国民の心を捉えていない。帝国政府は従来韓国国民を基礎とせず官吏を相手にしてきたが我が国の行動が常に彼等の感情を害して、排日思想を持つようになっている。政府は先ず人心掌握するための方法を考え国民を基礎とした対韓政策を考えるべきである。(大垣丈夫記)