1月1日
総督帰城 30日京城特派員発
寺内総督は30日午後7時、帰任した。
解説:寺内総督は、28日会議終了後に出発し、朝鮮の北端にある新義州に到着し、列車泊、翌29日新義州を視察の後、平壌に移動し、30日帰任すると言う日程を強行している。
朝鮮会社令 同上
30日、寺内総督は、勅裁を経て、官報号外を以って会社令及びその施行規則を公布した。本章は全文24条である。1月1日より施行される。これに依って朝鮮に設立される会社及び母国に本社を有し、朝鮮に支店等を設立する者は、全て総督の許可を要する事になった。
1月2日
寺内総督の訓示 31日平壌特派員発
寺内総督は、29日午後、新義州より当地着した。午後5時より主な官民を引見した後、一同を集め、道庁の裁判所、監獄等の事務について訓示を与え、更に外国宣教師等を別室に集めて懇談した。終わって質素な立食の饗応を行い、総督の発声で天皇陛下万歳を三唱し解散した。総督は一泊の後、30日朝7時、鎮南浦に赴き、視察を遂げ、午後1時再び当駅を通過し帰京した。(一部抜粋)
新年の景気 31日京城特派員発
朝鮮人側は、尚陰暦による者が多いので、平日と変わらないが、豊作と下賜金とに依り、一般に好景気で平穏である。日本人側は、取引盛んである。市中禁輸は尚一般に窮迫を告げ、銀行方面は前月に比し寧ろ緩慢である。
1月3日
朝鮮の新年 1日京城特派員発
京城:雪が降り、寒気が強い。昌徳宮に於いては午前7時より、総督官邸にては午前10時より、それぞれ遙拝式を挙げ、午前10時、李王は総督官邸に赴き、御真影を拝し奉られた。
平壌:午前10時より、道庁及び各学校に遙拝式があり、正午より官民名刺交換会があった。夜来の風雪が止まず隷下10度
鎮海湾:重砲兵大隊は午前8時、軍港では9時より拝賀式を挙げた。日鮮人の賀客は、織るがごとくで市況は活気があった。
解説:昌徳宮とは、李王の宮殿である。
総督の第2回視察 同上
総督は4日頃、更に他の方面の視察に向かう予定であり、その目的地は秘密である。
1月6日
寺内総督告示 5日京城特派員発
寺内総督は、5日午前11時より山縣政務長官、各部長官以下文武官百余名を総統官邸に招集して、告示を行い、正午新年宴会を開いた。
1月7日
朝鮮内務談(門司) 内国電報6日発
宇佐美朝鮮総督府内務部長官の談に曰く
現在各道長官は常に管内を巡視して、行政の精神を中心として訓示しており、郡守等も又これを人民に諭す様に努めている。その結果、村民の郡守を見る目が変わり、以前の様に、苛斂誅求の官吏ではない事を知る様になった。故に行政及び収税の成績とも次第に良好に向かいつつある。その為今後しばらくすれば、殖産勧業の実績も徐々に上がると思われる。今や両班達も実勢実益を重視する傾向にある。(一部抜粋)
解説:苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)とは税金や借金などを容赦なく厳しく取り立てることであるが、李王朝の問題点は、額に汗をかかない両班の存在と悪代官の様な郡守の存在であった。郡守の下に江戸時代の目明しの様な下級官吏がおり、お金を持っている農民が居ると嗅ぎ付け、奪う事が日常的に行われていた。内政改革の結果、その様な郡守が居なくなりつつある様である。
1月8日
寺内総督訓諭 7日仁川特派員発
寺内総督一行は、7日午前11時30分、港湾及び市中の視察を行い、府庁に於いて午餐の後、午後1時30分京城に帰任した。なお総督は主要な官民及び学校教師を引見し、次の意味の訓諭を行った。
㈠ 諸君は、公共の心を以って私利を求めることなく、又一時の利益を得ようとする様な事なく、着実に仁川及び朝鮮の発達に尽くされんことを望む。
㈡ 児童教育は、華美に流れず、実務的教育をする必要があるが、特に朝鮮児童の教育は、空理空論を避け、成るべく実利実益を基礎として教育する必要がある。
(一部抜粋)
1月9日
平壌地方の砂金 8日平壌特派員発
当地勧業銀行支店に於いて、昨年中に買い入れた砂金の額は、475万貫でこの価額は181万6,297円であり、前年の倍額である。
民団議員の選挙 同上
来る31日と決定した。有権者数は778名
1月10日
水道管営説 9日京城特派員発
当地の英国水道会社の手より渋沢男爵を通じて、水道工事を2百万円で買い上げ、官営とするとの説がある。
解説:渋沢栄一は、明治33年男爵となっている。1909年70才となり、実業界からの引退を宣言し、第1銀行と東京貯蓄銀行を除く、61の役員を止めている。
古刹保存法 同上
総督は、朝鮮に於ける古刹保存法を設けようとしている。
解説:李王朝の身分制度は、両班、中人、常人、賤人となっており、僧侶は賤人の階級であり、仏教は没落していた。
1月11日
朝鮮会社令発表 内国電報10日発
朝鮮会社令が発表され、産業界を驚愕させた全文が10日の官報に掲載された。その重要は項目を列挙すれば、会社の設立及び朝鮮に支店を設置するものは、全て総督府の許可を要する事とし、更に総督府は会社の禁止、停止若しくは解散に関する絶対、無限の権力を有する事とした。そして制裁は猛烈なもので、5年の懲役、5千円の罰金を課す事とした。民間実業家及び政治家の非難は固より、政府部内に於いても攻撃の声が少なくない。(一部抜粋)
解説:総統の朝鮮を守ろうとする強い決意の表れと思われる。
朝鮮海関工事 同上
政府は、朝鮮に於ける貿易の増進に伴い、各開港場の水陸連絡設備の完成を期す為に、総経費8,271,829円を計上した。先ず来年度、902,845円を釜山に、533,394円を仁川に、325,000円を鎮南浦に62,960円を平壌の各税関工事に支出する事を決定した。
1月12日
会計事務整頓 11日京城特派員発
併合後、総督府は、従来、各部で分掌していた会計事務を、全て会計局に集中させた結果、一時的には事務の渋滞を来したが、最近漸く整理がついた。且、先日来、開催していた各道の会計主任会議に依って、益々中央と地方との事情が疎通し、好結果を得て終了し、山縣総監は一同に職務上事務の敏捷を守るべき旨を訓示した。
恩賜公債交付 同上
貴族、両班に下付された恩賜公債證書は、いよいよ12日を以って全部交付された。
李王殿下上京期 同上
李王殿下は、いよいよ3月中旬に、内地観光の途に就く予定であり、李完用、趙重應氏等が随行することになっている。
1月13日
水道鉄管敷設 12日清津特派員発
羅北川の上流、約3里の地点から水道鉄管を敷設し、羅南の兵営に給水し、残余は市民の使用に供する為に、本年4月頃起工する予定である。
1月14日
朝鮮官制改正の議 内国電報13日発
▽総務長官の名称
朝鮮総督府の官制中に総務長官と言う名称がある。各部長の上位にあるような嫌いがあり、つり合い上、不都合なので、秘書官である実質に適応する名称に変更すべきとの議があると聞く
1月14日
寺内総督の治績 14日京城特派員発
総督の施政方針の訓示には、至る所に、唯実利実益を図り、空理空論を排すべしと言うに留まり、如何に実利実益を図るべきかに就いては、未だ明瞭な説明が与えられていない。現在は、先日御用始めの訓示にあった様に総督部内の調和を図るに忙しそうである。(一部抜粋)
1月16日
林政未だ定まらず 14日京城特派員発
統監府に於いて、20年計画の造林案を決定したかの様に伝えられているが、事実ではない。朝鮮の林野は調査のみで10年を要し、先ず全国の林野の所有者を調査、確定し、その後同じく官有林野の内、保存すべきものとそうでないものとを区別し、その後初めて植え付けに適する樹木を調査し、配置しなければならない。(一部抜粋)
鉱業不許可 同上
従来、内地人の鉱業出願者は唯、鉱業権のみを取って、実際の事業に着手せず、確実な企業家及び朝鮮人の企業家の妨害となっている。その為、総督府に於いては、当分、全ての許可を与えない方針であり、出願は総務部に行詰まっている。農商工部から上申中の鉱業権の取消し及び不許可の分のみは速やかに解決し始めている。
寺内総督着発 15日釜山特派員発
寺内総督が15日午後5時来着、府庁に入り文武官及び各団体の主なものに接見した。警戒が非常に厳重であった。6時半より宴会を催し、同夜弘済丸にて下関に向け出発した。
1月17日
漢城銀行一躍増資 16日京城特派員発
朝鮮人の株主のみの漢城銀行は、15日の総会にて、従来30万円であった資本金を一躍、3百萬円に増資する事を決議し、16日の総督府官報号外を以って、同銀行に関する総督府令を発表した。
1月18日
ペスト警戒 17日平壌特派員発
16日草河口発鶏冠山着の列車の中で、支那人1名が疑似ペストに罹り死亡した為、同駅にて検疫を開始した。鴨緑江沿岸及び黄海道沿いの海岸の様に支那人及びジャンクの出入が激しい地に於いては、この際特に防疫に努めるべき様厳達した。(一部抜粋)
解説:鶏冠山は、旅順要塞の一部であり、現在も東鶏冠山に要塞壁の一部が残っている。
1月19日
ペスト予防 18日京城特派員発
ペスト予防のために、朝鮮に来る支那人は全て健康診断を行い、不健康者は一切上陸を拒否し、健康者も3日間、一定の場所に収容して、後入国させるよう総督府より通知した。又外国人、日本人も同様にて当局は、新義州に収容所に充てる家屋を買い上げ、準備に多忙を極めている。
実業学校長会議 同上
18日より実業学校長会議を開き、総督の諮問案に付、会議した。
平壌の電灯会社 17日平壌特派員発
当地の電灯会社は、その筋の認可をへて、宮川五郎三郎氏が創立委員長となり、事務所を設け、創立に着手した。
解説:宮川五郎三郎氏なる人物は実業家の様であり、小林よしのりの「大東亜論総選挙」の中に遠山満、板垣退助等の名が出てくるが、宮川五郎三郎の名もあった。
1月20日
隔離所建設準備 19日仁川特派員発
満州のペストが猖獗を加えている為に、総督府は新義州に隔離所を設ける予定であるが、更に仁川にも隔離所を設ける予定である。満州を経過した船客、荷物を収容し、3日乃至5日を経て、異常がない事を認めない限り、一切市中に入ることを許さない。その為に、現在隔離所を建設する土地を選定中である。
1月21日
渋沢男の憤慨(発起人を取消す) 19日京城特派員発
渋沢男爵は、今回発表された会社令の不当な事に憤慨し、前に浅野氏と共に設立に賛成を表した朝鮮製麻会社の在京城発起人の許へ賛成を取消しに来たようである。
法律学校指定 同上
先に政令第7号で帝国大学専門学校又は総督の指定した学校を卒業した朝鮮人は、文官高等官試験委員の銓衡をへて、特にこれを朝鮮総督府判事又は検事に任用する事ができると規定したが、19日総督府告示を以って、次の学校を指定した。
私立早稲田大学、慶応大学、関西、京都法政、明治、中央、法政諸大学
1月22日
会社令弁明 20日京城特派員発
20日、総督府より会社令に対する弁明書が出された。その要旨は、寺内総督の本旨は朝鮮に健全な事業の経営を奨励する事であり、確実な会社の設立は固より歓迎する所である。しかるに今後、年々朝鮮人の手に入る恩賜公債利子150万円を見込んで、且朝鮮人の無知に乗じ、内地人が詐欺的甘言を弄し、無暗に会社を設立しようとするのは明らかである。総督はこれを傍観するには忍びず、今回の訓令を発布した所以である。
解説:この会社令に対し、昨日の記事で渋沢男爵は怒って、会社設立の発起人になる事を取消している。
1月23日
検疫規則発布 22日京城特派員発
21日、総督府政令第1号を以って、開港検疫に関する規定が発表された。その内容は、ペスト流行地よりの船舶は、必要により停船を命じ、消毒を施し、10日を越えない期間にて、船客、乗組員を停留する事、又物品の種類を限り輸入を禁止する事等5ヶ条であり、これを拒むものは5百円以下の罰金に処せられる筈である。(一部抜粋)
防疫励行 同上
総督府は、取敢えず、ペスト予防費5万円を支出する事を決定した。若し安東県に襲来したならば、大犠牲を払う覚悟で、平壌、新義州間の汽車の運転を中止するという非常手段を採る予定である。現在新義州には、検疫留置中の西洋人両3名おり、盛んに苦情を申し立てている由であるが、この際寸毫の仮借なく規則を励行する様である。
1月24日
防疫委員部設置 23日京城特派員発
満州ペスト予防の為、総督府に於いて防疫委員部を置き、又明石警務総長は、自ら予防事務督励の為、23日新義州に出張する。同所に新たに憲兵20名を増加した。
1月26日
東拓移民実行 内国電報 25日発
東拓では、以前から土地の整理に着手し、170万9千筆の整理を遂げたので、いよいよ移民の募集を始め、今回の募集に対し、総計1,159戸の希望申込を得た。依ってその内より比較的適当と思われる、団体申込に係る23戸と単独申込に係る240戸、総人員1,159名に承諾を与えた。既にそれぞれの移住地を整えて、移住者が来るのを待っているが、本月以後3月中旬には全部移住させる予定である。24日東上した林東拓理事が語った。
1月28日
賊徒包囲 26日京城特派員発
黄海道の賊徒を、同道の西端に突出する半島にある九月山に追い込み、2個連隊を以って包囲している。巨魁は、最早、袋の鼠同様の窮地に陥っているが、巧みに山頂に隠れ、未だ逮捕に至っていない。昨年11月より現在までに、逮捕又は罰した賊徒は82名、我が守備隊の死傷34名に及んでいる。
ペスト予防 27日仁川特派員発
満州のペストが益々、蔓延している為、満州から来た船舶及び一切の支那ジャンクに対し停船を命じ、荷客を隔離所に収容して検疫を行いつつある。その外、26日以降、支那苦力の入国を完全に禁止した。尚税関では防疫事務を拡張し、4万円の予算で
(1)新たに数百名を容れる隔離所を設置中で、来月3日竣工
(2)流行地域より入港する船舶に対し、鼠取りを行う為、殺鼠剤の注文をし
(3)防疫事務員30名、医員3名の増加を決めた。
1月30日
満州境の防疫 28日京城特派員発
27日、新義州より帰来した明石警務総長は、鴨緑江の龍厳浦より上流ハントウに至る哨戒線を張り、8百名の朝鮮人補助員を使役して、日夜厳重な監視をし、一人たりとも警戒線を横断させず、朝鮮に入り込む者は、全て新義州の1カ所に於いて、検疫と5日間の留置受けさせることとし、間島方面にも、緩急に応じて、豆満江沿岸に於いて、同様な手段を採る計画で,如何なる犠牲を払ってもこの方面からは決して伝搬させない確信があると言明した。
満州食糧品禁止 同上
度支部は、各税関長にペスト予防訓令を廃し、満州より来る大小豆、玉ねぎ、その他食糧品の輸入を禁止すべき旨訓令した。
文禄年間の記念物である京畿道高陽郡の碧蹄関が非常に頽廃しているので、同郡守が発起人となり、保存会を設立した。
解説:碧蹄関の戦いとは、2万の明軍を2万の小早川隆景が破った戦いで文禄2年(1593年)に起こった。
1月31日
玄界灘の風浪 29日釜山特派員発
関釜間の波浪が高く、壱岐対馬からの船は当港に停泊しているが、梅が丸は定時に来着した。30日は、下関からの船は1隻も来港しないと思われる。
民団議員選挙 同上
当地の民団議員選挙の運動は、非常に激烈である。
解説:民団とは、どうもその地域に居住する日本人で議会の様なものを作り、政府への陳情や住民の生活向上を図っていた様である。