明治37年9月

主要記事

期日 日本関係 期日 露国関係 期日 英米関係 期日 その他
9月4日 海底電線全通 9月1日 遼陽大決戦開始  9月22日 英国通信員の言 9月3日 佛国インドシナに軍隊を派遣
9月8日 祝勝 9月2日 遼陽大勝後聞 9月26日 日本戦勝の理由 9月5日 遼陽戦報と英国
9月9日 紡績業の大勢 9月3日 我が軍の総攻撃 9月28日 対露給炭新約 9月7日 遼陽戦勝の結果
9月9日 模範的軍人故橘少佐 9月5日 占領公報     9月7日 上海外人の義挙
9月10日 佐世保の衛生 9月22日 旅順攻略開始     9月20日 日露戦争の前途如何
9月13日 遊就館の新陳列品 9月25日 19日以後の旅順      9月30日 怪しき独船
    9月27日 敵の第2軍司令官        
    9月29日 最近総攻撃の成績        
    9月30日 第2敵帥の評判         

世界情勢

東京朝日新聞明治三十七年九月一日(木)

ジャンク談 高家屯に居た支那人の情報によれば、日々激戦が継続中であり

遼陽大会戦 日本軍は遼陽に向けて全ての戦線において進行しており

遼陽大決戦開始 我が北進諸部隊は直ちに遼陽の正面を圧迫し敵の主力に決戦を挑んだ

ジャンク談 31日チーフ特派員発電

28日午後老鉄山(ろうてつざん 旅順港西方の山)の北にある高家屯(こうかとん)に居た支那人の情報によれば、日々激戦が継続中であり、26日夜12時より雨が降っていたにも関わらず太平街(たいへいがい)の東北にある5号、6号砲台の露兵と八里庄(はちりしょう)の日本軍との間に朝まで猛烈な砲戦が行われた。日本軍は前進してこないが露兵の死体が多く自分はこの運搬に20日間使役されていた。

遼陽大会戦(敵方公報) 31日ロンドン ルーター社発電

昨日正午付の露国満州軍参謀長サハロフ中将の報告によれば日本軍は遼陽に向けて全ての戦線において進行しており、そしてその攻撃の主力は露軍の中央及び右翼方面で、露軍の損害はこの付近に集中しており、重大な損害を受けつつある。日本軍は夜を徹して露軍陣地に対する着弾距離内に多数の砲兵を配置している。今朝9時ごろ日本軍は既に露軍の中央部隊方面に現れた。

遼陽大決戦開始 

ある筋からの情報によれば去る28日鞍山店(あんざんてん)より沙河鎮(さかちん)を経て敵を追撃しつつ前進している我が北進諸部隊は直ちに遼陽の正面を圧迫し敵の主力に決戦を挑んだが敵はこれに応じざるを得なくなり、既に去る30日大規模な戦闘が開始されたようである。別電のルーター電もその情報を伝えている。

解説:第1軍(黒木大将)は東側から攻め、その主力はロシア側の東方に回り背後を攻撃しようとしていた。第2軍(奥大将)と第4軍(野津大将)は南から遼陽に迫っていた。露軍は鞍山站(あんざんたん)という低い山脈の主峰に第1防御線を首山堡(しゅざんほ)、北大山(ほくたいざん)の丘陵に第2防御線を引いていた。露軍は鞍山站(あんざんたん)を棄て、首山堡(しゅざんほ)、北大山(ほくたいざん)の丘陵地帯に10万の兵を集め待ち構えており、日本軍は非常な苦戦を強いられた。31日第2軍及び第4軍は各地で白兵戦を展開したが首山堡(しゅざんほ)を抜く事が出来なかった。「遼陽城東夜はふけて」で有名な橘大隊長の戦死はこの時の戦闘である。(参考文献 近代の戦争 人物往来社)

 

東京朝日新聞明治三十七年九月二日(金)

遼陽対戦 左翼軍の主力は30日払暁より攻撃を開始し

遼陽大勝後聞 遼陽の敵は昨1日午前8時戦闘線内の全兵力を挙げて総退却を始め

海軍進級 任海軍中佐 秋山 眞之

 

遼陽対戦 91日大本営

左翼軍の主力は30日払暁より攻撃を開始し、午前11時頃に至り、首山堡(しゅざんほ)西方高地に居る敵に向かい攻撃を開始した。この方面の敵は盛んに機関砲を以って射撃し軍はその全力を挙げてこれを攻撃したが、成果を上げることが出来ず午後4時半となった。ここで軍は予備の1兵団をその左翼に増加した。

各方面の敵の陣地は堅固に構成されており、その副防御は容易に我が歩兵の接近を許さず、午後7時過ぎになっても尚攻撃を継続した。左翼軍の一部は首山堡(しゅざんほ)南方高地の敵に向かって夜襲を行う等、彼我激烈な戦闘を交えつつ31日朝になっても尚引き続き激戦が行われ、未だ戦機の発展を見るに到っていない。

遼陽大勝後聞

遼陽の敵は昨1日午前8時戦闘線内の全兵力を挙げて総退却を始め、我が軍は全力を以って総追撃に移っていると思われる。

解説:91日第1軍(黒木大将)が敵の退路を断つ構えに出た為、クロパトキンは全軍の配置を変更し、首山堡(しゅざんほ)の堅陣を捨て後方の堡塁陣に移し、戦線を縮小すると同時に一部兵力を第1軍に向かわせた。第2軍と第4軍は、退却したロシア軍を追って堡塁陣を猛烈に攻めたてた。(参考文献 近代の戦争 人物往来社)

海軍進級91日)

任海軍少将 海軍大佐 加藤友三郎

任海軍中佐 海軍少佐 秋山 眞之

 

東京朝日新聞明治三十七年九月三日(土)

我が軍の総攻撃 敵は我の猛烈果敢な攻撃に堪えず1日早朝から遼陽方面に退却

遼陽占領 遂に遼陽を占領したと信ずべき報道がただ今本社に届いた

佛国インドシナに軍隊を派遣 佛国軍隊司令官は6千名の兵士を派遣するよう本国に要請

遼陽占領を祝う夜景 全都は悉く電気、ガス、提灯の火にかがやき素晴らしい景観

我が軍の総攻撃 9月2日午前零時45分大本営着電

敵は我の猛烈果敢な攻撃に堪えず1日早朝から遼陽方面に退却し、左翼軍一部及び中央軍は猛烈に追撃中である。敵は太子河(遼陽の北を通り、東を南下する川)の右側に撤退しようとして遼陽付近に大混乱が起きつつある。

右翼軍は1日午前11時黒英台の敵を攻撃中

左翼軍の主力は2日早朝より更に敵を太子河に圧迫しようとしている。

29日以来の我が軍における損害の詳細は不明であるがおおむね1万内外と思われる。

遼陽占領 遂に遼陽を占領したと信ずべき報道がただ今本社に届いた

公報によると敵はなお遼陽に兵力を集中し、本格的に設けられた陣地に逃げ込み、最後の抵抗を敢えてすると思われていたが、昨夜(1日)夜半より全くこの企図を放棄し壊走の状態に陥り、その機に乗じて我が諸軍は急激な攻撃を太子河方面で行い、非常に大なる損害を敵に与えて殆ど壊滅させ、遂に遼陽を占領したと信ずべき報道がただ今本社に届いた。

佛国インドシナに軍隊を派遣 6月6日パリー発

佛領インドシナの佛国軍隊司令官は6千名の兵士を派遣するよう本国に要請したが本国政府は直ちにこれを承諾し、軍隊の一部は既にマルセーユ港を出発した。これは目下暴威を奮いつつある反乱を鎮圧するためのもので必要な場合、さらに兵員を増派する計画があると言われている。

解説:仏領インドシナはベトナム、カンボジャ、ラオスの3カ国で構成され、フランスは1850年頃からベトナムに進出し1887年にはハノイに総督府を置いて支配していた。

遼陽占領を祝う夜景 (火の都と化した夜の東京)

遼陽の戦闘に於いて我が軍が大勝利を博したため、市民は皆が競って祝意を表したが夜に入り更に一段と華やかさを加え、全都は悉く電気、ガス、提灯の火にかがやき素晴らしい景観となっている。

東京朝日新聞明治三十七年九月四日(日)

平壌の軍用土地収用 軍用の目的で青海門付近より大同河の間の土地を収用

海底電線全通 長崎と釜山間の電信は2日午後2時より復旧した

遼陽全勝 中央及び左翼軍前面の敵は太子河右側に退却を続行し

祝勝費の節約 祝勝会の費用の幾分かを割いて、兵士の為に使っていただければ

平壌の軍用土地収用 1日平壌特派員発

今回我が駐屯軍は軍用の目的で青海門付近より大同河の間の土地を収用し既に木の杭を建て、軍令を施工することを領事館より告示した。

海底電線全通(長崎)

不通であった長崎と釜山間の電信は2日午後2時より復旧した。

解説:100年前には既に海底電線が使用されていたが、日本における最初の海底電線は明治4年長崎~ウラジオストック間にデンマークの会社によって引かれていた。ニュヨーク~ヨーロッパ間は既に大西洋海底電線が、ヨーロッパ~シベリア間はシベリア横断電信線があったため大久保利通はニューヨークから東京あてに電報を打ったが僅か5時間で長崎に届いていた。(大成建設ホームページより

http://www.taisei.co.jp/bookfilm/hajimete/html/hajimete-communi.htm

遼陽全勝(全軍太子河を渡らんとする) 9月2日夜半大本営着電

中央及び左翼軍前面の敵は太子河右側に退却を続行し、その一部は遼陽南方より西北に亘る工事線や北方高地を占領し、これに対して両軍は攻撃を続行しており、明朝までに太子河右側に到達する事が出来ると思われる。

右翼軍は西方の標高131の高地にある敵を攻撃し今朝この高地の一部を占領したがその後の戦況は不明である。そして右翼の石炭坑方面では敵兵が集合している様である。

祝勝費の節約(本多大尉実戦余談)

我ら将校には不十分ながら追送品(家族等からの贈物)の便宜があり、日常不便を感じる程度もさほど無いがそれに引き換え兵士にはそれが無い為、いかに不便、不自由を忍んでいるかは到底内地人の想像も及ばない所である。

第1兵士が最も不自由に感じていることは筆、紙の欠乏である。即ち郷里の老父に音信を伝えようとしてもできない。

また南山占領前後は暫くの間全く煙草が欠乏し、通常酒保(軍隊の売店)で販売する1箱12銭の「ピンヘット」も全く絶えて将校、下士官、兵を問わず煙草に飢えていない者は居なかった。

併し内地に帰ってみると旅順がまだ陥落していないのにその祝勝会の準備が行われており、これらは決して無駄ではないが、戦地に於ける兵士の困苦、不自由は到底口舌に尽しがたい事を思うと、祝勝会の費用の幾分かを割いて、兵士の為に使っていただければ兵士の喜びはどんなであろうかと思う。

 

東京朝日新聞明治三十七年九月五日(月)

遼陽戦報と英国 当地の各新聞は一斉に日本軍の遼陽に於ける戦勝を伝え

占領公報 遼陽は全く我が軍のものとなった

遼陽戦報と英国 3日ロンドン特約通信員発

当地の各新聞は一斉に日本軍の遼陽に於ける戦勝を伝え、この戦いは全世界に深甚な感動を与え、大成功であったと賞賛し、クロパトキン将軍が最後に敗北するのは確実であると述べている。

調停の噂が早くも伝えられるがその理由は露国が独力では到底太平洋沿岸に勢力を持てないことが明らかになったからだと思われる。

占領公報

9月3日より4日における夜間及び4日朝に於ける戦闘で遼陽は全く我が軍のものとなった。

太子河右岸(太子河については本紙9月3日記事を参照)の状況はその後未だに正確な情報はないが我が軍の死傷は多大であるが未だ詳細は不明で調査中である。

解説:9月3日夜、クロパトキンは攻撃を中止し退却を始めた。引き続き4日午前1時日本軍はついに遼陽城門に突入した。しかし日本軍はこの8日間の戦闘で武器、弾薬を使い果たしていたため、逃げる敵を追撃し、捕捉殲滅するだけの余力が最早無かった。

この戦闘に参加した露軍は22万5千人に対して日本側は13万5千人であった。露軍の死傷1万6千人に対して日本側は戦死5千500人、戦傷1万8千人の合計2万3千人の損害を出した。(参考文献 近代の戦争 人物往来社)

 

東京朝日新聞明治三十七年九月六日(火)

敵帥の退却報告 露軍は後衛の保持していた陣地まで引き揚げた

本年の豊作 特に米については5千万石の収穫が予想されている

日韓協約 去る22日、日韓両国政府代表者は次の協定に調印した

敵帥の退却報告

露都発ルーター電によればクロパトキン将軍より93日付で次の報告があったと言われている。

昨夜(2日夜)敵は我が陣地を攻撃し、その大部分を奪取した。同陣地を保持していた露軍は後衛の保持していた陣地まで引き揚げた。

西シベリア第1軍団は最近5日間で多大の損害を蒙り、さらに優勢な敵のためにその側面を衝かれる恐れがあるため同夜、若干キロメートル西方へ退却した。

形勢がこの様であるので本職は我が軍に対し遼陽を撤去して北方へ退去せよと命令した。

本年の豊作

我が国は目下世界の最強国を相手にして連戦連勝しているが、内地の経済界においても非常に幸運が続いている。我が国は未だ尚農業国であり、農作の出来不出来が経済界に大いに関係があるが、昨年以来農産物は何れの種類も豊作で、特に米については昨年、近来稀に見る豊作であったが今年はそれ以上の5千万石の収穫が予想されている。

日韓協約

去る22日、日韓両国政府代表者は次の協定に調印した。

1 韓国政府は日本政府の推薦する日本人1名を財政顧問として招聘し財務に関する事項は全てその意見を伺い施工すること。

2 韓国政府は日本政府の推薦する外国人1名を外交顧問として招聘し外交に関する用務は全てその意見を伺い施工すること。

3 韓国政府は外国との条約締結はその他重要な外交案件、即ち外国人に対する特権の譲渡や契約等の処理に関しては予め日本政府と協議すること

解説:本紙の過去の記事を見るとおり、韓国朝廷に対して各種要求を突きつけているが、本紙8月31日の記事にある「対韓意見」のように人心掌握をもっと考えるべきとする意見もあった。

 

東京朝日新聞明治三十七年九月七日(水)

遼陽戦勝の結果 華々しい遼陽の勝利は1904年の戦争における勝敗を決定付ける

日韓協約と進歩党 少なくとも外交、財政については主権の行使をわが国に一任

上海外人の義挙 上海在住の外国人諸氏が中立義捐金募集会を組織した

遼陽戦勝の結果 5日ロンドン特約通信員発

日本軍は、この作戦では当初予定した大きな獲物の全てを取る事は無かったが、華々しい遼陽の勝利は1904年の戦争における勝敗を決定付けるものとして一般的に認められている。また露都からの報道を見ると全てが遼陽の勝敗がロシア人の眼をはっきりと覚まさせたと述べている。

日韓協約と進歩党

進歩党の大石正巳氏は今回の日韓議定書について、そもそも一国が完全に保護国の責任を果たそうとすれば被保護国の主権を全て移すか少なくとも外交、財政については主権の行使をわが国に一任させねばならない。しかるに今回、顧問の意見を聞き施工するとあるがお互いに意見の一致をしない場合、採用するもしないも相手の自由であり、顧問の価値はなくなると述べた。

上海外人の義挙

上海在住の外国人諸氏が中立義捐金募集会を組織した。会長は大北電信会社支店長アイベルナ氏で既に1万2千400円を募金し、それを二分して半分をロシアに半分を日本の軍人遺族救護会に送り、それを分配するよう依頼してきた。

解説:本紙9月4日に関連記事があるが大北電信会社とは、デンマークのグレート・ノーザン電信会社という会社で、明治維新の7年前、1861年からすでにシベリア横断電信線の建設を始めており、10年後の1871年にはウラジオストックに達していた。そして明治4年に長崎・上海間、引き続き長崎・ウラジオストックを結ぶ海底電線を敷設した。

 

東京朝日新聞明治三十七年九月八日(木)

露国主戦党の叫喚 死に至るまでも戦いを継続する

祝勝 横須賀町民6千名が本日午前11時若松町海岸に集合し、国旗行列を行い

日韓協約と英国新聞これは日本の成功に伴う結果であり、避けることのできない事である

露国主戦党の叫喚 6日ロンドン特約通信員発

露国の主戦党(主戦論者)は叫喚し始めている。その主張は死に至るまでも戦いを継続するという事である。

祝勝(7日横須賀)

横須賀町民6千名が本日午前11時若松町海岸に集合し、国旗行列を行い、要塞司令部から海兵団、鎮守府、機関学校等を訪れた後再び若松町の海岸に戻り2時頃解散した。

解説:東京は日比谷公園で集会を行う等全国各地で遼陽占領の祝勝会が行われている。

日韓協約と英国新聞

日韓協約に関しスタンダード新聞の論旨は次の様であった。

日本は戦争の終局前に於いて既にその戦争より生ずる若干の果実を収穫し始めており、同協約は韓国を日本の属邦と認めざるを得ない事を示している。韓国内の自治権は同協約の規定と抵触しない限り認められると雖も同国は日本の属国になったもので、その外交及び商業政策は今後東京に於いて決められる。これは日本の成功に伴う結果であり、避けることのできない事である。

 

東京朝日新聞明治三十七年九月九日(金)

英国の新聞賛評 日本は、当然一挙に一大強国と認められるべき事を証明した

紡績業の大勢 現在はボンベイ綿(インド)90俵に対して支那綿50俵を使用しており

模範的軍人故橘少佐 橘少佐は恰も陸軍に於ける広瀬中佐である

英国の新聞賛評 8日ロンドン ルーター社発

デイリーテレグラフは、日本軍の勝利は古来各国民が兵力を以って成し遂げた最も優れた功績の一つで、長い歴史を有する東洋の歴史上にかってない事である。日本は、当然一挙に一大強国と認められるべき事を証明した。

紡績業の大勢

元来紡績業は英国特有であるかのような観があったが、近来に至り欧州大陸諸国をはじめインド、アメリカで紡績業が盛んとなり、原綿が不足してしまった。そのため各国とも自国の植民地で原綿を試作する努力を始めている。しかし幸いな事にわが国では支那に於ける綿花の産出が増加し、20年前、支那綿はゼロであったが現在はボンベイ綿(インド)90俵に対して支那綿50俵を使用しており、支那綿は次第に増加の傾向にある。わが国の事業者は将来に大いに希望を持っていると思われる。

模範的軍人故橘少佐

歩兵少佐橘周太(40才)は、軍人社会において特に優れた教育家であり、前職は名古屋幼年学校の校長であったが、出征後先月10日戦地に於いて某大隊長となり、同31日遼陽方面の激戦に参加して名誉の戦死を遂げた。かの軍神と称えられる広瀬海軍中佐はその最後が勇壮であったためばかりでなく平素から賛美される点が多かった。この橘少佐もまた平生の性行が真に耽美すべき点が多く恰も陸軍に於ける広瀬中佐であると思う。

解説:本紙82日の記事に首山堡(しゅざんほ)における激戦の模様が書かれているがこの白兵戦で橘大隊長は戦死した。当時有名となった「遼陽城頭夜は更けて・・・・」の歌は橘大隊長の戦死を歌ったものである。

http://www.chijiwa.ne.jp/yaboo/siseki/tachibana_syuta/syuta_histry.html(橘中佐紹介ホームページ)

 

東京朝日新聞明治三十七年九月十日(土)

バルチック艦隊出発時期 14日極東に向け出港する事に決定したと思われる

旅順艦隊の新司令官 バーヤン艦長ウエーレンソ大佐は旅順艦隊司令官に任命された

佐世保の衛生 佐世保には上水は無論のこと下水も無く、海軍省が工事をする事となった

バルチック艦隊出発時期 (ある筋からの情報)

セントピータースブルグよりドイツ新聞ロカルアンツアイゲルに届いた報告によればバルチック艦隊は9月10日クロンシュタット港よりリバウに行き14日極東に向け出港する事に決定したと思われる。そして参加艦艇は40隻であり、その中には敷設船や輸送船も含まれている。

旅順艦隊の新司令官

敵巡洋艦バーヤン艦長ウエーレンソ大佐は、ウフトムスキー提督に代わり旅順艦隊司令官に任命された。過去十数回の旅順口外の海戦において常に陣頭に立って敵ながら勇敢であり、見事な行動をしたのはバーヤン、ノーウイック及びアスコルドの諸艦であった。ウエーレンソ大佐は海軍大佐に昇任後3年も経過せず少将に昇任し、旅順艦隊の運命を託されたが、勇敢な彼はその知遇に感激し、大胆な行動を取る事も考えられ我が艦隊は好敵手を迎えた事となる。

佐世保の衛生

佐世保には上水は無論のこと下水も無く、さりとて市にはこの工事を行う力が無い為今回特に、海軍省が工事をする事となった。佐世保海軍病院長軍医総監戸塚海氏を主として市長、警察署長その他で委員会を作り工事の順序、規模等を調整することとなっている。

 

明治三十七年九月十一日(日)

ジアナの挙動 露国巡洋艦ジアナは未だに武装を解いていない

奉天以北か 露軍は現時点で、奉天以北に兵力を集中しようとしている形跡がある

遼陽の我が死傷者の概数 未だ発表がないが1万6千名になると思われる

ジアナの挙動 10日ベルリン特約通信員発

露国巡洋艦ジアナは長い間サイゴンに停泊しているにも拘わらず未だに武装を解いていない。さらに航海を続行するためと考えられる石炭を積み込み中である。

解説:本紙8月27日、9月3日に関連記事があるが、サイゴンは露国と友好関係にある仏の植民地であった。

奉天以北か

遼陽を敗退した露軍は現時点で、奉天の南方約5里にある十里河(じゅうりか)、十三家子(じゅうさんかし)、紅陵堡(こうりょうほ)の線まで退却し、なお退却を続行しており奉天以北に兵力を集中しようとしている形跡がある。奉天は地形上大部隊の運用には不適でありまた遼陽に近く我が軍が同地に達するまでに完全な防禦工事をする暇が無いため、今後両軍の激戦地は奉天以北になるものと予想される。

遼陽の我が死傷者の概数

遼陽決戦における我が軍全体の死傷者数は未だ発表がないが漏れ聞くところによれば中央、左、右の三軍中、正面を攻撃した中央軍の死傷者が最も多かったが全てを合わせると、1万6千名になると思われる。

解説:本紙9月5日のコメントにあるように実際ははるかに被害が大きく2万3千名であった。

 

東京朝日新聞明治三十七年九月十二日(月)

英国とチベット条約調印 英国とチベット間の条約が去る7日調印された

バルチック艦隊の進退 露国は石炭、糧食等を供給する方法を見つけておく必要がある

英国とチベット条約調印 11日ロンドン ルーター社発電

ラッサ発ルーター電報によれば英国とチベット間の条約が去る7日調印された。

解説:英国のチベット遠征については本紙6月16日、7月2日、7月24日に記事があり、今回鉱山、鉄道事業や貿易に関する条約が結ばれたものと思われる。

バルチック艦隊の進退

バルチック艦隊がいよいよ出港するのであれば露国は予め石炭、糧食等について供給する方法を見つけておく必要がある。あるいは佛国官憲が広州湾やハイフォン(トンキン湾にある港)においてジアナ(黄海の海戦で敗れ仏領のサイゴンまで逃れた露国の巡洋艦)に行った石炭供給の例を見ると同艦隊の回航もさほど困難を感じなくてピサーク、ギプチ、サイゴン、ハイフォンや広州湾を経て優に東洋に回航する事が出来るはずである。但し国際公法上の一大紛争が発生するのは当然である。

 

 東京朝日新聞明治三十七年九月十三日(火)

新渡戸博士(前橋)当地の師範学校と中学校の両校を訪れ、講演を行った

我が総司令部の恨事 戦闘に無関係な多くの住民が死亡したり或いは傷いた

敵軍の退却続行 敵の主力は奉天の北方清水台付近に退却したと思われる

遊就館の新陳列品 今回の新展示品は、敵の遺棄した防寒外套、長靴、手袋である

新渡戸博士(前橋)

農学博士新渡戸稲造氏は本日伊香保より帰京する途中で、当地の師範学校と中学校の両校を訪れ、講演を行った。

解説:新渡戸博士は明治33年「武士道」を著している。本紙7月25日に米国大統領がこれを読んだと書かれている。

我が総司令部の恨事

露軍は遼陽城に近接した陣地にこもって防戦する際、住民の退去を厳禁したため、戦闘に無関係な多くの住民が死亡したり或いは傷いた。現在英国宣教師ウエストテーター氏は老人や子供を含むこれら不幸な約200名を収容して、救護している。その惨状は言葉に表せられないほどで、我が総司令官も深く同情している。戦争の惨事を殊更に無辜の住民に及ぼす事痛恨の極みである。

敵軍の退却続行

敗残敵軍の有力な数部隊はなお奉天及びその前面の各地に居るが敵の主力は奉天の北方清水台付近に退却したと思われる情報がある筋に届いている様である。

遊就館の新陳列品

去る9日より靖国神社境内にある遊就館に新たに陳列された露国の戦利品を見る為の観覧者が非常に増加している。また陳列品が次第に増加するに従い境内の狭く感じられるようになり、別に小屋を建造する計画がある。

今回の新展示品は、大本営野戦経理部が出品したもので去る5月第○軍方面で敵の遺棄した防寒外套、長靴、手袋である。

解説:遊就館は明治15年に我が国で初めての軍事資料館として開館した。

ホームページ http://www.yasukuni.jp/~yusyukan/index.html

 

東京朝日新聞明治三十七年九月十四日(水)

バルチック艦隊出港 バルチック艦隊はクロンシュタット港を出発した

英人の戦局観 今後の戦局について初めて、注意して見る必要を認めた

奉天の陥落時期 奉天は3週間以内に陥落する見込みであると述べている

バルチック艦隊出港 13日ロンドン ルーター社発電

バルチック艦隊はクロンシュタット港を出発した。そしてその目的地は極東であると発表された。

 

英人の戦局観 12日ロンドン ルーター社発電

日露両軍の実力の比較について、英国人の所見が著しく変化を始めているようである。従来の傾向は全く露軍の戦略を蔑視していたが今や批評家は戦争の将来について、今までの見方を少し変更しなければならない事を告白し、今後の戦局について初めて、注意して見る必要を認めた。

テレグラフ新聞は大山大将がクロパトキンの勝たない戦略(退却一方の戦略)の為に失敗してしまう可能性を問題としている。

奉天の陥落時期

デイリーテレグラフの遼陽通信員が8日付け発信の電報で、黒木軍は西より奉天に向かって方向転換行動を準備し始め、奉天は3週間以内に陥落する見込みであると述べている。同時に同新聞は日本の通信検閲に関して、政治上の大きな欠点であると過酷な評価をしている。

 

東京朝日新聞明治三十七年九月十五日(木)

第20連隊の名誉 桂連隊長は遂に戦死し、その後任連隊長及び各大隊長も戦死した

東宮海軍省行啓 皇太子殿下は昨日午前10時20分海軍省に行啓された

レナ号サンフランシスコ着 露国仮想巡洋艦レナ号がサンフランシスコに到着した

第20連隊の名誉

今回の戦役出征の際、連隊長は歩兵大佐桂眞澄(かつらしんじょう)氏であったが、遼陽決戦の際、同連隊は正面攻撃部隊の一つとして敵の主力が居る鞍山站(あんざんたん)に向かって攻撃を開始した。しかし大変な苦戦に陥り、桂連隊長は遂に戦死し、その後任連隊長及び各大隊長もその後の戦闘で戦死し、ある中隊の如きは兵員が僅かに14~5名になってしまった。今回の大戦における損害第1の連隊で、壮烈な戦いを演じた連隊旗の名誉は実に空前絶後であろう。

解説:本紙9月1日遼陽大決戦及び8月6日敵の海城退去公報に鞍山站(あんざんたん)に関する記事がある。

東宮海軍省行啓

皇太子殿下は昨日午前10時20分海軍省に行啓され、大臣、軍令部長、次長及び大本営幕僚に拝謁を仰せ付けられ、大臣室において山下大佐が艦隊について、大澤中佐が10日の黄海海戦について、上泉中佐が旅順の陸上戦闘についてご進講し、正午お帰りになられた。

レナ号サンフランシスコ着(外務省着電)

9月11日サンフランシスコに到着した露国仮想巡洋艦レナ号は大砲23門、士官16名及び水兵488名が乗り組み、31日前にウラジオストックを出発してセント マリー及びマーシャル群島を経て到着したものと思われる。

解説:仮想巡洋艦とは商船に大砲を搭載した型で、この船は本紙8月16日に書かれている蔚山沖海戦の頃ウラジオを出港して南太平洋を航海したようである。サンフランシスコの日本領事が退去を求めている。

 

東京朝日新聞明治三十七年九月十六日(金)

14日の旅順 午前中激しく午後も時々継続して砲声を聞いた

占領後の遼陽 避難の婦女子も帰り、市街の賑わいが元に

果たして又(バルチック艦隊の東航中止)バルチック艦隊は現在リバウに停泊中である

レナと米国 出港するか若しくは武装を解除させる事に決定した

14日の旅順

今朝大連湾から到着したジャンクによれば昨未明より午前中激しく午後も時々継続して砲声を聞いたとの事である。

占領後の遼陽

遼陽城内では四門と破壊された場所に衛兵を立て、勉めて市況を回復させようとしているが占領3日目にして避難の婦女子も帰り、市街の賑わいが元に戻り軍票(日本軍が発行した紙幣)が信用され、通用している。

果たして又(バルチック艦隊の東航中止)

15日その筋へ到着した電報によればバルチック艦隊が極東に向かい出発するのは延期となり、現在リバウ(クロンシュタットと共にフィンランド湾内の軍港兼商港)に停泊中である。さらに確定した命令を待っているとは最近の各電報の一致する所である。

又露京発の電信によれば同艦隊の出港は単に沸騰している国内の世論を沈静させる為であるとの説が露京海軍部内で言われている。

レナと米国 15日ロンドン ルーター社発電

米国政府は露国巡洋艦レナに関して、短時間の停泊の後にサンフランシスコを出港するか若しくは武装を解除させる事に決定した。

解説:本紙9月15日にレナ号サンフランシスコ着(外務省着電)関連

 

東京朝日新聞明治三十七年九月十七日(土)

レナ武装解除 露艦レナ艦長は同艦の武装を解除して戦争の終了まで同港に停泊

敵将戦死 旅団長フォーミン、モルソンは遼陽付近の戦闘で戦死した

バルチック艦隊未発 バルチック艦隊は極東へ出発する前にリバウ港に停泊している

レナ武装解除 16日ロンドン ルーター社発

露艦レナ艦長は同艦の武装を解除して戦争の終了まで同港に停泊したいと米国当局者に通告した。

解説:昨日の本紙「レナと米国」で報道されている通り、米国が武装解除を要求していた。

敵将戦死

欧州よりその筋に達した電報は次の通り

公報によれば露の第54師団第2旅団長フォーミン、第9師団第2旅団長モルソンは遼陽付近の戦闘で戦死した。

バルチック艦隊未発 16日ロンドン ルーター社発

バルチック艦隊は極東へ出発する前にリバウ港に停泊しているとピータースブルグで報道されている。

解説:艦隊司令長官は「クロンシュタット」に停泊中は雑用が限りなくあり、何時までも出発できない事が解り、艦隊が未だ受け取っていない物品は輸送船で運ぶ事として「レーウエリ」に回航し、同港に於いて戦闘訓練を行う事に決心し、9月11日「クロンシュタット」を出港、13日「レーウエリ」泊地に投錨した。(露日海戦史―ロシア海軍公式記録より)

 

東京朝日新聞明治三十七年九月十八日(日)

遼陽敵兵数 露軍は遼陽を合計5~6軍団で守っている。

バルチック艦隊別消息 バルチック艦隊は暫くリボーに滞在すると云われている

遼陽敵兵数 16日午後4時30分遼陽特派員発(軍用通信)

遼陽に居住している米人宣教師ウオーカー氏の談によれば、露軍は遼陽の西に1軍団、南に1軍団、東に1軍団、太子河右岸西北に1軍団、後方に1軍団の合計5~6軍団で守っている。

バルチック艦隊別消息 (外務省着電)

ベルリンのウオルフ電報通信の報道によればバルチック艦隊は極東に向け出発するに先立ち、暫くリボーに滞在すると云われている。

解説:艦隊は現在「レーウエリー」に於いて訓練中で、未だリボウ(ラトビア共和国にある軍港)には行っていない。入港の当日より戦闘訓練を行い、「リバウ」に回航するまで約1ヶ月間これを続行し、艦隊司令長官は砲戦策を定め、戦闘部署及び教練射撃の方案を発布している。

 

東京朝日新聞明治三十七年九月十九日(月)

昨今の敵主力 目下敵の主力は奉天にあり

バルチック艦隊司令長官病気 艦隊司令長官は腎臓病

昨今の敵主力 16日遼陽特派員発

クロパトキンは2日より主力を率いて遼陽を退却し始めていた。遼陽陥落の日に正面を守っていたのは歩兵5万と砲兵のみであったと言われている。

目下敵の主力は奉天にあり我が軍の動静を観察中で未だ鉄嶺に撤退せず、運河左岸に橋頭堡を作って警戒している。

バルチック艦隊司令長官病気(外務省着電)

ドイツ新聞に伝えられたところによると

バルチック艦隊司令長官は腎臓病に罹り、多分クロンシュタット軍港司令官ビリレフが交代すると思われる。

解説:艦隊司令長官は、訓練で超多忙な毎日を過ごしており、病気ではなかった。

 

東京朝日新聞明治三十七年九月二十日(火)

スエズ運河と敵艦隊 バルチック艦隊のスエズ運河通航を許すべきかどうか検討している

露国潜航艇ウラジオに到着 最新式の潜航艇5隻の部品や材料は既にウラジオ軍港に到着

仏国潜航艇の進水 潜航艇グロンダンは7月15日ツーロンに於いて進水した

日露戦争の前途如何 戦争の帰趨は既に決まっている

スエズ運河と敵艦隊 17日ベルリン特約通信員発

英国とエジプトの両政府はバルチック艦隊にスエズ運河の通航を許すべきかどうか検討しているが、この問題は今やますます切実になってきていると欧州の新聞紙は伝えている。

露国潜航艇ウラジオに到着 

7月15日ロンドンの確かなる筋より聞く所によれば露国最新式の潜航艇5隻の部品や材料は既にウラジオ軍港に到着し造船技師は目下その組み立てに従事している。

仏国潜航艇の進水 

潜航艇グロンダンは7月15日ムーリヨン ツーロンに於いて進水した。グロンダンは小潜水艇リンクス級(同級の潜水艇20隻)でその要目は次のとおり。

長さ24m 幅2m 排水量68t 速力8ノット 水雷発射管1門 定員5名

日露戦争の前途如何(仏国最高武官談話)

私は仏人として我が同盟国たる露国に同情を有する者であるが日本軍の軍隊組織及び装備、将校の能力、武器の錬度、戦略の巧妙さは露軍の遠く及ばないことを認めざるを得ず、戦争の帰趨は既に決まっている。

 

東京朝日新聞明治三十七年九月二十一日(水)

敵しきりに動く 敵は我が全哨線に亘って現れたがこれは偵察と思われる

英とチベットの新条約 今後はインドを通じて文明列国と通商関係を結ぶ事となった

敵しきりに動く 19日遼陽特派員発

運河以南に居る敵は歩兵、砲兵及び騎兵の3兵種が混合した部隊で右は平台子から左は烟台停車場の我が全哨線に亘って現れたがこれは偵察と思われる。

我が兵は16日と17日にこれを撃退したが全て小さい衝突であり大勢に関係は無い。

英とチベットの新条約

ヤングタスバンド大佐が一隊の兵を率いてチベット国境に入り、貿易について交渉しようとしたが出来ず、止む無くチベット人の抵抗を排除しつつラッサまで進軍した。頑固なダライラマが今回調印したのはこの進軍の結果で、鎖国攘夷を国是としてきたチベットもこれで今後はインドを通じて文明列国と通商関係を結ぶ事となった。

解説:幕末に来た米国のペルー提督の武力の前に日本は開国したが、チベットも同様であった。この結果英国の勢力圏がインドからチベットまで伸び、同時に清国は保護権を失いまた露国も影響力を失った。

 

東京朝日新聞明治三十七年九月二十二日(木)

旅順攻略開始 9月19日再攻撃が開始された

英国通信員の言 黒木軍が敵軍を全滅させたならその勝利は更に華々しかった

戦後の遼陽 民心が平穏で婦女子も日々帰ってきている

旅順攻略開始 20日チーフ特派員発

主要な砲台の一つを占領しようとして旅順攻撃が朝から再開されたが一度では終わらない見込みである。

解説:第1回総攻撃が8月24日に失敗した後、塹壕を掘り進む方法が取られ、9月19日第1師団は203高地と水師営の陣地、第9師団は竜眼北方陣地に対し攻撃が開始された。

英国通信員の言

遼陽戦の後、日本の新聞でしきりに英国人の日本に対する感情がやや変化し、その原因は、通信員が日本に不公平な報道をしたためであると言う人が居るがそれは違う。

英国人は、黒木軍が敵の退路を十分断つことができなくてクロパトキンの軍を比較的簡単に退却させたが、黒木軍の進撃がさらに強力であり敵軍を全滅させたならその勝利は更に華々しかったと考えるからである。

解説:本紙9月5日遼陽の占領のコメントのとおり、弾薬を消耗し日本軍には敵の退路を断つだけの余力はもはや無かった。

戦後の遼陽 21日遼陽特派員発

遼陽では民心が平穏で婦女子も日々帰ってきており我が軍の保護の下で安心して仕事をしている。

昨今急に寒くなり、朝夕は内地の12月頃の気候に似ている。高粱畑もしだいに刈り取られ広々としてきている。

 

東京朝日新聞明治三十七年九月二十三日(金)

我が士気大いに振う 秋高く、戦闘をするのによい時期

ジアナ武装解除 国旗を降ろし大砲等は同地の造兵廠に

我が士気大いに振う 21日遼陽特派員発

奉天の南を流れる運河は太子河より深く、敵はこれに軍事用の橋を3箇所以上に架けており、その左岸には橋頭堡を築いている様である。

秋高く、戦闘をするのによい時期となりわが士気はいやが上にも高まっている。

ジアナ武装解除 22日ベルリン特約通信員発

現在サイゴンに停泊している露艦ジアナは9月12日まで武装したままであったが同日初めて国旗を降ろし大砲等は同地の造兵廠に運び込まれた。乗組員はなお艦内に留まっているが数名の将校はフランスを経由して帰国している。

解説:本紙9月11日にジアナの関連記事がある。

 

東京朝日新聞明治三十七年九月二十四日(土)

広東アモイ間鉄道 広東アモイ間鉄道は清国とポルトガルとの合弁として

軍艦売却否定 アルゼンチンは軍艦を露国に売却したことは無い

バルチック艦隊消息 リバウには現在戦闘艦6隻巡洋艦5隻の他多数の水雷艇、輸送船

広東アモイ間鉄道 23日北京特派員発

広東アモイ間鉄道は清国とポルトガルとの合弁としてマカオ駅に清国の税務署及び貨物検査場を設置する条件付でポルトガル領事と盛宣懐(せいせんかい)の間で協議が決まった。

軍艦売却否定 23日ロンドン ルーター社発

アルゼンチン共和国政府は1隻の軍艦をも露国に売却したことは無いと声明した。

解説:当時の新聞に度々アルゼンチンが軍艦を露国に売却する記事が書かれ、9月19日露国の御前会議でも購入が話題となっていた。

バルチック艦隊消息

欧州より某所に達した電報は次の通りであった。

リバウにいる艦隊司令長官ロゼストウインスキーを訪問した一記者の報告によれば、リバウには現在戦闘艦6隻巡洋艦5隻の他多数の水雷艇、輸送船があり、艦隊司令長官の言によれば近日中に到着する3隻の軍艦を待って、必要な演習を行った後ウラジオストックの凍結を考えて極東に出発する時期を決定する考えである。又同艦隊司令長官は健康であり、病気との風説は事実無根である。

 

東京朝日新聞明治三十七年九月二十五日(日)

英チベット条約と独伊米 独伊米の3国は外務部に抗議

19日以後の旅順 従来にない大砲声が絶えず起こり激しい時は1分間に2発ほどの割合であった

英チベット条約と独伊米 23日上海特派員発

独伊米の3国はチベットと英国との条約に関して外務部(清朝の外務省)に抗議を申込んだとの情報があった。

解説:本紙9月21日 英国とチベットの新条約に書かれているとおり、英国がチベットを自己の勢力圏に入れたことに対する抗議である。

19日以後の旅順 24日チーフ特派員発電

19日午前3時頃より1時間あまりの間連続した激しい砲声で攻撃が始まり、明け方より従来にない大砲声が絶えず起こり、激しい時は1分間に2発ほどの割合であったが午後8時ごろ終わった。

20日は午前10時頃より砲声は始まり午後2時に至って激甚を極めた。同夜は絶えず1時間毎位に連続の砲声を聞いた。

21日には夜9時頃より約1時間砲声を聞いたのみ。

22日は早朝より聞いたがその音は非常に小さかった。

解説:第3軍(乃木大将)の第1回総攻撃の砲声であり、第1師団右翼は20日から203高地を巡り死闘を演じ、21日深夜から22日未明にかけて両軍の夜襲があいつぎ、203高地は修羅の場と化した。22日一杯日本軍は粘ったがついに攻撃を中止している。

 

東京朝日新聞明治三十七年九月二十六日(月)

敵の石炭需要 露国はウラジオストック行きの石炭の運賃を倍加すると言ってきた

日本戦勝の理由 日本が戦に勝つ大きな理由は、主としてその教育の普及にある

敵の石炭需要 25日ロンドン ルーター社発電

露国はリバプールに於いてウラジオストック行きの石炭の運賃を倍加すると言ってきた。又若し石炭運搬船が首尾よく同港の封鎖を破り入港する事が出来たならば石炭1トンに付き15シリングの追加運賃を支払うこととなった。

解説:数日前北海道沖で英国船が座礁し、ウラジオストック行きの荷物が発見され、没収された事件が報道されていた。

日本戦勝の理由  ベルリン発行フチシツシエ、ツアイツング

日本が戦に勝つ大きな理由は、主としてその教育の普及にある。露国の人口が1億4千万人に対して日本は4千5百万人に過ぎないが日本に於いては公立学校の教育を受ける者の割合が9,2%であるが露国においては3,2%に過ぎない。又日本は自由寛容のために専制暴虐に反抗して戦っているが露国に至っては何の為に戦うのか解らない。これら2点のため両国の意気込みが全く異なり、日本が常に勝つ理由である。

解説:日本の公立学校とは中学か高等学校か不明であるが、原文は「公立学校の教育を受くる者の割合は千に対する九十二に及べども露国に在りては僅か三十二に過ぎず」となっている。

東京朝日新聞明治三十七年九月二十七日(火)

英チベット条約破棄の訓令 英国は貴国の主権を蹂躙してダライラマと条約を締結した

旅順背面の砲台占領 水源地は21日に占領された

敵の第2軍司令官 露帝はグリペンベルグ将軍を第2満州軍司令官に任命

英チベット条約破棄の訓令 26日北京特派員発

露国公使が清国外務部(外務省)に対し次の申し入れを行い威嚇した。

チベットは貴国の属国で他国の干渉を許すべきでないにも拘わらず、英国は貴国の主権を蹂躙してチベットのダライラマと条約を締結した。貴国がもしこの条約を承認するのであれば、わが国も自ら我が利益と信ずる手段を取るであろうと威嚇した。そのため清国政府は直ちに駐チベット大使宛てに条約を破棄するよう訓令した。

解説:本紙921日の記事に英とチベットの新条約(英国の勢力圏がインドからチベットまで)について書いている。

旅順背面の砲台占領 25日チーフ特派員発電

当地の露人側に達した情報によれば、敵が水師営の南にある旅順水源地を擁護する為に特に設けた堅牢無比のクロパトキン砲台及び6ヵ所の砲台は19日以来の攻撃により20日正午に我が包囲軍により占領され、又水源地は21日に占領された。露軍は飲料水の確保に苦労しているようである。

解説:第3軍(乃木大将)の第1師団左翼は20日早朝、水師営第4堡塁を落とし、次いで第1堡塁、第2、第3堡塁を攻め落としている。

敵の第2軍司令官 日ロンドン ルーター社発電

露帝はウイルナ軍管区司令官グリペンベルグ将軍を第2満州軍司令官に任命し、次の書簡を送った。

短期間に成功を収めるためには出征軍の兵力を大幅に増加せざるを得ず、そして兵力数の関係上満州軍を二つに分ける必要がある。その第1軍司令官は依然クロパトキンで、卿(グリペンベルグ将軍)は第2軍の指揮をとり、一般的指導はクロパトキンから受け、委任された軍隊の指揮をとり、交戦せよ。

解説:2人の指揮官を設けるのはクロパトキンに対する皇帝の信頼が低下したものと見られた。

 

明治三十七年九月二十八日(水)

広東とマカオ間鉄道 ポルトガル商と支那商からそれぞれ各200万元を募集の予定

対露給炭新約 英本国又は各植民地の諸港に於いて石炭を供給してはならない

露国の英チベット条約抗議は無根?:抗議を申込まれたとの説は事実無根

広東とマカオ間鉄道 27日北京特派員発

広東とマカオ間の鉄道は資本金400万元であり、ポルトガル商と支那商からそれぞれ各200万元を募集の予定である。

対露給炭新約 26日ロンドン特約通信員発

英国外務大臣ランスダウン侯は戦闘行為を目的とする露国の船舶に対して英本国又は各植民地の諸港に於いて石炭を供給してはならない事を英国の各商社に通告した。しかしこれと正反対に独逸キールのジーデリクセン商会が露国艦船に石炭供給の契約をした事は露独両国の関係上注意すべき事件であると考えられる。

解説:本紙5月28日の記事 列国海軍比較表の戦艦隻数英国55隻、露21隻、日7隻が示すようにイギリスは海軍力ではぬきんでた存在であった。その英国と1902年に日英同盟を結んでおり、わが国にとって大きな利益をもたらしたが同時に大艦隊を極東まで回航しようとしているバルチック艦隊にとっては大変な障害となった。

露国の英チベット条約抗議は無根? 27日北京特派員発

清国外務部は、英チベット条約に関し露公使より抗議を申込まれたとの説は事実無根であると説明した。

解説:本紙昨日の記事で露国の抗議が報道されている。

 

 東京朝日新聞明治三十七年九月二十九日(木)

最近総攻撃の成績 21日にはクロパトキン砲台に援護された水源地を占領

第2軍と大輸送 第2軍は4軍団をもって編成されるようである。

最近総攻撃の成績 27日チーフ特派員発電

26日ダルニーを出発したジャンク(貨物用帆船)の情報によると、19日夜より20日にかけて砲兵は激烈に砲撃し、歩兵は勇敢に突撃して20日正午頃クロパトキン砲台と水師営南方の砲台6ッ箇所を陥れ、午後5時椅子山の西北西にある砲塁及びその付近全部を占領した。21日にはクロパトキン砲台に援護された水源地を占領し、椅子山の西の高地も占領した。

解説:19日から始まった4日間の戦いで幾つかの成果を上げる事が出来た。しかし203高地は一旦奪ったが取り返されてしまい、戦闘に参加した日本軍2万6000名の内死傷は4,800名にのぼった。(近代の歴史 人物往来社)

第2軍と大輸送 

敵はグリンベンベルグを第2満州軍司令官に任命した。この第2軍は第1、第8の両軍団と将に動員の噂のあるウクライナ並びにワルシャワの両軍管区より各1軍団を編成し合計4軍団をもって編成されるようである。

 

東京朝日新聞明治三十七年九月三十日(金)

英チベット条約と露国 駐英露国大使は極めて友好的な通告を英国にしたようである

第2敵帥の評判 これはクロパトキン将軍をないがしろにするもの

怪しき独船 ドイツ汽船がテチリフ(カナリア諸島)に於いて待機中である。

英チベット条約と露国 29日ロンドン ルーター社発

セントピータースブルグ駐在のルーター社通信員の情報によれば、英チベット条約草案に対して露国政府が意義を申入れたとの説があるが、これに関して逆に駐英露国大使は極めて友好的な通告を英国にしたようである。

第2敵帥の評判 

グリツベンベルグ将軍が第2満州軍司令官に任命された件に関して、オーストリアの諸新聞は一般的にこの新軍制にたいして面白くない批評を加えて、これはクロパトキン将軍をないがしろにするものであり、このため指揮の統一を保つことは非常に困難となるに違いない述べ、ある新聞はこれをもってクロパトキン将軍の反対派が勢力を得た結果と考えている。

怪しき独船 29日ロンドン ルーター社発電

石炭を満載した3隻のドイツ汽船がテチリフ(カナリア諸島)に於いて待機中である。

解説:カナリア諸島はアフリカ北西部の西方海上にある島で現在はヨーロッパのハワイといわれている。http://homepage1.nifty.com/ptolemy/nations/africa/canary.htm

このドイツ汽船はバルチック艦隊に対する石炭供給のため待機中と思われている。