1月1日
日本人招待 30日上海特派員発
▽孫逸仙と犬養氏
本日午後5時、孫逸仙その他の革命党首領は、主な日本人を上海パレスホテルに招待し饗応した。孫はまず、来賓にその出席を謝した後、中華民国の遂行すべき難事業を論じ、清国、極東及び世界平和の為日本の助力と同情とを熱望した。
犬養氏は、邦人を代表して答辞を述べ、孫逸仙の共和政府仮大統領当選を祝し又清国及び世界平和の歴史に於いて新時期を画すと思われるこの大事亮を行うに当たり、日本人の最初の団体が共和国最初の大頭領に招待された名誉を享有する事を感謝した。
露国側死傷者 31日浦潮特派員発
24日波斯兵との戦闘に於ける露国側の損害は、ウワフワ公爵の戦死の外、将校では大尉イホドローフ氏が重傷、中佐シチエネツキー氏が軽傷を負った。兵士では死傷者約100名に及んだ。
1月2日
清紙の祝賀 1日上海特派員発
各漢字新聞は、赤色刷りを行い、且孫逸仙の民国大統領任命を祝する文を掲載した。これは、本日が南京に於いて大統領任命祝賀式を挙げる当日である事による。
祝典準備 同上
新大統領に対し、熱誠な歓迎を行い、且南京が再び首都となった為に祝典を行う準備である。数日中に新内閣及び大統領の宣言が南京より出ると思われる。
1月3日
唐辞任電奏 2日北京特派員発
唐紹怡は1日、内閣に宛てて講和会議の成立が非常に困難であり、到底予の弁じる得る所ではないので別に賢良を挙げて講和の任に当たらせて頂きたいと辞職を電請してきた。
孫逸仙宣誓 2日上海特派員発
孫逸仙は南京に於いて大統領就任の宣誓を行い、次の様に述べた。満州専制政府を転覆させ、中華民国を強固にし、民政の幸福を謀り、国民の意向を執り、文実これに従い、以って国に忠に衆の為に服務する。専制政府は既に斃れ、国内に変乱無く民国世界に独立し、列国公認するに至り、この時文(孫逸仙)、当に臨時大統領の職を辞するであろう。謹んでこれを以て国民に誓う。
中華民国元年元旦 同上
南京の参議院は1月1日を以て中華民国第1年1月1日となすことに決定した。上海の漢字新聞は本日より新暦を用いる。
1月4日
袁辞職奏上 3日北京特派員発
袁総理は、時局日に非にして、彼の立脚地が益々困難に遭遇した為、2日辞職を奏上した。唯上諭が発せられない事から見ると許可されない様である。
袁唐に快からず 同上
唐紹怡の辞職は、未だ公然の発表がないが、袁世凱は唐が代表の職責を尽くさなかった事を不快として、2日その辞職を許可する旨電達した。
官軍袁を脅迫 同上
▽皇太后軍資金
湖北、山西、安微等に出征した官軍は糧食の欠乏が甚だしく、若し至急補給されない場合には、已む無く自由行動にでるであろうとの脅迫的至急電が袁内閣に届いたので、皇太后は内帑金で黄金8万両(時価250万両)を発送し、先の銀70万両と合わせ、直ちに戦地に発送した。
徹夜の祝賀 2日紐育特派員発
▽新支那共和国建設
孫文の大頭領就任は当地支那人間に非常な人気であり、新支那共和国1年第1日の意味で、1日より2日朝まで徹夜で共和国建設の祝賀式を行った。場所は支那街にある支那商業会館の一室で、正面に孫の肖像を掲げ、種々の供え物を置き、赤い革命旗を飾り、数百名が列をなして、その前に至り最敬礼を行った。
1月5日
袁伍談判 4日上海特派員発
▽伍廷芳強硬
袁世凱及び伍廷芳は次の様な電報を交換した。
△袁の電報
唐紹怡を上海に派遣し、総理の全権使節として大局の利害を討論させたが、貴下と唐が約定し、全然予と商議しなくて調印した事項を報告した。唐に予が実行できない事項があり、説明を求めたが唐は辞職を願い出た。強いて留任を求めず、辞職聴可の裁可を得た。今後予は電信により直接に事件の討議を行い、速やかに平和回復を期す。
△伍廷芳の電報
予は閣下の電報は全く無理と認める。予は唐の調印後閣下の政府が之に拘束されることを知る。唐は今や辞職したと言えども辞職前に調印した事項は決して効力を失う事はない。
閣下が真に平和を願うならば、自ら速やかに誠意を示して、帰結の案、即ち12月29日調印の撤兵の件を実行し、現在の陣地より百里退却を命令せよ
和議決裂 同上
▽伍廷芳の通告
伍廷芳は、領事団に書簡を送り、満州政府が執った行動の為に和議は遂に敗れたと通告した。
孫文と日本人
1日午後5時、孫逸仙は特別列車にて山田、末永他3名の日本人と共にシャクワンに到着した。シャクワン駅付近は4千の兵士を以て警護し、獅子山砲台は21発の祝砲を発射し、徐司令官、各省代表者十数名及び日本人数名は親しく孫を迎え、孫は同駅より汽車にて直ちに南京城内の総督衛門(そうとくがもん)に向かった。
1月6日
伍廷芳通告 4日上海特派員発
▽領事団に対する
伍廷芳は、今日午後、上海領事団に次の様な書簡を送った。我が中華民国政府は、1911年12月20日領事団の連合通牒に声明する熱心な平和の希望に従い、現在の戦局を終了する為になるべく速やかに協定しようとして、予は民国政府の全権代表として唐と友愛な談判を開始、継続した。しかし今や談判は満州政府の行動によって破裂するに至った。
米国と共和政 4日紐育特派員発
米国議会外交委員長サルザー氏は、3日同委員会に支那共和国をできるだけ速やかに各国に先んじて承認すべしとの提案を行い、これは我が外交政策上最も必要なものと付加したが、多分通貨すると言われている。国務卿ノックス氏は支那共和国建設に満足の意を評しているそうである。
1月7日
孫文布告 6日上海特派員発
中華民国大統領孫逸仙が外務大臣伍廷芳の副署を経て発表した布告文名次のとおり
▽革命と共和政 中華の知的、道義的、物質的発達を阻害されてきた為に、ここに革命の力を借りてその根本的原因を除去せざるを得なくなってしまった。そして我らは今やここに満朝の暴政が倒れ、共和政が成立する旨を布告する。(一部抜粋)
▽満朝の罪過 満朝の政策は鎖国と専制とに成る。我らは実のこの下に苦しめられた。今や我らは世界自由の民衆に対し革命と共和政設立を正当とする理由を述べんとする。(一部抜粋)
▽内外に対する公約
一、満州政府が革命以前に於いて他と締結した条約は皆、その終了期限まで有効である。(一部抜粋)
孫黄両氏の風采 上海 戒ヘン馬
27日上海に到着し、豊陽館に入る。未だ行李を解かない内に、大元帥黄興君が来て、遠山満氏を訪れる。東京に居る時、夏は汗が染みた古浴衣、冬は垢が着いた敗れ綿入れであったが、英姿颯爽とした2名の副官を伴い、威風堂々として自動車で来る大元帥としての君を見る。興君は頭山翁に対し、多年の好意を謝し、日本有志の同情に縋り、列国に支那の政体に干渉させない様な助力を請う旨を語った。
翌日馬車で孫逸仙君を訪問する。孫文先生は背広服で現れ、一行と握手し、交際ぶりの巧妙に感服した。30日夜、孫新大統領は、パレースホテルに在上海日本人を招待し、新任の披露を行った。来賓は百名ばかりで、犬養氏以下各会社代理人、新聞記者等
孫総統は、中華民国が成立して外国の名士と交わるのは今回が初めてであると挨拶をした。数年前の志士孫逸仙は、全く欧米先進国の大頭領に劣らない態度を備えるに至っている。(一部抜粋)
1月8日
袁の狂言 7日上海特派員発
予(特派員)が信頼すべき筋より聞いた所によれば、袁世凱は革命軍に投じる為に上海に来ようとしていると言われている。従来の講和談判及び唐紹怡の辞職は、皆予め仕組まれた狂言であり、自身が出馬して談判に当たらなければならないとの口実の下に上海に来て、革命軍に投じようとしているに外ならない。唐紹怡は既に革命軍に投じたそうである。しかし如何に信頼すべき筋と雖も、良くその裏面の意味を知る事が重要である。
1月9日
孫文布告評
倫敦タイムスは、中華民国大統領孫逸仙の布告文を次の様に論評している。
この布告文は清国の難局を解決する実際的な方法を提議する事無く、各方面が希望する平和的妥協の機会を全く排除している感がる。又これは一に外国人に見せる為に作られたものであると余りにも明瞭に過ぎると思えると述べた。
伊土両国強硬 7日伯林特約通信社発
土耳古、伊太利両政府は、列国が調停を企てているにも拘らず、共にトリポリ及びサイレナイカに関するその主張を固辞し、戦争を継続する旨公言している。
1月10日
革命党の講和条件 9日上海特派員発
共和党が満州政府に提出した条件は、唐紹怡の辞職以前に彼と伍廷芳との間に決定されたもので、これは8日袁世凱に打電された。その内容は次の様に言われている。
一、皇帝は清国に於ける外国の皇帝として全ての威厳を以て待遇される。
三、皇帝は国民会議で決定された後、寛大な年金を受ける。
七、満州八旗は、相当の生計を得るまでは従前と同額の恩給を受ける。
九、皇族は位階財産等を従前のまま保持する。皇帝の受ける年金は1千万両である。(一部抜粋)
革軍公債案 8日南京特派員発
南京政府は、一億円の軍事公債を募集する案を立てた。この案によれば、据え置き期間は、清政府が転覆後4年とし、10年償還利子8分である。各地軍政府に募集させ、募集高の3割を地方費とし、7割を中央に収める。
革命政府の運命はこの公債募集の成否如何により大きな浮沈を見る事になるであろうと一般に観測されている。
1月11日
袁外国を恐れる 10日北京特派員発
▽再戦せざる所以
目下余の憂慮しているのは、列国の意向である。以前列国は何れも立憲君主に賛成の旨を声明したにも関わらず、今は却って共和を承認している様である。若し余が強硬な態度に出て、和議が決裂すれば、列国はその罪を余に帰するであろう。これを余が最も恐れている所である。(一部抜粋)
露国の対蒙活動
▲巧妙な行動 露国の蒙古に於ける行動は、先ず蒙古諸王に独立を宣言させ、そして一方清国政府に対し、近隣に於ける紛争を一掃する為に、その独立を認めるように要求して置き、他方利害関係の密接な外蒙古に於ける無政府、身秩序の状態を黙視して、自国民の危険を傍観する事は出来ないと言う口実の下に相当な兵力を動かした様である。
1月12日
蒙古問題観望 10日紐育特派員発
露国の蒙古に関する要求に対し米国官憲では、元来外蒙古が完全に支那の治下にあるかどうか疑わしい程度なので,兎に角この際余り突っ込んで反対はせず、暫く関係列国の情勢を観望しようと取りざたされている。又一部では支那来電として露国要求の裏面には日露密約があるのではとの指摘がされ始めている。
1月13日
皇族会議 12日北京特派員発
▽退位準備成る
皇室では、12日袁総理以下国務大臣を除き純然たる皇族のみの秘密会議を開き、前後の方針を決定したそうであるが、信頼すべき筋の情報として聞くところによれば、皇帝退位の準備は既に終わり、近々その発表を見る運びに至った。その際、政体決定までの全権は袁世凱に委任し、北部各省の治安を維持し、袁世凱保護の下に、十分な尊厳を保持する事になると言われている。
孫逸仙の意気 12日上海特派員発
南京に於いては非常に楽観して引続き活況を呈している。孫逸仙も気色あり、若し平和談判が決裂するならば、自ら革命軍に将として補口より北進すると言われている。ちなみに先にわい河を横切った革命軍は今や徐州府の南40マイルの地に達したと言われている。
憲法編纂 12日南京特派員
各省代表会は、現在憲法の編纂に取り掛かり、漢口に於いて決定された仮憲法中、行政各部を改正する外、新たに人民の権利義務及び司法権の制度に関する条項について協議中であり、15日までに完成の予定
1月13日
皇族会議 12日北京特派員発
▽退位準備成る
皇室では、12日袁総理以下国務大臣を除き純然たる皇族のみの秘密会議を開き、前後の方針を決定したそうであるが、信頼すべき筋の情報として聞くところによれば、皇帝退位の準備は既に終わり、近々その発表を見る運びに至った。その際、政体決定までの全権は袁世凱に委任し、北部各省の治安を維持し、袁世凱保護の下に、十分な尊厳を保持する事になると言われている。
孫逸仙の意気 12日上海特派員発
南京に於いては非常に楽観して、引続き活況を呈している。孫逸仙も気色あり、若し平和談判が決裂するならば、自ら革命軍に将として補口より北進すると言われている。ちなみに先にわい河を横切った革命軍は今や徐州府の南40マイルの地に達したと言われている。
憲法編纂 12日南京特派員
各省代表会は、現在憲法の編纂に取り掛かり、漢口に於いて決定された仮憲法中、行政各部を改正する外、新たに人民の権利義務及び司法権の制度に関する条項について協議中であり、15日までに完成の予定
1月14日
伊国政府の弁明 13日タイムス社発
ローマ雷電=伊太利政府は、伊土戦争に関する伊軍の行動を徹頭徹尾信任する旨を宣言し、公衆が、陸軍当局者を中傷しようとする無責任な批評を傾聴しない様に戒めた。
獨逸総選挙 12日上海特派員発
社会党は活発に運動し、盛んに檄文を発しているが、保守諸派は軍備を増強し、以って外国より来る災難を免れる必要があると主張し、連合して社会党に反対している。(一部抜粋)
在米邦人襲撃事件 内国電報 13日発
アリゾナ州バーデンに於ける邦人が白人労働者5千名に襲撃されたが、バーデンには砂糖大根の耕作作業と鉄道工事に従事する邦人3千人が居る。雇主は日本人労働者が従順で勤勉な為に深く信頼しているが、伊太利人その他の白人労働者の嫉妬が激しく、折あれば日本人を駆逐しようと企てている。(一部抜粋)
1月15日
退位切迫 14日上海特派員発
北京よりの報道に依れば、清帝の退位は正に3日以内に迫っている。そして唐紹怡も孫逸仙にこの趣を通知したとの説がある。
休戦期延長 同上
南北休戦期は、更に1週間、即ち15日午前8時より22日午前8時まで延長された。
1月16日
社会党大成功 15日タイムス社発
伯林来電=総選挙第一選に於ける主な結果は、未曽有の結果を社会党にもたらした。自由党は大敗北となり、中央僧侶党は原位置を維持するに留まった。社会党は議員総数の過半数を占めるに至らない故に、多分新軍備拡張案を破る事態は起こらないと思われる。
解説:獨逸が第1次世界大戦を起こす2年前の情勢である。
1月17日
袁世凱要撃 16日北京特派員発
▽袁は無事
袁世凱の宮中よりの帰途を狙い爆裂弾を投げた者がいたが、袁は無事で22名死亡、警官2名が負傷した。なお市内を大捜索中
爆弾の後 同上
爆弾が破裂したのは12時半であったが時を移さずその付近一帯の交通を遮断し、巡警兵士が隙間なく警戒を行い、怪しい者は続々捕縛中である。投降者は革命党ではないかと言われている。
孫再び勧告する 16日上海特派員発
孫逸仙は、再び袁世凱に民国大統領になるよう要請する電報を送ったと言われている。
宋は民生院総裁 同上
▽日本人顧問任命
南京電報によれば、宗教仁氏は法制院総裁に、向氏は法制顧問に、坂谷、原口両氏は財政顧問に任命されたそうである。この電報に付き、原口氏は未だ何等の相談も受けたことがなく、全く知らない事で、先方が勝手に定めたと思われ、坂谷男爵も同様と思われると語った。
1月18日
政体問題御前会議 17日北京特派員発
▽袁世凱も参内
宮中では、17日更に正式の御前会議を開き、皇族、満蒙諸王公及び袁総理以下大臣が会して政体問題について評議決定をする予定であり、16日爆弾事件があったにも拘わらず、厳重な警戒の下に袁総理も参内した。
犬養毅氏の談
△僕が革命軍から顧問の相談を受けて拒絶したと言っているそうだか、そんな事はない。別にその様な表向きの相談を受けた訳ではない。又孫でも黄でも、皆昔からの知り合いだから、形式がどうだと言って、僕の方から拒絶するような訳がないではないか。(一部抜粋)
1月19日
英紙と獨逸選挙 17日上海経由路透社発
諸新聞の指摘している点は、獨逸総選挙は社会党の成功に帰したにも拘わらず、軍備拡張の為、三対一の多数を政府に与えると思われる。この拡張案は海軍の為に年約3百萬ポンドの増加支出を含みものでありk、社会党以外の各政党は内政に於いて一致しないが、何れも強大な陸海軍建造に賛成するものである。
1月20日
土軍撃退される 19日タイムス社発
ローマ来電=土耳古兵は、1月17日デルナにある伊軍の要塞に奇襲を仕掛けたが撃退された。土軍は百名を失ったが伊軍の損害は些少であった。
沸国モロッコ政策 同上
巴里来電=新首相ポアンカレー氏は、元老院内の沸獨協約委員に対し次の演説を行った。1912年にモロッコに非保護国制度を建設する場合に必要な費用は3百50万ポンドであり、又軍隊駐屯費は3万8千ポンドである。しかしモロッコ軍隊を創設し沸国軍人を将校とした場合には、費用は軽減されるであろう。
大統領問答 19日上海特派員発
清国側からの報道に依れば、唐紹怡は孫逸仙に、退位が終了した後、大統領の位を辞する事を要求し、参議院が袁世凱を仮大統領に選挙すべきと述べた。孫逸仙は、列国が共和国を承認するまでは辞職しない。これは、列国の承認がなければ、独立するのに十分な資格があるとは言えない為であると述べた。
1月21日
革軍最終要求 20日上海特派員発
南京よりの情報によると中華民国大統領は、昨日内閣会議を招集し、席上北京に最終要求文を送る事に決定した。その内容は以下のとおり。
(一) 清帝は退位し、一切の王権を放棄すべし
(二) 満人は中華仮政府に参加する事を許さず
(三) 仮政府は北京であってはならない
(四) 袁世凱は外国が共和国政府を満清政府の後継者として承認し、又邦家改造の業がなり、国内平和に帰するまでは、共和国仮政府に参加してはならない
1月22日
退位条件反問 21日上海特派員発
清国側より出た南京電報は次のとおり。
「仮政府の考慮する所は、退位後、袁世凱が大統領になる事は可であるが、これは皇帝が推薦するのではなく、共和党がこれを推薦する形式をとるのであり、袁世凱は北京に仮政府を建設する事は許されない。又新仮政府は南京仮政府に謀り、国家全体を支配する組織でなければならない。」
1月23日
日本に求む 21日南京特派員発
孫は20日、日本領事館に特使を派遣し、第一番に新政府を承認されたい旨を申込み、且その報酬として、最も多い利権を与えるとあり、領事は本省と打ち合わせ中である。
袁引続き請暇 22日北京特派員発
3日間の休暇が既に満ちた袁世凱は、病が未だ治らずと称して、請暇を奏請し、又趙民生大臣も辞職を奏請する様である。
張作霖の態度 22日奉天特派員発
▽東三省の運命
東三省の運命は、張作霖の行動如何に関係するものが多い。張作霖は表面上、袁総督と親密なようであるが、北伐軍が東三省に来襲したならば、必ずこれを迎え撃つであろうと考え、清国官憲は日夜、張作霖の行動の監視を怠っていない。
1月24日
孫北上説 米国聯合通信社上海特派員の打電によれば、孫逸仙は共和党の最後通牒が時局の解決を延期させたとの非難を否認した。袁世凱は1週間以前に、共和政府大統領になるとの申し込みを受け、これを諾したが、袁世凱は条件の確定後、共和政府は皇帝の退位後、2日を経て解散すべきであると要求した。その為共和派の嫌疑を受け、遂に共和政府が最後通牒を発するに至った次第である。
1月25日
社会党優勢 24日タイムス社発
伯林来電=獨逸帝国議会に於ける社会党の議員数は105名内外であり、実に院内で最強の党派となった。保守、中央両派は勢力を失い、最早、両党連合の力によって各種議案の投票に際し、政府に勝利を得させる事が出来なくなった。
沸伊両国紛議 同上
巴里来電=沸国の輿論は、異口同音に沸船マヌバ号事件に関する政府の方針に賛成し、先に伊国官憲に引渡したマヌバ号の土耳古人乗客29名を返還させ、沸国国旗を保護する事は同事件を仲裁に付するに先立ち行わなければならない要件であるとした。但し本問題はさして外交的衝突を見ずに解決すると予期される。
1月26日
南京内閣会議 25日上海特派員発
南京政府は、21日閣議を開き、次の3項目を決議した。
一、大多数は中央集権に賛成した。
二、招商局の財産を抵当とし、一千万両を得る事を提議した。若し招商局がこの提案を承諾しない時は他の方法を講じる。
三、北京政府に退位後、寛大な待遇をする事を申し出た。又袁世凱に招待状を送り、南京に来て、仮政府と会議する事を求めた。(一部抜粋)
1月27日
孫の弁護 26日上海特派員発
▽南京参議院の報告
南京参議院は、昨日午後集合し、共和党の政針について討議した。
三、先に孫は大統領を辞し、自己の代わりに袁世凱を大統領に選挙するよう人民会議に要求したが、これは全く孫逸仙自身の
意思であり、共和党員中にこれを提議した者が居ないのみならず、反対に参議院の議員中には大いにこれに反対するが多い為
に、これを説得、鎮圧せざるを得なかった。そして種々討議の末、孫の意見は国民的な難問題を平和に解決し、干戈の禍を避
ける方法として採用されるに至った。(一部抜粋)
1月28日
共和の風潮浸潤 27日北京特派員発
▽将士戦いを欲せず
段貴将軍以下46名の将校が連署して、26日内閣宛てに、現今、共和の風潮が既に各軍に浸透し、もし和議が決裂し、再び戦闘を開始する様なことになっても、将士の多くが戦いを欲せず、自ら潰走すると思われ、且武器糧食共に欠乏し、戦闘に堪える実力がない。依って朝廷は速やかに大計を定め、講和を宣布される事を要請するとの電報を送ってきた。
袁固辞を許さず 同上
袁世凱は侯爵に叙せられる事を固辞したが、現在時局の危急は袁大臣の辛苦努力に依って支持保全されており、その功績は非常に大きく、侯爵に叙せる事は決して過賞ではない。朝命を受けて、固辞する事勿れとの上諭が出た。
使節日本行 26日南京特派員発
法制総裁宋教仁は、特派大使張景幅と共に日本に向かう。任務は共和新政府承認を日本に求める事である。
1月29日
伍廷芳談 28日上海特派員発
▽戦争は無いであろう
伍廷芳は本日、次の様に語った。北軍の諸将は連合して革命軍に合流する旨を決定した故に、予は戦争はないと確信している。兎も角休戦条件には「講和会議当事者より和議が破れた旨の打電をしない限り、戦争は行わない」と定めている云々
1月30日
孫の袁非難 9日上海特派員発
民国は既に最優遇の礼を以て、清帝及び清皇室を待遇する事を許したのに、袁一人がこれを阻止する為に共和の目的を速やかに達する事が出来ない。又袁世凱は特に民国の賊のみならず、実に清帝の仇となるであろう。(一部抜粋)
内田外相の言明
△清国問題 革命政府を承認するかどうかについては、政府に於いても大いに考慮を加えているが、未だ承認する時期に来ていないと考える。
△日米事件 米国移民を制限した結果、年々五六十万人の人口増加を見るので、何れかの方面に送らなければならない。本官の見る所では、朝鮮は更に多数の人口を収容し得るものと考えるが、又満州、樺太或いは北海道にも移民を送るべき余地がある。(一部抜粋)
1月31日
退位着手 29日京城特派員発
29日、御前会議が開かれ、慶親王、袁総理を除く各親貴王侯及び国務大臣等が列席し、最早や、早期に共和以外に解決の法がない事を暗黙の裡に認めている様で、皇太后は清帝退位する方向で内閣に於いて審議する様に述べられ散会した。(一部抜粋)
在米清人宣言 29日紐育特派員発
在米する8百の男女学生よりなる在米支那留学生同盟会は、29日、会長の名を以て、吾ら留学生は、各省を含む一大共和国を建設し、国運の隆盛を図る為に、熱誠を以て全支那人民の強力一致を希望する旨の宣言書を発表した。