10月1日

伊土開戦状態 29日伯林特約通信員発

▽最後通牒時間経過

▽トリポリ海岸封鎖

土耳古政府が伊太利の要求を容れず24時間を経過したので、いよいよ開戦の状態となった。伊太利はトリポリ市に於ける伊国及び中立国国民の保護の手段を執り、トリポリ市海岸の封鎖は直ちに各中立国に通知された。

罷工3万5千人 29日桑港特派員発

南太平洋鉄道会社に使用している3万5千人の機械工場員は、30日午前10時より同盟罷工をすると思われる。その理由は増給と時間短縮の要求とを退けられた為である。

10月2日

海陸前進 30日紐育特派員発

▽土軍も伊軍も

土耳古の陸軍は伊太利本国を攻撃する為にテベッサリーという所に侵入した。欧州の視線は悉く此処に注がれると思われる。伊太利も大軍をオーストリー国境に集めている。又伊太利の艦隊は土耳古の一港サロニカを砲撃占領しようと同港に進軍中である。他の伊太利艦隊はベンガジ市を砲撃し、これを陥れようとしている。

伊太利非難 同上

▽米国も英獨も

伊太利の海軍が宣戦の布告と同時に土耳古の軍艦を撃沈した事については攻撃が多い。米国の新聞は土耳古に同情している。イブニングポストの如きは、恥を知らない無謀な挙であると叫び、その他、皆伊太利に反対し、英国の新聞も過般より伊太利の行動に反対し始めている。

欧州列強の態度 30日タイムス社発

欧州の注意は伊太利の行動の為に生じた新時局に集中した。一般の態度は不安心な沈黙とも思われる。獨逸諸新聞は特に伊太利が突然、平和を破った事を憤っているがオーストリアはむしろ青年トルコ党の攻撃に傾いている。

四川暴徒又猖獗 1日奉天特派員発

重慶よりの電報によれば、四川省の新津(しんしん)、ほう懸の両市は暴徒の手に落ち、嘉定、綿州、安州は重囲に陥っている。

解説:辛亥革命は10月10日から1912年2月12日までと言われている。

103

トリポリ占領 2日タイムス社発

コンスタンティノープル来電=トリポリの首府トリポリとの交信は1日夜より断絶した。これは同府が伊太利艦隊の手に占領されたことによると信じられる。

希土衝突の兆 2日上海経由路透社発

ギリシャは軍隊を動員している旨コンスタンティノープルに於いて公式に発表された。この件は土耳古がギリシャに対してある行動を執るであろう事を予想している様であり、これに反しギリシャ首府アデンに於いてはギリシャが動員するとの報を公式に否認した。

104

トリポリ上陸未し 3日上海経由路透社発

伊土戦争に関しては、種々の矛盾した報道が来て、その何れを信じるべきか解らないが、伊太利軍は未だトリポリに上陸していない。又アドリアチック海岸に於いて海戦があった他、未だ何等の戦闘が起こっていないのは事実の様である。

墨国大統領選挙 2日桑港特派員発

▽マデロ氏当選

マデロ氏は、全投票の95%の大多数で大統領に当選した。副大統領にはスアレス氏が3割の得票で当選し、デラバーラ氏は敗北した。

四川暴動形勢 3日上海特派員発

重慶よりの報道によれば、新津は暴徒の手に落ちたが、知懸は何等の危害を受けす、安全に暴徒の保護を受け始めている。雅州は包囲され始めているが既に陥落したとの説もある。三四萬に達する乾州、資州の暴徒は西方に向け出発した。

105

伊国政府言明 3日タイムス社発

伊太利政府は、トリポリ及びサイレナイカの外には、一切兵を揚げず、欧州土耳古に侵入する意思はないと言明した。

英国の局外中立 4日上海経由路透社発

英国は伊土戦争に関し局外中立を宣言した。

伊土戦争と獨帝 4日紐育特派員発

獨逸皇帝陛下が伊土両国の紛争を仲裁しようとしているという説は本当の様である。そしてその仲裁条件は、英国がエジプトを保護国としたのと同じくトリポリを伊太利の保護国とし、その代わりに、年々何程かの金を土耳古に与えると言う事である。尤もこの条件は、戦争前に伊太利が土耳古に申し込んだ条件と同一である。

106

印度兵波斯派遣 4日タイムス社発

シムラ雷電=南部波斯に於いては、紛争が相次ぎ平和になる色が無いため、今回英国政府は英国領事館の衛兵を増加する強い意思がある。印度騎兵2個連隊が波斯に向け出発する準備をしている。波斯政府は、秩序回復と商政保護に完全に失敗した。

トリポリ砲台破壊 4日タイムス社発

ローマ雷電=トリポリの諸砲台中、なお陥落していないものが若干ある。しかし主要な砲台は伊軍の砲火に破壊され、アラビア人は内地に移動した。なお伊太利軍は市街に損害を与えない様に十分に注意している。

英紙の仲裁主張 4日伯林特約通信社発

英国の諸新聞は、英国もトリポリ問題の平和的解決の為に、充分に獨逸の尽力を助けるべしとの主張を継続している。

107

伊国戦艦撃沈 5日紐育特派員発

伊太利戦闘艦1隻がトリポリ付近に於いて、敷設機雷の為に沈没した。

ギリシャの戦備 6日タイムス社発

アデン来電=ギリシャ政府はサロニカ及びモナスチールに於ける土耳古軍隊の動員に対し疑惑を抱き、テサリー方面の土耳古との国境に於いて防御手段を講じようとしている。

トリポリ占領公報 6日上海経由路透社発

トリポリからの公報によれば、伊太利国旗は4日正午、サルタニア砲台に掲揚され、砲声が轟轟と、以って占領を祝賀した。同砲台は艦隊の遠郷を受けた上陸隊によって占領された。又この艦隊の一部は、破壊された堡塁の近距離に投錨しているそうである。

108

伊軍のトリポリ占領 7日タイムス社発

ローマ来電=伊太利軍は一兵も失うことなくトリポリ市を占領した。土耳古軍側にも死傷者は極めて少なく、伊太利軍艦は要塞から遠くない所に投錨した。ボレア、ドルモ提督はトリポリ知事に任命され、アラビア人は伊太利の支配に服した。

送兵6 同上

伊太利は、現在6万の軍隊をトリポリに送る準備を整えている様である。

僧侶の開戦論 6日伯林特約通信社発

伊太利神父は熱心に開戦を主張している。クレモナ神父は、トリポリに於ける布教上の利益を説き、同地の遠征を弁護している。

109

墨国革命切迫 7日紐育特派員発

墨西哥サン、アントニオ市に於いて革命的暴動が起ころうとする情勢が迫っている。政府はこれを無根であると否定しているが、同地は何となく人心恐々としている。

010

沸獨交渉難 9日タイムス社発

伯林来電=獨逸がモロッコに於ける沸国の権利を承認させる為、沸国は如何なる報償を獨逸に与えるべきかの問題は容易に解決できないであろうとの信念が増加してきている。

土耳古軍退却 同上

トリポリからの特報によれば、土耳古の防備は言うに足らざる若干の土砲台及び殆ど役に立たない少数のクルップ砲を備えた2個の円形砲塔に過ぎない。その為土耳古軍隊は内地に退き、友軍を待つ事としたがもし可能であるならば、準備をした上で、引き返し伊軍を攻撃するかも知れない。

トリポリ戒厳令 9日上海経由路透社発

伊太利国の手でトリポリ知事に任命されたボレアドルモ提督は、同州に戒厳令を布く布告を発した。土耳古守備隊は堡塁を作った山(トリポリから5マイル)で野営している。

暴徒益猖獗 9日上海特派員発

北京よりの報道で、在成都の宣教師側の調査によれば、今回の暴動によって総計1万の死者を生じ、その中、二千は政府軍に属し、その他は暴徒であると言う。成都付近の人民は、住む家が無く非常に困窮している。約一万に達する暴徒は、四川省西南の各市を占領した。官軍は討伐の為、同地に向け派遣された。

10月11日

土国列国に哀訴す 10日上海経由路透社発

コンスタンチノープル来電=トルコ政府は伊太利軍艦がトリポリに上陸した結果、新たに生じた情勢に関し、列国の注意を呼び、伊太利の要求を満足させ、土耳古の利権を保証する事を調停の根底とする事を再び主張した。

列国土国を戒しむ 同上

ミラン来電=列国はコンスタンティノープルに通牒を送り、もし土耳古政府が同国在住の伊国民に対し行った様な過激な手段(退去命令等をさす)を制止することが出来なければ、伊太利は戦争をトリポリに極限しようとする主義を放棄するであろうと告げる様である。

伊国トリポリ着 9日伯林特約通信社発

第1伊太利陸軍遠征軍団はトリポリに到着した。トリポリ港を出発する際、伊国皇帝は親しく告別された。

10月12日

モロッコ問題解決す 11日上海経由路透社発

伯林来電=公式に報じられる所によると、モロッコの現状に関する沸獨談判の第一部は既に落着し、協約は今や締結されようとしている。そして公式調印は談判の第2部、即ちコンゴの代償問題の落着するまで延引されると思われる。

伊国大軍の上陸 同上

公報によれば、伊太利トリポリ遠征隊の第一軍は、去る5日夜、テーブルスを出発し、月曜日トブルクに上陸したと言っている、しかし新聞通信検閲が厳重であるにも拘わらず、遂に漏洩した報道に依ると、主な遠征軍は去る9日夜、伊太利の各港より出発し、最後の運送船は月曜日の夜、抜錨していた。そして皆マルタ島の東方にて勢揃いを行い、本日(火曜日)トリポリに到着の予定であると言っている。

列国の調停運動 10日伯林特約通信社発

列国は土耳古より、同文通牒を受けた結果、会議を開き、伊太利政府に同文通牒を発する相談を行った。この通牒は伊太利に対し土耳古の講和条件、即ち同国が伊軍のトリポリ上陸継続及びトリポリに於ける伊太利の或る軍事的勢力範囲を承認することで満足するべきか否かを問うものである。そして列国が共同一致の行動を執ることが出来ない時は、獨、オーストリア、沸の3国のみがこの任に当たり、ローマ政府に戦争の中止を説くべしと追われている。

武昌電信局破壊 11日上海経由路透社発

信頼すべき報告が到着し、武昌革命活動の報は、いよいよ確実であると判明した。なお武昌電信局は破壊され、又湖慶総督は武昌を出発したが、その目的地は判明せず。

1013

武昌反乱と北京 12日北京特派員発

武昌が革命党の為に占領され、瑞総督及び第8鎮統制張彪は、身を以て漢口に逃れ、一時は戦死説さえ伝えられたが、この兵乱が起こる当日、総督は既電の様に楽観的電奏を行っていたが忽ち情勢が一変し、その為に北京朝廷の顔色をなからしめ、現在狼狽のうちにいる。

伊軍トリポリ上陸 12日タイムス社発

トリポリからの特電によれば、伊太利遠征軍第1分隊の先頭は、現在上陸中の様である。

土耳古軍の夜襲 11日上海経由路透社発

▽遂に撃退される

トリポリ来電=土耳古軍は、火曜日午後1時、伊軍の堡塁を攻撃したが、伊軍艦隊は探照灯で土耳古軍が来るのを照らした。土耳古軍は猛烈に攻撃したが伊軍水兵は塹壕によって盛んに発砲し、軍艦からもこれを助け、結局土軍は撃退された。

沸獨協約一部成立 12日上海経由路透社発

伯林来電=沸獨協約(モロッコだけに関する一時的協約)は成立し、沸国に与えるのは、モロッコに於ける自由行動の権利である。但し既に開始された獨逸に与えるべき報償の協議はなお継続中である。

10月14日

革命軍益奮う 12日北京特派員発

△叛軍漢口に入る

革命軍の兵数については判然としないが、現在(12日午後11時30分)接受した電報によれば、5千余名であり、破竹の勢い漢陽を陥れ、兵工廠鉄製局を占領し、進んで漢口の支那街に侵入した。2営(1営は5百人)の守備兵は反抗の力がなく、潰走した。漢口の支那街も革命軍の占拠に任せた。

湖北漢朝第一年 13日北京特派員発

革命軍の宣言                                                                                                                                       

革命軍は、今回の挙を以て満州政府転覆を目的とする義勇軍と宣言し、年号を湖北漢朝第1年と改め、次の布告を発布した。

一、外人及び一般人民に危害を加え、官吏を隠匿した者は各罪に処す

一、義勇軍に反抗した者は死刑に処す

一、義勇軍に糧食、武器及び弾薬給与した者は相当の賞に与かるべし

一、外人居留地及び教会は充分に保護すべし 

かくして各国に向かって、厳正中立を守る事を希望し、それぞれ通知を発した。

10月15日

益重大 13日北京特派員発

△広東陥落

△北京険悪

革命党側の情報によれば、本日河南省許州を占領した。これは京漢鉄道の沿線なので、南下する官軍は大頓挫となるであろう。なお広東も遂に革命党の手に帰した。

いん晶、呉ろく貞両将軍は、今夜保定に向かい、同地にて会同の上、全軍を指揮して進発すると思われる。

演習地より各軍は続々と引き上げ始めており、禁営軍は城外の兵営より引揚、北京内城の警護に当たる事となり、北京も事態が非常に険悪となった。

囚人解放 同上

漢口監獄の囚徒2千人中、大部分は張元洞総督時代から監禁した革命党であり、この解放の為、同党は一大勢力を得た。略奪をするのは、その一部の無頼漢である。

南京も又陥落

その筋の電報によれば、南京も又暴徒の手に落ちた。

北京の戒厳令 

武昌暴動が益々猖獗、北京は今夜、天津は明日戒厳令を布く筈である。

10月16日

革命党の気焔 内国電報 15日発

在留革命党員の談

蜂起の原因 我が革命党員が今回、武昌に於いて火蓋を切った動機は、人も知る様に、党員が偶々爆発物を落とした事が瑞総督の知るところとなり、死刑に処せられた事に激発したのであるが、しかしその真因は瑞総督が武昌革命党の指揮官で革命党の領袖として知られた胡氏の術中に陥ったものである。胡氏は決死の士を犠牲として、露国街に爆裂弾を落とさせたのである。 

党員の策源地 は南京及びシンガポールである事は無論であるが、武昌の地は張之洞(ちょうしどう)によって養われた新鋭の軍兵が駐屯し,且南清一帯を制する主要な地であるので、革命党は以前より同地の軍隊内に主義を扶植していた。雲南、貴州は世上の知る様に全員が殆ど革命党員であり、広東、湖南、四川も又巣窟地である。故に革命軍が南清及び中清を制する事は決して難事ではないと言えるであろう。

1017

黎元洪の為人 16日北京特派員発

▽黎は依然旅団長

革命軍都督の黎元洪は年40歳であり、初め北洋水師学堂で学び、庚午の役でその乗艦を撃沈され、北洋艦隊が全滅したので郷里に帰り、その後張之洞に起用され、湖北の水師であった、更に陸軍に転じ、着々と進級し現在に至っている。態度沈着であり部下の敬服する所となる。今回の乱は或いは彼が主導者であると言い、或いは又革命党の脅迫により、やむを得ず立ったとの2説がある。ただ怪しいのは政府が未だ黎の免職を行わず、表面上旅団長であることである。

日本を猜疑す 同上 

革命軍中に日本人の加入するものが多く、又日本の新聞がややもすると革命軍に加担する傾向があるとして、支那人は甚だしく猜疑の眼を以て日本に対している。外人はこの機に乗じ、日本は年来の野心を逞しくするに至るであろうと等言いふらして、誠心誠意友邦の為に善隣の誼を行おうとする日本の行動を疑い、却って他の列国を信頼しようとする傾向が無きにしもあらず。

10月19日

戦機迫 17日上海経由路透社発

▽革命軍の本営 

九江経由の漢口電報によれば、革命軍は漢水の畔に本営を張ったと言われている。

官軍族に投ず(同上)

河南の官軍は追々革命軍に投じたとの報がある。

官軍先鋒来る(同上)

北鎮軍の先鋒隊は既に漢口に到着したが、その態度は曖昧である。

廕大軍を以て来る 17日漢口特派員発

陸軍大臣廕晶(いんしょう)は17日午後直隷軍を4列車に満載し到着の予定

△張彪に降を勧める

革命軍首領黎元洪(れいげんこう)は海軍提督薩鎮冰(さつちんひょう)に宣言書を送り、漢民族の為に義軍を起こす理由を宣明し、且超彪に密書を送って降伏を勧めた。

在米革命党運動 17日桑港特派員発

▽列国中立を求める 

当地に於ける清国革命の首領連は、本国と気脈を通じ、盛んに電報を往復し、作戦計画について、日夜協議を凝らしているが16日大統領タフト氏、国務長官ノックス氏宛てに、現在進行中の革命戦争に対し、米国の厳正中立と、他国の中立に尽くされる様請願した。

10月20

北京よりの公報 内国電報19日発

△攻撃開始 18日伊集院公使発

今朝、漢口より直接当地に達した新聞通信電報によると、水陸共に賊軍が活動を開始し、薩提督麾下の水軍は漢陽及び武昌を砲撃し、武昌側には陸戦隊をも上陸させ始めている。賊軍も又これに応じ、今や戦闘はたけなわである。戦闘に参加の陸軍兵数は賊軍1万、官軍2千である。

△叛軍退却 18日伊集院公使発 

当地に達した漢口午前1125分発の新聞電報通信によれば、勝敗は決せず、叛軍は一時官軍を撃退したけれど、遂に弾薬が尽き、武昌に向けて退却し始めている。ある者は外国居留地に潜入したと言われている。

10月21日

●革命軍の攻勢 19日上海発電

漢口よりの報によれば、19日革命軍は漢口付近の官軍に向かって攻勢を執ったようである。

●革命軍攻撃再開 

18日の夜、革命軍は再び攻撃を開始して北進し、摂口付近で官軍と対戦中であるのは別項のとおり。第1回の衝突と反対に、今度は官軍が不利であり、革命軍が有利である。革命軍がこの様に北進したのは革命軍が今後の作戦上、有利となる事が非常に多い。何故ならば、今まで革命軍がいた所は、あまりにも川岸に近く、戦闘の場合に行動の自由を拘束されることが少なからずあったが、今回北進したのは、この拘束を免れる為であった。

●革命党は文明的 19日午後5時北京発その筋着電 

その筋に達した情報によれば、革命暴動の中心である武昌及び漢口地方を視察した漢口駐在米国領事は、革命党の挙動は文明的であり、暴動の為に避難した各国居留民の財産、建築物及び公開堂等を侵害した形跡は全然なく、決して憂慮するに足らざる旨を言明した。

1022

駆逐艦隊上海着 21日上海特派員発

帝国駆逐艦皐月、神風、初汐、響は上海着、皐月、神風は上海出発し、河流を遡行した。その他は上海に留まる予定 なお本日夜、到着の予定である千歳艦も即日遡航する筈である。

官軍退却する 同上

漢口発獨逸電報によれば、18日の戦闘に於いて官軍は鉄道線路に沿って北方に向かい、見苦しい退却を行った。漢口の人民は殆ど皆革命軍に同情を寄せている。鉄道は依然として通じているが、これは多分革命軍が軍略上、之を破壊しない為と思われる。

革命軍大捷 

英国軍艦の公報によれば、漢口居留地は平静である。官軍は江岸駅を退却し、七里浦の地を守っている。革命軍は昨日大勝し、支那軍艦は退却した。(20日午後上海着三井物産着電)

10月23日

孫逸仙と軍費 21日桑港特派員発

数日来、シカゴに滞在した清国革命党首領孫逸仙は、軍資金として1万弗を募集し、その所在を晦ました。多分帰国したのではないかとの説がある。

伊土決戦期 21日紐育特派員発

伊土戦争は、昨今殆ど聞こえてこない。これは伊国陸軍が静かに上陸している時であり、1週間以内には華々しい陸戦の知らせに接すると思われる。

武漢の革命謳歌 21日午後5時漢口発或る筋着電 

武昌、漢口の市民は全て革命党を謳歌しつつあり、本日(21日)漢口商務総会は、革命党総指揮官黎元洪に向かって、速やかに、近県の都市を占領し、秩序を回復する様に請願した。

10月24日

革命軍蜂起 22日上海特派員発

九江経由漢口電報、本日午前1時上海に着信した電報は次のとおり

△宜昌陥落 漢口着の電報によれば、宜昌は戦わずして革命軍の占領する所となった。現在秩序の回復に努めつつある。

△沙市長沙 又沙市も甚だ不穏である。漢口に於いて報道された處によれば、四川省の各港に革命党が蜂起した。長沙よりの報道によれば、湖南の革命軍は官憲に対し、学校を除き、全ての官庁を引き渡すべし、そうでなければ武力に訴えるであろうと通牒した。

△領事館の注意 漢口の日本総領事館は厳正中立を守るべき旨を居留民に注意した。

●袁氏の回答 22日上海特派員発 

内国官報は、袁世凱氏の答書を掲載した。この中に袁氏は、足部の痛み及び他の病患を列挙し、病気が快復知れば、直ちに征討に向かうつもりであると述べた。これに関し勅諭があり、速やかに病気平癒の道を講ぜよと述べていた。

1025

●元気と金力の問題

久しく清国の陸軍に招聘され、最近帰国した某陸軍将校は「宜昌陥落」「沙市長沙不穏」等の上海電報を熟読しつつ記者に次の様に語った。 

▲袁孫等の意中 袁世凱は既に満政府の為に立ったと報じられているが、予はなおこれを疑わざるを得ない。袁は恐らく容易に立たないと思われる。日本人ならば上諭と言えば一も二もなく恐縮して身命を捧げるけれども、支那人はたとえ上諭であってもその一身を忘れる様な事はなく、利害を打算して熟慮する。袁も漢人である。利害には明らかな人である。一二戦の後と言っても容易に上諭に応じる事はないであろう。袁は将に雲行きを見ている事であろう。孫逸仙も又同じであろう。

10月26日

●袁世凱の境遇 25日北京特派員発

漏れ聞くところによれば、袁世凱起用の閣議を決し、裁可を皇太后に仰いだ時、摂政王が自ら大后に謁見し、事情はやむを得ない事を上奏した。太后は長い間、稽首(頭を地につくまで下げてする礼)した後、袁は先帝の不具載天の仇であり、今これを登用する事は先帝の霊に対し、忍び難い事である。卿(けい)はこれを偲ぶことが出来るか。袁が功を奏しても北京政府に登用しないと誓うならば、この時局に鑑みて、これを起用するのも止むを得ないと宣った。摂生王は先帝の霊前に誓い、共に涙の内に袁の起用を裁可したと言われている。この風説を聞いたため袁は就任を受けながら、容易に南下しないと言われている。

●長沙陥落

▽各国領事中立

長沙は22日純然革命軍の手に落ちた。外国人は無事であり、各国領事は中立を厳守したとの公報があった。(北京電報)

●清国の要求

▽北清事件償金延納 

清国政府は、関係各国に対し、北清事件の償金について、本年度分の延期を申し込もうと準備中であると言われている。因みに日本に対する賠償金は年額約2百萬円である。

10月27日

獨逸借款承諾 25日北京特派員発

▽軍器売込条件

清国政府は、24日、四カ国の銀行団に向かい、1千萬両(テール)の借款を申し込んだが、何れも時局発展の模様が確かでない間は承諾し難いと拒絶した。しかし獨逸のみは軍器の売込を条件とするならば承諾すると交渉中である。

開封危うし 同上

河南よりの電報によれば、開封に戦乱の恐れがあるので、同地の満州夫人は皆漢人の服を纏い、又同地には満人で姓名を漢人と同様に改める者が多い。

開封陥落 

河南の開封より漢口を経由して昨朝或る筋に達した電報によると、24日の夜、河南開封に一大暴動が起こり、省城を攻撃すること数時間に及び、官軍はこれを支えることが出来ず、遂に暴徒に降伏した。

1028

四川騒乱事情 26日北京特派員発

▽上奏と上諭

端方(たんほう)は四川に赴き、騒乱事情に関して調査をしたが、今回の騒乱は、全く一部の事を好む者によって激発し、官吏が又その処置を失した事により発生したものであり、四川の紳商、居民の多くは無関係である。従来嫌疑の為に拘禁された者の多くは冤罪に属す。その為に善悪を判別し、賞罰を明らかにするよう電奏したのに対し、王人文、超爾ホウの処分を始め、不良官吏を罷免し、拘禁された人民総代以下を放免するとの上諭が26日に下された。

●漢口外国軍艦 26日上海特派員発 

24日漢口から来た無線電信によれば、英艦5隻、沸艦1隻、米艦2隻、蘭艦4隻、日艦5隻、墺艦1隻の合計18隻が漢口に居る。25日米艦エルカノ号は河流を下り、ウイラロボスは遡航した。

1029

資政院の上奏 28日北京特派員発

議員は27日、事態が急変している為に、民心に従って騒乱を収めるべきであるとの上奏案を提出した。

一、皇室内閣を廃止する事

二、憲法は人民の協賛を経て制定する事

三、国事犯の赦免を行う事

四、国会を速やかに開く事

民選議員が説明を行ったがその中に、今回の騒乱に関係のある瑞澂(ずいちょう)を懲罰し、盛宣懐(せいせんかい)は単に罷免のみではもの足らず、死罪に処すべきであると論ずる者も居た。

解説:育成院とは、清朝末期の立憲準備に伴い,上下両院設立への前提として北京に開設された過渡的な中央議会。

瑞澂も亡命 28日北京特派員発

瑞澂は災いが身に降りかかる事を恐れ、九江から上海に出て、某国に亡命するとの説がある。

解説:武昌の総督であった瑞澂は、反乱が勃発すると、武昌を放棄して逃亡した。

盛氏大連に向かう 28日天津特派員発

盛宣懐とその家族等は、27日夜10時半、北京を出発し、日、英、仏、獨4か国の憲兵に護衛されて、28日未明、天津駅に到着し、直ちに獨逸汽船に乗り、大連に向かった。日本に避難すると思われる。 

解説:清朝の権力者であった盛宣懐が鉄道国有化を図ったが四川省、広東省、河北省、湖南省で反対運動が起こり、1010日の武昌蜂起に繋がった。日本に亡命した。

10月30日

伊軍死傷一千名 28日上海経由路透社発

倫敦の土耳古公使館の所報によれば、23日トリポリの戦争に際し、伊太利軍は3百名戦死、7百名負傷した。又土耳古軍は引き続き内地より援兵を得続けている様である。

伝えられる所によれば、伊太利軍は前進塹壕を放棄した。これは死骸の悪臭が強くなったのと飲料水の汚染に起因すると言われている。

漢口恢復戦 29日上海経由路透社発 

北京来電=公報によれば官軍は暴風雨を冒して戦闘を開始したが、士気が非常に振るい、遂に多数の砲及び弾薬を捕獲した。これに勇気を得て官軍は遂に進んで漢口支那街を占領した。鉄道の守備の為に援軍が急派された。

10月31日

北京政変企図 30日北京特派員発

▽第20師団の意気

12ケ条の提案

▽袁世凱を総理としようとする

蘭州第20師団兵の南下拒絶は、既電したが、同師団は資政院議員と連絡し、次の十二ケ条の提案を行い、北京の大政変を企画した。政府はこれに対し袁世凱を総理大臣に任じ、一切を解決しようとする意がある。提出条件は次のとおり

一、大皇帝は万世一系である事

二、本年内に国会を召集する事

三、憲法を制定し、国会の決議を経て君主の名義を以て宣布し、君主はこれを否決する事はできない。

四、憲法改正の件は、専ら国家に属す

五、陸海軍は大皇帝に直属する。但し内国に於ける軍隊使用は、国家の議決する特別条件を遵守する事の他軍隊を動かすことを得ず。

六、死刑執行等の法律は、命令にて行う事はできない。又一般人民に対しては随意逮捕監禁する事を得ず。

七、国事犯党人に対し一般特赦を適用する事

八、責任内閣を組織し、総理大臣は国会の選挙によって皇帝がこれを親任する。国務大臣は内閣総理大臣が之を任命する。但し皇族は永遠に内閣総理大臣及び国務大臣に任ずる事はできない。

これに関し、当地人心は大混乱している。(一部抜粋)

 

解説:袁世凱は河南省の名家の生まれで漢民族であり、満州族ではない。